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2016年8月28日 (日)

申命記1章~4章8節

申命記1章~48(朗読4:1-8)「このような神を持つ偉大な国民」

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  自分をシンデレラやピーターパンのように思うと「現実に失望」します。一方、「自分に失望」する人は、困難を前に立ちすくみます。

他宗教の経典と比較すると分かりますが、聖書は、正しい生き方を示す規範である以前に、神の民の波乱万丈に満ちた興味尽きない歴史の物語です。そこには神の御教えを受けた神の民が、とんでもない罪を犯したり、不従順のために途方もない遠回りをした失敗の記録が詳しく描かれています。

しかし、神はそんな民を繰り返し赦し、忍耐の限りを尽くして導いてくださいました。

 

神の民の物語は、自分の物語でもありますが、その全体を通して、神の救いの物語があります。そこで語られたみことばは、時空を超えて現代人の心の奥底に語りかけます。

その神の物語の中に自分の人生の物語を位置づけると、神の優しい眼差しから見た自分の姿が見え、希望と勇気が湧きます。

 

1.「神は侮られるような方ではありません」

   申命記というタイトルはギリシャ語七十人訳の「再述された律法」に由来しますが、へブル語では、冒頭の「これはことばである」が書名になっており、「モーセが・・イスラエルのすべての民に」、ヨルダン川の東、死海の北東のモアブの地で述べた長い告別説教と位置づけられます。

出エジプト記から民数記では「(ヤハウェ)はモーセに仰せられた」と繰り返されますが、この書ではモーセが神から委ねられた権威をもとに「私が命じる」と、大胆に今まで語られた主の命令を熱く説教します。彼らは約四十年前にシナイ山で律法を受けましたが、当時の成人男性はみな死に絶え、モーセも約束の地を目の前に死ぬことが明らかだったからです。

それに続く、「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日の道のりである」(1:2私訳)という表現に、本来だったらエジプトを出た第二年目に約束の地に入っていたはずなのに、今は「第四十年目の第十一月」(1:3)なったという痛みの思いが込められます。彼らは、シナイ山から十一日間で約束の地の手前に来るはずが、38年間もかかった後の「第十一月」になったのです。

 

   彼らはホレブ(シナイ山)に約一年間滞在しました(出エジプト19:1、民数記10:11)。それは、彼らが「祭司の王国、聖なる国民となる」ための御教え(トーラー)を受けとり、また神の臨在のしるしである「契約の箱」を中心とした幕屋を建てるための期間でしたが、それも延長されたためです。

彼らはその間、モーセがなかなかシナイ山から降りてこないことに不安になり、金の子牛を作って拝み、神の激しい怒りを受けて滅ぼされそうになります。しかし、モーセの必死の執り成しにより、神は彼らを赦し、二回目の「十のことば」を記した「石の板」を授けてくださいました。契約の箱には、その石の板が入れられ、その後の旅路のことが、「イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていた(出エジプト40:38)と描かれていました。

新約の時代は、主の御教えは神の霊によって、「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」(Ⅱコリント3:3、エレミヤ31:31-34)と記され、このキリスト者の交わりこそが、「神の神殿であり、神の御霊が・・宿っておられる(Ⅰコリント3:16)と定義されます。新約時代の私たちは、この神の民の共同体に属することで、昼も夜も、主の雲によって導かれるという歩みをします。

 

その後の主のご計画は、本来、彼らをまっすぐ北上させ、カデシュ・バルネアを通って「エモリ人の山地」に導き入れ、「その近隣のすべての地」を支配させるばかりか、レバノンを経て大河ユーフラテスに至る広大な地を短期間に支配させるものでした(1:7)

その際、主は、「見よ。わたしはその地をあなた方の手に渡している。行け、その地を所有せよ。これは、主(ヤハウェ)があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である」(1:8)と仰せられました。

聖書の物語の核心は、神は、人の不従順にも関わらず、ご自身の約束を必ず実現されるという神の誠実さの証しです。この約束は、私たちにとって「新しい天と新しい地」をキリストと共に支配することに結びつきます。

 

その際モーセは、「私だけでは・・重荷を負うことはできない」(1:9)と言い、重荷を分かち合える多くのリーダーを立てますが、この地では一つの問題の解決は必ず次の問題の始まりを意味します

彼はカデシュ・バルネアで、あなたの神、主(ヤハウェ)は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ・・・恐れてはならない。おののいてはならない」(1:21)と述べました。それは、前進さえするなら、勝利は確実という意味です。ところが、十二人の各部族のリーダーが派遣され、約束の地を探索させると、彼らはそこに巨人族のアナク人を見たと言い、人々を怯えさせます。

それで彼らは、「主(ヤハウェ)は私たちを憎んでおられるので・・エジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し・・根絶やしにしようとしておられる」(1:27)などと、神の愛を憎しみとして解釈しました。

それに対しモーセは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)が・・戦われる・・荒野では・・全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたを抱かれたのを見ているのだ」とその恵みを思い起こさせます(1:30,31)。それはエジプトの王に示した十の災いや、紅海を二つに分けて民を通らせ、その後にエジプト軍を海の底に沈めたこと、また天からマナを降らせ、岩から水を湧き出させたことに現されていました。

そしてここでモーセは、主の圧倒的な導きを再び、「主は・・先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって・・道を示される(1:33)と改めて描きました。

私たちも目の前の恐怖に圧倒され、愛の神を、意地悪な神と言いたくなることがあるかもしれません。しかし、そんな時モーセのように、神のみわざを思い起こさせることが何より大切です。

 

主はこの忘恩に対し、「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない(カレブとヨシュアは例外)(1:35)と「さばき」を下され、彼らはその後38年間もの間、当てもなく荒野をさまよう羽目になりました。

そればかりか何とモーセまでもが、「メリバの水」の事件において、彼らの不信仰に対して感情的な言動で反応してしまい、主を民の前で「聖なる者としなかった」という理由で、主の怒りを受け(民20:2-13)、「あなたも、そこに、入れない」(1:37)と宣告されました。

この地での人生では、誠実な人がいつも報われるわけではありません。あのモーセでさえ、人々の身勝手に振り回され、不当な苦しみを受けざるを得なかったのです。

 

罪の赦し」とは、過去の失敗が消えるという意味ではありません。人は、この地において自分ばかりか、他人の罪の結果までをも刈り取りをせざるを得ないことがあるのです。私たちは、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)とのみことばを常に心にとめるべきです。

ただし、それでも、罪の赦しは決定的な意味を持ちます。主は、罪の結果の刈り取りをする者と共に歩み、ゴールも保障されているからです。そして、彼らは、この40年間の荒野の生活を通して、主に信頼することを学び、驚くほどに成長できたのです。

 

2.「あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)である」

1章46節では、神のさばきとしてイスラエルの民は、約束の地の南の入り口、ネゲブの南のカデシュ・バルネアに「長い間・・とどまった」と描かれ、2章1節では「私たちは向きを変え・・・葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイルの山のまわりを回っていた」と記されます。

セイル山は、死海からアカバ湾にいたる大地溝帯の東にある広大な山岳地帯全体を指し、そこはエサウの子孫のエドム人の領土でしたから、彼らが「セイル山のまわりを回る」ことはできなかったはずで、「ふちに沿っていた」と訳した方が良いかもしれません。とにかくイスラエルの民の38年間の歩みは謎に満ちています。

 

ただここでの要点は、イスラエルが38年間エドムの西側をさ迷っていたことが、どれだけ「エサウの子孫(エドム)にとって脅威であったかを思い起こさせることにあります。神は、一度は民を北に向かわせますが民数記20章14-21節にあるように、エドムは領土の通過を許しませんでした。それで彼らはアカバ湾の入り口のエツヨン・ゲベルまで南下して(2:8)、エドムの地を南から大きく迂回して、ヨルダン川の東に向かうことになります。

そしてそのようにした理由が、「彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない(2:5)と言われたと記されます。

 

またその北北東に位置する「モアブ人」に関しても、「彼らに戦いをしかけて(敵対して)はならない・・わたしはロトの子孫に・・所有地として与えたからである」(2:9)と言われました。

そして、13、14節では、「今、立ってゼレデ川を渡れ」と命じられ、「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年間であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営の中から絶えてしまった」と描かれます。

また19節では改めて、モアブばかりか、同じロトの子孫の「アモン人」に「争いをしかけてはならない。ロトの子孫に・・・所有地として与えているからである」と記されます。

彼らはイスラエルの敵となり得る民でしたが、主は彼らとの平和を望んでおられるのです。それは、主がかつてアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し」(創世記12:3)と約束されましたが、ロトは彼にとっての大切な親族だったからです。

 

   しかし、主はその後、「立ち上がれ・・アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らはあなたのうわさを聞いて震え・・・わななこう」(2:24,25)と仰せられます。この瞬間に、逃亡奴隷の集団が中東最強の民に変えられました

ただ、モーセはシホンに最初は和平を申し込みます。しかし、主はシホンの「心をかたくなにされ」(2:30)、彼をイスラエルの「手に渡され・・・ひとりの生存者も残さなかった」(2:33,34)という聖絶がなされます。

 

続いて3章では、「バシャンの王オグ」との戦いが描かれます。そこではバシャンの中心地エデレイでの戦いに際し、主(ヤハウェ)は、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している」(3:2)と言われ、結果的に60の町をも含むがガリラヤ湖北東部からヨルダン川東の広大な地を支配することになります。

これは、彼らが以前恐れていた巨人族の代表のような王に対する勝利でした。そのことが象徴的に、「見よ。彼の寝台は鉄の寝台・・・その長さは、規準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトである(長さ4m、幅1.8m)」(3:11)と述べられています。

 

これらの地はマナセの半部族とガド族、ルベン族に分配されましたが、彼らの戦士たちも全イスラエルと共にヨルダン川を渡ってカナンの国々と戦うように命じられます(3:18)。

そしてモーセはヨシュアに、「あなたは・・・主(ヤハウェ)が、これらのふたりの王になさったことをその目で見た」(3:21)と言って、この二つの戦いが、ヨルダン川を渡ってからの戦いの模範になることを示します。そして、「彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)であるからだ」(3:22)と命じました。

 

   その後、モーセは主に改めて、「あなたの偉大さと・・力強い御手とを・・示し始められました・・どうか、私に・・ヨルダンの向こうにある良い地・・およびレバノンを見させてください」と懇願します(3:23-25)。彼は今までの苦労が報われ始めたことを感動してこう願ったのでしょうが、主は断固として拒絶されました。このことを彼は、「しかし主(ヤハウェ)は、あなたがたのために私を怒り・・」(3:26)と言いますが、そこには深い悔しさや悲しみが込められています。

その際、主は彼に「ピスガの頂に登って・・その目でよく見よ」(4:27)と言われ、後の働きをユシュアに任せるように言われます。

私たちのこの地での働きも、「これから・・」というところで閉じられることがあります。しかし、後継者が先導者の痛みを理解することは働きの継続にとって何よりも大切なことです。人は、人の成功からではなく失敗からより多くを学ぶからです。

 

   これらを通して、主ご自身が土地の真の支配者であり、アブラハムへの約束に真実に守られることが示されます。イスラエルの責任は、その主に信頼し、主の力と真実を証しすることでした。

確かに、主は、彼らを用いてエモリ人の罪を裁かれたのですが、これから約七百年後、イスラエルの「咎が満ち」(創15:16)た時は、主は驚くほど野蛮なバビロン帝国を用いて彼らの国を滅ぼします。つまり、神が敬虔な民を用いてこの世の悪を滅ぼす?という「聖戦の思想」を聖書から引き出すことはできません。

 

事実、その六百年後のイエスに関しては、「キリストも・・あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ2:21-23)という正反対の模範が述べられます。

そして当時も今も共通するのは、「恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)であるから」(3:22)という原則です。自分よりも強大な敵に立ち向かうことも、右の頬を打たれて左の頬を差し出すことも、圧倒的な敵や困難に背を向けないという点では同じことなのです。主が共にいてくださるからこそ、私たちは困難に立ち向かうことができます。

 

3.「このような神を持つ偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」

   モーセはこれらを振り返って、「今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主(ヤハウェ)が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる」(4:1)と結びます。

「おきて」とは本来、石に刻まれ変えられないようにされた布告ですが、ときに「処方箋」のような意味で用いられることもあります。それは自分勝手な解釈で使い方を変えてはいけないものです。

また、「定め」の中心的な意味は「治める」とか「さばく」ことで、日々の生き方、振る舞い方につながるものです。それらは決して、人に制裁を加えるための基準ではなく、私たちがこの地で、日々、安心して幸せに過ごすことができるための決まり事や振る舞い方を意味します。

たとえばある家庭に厳しい門限のルールがあったとしても、その背後には、親の一貫した愛情があるものです。その不自由さが問題なのではなく、親の意図が通じなくなっていることこそが問題にされなければなりませんし、それは子供が自分の勝手な判断で変えてはならないものです。何よりも、ここでは、「そうすれば・・生き・・地を所有することができる」という神の約束に目を留めるべきです。

 

続けて、その「ことばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない・・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)の命令を、守ら(注目し)なければならない」と命じられます。サタンは、神のみことばを気づかれないように歪めることで、人を破滅に追いやるからです。みことばは文脈から解釈し、うる覚えではなく、聖書を開いて引用する必要があります。

その上でモーセは特に、「バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主(ヤハウェ)すがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている(4:3,4)という、死ぬか生きるかの対比を示します。

信仰の核心とは、自分の知恵や力の限界を認めて、「主にすがる」ことです。世の人々は、目に見えない神に「すがる」信仰を軽蔑します。しかし、全知全能の主により頼む恵みは、結果で明らかになります。

 

   5、6節ではモーセが改めて、主が命じられた「おきてとさだめ」を、約束の地において、「守り行いなさい」と命じますが、その結果が同時に、「そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり」と途方もない祝福が約束されます。

そして、彼らが主に従うことで、「国々の民」はイスラエルを、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」(4:6)と尊敬するようになるというのです。

これは、主の御教え(トーラー)が与えられた目的を、主が出エジプト19章5,6節で、かつて「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われたことが成就するという意味です。

 

そして、「まことに、私たちの神、主(ヤハウエ)は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられるこのような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」(4:7,8)と述べられます。

私たちも偉大な民と呼ばれます。それは、人間的な力や知恵ではなく、偉大な神に祈ることができ、偉大な神のみ教えを受けているからです。私たちは自分のアイデンティティーを個人ではなく、天地万物の創造主との関係の中で見直す必要があります。

主の「おきてと定め」というは決して難しいものではありません。私自身、証券会社の社員として過ごした十年間、自己嫌悪に陥るような仕事をしたことも、「お前はそれでもクリスチャンか」となじられたこともあります。しかし、教会の礼拝を意図的に休んだ記憶はありません。時には、仕事よりも礼拝を優先しました。それは、決して自慢できることではなく、「主にすがる」ことなしに課せられた責任を全うする自身が無かったからです。

そして、不思議に、私が苦難の中で主を「呼ばわるとき、いつも近くにおられ」ということは証しできます。また、周りの未信者の方は、私を嘲ったとしても、私の信じる「聖書」を軽蔑する人はほとんどいませんでした。

 

今、神とイスラエルの間に交わされた約束が、異邦人を含むすべてのキリスト者に実現しています。私たちも、イスラエルの民が受けた約束を自分のものとさせていただけたからです。

ペテロはそのことを、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)と記しています。そしてその目的が、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを」、全世界に「証しする」ためであると記されます。

それは、神のすばらしさをことばで宣伝するというよりも、主のみことばに従う民の群れのすばらしさを通して、世に証しするという意味です。それは、私たちがイエスの命令に従って、「互いに愛し合う」ことを通して実現されます。

 

   私たちの人生でも、主の約束を信じられなくて遠回りしてしまったということがあるかもしれません。しかし、それを通して信仰が養われたという面もあることでしょう。また、この世の様々な不条理を怒りながら、「言ってはならないこと、やってはならないこと」をしたという後悔があるかもしれません。目の前の敵や困難に背を向け逃亡したことを恥じているかもしれません。

しかし、ひとりひとり、そこでイエスと出会って、再び、このように礼拝の交わりに加わることができました。そこに神の救いの物語があります。

 

私たちも、日々様々な困難に直面しますが、祝福の秘訣は、「祈り」と「みことば」です。詩篇は、私たちの祈りを導く書ですが、その最初に「幸いな人」は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)」と記されます。

三千数百年前のモーセの説教は、まさに今の時代に生きています。はるか昔の見知らぬ民の物語に私たちの人生を重ねて見るとき、あなたも「幸いな人」になれるのです。

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2016年8月21日 (日)

ヨハネ14章15-31節「もうひとりの助け主」

ヨハネ14:15-31 「もうひとりの助け主のみわざ」

                                                  2016821

   去る月曜日、盲導犬に引かれた方が地下鉄のホームから落ちて亡くなられました。その方は今年3月に当教会の受苦日音楽礼拝に奥様と共に出席してくださった方です。奥様は私の神学校の同期です。私はそのとき、赤城山キャンプで奉仕中でした。そして、亡くなられたのが彼だと知ったのは昨日です。

今までの歩みをずっと聞いていただけに、茫然自失の気持ちです。何で、多くの人が行き交う地下鉄の駅でこのような悲劇が起きるのか、私たち都会で生きる者の孤独を思わざるを得ません。何と視覚障害者の37%もの方がホームから転落したことがあるという恐ろしい調査もあるというのです。

そこにいた人々を責めるというよりも、それを四日間余りも知らずに過ごす自分を責めてしまいました。メールを送ったら、すぐに「温かいことばをありがとう・・」とすぐに返事をもらい、泣くしかありませんでした。4人のお子さんたちとの今後の歩みを思いながら、どのように寄り添って差し上げられるか祈っています。

 

私たちの目の前には、不条理なことが満ち満ちています。その中で、「神がおられるなら、どうしてこんな悲劇が・・」と思わざるを得ないことも度々です。

しかし、私たちはどんなときにも、互いの気持ちに寄り添い合い、互いのために祈ることができます。目の前の自分の課題を必死にこなしながら、余裕を失っていること自体が、この世の何よりの悲劇です。聖霊のみわざはそこに変化を生み出します。

 

1. 「もうひとりの助け主」

   十二弟子のひとりのピリポは、「主よ。私たちに父を見せて下さい。そうしたら満足します(14:8)と言いました。主の身近にいるという特権の中で、何という贅沢を願うのでしょう。しかも、イエスは翌日十字架への道を歩もうとしておられるのにも関わらず、彼には自分のことしか見えていないかのようです。

主はそれに対し、「ピリポ」と個人的に語りかけながら、「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」とご自身の悲しみを表現しながら、「わたしを見た者は、父を見たのです」と驚くべきことを断言されました(9)

私たちはそれを、「御父と御子とはまったく同じ、神としての本質をお持ちだから・・・」という説明をしがちですが、イエスは単純に「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのですか」と問いかけられます(10)。そしてその意味を、「わたしがあなたがたに言うことばは・・・わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」と言われました。

つまり、イエスのうちに父なる神の心が住んでおられ、それによってイエスは御父の御心を語れるのであり、それは同時に、イエスご自身の働きというよりは、父なる神の働きであるというのです。

そこでは、御父と御子とはそれぞれ別の存在でありながら、同時に、互いの思いを徹底的に分ち合っているので、ひとつの思いとして私たちに語りかけることができるという愛の交わりが見られます。

 

これを神学的には、相互内在(mutual indwellingと呼びます。それは、御父と御子が融合して一つになることではなく、愛において一つになっておられることを意味します。

これを人間の家族関係でたとえることには非常に注意を要しますが、たとえば、子供の目の前にお父さんが見えなくても、お母さんのうちにいるお父さんを見て満足できるようなことに似ているかもしれません。それは両親が互いの独自性を尊重し、しかも同時にすべてを分ち合い、夫婦一体の愛で子供を愛しているときに見られるものです。

現実に、そのような理想的な夫婦はなかなかありませんが、私たちはこの地で、何よりも、互いに愛し合うことを通して、三位一体の神の愛を証しするように召されていることを忘れてはなりません。

 

イエスはもう一度同じ言葉を用いつつ、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」と言われながら、さらに「さもなければ、わざによって信じなさい・・わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きいわざを行ないます」と言われました(11)

つまり、「イエスを知る」という信仰の核心は、御父とイエスとの親密な交わりを知ることにあるのですが、それは単なる知識によってではなく、行動によって納得できると言うのです。それは、私たちがイエスの御名によって父なる神に大胆に求めつつ、神の愛をこの地で現そうとするときに見られるものです。

たとえば、マザー・テレサによって始まった「神の愛の宣教者会」は、イエスが地上の短い生涯で直接にお助けになられたより、はるかに多くの人々に食べ物を届けることができています。ただし、それは、決して、彼女たちの人間的な働きではなく、目に見えないイエスが彼女たちのうちに生きておられることの結果なのです。

そしてそれは、私たちのうちにおられるイエスがなしてくださる別の大きな働きともなり得るのです。私たちは、自分自身ではなく、私たちのうちにおられるイエスを見ていただけるように働くように召されています。どちらにしても、これは私たちが自分の殻を破って冒険しない限り見られないことでもあります。

 

その上でイエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するなら・・わたしの戒めを守るはずです(15)と言われました。「わたしの戒め」とは、中心的には「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)という命令を指します(15:1217参照)

それはイエスご自身が、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとって、弟子たちの前にひざまずき、その足を洗った姿に表わされています。その時イエスは、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです(13:14)と言われました。イエスの戒めの核心は、何よりも、目に見える兄弟姉妹が互いに仕え合うことにあるのです。

 

今、イエスは彼らの目の前から離れるにあたり、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためです(16)と約束されました。

「助け主」とは、聖霊のことですが、その方はイエスと同等のもうひとりの助け主」と呼ばれます。ですからイエスがおられなくても心配はありません。

しかもその方は、イエスのように十字架にかかり天に昇られるのではなく「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」というのです。これは、イエスのうちに父なる神が住んでおられ、イエスが父なる神のみわざを行ったと同じことが、イエスと私たちの間に起こることを意味します。

御父と御子の愛の交わりが、イエスと私たちの関係に現され、それは何よりも、イエスを主と告白する者たちの愛の交わりとして現されるのです。

 

そして、「その方は、真理の御霊」と呼ばれ、イエスご自身が「わたしは・・真理です(6)と言っておられたのと同じ働きをしてくださいます。ただ、世がイエスを受け入れず、知りもしなかったように、世の人々は御霊に対しても同じ態度を取りますが、弟子たちには、「あなたがたはその方を知っています(17)と言われます。実は、彼らがイエスを知ることができるのは、御霊の内住の結果だからです。

しかも、イエスは、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる(17)と言われました。これは、「一人一人のうちに・・」という以前に、「私たちの交わりのただ中におられる」ことを意味します。

 

多くの人々の心のうちには、母親の胸から出ようとしない幼児のように、何もせずに世話を受けていたい甘えの気持ちがあります。しかし、この世には多くの傷ついた人々がおり、教会には悩み苦しむ人々が送られてきます。もし、私たちがそれらに対し傍観者的な態度を取り続けるなら、神が遣わして下さった「助け主」の働きを実感することはできません。

イエスにつき従った群集だけが五千人のパンの奇跡を見ることができ、マリヤとともに泣いた人こそがラザロの復活に感動できました。同様に、イエスに習って他の人の前にひざまき、互いに愛し合おうとする人こそが、「もうひとりの助け主」のみわざを体験できるのです。

私たちはどこかで自分の狭い殻を破る必要があり、それができます。私たちはイエスをこの目で見、触れることはできませんが、イエスと同じ方がうちに住んでくださっているのですから。

 

2. 「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」

  イエスは十字架を目の当たりにして「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしはあなたがたのところに戻ってくるのです(18)と言われました。これは弟子たちにとって、復活後にご自身の栄光の姿を現すことを意味し、そのことが続けて、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます(19)と表現されています。

その上で、イエスはさらに、「わたしが生きるので、あなた方も生きる(19)と言われました。これはイエスの復活が私たち自身の復活に結びつくからです。復活信仰とは、単なる知識ではなく、日々の私たちの生活に現されるものです。

 

イエスは続けて、「その日には、わたしが父におることが・・あなたがたにわかる(20)と言われました。イエスはご自身のいのちが御父のうちに守られていることを確信しているからこそ、いのちを投げ出すことができたのですが、それが明らかになるのです。

そればかりかイエスは、「あなたがたがわたしにおり」ということがわかると言われました。これは、私たちの「いのち」がイエスご自身によって守られていることを意味します。イエスの十字架が自分の罪のためであったと信じる者は、すでに「新しい天と新しい地のいのち」を生き始めています。それは肉体的な死を乗り越えた「永遠のいのち」です。

同時に、イエスは、「わたしがあなたがたにおる」ことがわかるとも言われました。十字架に架けられたローマ帝国の犯罪人を、救い主と信じられること自体が、イエスの霊が私たちのうちに住んでおられることの最大のしるしです。つまり、御父と御子との相互内在の神秘が、イエスと私たちの間にも成立するのです。

 

   パウロはコリントの人々に向けて「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした(Ⅱコリント11:2)と言っていますが、イエスと私たちの関係は恋愛関係にも似ています。それは互いに、「あなたは私の命より大切です。寝ても覚めても、私はあなたのことばかりを思っています」と言い合うような関係です。

その愛の真実さは、たとえば、その人の些細な言葉を覚えていて、誕生日にその人の願い通りのものを贈ることができるようなことに現されます。

 

それと同じように、イエスへの愛は、イエスのことばをどれだけ真実に受けとめ実行しているかに現されます。そのことが、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です(21)と表現されます。

これは、私たちが日々イエスの命令を実行することができるということ以前に、イエスの御教えに注目し続けることを意味します。「守る」の中心的な意味は、「注目する」ことにあるからです。

それは旧約、新約を通じて同じです。私たちがイエスの教えを行動で現すことができないのは、イエスのことばを日々、十分に思い巡らしてはおらず、イエスのことばが私たちの心を動かすには至っていないからです。

 

しかも、イエスは、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(21)と保証してくださいました。

イエスを愛する人は、自分の身を守ることに気を使う必要はありません。自分の「いのち」が、天地万物の創造主によって守られているという真理に憩うことができるからです。そこに真の自由があります。その神秘を星野富弘さんは次のように表現しました。

 

「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。

いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

 

3. 「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」

   この時、イスカリオテでないユダがイエスに、「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか(22)と尋ねました。それはイエスが十字架を前に弟子たちと隠れるように最後の晩餐を守っている中での言葉ですが、その無神経さに呆れるほどです。

イエスはそれに正面から答える代わりに、「だれでもわたしを愛する人は・・」(23)と今までのことばを繰り返します。信仰の核心はイエスへの愛だからです。

主は、天から万人にご自身の真理を示すということよりも、愛し愛される相互の関係で現そうとしておられます。多くの人々はイエスを知的に理解しようとしますが、それでは限界があります。それは、恋愛感情が説得で育たないのと同じようなものです。

 

   しかもイエスは、「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます(23)と約束されました。何と御父と御子とが一体となって、私たちとともに住んでくださるというのです。これは聖霊が彼らのうちに住まわれることを指しています。

聖霊は、御父の霊であるとともに、御子イエスの霊でもあられるからです。それこそ、三位一体の神秘をあらわすことばです。

 

さらにイエスは、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません(24)と言われますが、ここでも「守る」とは何よりも「注目する」ことを意味します。私たちはだれでも、心から尊敬する人と出会ったときに個人的に語りかけられたことばは、いつまでも覚えているものです。それと同じように、イエスへの愛は、主のみことばをどれだけ心に刻まれているかに現されます。

しかも、イエスはさらに、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に・・話しました」(25)と言われますが、それは彼らが今後はイエスのことばを直接には聞けなくなることを示唆します。

私たちは、「弟子たちは、直接にイエス様のことばを聴くことができて羨ましい」とも思いますが、彼らが聴くことができたのはごく短期間に過ぎず、しかも、そのときはまったく意味を理解できていませんでした。私たちとあまり変わりがないのです。

 

しかし、イエスが彼らの目の前から見えなくなっても、「助け主」が、イエスの御名によって、父なる神ご自身から直接に遣わされます。そして、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます(26)と言われます。

イエスは既に弟子たちに十分教えましたが、彼らは理解できませんでした。それはまるで水の中に入らずに泳ぎ方を教えているようなものだったからです。しかし、彼らが実際に海でおぼれそうになる時、聖霊ご自身が、まるでイエスが傍らにおられるように、彼らに教え、思い起こさせてくれるのです。

 

   イエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します・・わたしの平安は・・世が与えるのと違います」(27)と言われました。世の平安は、問題がない状態を意味しがちですが、イエスの平安は、何よりもご自身の十字架で見られたものです。

同じように私たちはその平安を人生の嵐のただ中で体験することができます。だからこそイエスは、ここで、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません(27)と言われました。それは、心の不安定な私たちを攻める言葉ではなく、「父なる神とイエスご自身が、あなたとともにいて、あなたを守り続けるから、心配しなくても大丈夫だよ・・・」という意味です。

 

   そしてイエスは、今までのことばを要約するように、「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る」(28)と言われます。これはご自身の十字架と復活を指します。

しかし、弟子たちは、とうてい、イエスが十字架に架かり、復活し、父なる神のもとに行かれることを喜ぶことができるはずはありません。それは人間の目には、イエスの働きが中途半端なまま閉じられることを意味するからです。

 

しかし、イエスのみわざは、ご自身の弟子たち、また私たちを通して続いて行くのです。そのために私たちに、「助け主」「真理の御霊」である聖霊が与えられているのです。そして、その恵みは、弟子たちには、イエスが目の前からいなくなったときに初めて、心の底から理解できることでした。

私たちも、自分の小さな世界を守ることばかりに汲々としているときには、この恵みは体験できないことでしょう。

 

イエスはこれらの後、「わたしは、もう、あなたがたに多くを話すまい。この世を支配する者が来るからです(30)と言われました。それはイエスを十字架に架けることができるローマ帝国の権力であり、それを動かすサタンの力です。

全世界は父なる神のご支配の中にあることは確かなのですが、同時に、サタンには私たちを誘惑し、災いをもたらすことが許されています。そして、人々がこの世の権力やお金の力に惑わされているという現実自体がサタンの支配を現します。皮肉にも、自分の富と権力を誇り、神もサタンの力も信じない人こそ、サタンの支配下にあるのです。

しかし、イエスは、「彼はわたしに対して何もすることができません」と付け加えます。なぜならイエスは、ご自分の意志で十字架に向かっておられるからです。

そのことをイエスは改めて、「わたしが・・・父の命じられているとおりを行なっていることを世が知る」と言われました。今や、十字架は、刑罰のしるしではなく、愛のシンボルになっていますが、それは父のみこころを「世が知る」ようになった結果です。十字架は、敗北者のしるしではなくなりました。

 

そして同じように、私たちもこの世でサタンの攻撃にさらされますが、彼は私たちの「いのち」を奪うことはできません。

私たちに求められていることは、ただ、自分が肉の力ではサタンの支配権に対抗できないことを知って、ただただ、「主よ、あわれんでください。私にあなたの力を示してください」と、神にすがることだけです。信仰とは、自分の徹底的な弱さを心から認めて、主にすがることに他なりません。

 

   イエスは最後に、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです(31)と言われましたが、それはイエスが権力者に捕らえられることを指します。

私たちもこの世の支配者との戦いに派遣されます。しかし、恐れることはありません。イエスと同じ「もうひとりの助け主」であられる聖霊がともにいてくださるからです。

 

   私たちが今ここで、ともにイエスを礼拝しているのは、御霊が私たちを教え、イエスのことばを思い起こさせて下さった結果です。あなたが自分自身の惨めさを味わい、その中でみことばによって慰めを受けたという体験を、軽く受け取ってはなりません。それこそが、「もうひとりの助け主」のみわざでした。

私たちはイエスへの愛のゆえにそのことばに従います。そこで傷ついたとしても、そのただ中で、御霊のみわざによりイエスの平安を体験できるのです。

聖霊は今、私たち一人一人を「小さなイエス」として受け入れて世に遣わし、神の国をこの地に広げてくださいます。主のヴィジョンをともに味わいましょう。

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2016年8月 7日 (日)

民数記33章51節から36章「境界線(バウンダリー)を守る生き方」

民数記3351節~3613節 「境界線(バウンダリー)を守る生き方」

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   子供が他の子供と争うときに発する最初のことばは、「これは私のもの!」なのかもしれません。以前は、これは第一反抗期などと、否定的に見られてきましたが、最近は、自我形成期として積極的に捉えるようになってきています。

それは、「神のかたち」に創造された者が、自分の責任範囲を明確に意識し出す大切な時期であるとも言われます。それは各個人の境界線が形成される時期とも言えましょう。

 

人や仕事との適度な距離感を保てない人が増えていますが、それぞれの責任領域を明確にする「境界線(バウンダリー)を確かめることは極めて有効です。愛の交わりは、「甘え」の共依存関係ではなく、互いが主体的に責任を担い合う関係です。

本日の箇所のテーマは約束の地、また分配された相続地の「境界線」です。そこから、家族や仕事に関わる「主のみこころ」とは何かが見えてきます。

 

1.カナンの境界線(バウンダリー)と私達の境界線

   イスラエルの民は、食べ物にも水にも事欠く荒野の40年の生活を通して、神に信頼することを学び、人間的には中東最強の民族へと成長しました。

それは、私たちの信仰生活でも、この世のすべてを脇において、たったひとりで神の前に静まる霊的な荒野の体験が必要であることを指し示します。

 

   ただし、約束の地では、偶像礼拝の文化の影響を受ける危険が待ち受けます。それで主は彼らに、ヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼた(破壊し)なければならない」(33:51,52)と命じました。

その地の住民の性的退廃等の驚くべき不道徳は偶像礼拝と密接に結びついていました。神はイスラエルをその誘惑から守るため、「境界線」を設けられたのです。

 

   イスラム教の過激派のタリバンやISが、古代遺跡の偶像を破壊する様子が報じられたことがありますが、彼らはここから生まれた教えに従っていたつもりなのでしょう。しかし、ここでは、偶像を破壊するべき土地の範囲と、それをなすべき時が明確に指定されていました。

決して、自分たちが世界中のいたるところに出て行って、そこを武力で占領し、その地から偶像を絶やすようにとは命じられていません。

 

しかも主は、「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう」(33:55、56)と言われました。

つまり、その地の住民をカナンから追い払い、彼らとの「境界線」を明確にするのでなければ主ご自身がイスラエルをやがてその地から追い出すと警告されたのです。

 

   神は、カナンの地を、失われた「エデンの園」のようにしたいと願っておられました。神が定めた「境界線」は、現在のイスラエルと同じ程度の面積が、北東部にも広がり、現在のレバノンとシリア(首都:ダマスコ)を含む広大なものでしたが、後に彼らはカナンの人々との共存を優先し、それを占領することに失敗します。

34章1節から13節では、「境界線」ということばが繰り返されますが、私達の生活でも、決してゆずってはならない「境界線、また愛と言う名のもとに超えてはならない互いの「境界線があります。

 

興味深いことに、エゼキエル36章35節には、イスラエルの民が神に逆らって約束の地から追い出され、その地が廃墟となった後、神の恵みによって再び回復される時の姿に関して、「荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった」と言われると表現されていました。

また、神の民に与えられる祝福が、イザヤ58章11節では、「(ヤハウェ)は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる」と描かれていました。

神は、本来、そのような「エデンの園」の祝福を約束の地に実現するためにこそ、神の民に律法を与え、周辺諸国の偶像礼拝の文化に呑み込まれないようにと警告してくださっていたのです。

 

多くの人々が自分のアイデンティティーを確立できない原因に、この「境界線」のあいまいさがあると言われます。日本には外国の様々なものを取り入れ、それを古来の文化と融合して行く恐ろしいほどの同化力があります。そして多くのキリスト者がそれに飲み込まれ、生きた信仰を失って行きました。

私たちは、この世と「壁」を作るのではなく、皮膚のように呼吸可能な「境界線」を保ち、聖書信仰と相容れないものは毅然として退けながらも、この世の経済的、文化的な成果を受け入れ生かす必要があります。

 

これとレビ記192節にある「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」とは密接な関係があります。ただそこでもこの世との徹底的な分離以前に、神の領域に招かれた者として、この世と調和せずに、神のご性質に倣うというのが中心点です。

パウロはそれを、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)と表現しました。

 

2. 殺人の血を贖う者

   35章1-8節ではレビ人への土地の分配が記されています。彼らは本来、土地の分配は受けられないはずなのですが、それでも最低限の家と家畜の放牧地が必要です。ここに記されているひとつの町と放牧地のひろさは、たったの880メートル四方に過ぎません。それら48の町が他の十二部族の土地の間に点在するようになるのです。

そして特に、そのうちの六つは「のがれの町」(35:6)として指定されました。

 

   16節から18節まで三種類の凶器を例にあげながら意図的「殺人者は必ず殺されなければならない」と三度繰り返されています。その上で特に、「血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺しても良い。彼と出会ったときに、彼を殺しても良い」(35:19)と記され、しかも誤解のないように同じ言葉が繰り返されます(35:21)。

これはまるで江戸時代の日本の仇討ちの掟のようです。この原則は現在のアラブの部族社会で生きており、コーランでは「正当な理由がない限り、人を殺してはならない。それはアラーが禁じたもうたこと。不当に殺された者は、その相続人に、われらは権利を認めておいた」(第17章33)と、殺された者の近親者に報復の権利を認めていますが、その原点がここにあるように思えます。

 

しかし、イエスご自身は、復讐してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)を何よりも大切にされました。では民数記とレビ記には矛盾があるのでしょうか?

実は、「血の復讐をする者」とは、原文では「血を贖う者」と記されています。この規程の目的は、この章の結論で、「血は土地を汚す・・その土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない(殺人者の血を流さずに、土地を贖うことはできない)(35:33)とあるように、神から委ねられた相続地を聖く保つ責任が、土地の相続者に委ねられたということです。恨みを晴らすことを容認するためではありません

 

たとえばルツ記では、ルツは、自分が嫁いだナオミの夫エリメレク家の土地を、ボアズの妻になることによって「買い戻し」てもらうことを願いました。そこではボアズが「買い戻しの権利のある親類」として位置付けられます。ボアズはルツを娶り、子を生むことによってエリメレクの家を再興し、その子孫からイスラエルの王ダビデが生まれることになる道を開きました。

その父の家の相続地の買戻しと、殺人によって汚された地を、買い戻しの権利のある親族が贖うということは、神から委ねられた土地を贖うという観点では同じことなのです。決して、復讐の正当化ではなく、神の土地を聖く保つ責任の問題なのです。

 

しかも、この段階では、イスラエルは部族の集合体に過ぎず、国家的な警察力がないため、これが一時的に許容されたとも考えられます。しばしば、報復の可能性こそが、家族や親族を敵の攻撃から守る最大の抑止力になることも事実ではないでしょうか。

するとこの原則は、イエスが夫たちに、命をかけて自分の妻を愛するように教えられたこと(エペソ5:25)と矛盾しません。家族の「境界線」とは、互いを守るために命をかける責任範囲にあります。それがあることは、多くの人にとって何よりの安心の源です。

そして私たちは、その家族の境界線を、血筋を越えた、「キリストのからだ」である「教会」に広げます。

 

 ところで、明確な過失であれ、律法には、殺人の罪を贖う方法はありません。それで、明らかな殺意がなかった場合は、復讐する者(原文:贖う者)から、その殺人者を守るための別の「境界線」が設けられました。それが「のがれの町」です(35:11,25)。彼は大祭司が死ぬまでその町から出ることが許されません。

もしその「境界(boundaries)から出て」報復されても、それは当人自身の責任とされました(35:26,27)。予期できなかった殺人の罪は、予期できない大祭司の死によってのみ贖われることができるのです。

 

そして、今、キリストは、私たちの大祭司として、殺人者の血からこの土地を贖うために十字架にかかられました。最初の人アダムが神に逆らって自分を神としたとき、神は彼に、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」(創世記3:17)と言われました。そしてパウロは、ローマ人への手紙8章21節で、キリストの十字架の贖いがもたらす救いを、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられます」と述べています。

イエスの十字架の贖いのみわざが地球全体の救いにつながるという視点を私たちは忘れがちではないでしょうか。それが「新しい天と新しい地」となるのです。

 

主が十字架にかかられたとき、殺人者バラバが解放され、いっしょに十字架にかけられた強盗のひとりがその悔い改めによって、イエスから「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)という約束をいただきました。まさにイエスの血は、旧約で贖うことができないすべての罪を贖うものだったのです。

ですから、もはや、神の家族の境界線の内側を聖く保つために、復讐の血を流す必要はありません。既に私たちの交わりは、神の御霊が宿る「神の神殿」だからです(Ⅰコリント3:16)。私たちが互いに命がけで守るべきなのは、肉体的な命ではなく、キリストへの信仰という霊的な「いのち」なのです。

 

3. 土地と家族の一体性

   イスラエルの民は、カナンという具体的な土地の上で、神の民としての目に見える繁栄を享受し、全世界に対して主(ヤハウェ)の栄光を証しするはずでした。

ですから、主が殺人の罪に関して言われたことの結論は、「あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主(ヤハウェ)であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである」(35:34)というものでした。つまり、「土地」こそが目に見える祝福の基盤でした。

しかも、土地の真の所有者は主(ヤハウェ)ご自身であり、彼らの責任は、主から預けられた土地を、誠実に管理し、それを子孫に受け継ぐことでした。

 

先の27章1-11節では、ヨセフの子マナセ族のツェロフハデの娘たちが、自分たちの父に、「男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか」(4節)と訴え、娘たちへの相続が例外的に認められました。父の名を残すことと土地を受け継ぐことが同じ意味を持つものと見られたのです。

だからこそレビ記25章では、貧しさのために土地を失ったり、奴隷となった人々が、50年毎のヨベルの年に「自分の先祖の所有地に帰ることができる」と強調され、土地と家族の一体性の回復が命じられています。

戦後の日本は、戦前の反動もあって、家族のまとまりという意識が弱く、そこに聖書を誤解したような個人主義の考え方が影響を与えているのかもしれません。しかし、本来、聖書では、父の名のもとに家族が一つのまとまりとして機能するという面を忘れてはなりません。少なくともユダヤ人は、今も昔も、社会の最小単位を、個人ではなく、家族として捉えると言われています。

 

これを前提に、36章では、男系のいない「ツェロフハデの相続地」(36:2)が娘たちに分配されても、それが彼女たちの結婚に伴い他の部族の所有に移らないようにという訴えが、同じマナセ族のギルアデの氏族から出されました。

結婚は新しい家族の創造ですから、ツェロフハデの娘たちが、他の部族の人と結婚するなら、土地の所有権が他の部族の夫の名で登録される可能性がありました。本来は、彼女たちに男子が生まれたら、夫の名ではなく、ツェロフハデの名によって、マナセ族の土地として受け継がれるとも解釈できたはずです。

ただ、夫を中心とした家族の一体性の観点からは、結婚によって彼女たちの土地は夫の名のもとに移動され、それが「ヨベルの年」の相続地の確認によって(36:4)、もとのマナセ族に戻る代わりに所有権の移転が確定するということになり得ます。

とにかく、このような問いかけに対して、主は、「イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである」(36:7)と命じられます。ここに部族と土地の一体性が強調されています。

そして、それをもとに結婚に関しても、「イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない」と命じられます。そして、改めて、「こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない・・・おのおのその相続地を堅く守らなければならない」(36:8,9)と命じられることになりました。

 

昔からどの国でも、土地の所有権の移動が認められることで、土地が商品のように売買され、大地主と小作にわかれ、人が人を支配する階級制度ができました。

神は、イスラエルの民がご自身の前でみな同じ立場に立ち、互いを兄弟として、同じ父なる神を礼拝する信仰共同体を作ろうとされたのです。

 

   この原則は、現代にも適用されます。それぞれの仕事は、土地と同じように神様から管理を委ねられたものであり、そこから生まれる収入は、神の前での責任を果たしたことへの報酬です。神がイスラエルの民の間の平等を望まれたように、私たちは仕事において、人の奴隷になってはなりません

また土地の上に家族が築かれたように、仕事を家族全体の課題と見るべきではないでしょうか。確かに、現代の社会では、旧来の夫婦の分業のパターンは稀になって来ています。しかし、それでも夫または妻の仕事は、広い意味で、神がひとつの家族に与えてくださった共同の責任であると考えることもできるのではないでしょうか。

互いの仕事への無用な口出しは危険ですが、家族の精神的な支えが過小評価されてはなりません。たとえば夫の仕事を妻が尊敬しないことが子供の社会適応の障害となっている場合もあります。父親に誇りを感じさせられる母親は、子育ての最も大切な責任を果たしているとも言えます。

改めて、聖書が描く「家族」とは何かと、考え直す必要があります。また同時に「キリストのからだ」としての教会も、礼拝者それぞれの仕事に誇りを覚えさせ、支え、この地の働きに遣わしている家族なのです。

 

   主がイスラエルに土地を割り当て「境界線」を定められたのは、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:8-10)からでした。

私たちも「神のひとみ」のように尊い存在であるからこそ、それぞれに果たすべき責任の「境界線」が与えられています。それは仕事であり、肉の家族であり、神の家族です。私たちは、個人と個人との関係ばかりか、家族や教会という「共同体」としての「境界線」を見直すようにと、聖書から問われています。

 

   自由教会の群れでは、個々人の良心の自由、各個教会の自治が何よりも尊重されます。それは、各個人、各家族、教会として各々の決めるべきことの責任が明確になっていることを意味します。

それは、人の心の中に土足で踏み込まないこと、他の家族の教育方針や生き方に立ち入らないことをも意味します。もちろん、助けを求められた時には、ときに境界線を越えて入り込む必要もありましょうが、それぞれの自主性を損なうような介入は、厳に慎むべきでしょう

日本的な村社会の中では、過剰な残業や頻繁な人事異動による転勤など、それぞれの家族の自立性をあまりにも軽視してきた面があります。

 

一方で、従来の福音派の教会が、「聖さ」という面をこの世の偶像礼拝の文化からの断絶にばかりに目を留めてきたことへの反省も生まれています。

伝道者の書の解説の拙著「正しすぎてはならない」が、福音派の教会で好意的に受け入れられたことには内心驚かされています。それだけ、聖さを守る「境界線」の捉え方が変わって来たのだと思われます。人間的な戒めでこの世との分離をはかるのではなく、「聖さ」の創造主である聖霊のみわざに信頼して、大胆に世に出て行くことが求められています。

 

イエスの時代まで、神の民を偶像礼拝の異教徒から分離して、「聖さ」を保つために最も効果を発揮したのは食物律法でした。それによってユダヤ人は異邦人とともに食事をすることが不可能になっていました。

しかし、ペテロが、ローマの百人隊長の家に招かれ、躊躇していた時、主は彼に、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15)と答え、「境界線」の概念を変えてくださいました。

 

今、私たちがこの教会で、ともに礼拝し、ともに食事をいただくこの交わりは、かけがえのないものです。ここにも「境界線」がありますが、それは外部の人を次々と受け入れながらも、「キリストのからだ」という、この世とは区別される「聖さ」を保つ交わりです。

そしてそれは、現代の「のがれ町」でもあります。聖霊の導きによって、互いのために祈り合うことで、この「境界線」が健全に保たれるのです。

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