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2016年9月 4日 (日)

申命記4,5章「そうして、永久にしあわせになる」

申命記 4,5章「そうして・・永久にしあわせになる」

         201694日 

   NHKの大河ドラマや朝ドラに歴史上のクリスチャンが頻繁に登場します。みんなから好かれる人格者がほとんどです。それなのに、クリスチャン人口が増えないのはどうしてかといぶかしく思えるほどです。日本での宗教の役割は、人を謙遜で柔和で忍耐心のある人格者に育てることにあると見られがちですが、そこで問題なのは、人々の目が、神ご自身ではなく、神を信じる個人に向かうことです。

それに対し、聖書の物語は違います。その中心はイスラエル民族の物語ですが、読者はヤコブに始まる民の狡猾さ、身勝手さ、心の弱さに唖然とするのではないでしょうか。そしてそれこそ、聖書の醍醐味です。神はこのように問題に満ちた民を用いてご自身の愛とあわれみを知らせようとしたということです。

そのことを使徒パウロは、「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました・・・これは、神の御前でだれをも誇らせないためです(Ⅰコリント1:27,28)と記しています。

 

   神は欠けだらけの人を敢えて選び、用いることで、世にご自身の知恵と力を示そうとしておられます。

先日、59歳の若さで天に召されたY兄はシンガポールのビジネスマンの家庭集会等を契機に信仰告白に導かれ、日本的「敬虔なクリスチャン」のイメージを超越した方でしたが、同地の日本語教会が無牧であった期間、献身的に教会を支えて来られました。

彼のお宅では毎週、祈祷会が開かれ、みことばが分ち合われていました。何よりも自分が陰に隠れて数々の霊的指導者を立てながら、日本的な組織の枠を超えた交わりを支えて来られました。仕事では部下を厳しく指導する方で、帰国後はその大手の会社の役員になっていました。その葬儀に、幅広い教会関係者や仕事の同僚など延べ600人もが参列しました。

申命記46-8節では、イスラエルの民が「偉大な国民」と呼ばれる理由が、「(ヤハウェ)は・・・呼ばわるとき、いつも近くにおられる」「この御教えのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っていると描かれています。

つまり、私たち自身の人格や能力が評価されるのではなく、私たちの祈りを聞いてくださる神とその御教えのすばらしさが、神の民の共同体を通して証しされるというのです。自分の人格を通して神のすばらしさを証しするなどと考えると息苦しくなりますが、Y兄にはそれを超越した自由がありました。

 

 <「十のことば」の背景と「神のかたち」の意味> 

聖書は基本的に、モーセとそれに続く預言者を通して語られた記録ですが、十のことば(4:13)だけは神が直接に天から国民全体に語りかけたものです。

モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に約40年前にそれを受けたときのことを思い起こさせ、山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主(ヤハウェ)は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった・・主はそれを二枚の石の板に書きしるされた」(4:11-13)と言います。

つまり、神はご自身の御姿を暗黒の中に隠し、ことばだけを啓示されたのです。

 

それゆえ、「自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も・・」(4:16、17)と強調されます。また、「日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい」(4:19)とも言われます。天地万物の創造主を被造物の姿で現すこと自体が、何よりも神を辱めることになります。

同時に、「(ヤハウェ)はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた」(4:20)と改めて記されます。彼らが人々から軽蔑されていた民であるからこそ、彼らが約束の地で繁栄する時に、それは人の力ではなく、イスラエルの神のみわざであることを周辺の国々が認めざるを得なくなるという意味です。

神は、だれの目からもひ弱な民族集団を敢えて選んで、「偉大な国民」にしようとしてくださったのです。この並行記事こそ出エジプト記19章5,6節で、そこでは、「わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる・・・わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されていました。

 

なお、「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創1:27)とあるのは、神がご自身の栄光を目に見える人間を通して現すという意味でした。そのため、主はイスラエルを選ばれました。

彼らの共同体こそが、神の栄光を現す目に見える存在だったのです。ですから彼らが神の栄光を目に見える被造物として現すことは自分で自分の使命を否定し、自分の存在の意味を自分で消し去ることを意味しました。

 

その上で彼は、「何かの形に刻んだ像を造り・・御怒りを買うようなことがあれば・・ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる・・・主(ヤハウェ)はあなたがたを国々の民の中に散らされる」(4:25-27)と警告します。神を偶像で現すことこそが、七百年後のバビロン捕囚とその後の悲劇の原因だというのです。

彼らはそこで、「人間の手で造った、見ることも、聞くこともできず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える」(4:28)と言われます。「見ること・・」などの能力は「神のかたち」の一部ですが、神を何もできない偶像に現すことで、自分自身を何もできない偶像と同じ姿に貶めることになるというのです。

ただ彼らは、そのどん底で初めて、「(ヤハウェ)を慕い求め、主に会う」という回復への道を歩み出せます(4:29)。それこそ放蕩息子のたとえの原点です。そしてそこで彼らは初めて「心を尽くし、精神を尽くして・・・主(ヤハウェ)に立ち返り、御声に聞き従う」ように変えられます(4:29,30)。

そこでは、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず・・滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない」(4:31)という救いも保証されます。その「契約」がキリストにあって成就するのです。

神のご計画は不思議です。イスラエルの悲劇は、目に見えない神を見えるようにする偶像礼拝から始まりました。しかし神はご自身の御姿を、人となられたイエスを通して現してくださったのです。

 

<「主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ」>

 さらにモーセは、「さあ・・尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた・・・これほど偉大なことが起こったであろうか・・・あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

あるいは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)が、エジプトにおいて・・・なさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか・・・このことが示されたのは、(ヤハウェ)だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るため」(4:32-35)と語ります。

 

   つまり、イスラエルの民の偉大さは、主の御声を直接に聞くことができたことと、主の一方的なあわれみによって「ご自身のものとされた」ことにあるのです。そのことが4章36節以降で再び記されます。

そこでは、「主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中から、あなたは、みことばを聞いた」と言われます。彼らは、主の圧倒的なみことばを聞き、そのことばに動かされることによって、約束の地にエデンの園の祝福を回復できるはずだったのです。

主のことばに反抗したアダムの子孫を、主のことばに従う者へと変えることが、主が彼らを「エジプトから連れ出された」目的でした。彼らは主のことばに動かされることによって、自分たちよりも「大きく、強い国々を・・追い払う」ことができます。それが、「神のかたち」として生かされ、主の栄光を全世界に証しする歩み方でした。

 

また、主ご自身が「天から」直接に語りかけたという事態の中に、彼らとの親密な交わりを求める神の熱い思いが見られますが、その目的は、「あなたも・・後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主(ヤハウェ)が永久にあなたに与えようとしておられる地で・・長く生き続ける(4:40)ことにありました。

私たちはこれを十の「戒め」などと呼び、罪深い自我を矯正し、さばきの根拠を示すという面ばかりに目を向け、ここに人の「しあわせ」を切望する、神の燃えるような愛が表わされていたことを忘れてはいないでしょうか。

 

   さらにモーセは、「(ヤハウェ)が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである」(5:3)と語ります。主はこの約四十年前に、彼らの父と契約を結ばれたのでした。しかし、彼はそれを今生きている人との契約として示します。

そして、主は、それから三千数百年後に生きる私たちとも、この契約を結んでおられるのです。それは今新しい契約」と呼ばれますが、それは契約の内容が変わったのではありません

「新しさ」とは、「石の板にではなく、人の心の板」に聖霊によって記される「与えられ方」にあるのです (Ⅱコリント3:3、エレミヤ31:31-33参照)

 

   私たちはモーセの時も、今も、主の御声によって動かされ、主のすばらしさを証しするようにと召されています。ですから、共に集まり、主の御声を聞くということがすべての出発点です。

その際、現代の時代には聖霊が与えられています。聖霊がみことばを心に刻みつけてくださいます。そのプロセスこそがすべての出発点です。それは、日々、主の御前に静まり、みことばを読み、祈ることを通して実現されます。

 

<前文> 「わたしは(ヤハウェ)あなたの神である」 (5:6)  神は、ご自身の名を、「わたしは『わたしはある。』という者である」と紹介しつつ、結婚の申込みのように、「わたしは、あなたの神」と直接に語りかけます。

そして、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」という具体的なみわざを思い起こさせて、ご自身の真実を示されました。「十のことば」の前文を省くことから、堕落した戒律宗教が始まります。

 

1.「あなたには、わたしのほか()に、ほかの神々があってはならない(5:7)   これは、愛の語りかけであり、結婚の際、浮気をしないと誓わせることと同じです。

私たちも、主(ヤハウェ)を信じると言いながら、「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)などを、主との交わりよりも優先することがあります。

 

2.「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない・・・」(5:8)   「偶像」は「イメージ」とも訳されます。夫婦関係は、自分の理想のイメージを相手に押し付け、あるがままの姿を認め合わないことから破綻します。偶像を作るとは、神をあなたの身勝手な理想のイメージに作り変えることに他なりません

4章からの文脈では、これこそ「十のことば」の核心と言えます。それは神に「聴く」ことを阻む行為だからです。

 

拝んではならない、仕えてはならない」と命じられた後、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と繰り返され、「ねたむ神」(5:9)と付け加えられます。「ねたみ」は激しい情熱です。神は愛の交わりを切望されるからこそ、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と警告されます。実際、親の生き方の歪みは孫の代まで及ぶものです。

ただし神は、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」との対比を見せ、祝福は、数万年後にまで受け継がれると約束されました。

 

3.「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない(5:11)  この解釈から、御名が「(アドナイ)と呼び変えられ、大贖罪の日に大祭司が一度だけ、ヤハウェと発音したと言われます。

ただ、中心は「誓い」の際、「むなしく、わざとらしく」御名を用いることの禁止でした(レビ19:12)。イエスも、「『主よ。主よ。』と言う者が天の御国に入るのではなく・・」(マタイ7:21)と言われ、軽々しく御名を持ち出すことを戒めました。

 

4.「安息日を守って、これを聖なる日とせよ(5:12)  これは肯定命令であり、これに最も多くの解説が加えられています。

出エジプト記では、「それは(ヤハウェ)が・・七日目に休まれたから」(20:11)と説明され、神が休まれたから神に似せて造られた人も休むべきであると、人としての尊厳思い起こさせます。人の価値が仕事の能力で計られる社会で、「どんな仕事もしてはならない」と命じられることは革命的です。

 

ここでは特に、「そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も・・・休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主(ヤハウェ)が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない」(5:14,15)と、出エジプト記と異なった説明が加えられます。

これは、神の救いのみわざを思い起こす日です。それで初代教会は安息日を主の復活の日に移動しました。同時にこの日は、奴隷のように今苦しんでいる隣人に休息を与えるという形で愛を実践する日です。ですから初代教会では日曜日ごとに豊かな食事の交わりがありました。イエスは、これを果たすべき義務としてより、やがて実現する真の安息の影として、喜び祝うように勧められました。

 

5.「あなたの父と母を敬え(5:16)  これも肯定形で、「第一の戒め(エペソ6:2)とさえ呼ばれ、人間関係の基盤です。

敬え」は、神を崇め、恐れることにも用いられる「栄光」と同じ語源のことばです。これは親の良し悪しや年齢に関わらず、無条件の命令で、ここでは「あなたの神、主(ヤハウェ)が与えようとしておられる地で、しあわせになるため」との約束が加わります。

確かに、親から虐待を受け、親から離れなければ自由になれない人もいますが、親を愛せないこと自体が何よりの不幸であることに変わりありません。

 

6.「殺してはならない」(5:17)  昔も今も、胎児や障害者、老人の命が軽んじられます。たとえ殺さなくても、誰にも「神のかたち」に創造された自分も他人をも、無用の存在と決めつけることは許されません。

殺人は、まず私たちの「心の中」で、「神のかたち」に創造された人間の価値を貶めることから始まります。

 

7.「姦淫してはならない(5:18)   当時のカナンの宗教の特徴は、神殿娼婦をはじめ想像を絶する性的退廃にありました。これは現代のカルトにも通じます。

イエスは結婚を聖別し、結婚以外でのすべての性的な交わりを姦淫の罪とされました。姦淫は、他者を自分の欲望達成の手段に貶めることだからです。

 

8.「盗んではならない」(5:19)  昔は、敗戦国の人の所有権が認められないのは当然で、権力者はしばしば民衆の財産を合法的に奪うこともできました。これは社会的な弱者の生存権を守る命令でした。

 

9.「偽りの証言をしてはならない(5:20)   当時は、少しの罪でも死刑になりましたから、偽りの証言は恐ろしい力を持ちました。現代は、うわさ話しによって、人の名誉を傷つけることが戒められるべきです。

 

10.「欲しがってはならない(5:21)  この命令は二回繰り返され、心の中の思いが問われます。パウロですら、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました(ローマ7:8)と告白せざるを得ませんでした。

エデンの園での罪は、「賢くするというその木はいかにも好ましかった(欲しがった)それで女はその実を取って食べ・・」とあるように(創3:6)、欲しがることが悲劇の原因でした。人は獲得することを喜びますが、イエスは、失うことの中での自由と祝福を保証してくださいました。

 

ところで、ここでは、出エジプト記で「隣人の家」と記されている所が、「隣人の妻」と記されます。一見、女性を「もの」と同列に扱っているようですが、この命令の背後に、女性を男性の欲求の対象にさせない神の熱い思いが見られます。

実際、一夫多妻の社会では、「姦淫の罪」でもっぱら女性が裁かれましたが(ヨハネ8:2-11「姦淫の場で捕らえられた女」の例)、イエスは「姦淫」をこの戒めに結びつけ、「情欲を抱いて(欲しがりながら)女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)と、女性の尊厳が守られるようにしました。

同じようにこの命令は、「殺す」こと「盗む」こと、「偽証する」ことの動機につながります。

 

  イスラエルの民は主の御声を直接に聞いて、死ぬほどおびえ、以後モーセを介して間接的にみことばを聞くことを願いました。

(ヤハウェ)は、それを「もっともである」と受けとめられ、「どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように」と言われます(5:28、29)。そこに神ご自身の祈りが込められています。

 

神は、私たちをご自身の花嫁と見られた上で、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられました。これこそ第一から第四の教えの要約です。

また、当時も、今の独裁国家でも、社会的弱者の生命、家庭、財産、名誉の権利が軽んじられましたが、神はご自身が神の民の王として、人と人とが愛し合う共同体を造ろうとされました。第四から第十までの教えのまとめが、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」です。

そして、安息日の教えはこの前半と後半に関わる「十のことば」結びの帯です。ただし、昔から、大切なものこそサタンの誘惑の餌食にされます。イエスの時代のパリサイ人たちは、この命令を、主への従順の度合いを測る厳しい尺度にしてしまいました。安息日が、「喜びの日(イザヤ58:3)ではなく、人を不自由にする厳しい「おきて」に変えられたのです。

それに対し、イエスは敢えて安息日に人を癒すことによって、安息日を「喜びの日」へと回復させてくださいました。そして、ユダヤ人に安息日の見直しを迫ったヘブル人への手紙49-11節では、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです・・・ですから、私たちは、この安息に入るよう、力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落伍する者がひとりもいないようにしようではありませんか」と特に記されています。

 

私たちは、安息日の度ごとに、「安息の完成の日」を待ち望むように召されています。イスラエルの民は、約束の地に「神の国」を建てることに失敗しましたが、私たちは神の霊によって「新しい天と新しい地」を待ち望みつつ、その「つぼみ」を目に見える共同体としてこの地に現すために招かれているのです。

 

主が祈りに応えてくださったという確信を深めること、また、主のことばが不思議に響いて来たという体験を思い起し続け、神の民として集められてともに喜ぶこと、それこそが私たちが「神のかたち」として成長する秘訣です。

その際、人の評価を意識すると、個々人をアイドル(偶像)にするという誘惑に陥ります。私たちの主は、当時の最高の文化人からは嘲りを受けたのに、日本で「敬虔なクリスチャン」と評価されるのは矛盾です。

主は私たちが「永久にしあわせになる」ためにご自身のみことばを授けてくださいましたが、それを守る個々人ではなく、神の民全体への愛に満ちた主の語りかけ自体に心を向けましょう!

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