« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月17日 (土)

申命記6-8章「自分自身から自由にされるために」

                                             2016918

   この箇所から11年前にメッセージを取り次がせていただいた日のことですが、主の不思議なみわざを見させていただきました。その二日前、重篤の癌患者をお見舞いし、主にどのように祈るかを導かせていただいたところ、彼女はその夜、入院して以来、初めて熟睡できたと感謝され、それまで教会に来られたこともないのに、礼拝にぜひ参加されたいと言われました。

御主人と娘さんに支えながらやっとのことで来られた方が、礼拝後にはご自分の足で立ち、喜びながら帰って行かれました。それから約四十日後に天に召されるまでの間、激痛に耐えながらも、その顔は喜びに満ち、「初めの愛(黙示録2:4)に立ち返る感動に溢れました。

人の目には「小さな恵み」に、全身全霊で感謝を表わされたところ、そこに永遠に続く主との豊かな交わりが生まれたのです。それこそ真の意味でのたましいの癒しではないでしょうか。

 

それにしても、教会にしばらく通う中で、「もっと主を愛することができるなら、もっと自由と喜びを体験できるはずなのに・・・」と思う人が多いかもしれません。そればかりか、無意識にせよ、主を愛する競争を始める人さえいるかもしれません。

しかし、それは、「主を愛する」というより、自分に囚われた生き方の延長ではないでしょうか。では、自分を忘れて主を愛することができるためには、どのようにしたらよいのでしょう。それは、何よりもただ力を抜いて、主の愛の語りかけに「耳を傾ける」ことではないでしょうか。

 

1. 「聞きなさい!

これは・・おきてと定めである(6:1)と言われる基本は「十のことば」であり(参照5:1)、そこに、「聴け、イスラエルよ。行えるように注目しなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり・・・乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」(6:3私訳)という約束が伴っています。

しかも、命令の内容は基本的に出エジプト記やレビ記の繰り返しで、強調点は新しい環境の中にそれを適用するということです。神は、イスラエルの民を偶像礼拝で退廃したカナンの地に遣わされましたが、同じように、私たちをも、「地の塩、世界の光」として、罪に満ちた世界に遣わされ、そのただ中でなお、真の自由と喜びを体験させたいと願っておられます。

 

「聞きなさい。イスラエル。主(ヤハウェ)私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとり(唯一)である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(6:4、5)は、ヘブル語で「シェマー・・」と発音され、現在も敬虔なユダヤ人は4-9節のことばを毎日繰り返します。

二世紀、ユダヤ独立のために戦ったラビ・アキバは、エルサレム神殿滅亡後のユダヤ教の基礎を作った学者ですが、ローマ軍の拷問を受けるただ中でこの日課祈祷の時刻を迎え、満面の笑みを浮かべつつ堂々とこれを朗唱しました。

ローマ帝国の役人が驚いてその理由を尋ねると、彼は、「私は毎日これを唱えながら、自分がいのちをかけて主を愛しているかの確信が持てなかった。しかし、今、それが分かった。こんな嬉しいことはない。どうして笑わずにいられよう」と答え、息を引き取ったとのことです。

この話は、今に至るまで語り継がれています。敬虔なユダヤ人は、このみことばを唱えるただ中に真のたましいの自由を味わうことを理想としています。

 

イエスも、「すべての命令の中でどれが一番大切ですか」と尋ねる律法学者に、敢えてこの冒頭のことばを入れつつ、「イスラエルよ。聞け(シェマー)。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と引用しながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と並べて、これこそ律法の核心であると答えられました(マルコ12:28-31)。

 

ところで、「(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとりである」において、「ひとりである」は、マルコの訳のように「唯一である」と訳した方が良いかもしれません。これはイエスや聖霊が神であるということと矛盾するものではなく、御父、御子、御霊の三者が完全に一致して、ひとつの意思のもとに私たちを愛してくださるという意味に解釈できるからです。

三位一体の説明は英語で、God Is One in Essence, Yet Distinguished in Three Persons (神は本質において唯一であるが、3人格に区別される)と説明されますから、one personを思い起こさせる「ひとり」という訳は誤解を生みやすいかと思われます。

 

とにかくこの意味は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(5:7)という「十のことば」の言い換えに過ぎないとも言えましょう。

実際パウロは、この箇所のことばを用いながら、「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。

また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」(Ⅰコリント8:5,6)と言い換えました。

ギリシャ語聖書では、神の固有名詞ヤハウェはキュリオス(主人)と読み替えられますから、申命記6章4節の「神」を「父なる唯一の神」と呼び換え、(ヤハウェ)を「唯一の主なるイエス・キリスト」と呼び換えたと解釈できます。

ヘブル語の神の固有名詞ウェに主イエスを当てはめるというのは、まさにイエスこそウェであるという告白で、当時のユダヤ人にとっては途方もない神への冒涜と思えたことでしょう。

これこそ、新約の時代における「シェマーの祈り」ということができますが、その革新性を私たちは認識する必要があります。

 

私たちの周りには余りにも多くの情報がありますが、「聞きなさい!」という主の呼びかけに応答して、ただ静かに力を抜いて心を開き、旧約と新約の「シェマー」が、私たちのからだ全体に染み渡り、広がるのをただ味わってみるべきでしょう。

私たちの神は、御父、御子、御霊の三人格において存在し、あなたをその三者の愛で取り囲み、あなたの地上の歩みを祝福してくださるのです。

 

2. 「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい・・あなたの心に刻みなさい」

続く命令は(6:5)、原文の語順では、「愛しなさい。主(ヤハウェ)を、あなたの神を。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」と、ひとりひとりに個人的に語られていることばです。

そしてその後、三回の「尽くして(すべての・・をもって)」ということばによって、その際の「愛し方」が教えられています。

 

第一の「心を尽くし(主を愛しなさい)」での「心」は、「心情」とも訳せる言葉で、「真心から・・」というばかりか、「腹の奥底から湧き出る情念全体で、主を愛せよ」との命令です。

 

第二の「精神を尽くし(主を愛しなさい)」での「精神」とは、「たましい」とも訳され、主が最初の人(アダム)の鼻にいのちの息を吹き込まれて「人は生きもの(たましい)となった」とあるように、人を人として成り立たせる根本を指します。つまり、「いのちがけで主を愛せよ」という意味です。

 

第三の「力を尽くし(主を愛しなさい)」は翻訳困難で、マタイは「知力を尽くし」(22:37)と訳し、マルコは「知性を尽くし、力を尽くし」(12:30)、ルカは「力を尽くし、知性を尽くし」(10:27)と訳しています。

このことばは、「それ(神の六日間の創造のわざ)は非常に良かった」(創1:31)での「非常に」、また申命記6章3節で「あなたは乳と蜜の流れる国で大いに増えよう」での「大いに」などと同じです。

つまり、これは「言い尽くせないほどに主を愛せよ」という意味なのです。あの優しいイエスでさえ、弟子に向って、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません」(マタイ10:37)と言われるほどに、ご自身への真実の愛を求められました。

神への愛は、いかなる恋愛の力にも、親子の情にも勝るべきものなのです。

 

続くことば、「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心(心情)に刻みなさい」(6:6)とは、「十のことば」が石の板に記されたように、この日モーセを通して語られることばすべてが彼らの「心情に」の中に常に在り続けるようにとの命令です。

人は理性よりも感情に動かされる傾向があります。ですから、みことばは、理性と心を超えた、腹の底に落ちる必要があります。

またそれは、「子供たちによく教え込み(刷り込み)なさい」(6:7)と命じられます。しばしば、子供時代の暗唱聖句が、ある日ふと心によみがえって自分を救ってくれたという証しを聞くことがあります。確かに、私たちは子供の主体性を大切にしなければなりませんが、みことばは、文字や九九のように心に刻み込むことが大切なのかもしれません。

 

さらに、「あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」(6:7,8)と命じられます。

ユダヤ人は後に、これを文字通りに解釈して、4-9節の「シェマーの祈り」を書いた紙を小箱に入れて持ち歩き、その頭文字を記章として額に置いたり、門柱に書き記したりしました。

テレビのコマーシャルは人の無意識に作用して消費行動を起こさせると言われます。同じように、私たちは知らないうちに「この世の常識?」に洗脳されているのではないでしょうか。

もちろん、みことばは文脈から理解されることが大切ですが、それと同時に、「これこそ教えの核心!」と言われるようなみことばが、あなたの無意識のレベルにまで降りて、あなたを神への愛に動かすようになる必要もあるのではないでしょうか。

 

3.「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように・・

イエスは公生涯の初めに四十日間、悪魔の試みに会われましたが、ご自身の心に刻み込んでいたみことばをもって悪魔に勝利しました(マタイ4:1-11)。その際のみことばがこの6章と8章にあります。

 

悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、「この世のすべての国々と栄華を見せて」、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と誘惑しました。

歴史上の独裁者は、みなこの誘惑に負けた人々と言えましょう。彼らは多くの場合、社会の様々な不条理に心を痛め、理想的な国と造りたいと熱い情熱に駆られて権力を握りましたが、そのとたん、そこに人間的な驕りが生まれます。

 

モーセはイスラエルの民が約束の地に入った時のことを心配し、「あなたの神、主(ヤハウェ)が・・・大きくて、すばらしい町々・・・ぶどう畑とオリーブ畑、これらを・・・与え、あなたが食べて、満ちたりるとき・・気をつけて・・・主を忘れないようにしなさい」(6:10-12)と命じられました。

そこには、国の繁栄と安全を守るためなら、手段を選ばないという誘惑が働きます。それこそ悪魔と手を結ぶことです。

しかし、その時こそ、イエスが引用されたように、「あなたの神、主を恐れ(拝ま)なければならない。主に(だけ)仕えなければならない」(6:12,13)という原点に立ち返る必要があります。

彼らに国と繁栄を与えたのは主ご自身であるのにそれを忘れるのです。この世のすべての権力は、創造主ご自身の支配下にありますが、それを忘れる時、恐怖政治が生まれます。

私たちも経済的な繁栄に浸りきる中で、富への執着が増し加わり、主(ヤハウェ)のご支配を忘れ、目的のために手段を選ばないような乱暴な生き方を正当化する可能性があります。

 

また悪魔がイエスを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら下に身を投げてみなさい」、「神は御使いたちに命じて・・あなたを支えさせ・・・」、「と書いてありますから」と誘惑しましたが、これも人間的に考えれば、私たちの信仰の力を世の人々にアピールする絶好の機会とも言えましょう。

そのときイエスが引用されたのは、6章16節のことばでしたが、そこには「マサで試みたように、あなたがたの神、主(ヤハウェ)を試みてはならない」と記されていました。

それは出エジプト記17章1-7節の出来事で、イスラエルの民は、「飲む水をくれ」とモーセと争い、「(ヤハウェ)は私たちの中におられるか、おられないか」と言って、「(ヤハウェ)試みたと非難されていました。これは、神がご自身の力を現さざるを得ない状況を自分で作って、神を操作することです。

そこにあるのは、神のみこころに従う代わりに、自分の願望を神に押し付けることでした。それに対しここでは続けて、「(ヤハウェ)正しい、また良いと思われることをしなさい。そうすればあなたはしあわせになり・・あなたの敵は・・追い払われる」(6:17-19)と約束されていました。

神を試みて、神を操作しようとする代わりに、主のみこころに従おうとすることが「しあわせ」の鍵なのです。

 

7章では、約束の地に入ってから異教の神々を拝む者たちを「聖絶しなければならない・・・彼らと何の契約も結んではならない・・・彼らの祭壇を打ちこわし…彫像を火で焼かなければならない」(7:2,5)と命じられていました。

それは彼らが簡単に現地の偶像礼拝の文化に飲み込まれてしまうことを、主は知っておられたからです。日本の文化も、私たちの信仰を飲み込む恐ろしい同調圧力を持っています。

 

そこで、モーセは彼らの使命が、この世界に真の神を証しすることにあるということを思い起こさせるために、「主(ヤハウェ)は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)と言います。

そればかりか、「(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない・・・しかし、主(ヤハウェ)あなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主(ヤハウェ)は、力強い御手をもって・・・あなたを贖い出された」(7:7-8)と驚くべきことを言います。

小生は、モーセ五書を要約した本のタイトルをこのみことばから取らせていただきましたが、これこそ私たちが選びだされた根拠です。異教の文化と混ざってしまうことは、この主の召しの原点を軽蔑することになってしまうのです。

しかも、それと、「全身全霊で主を愛する」こととは表裏一体のことですが、それは、私たちが誇れるような「働き」ではなく、神がまず私たちを「愛し」、「恋い慕って」くださったことを覚えることから生まれる当然の「応答」なのです。しかもそこから、その応答を神が喜んでくださり、神はなお豊かな恵みを注いでくださるという好循環が始まります。

 

そして8章には、パンの誘惑に関わる記事があります。イエスが「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」とき、悪魔は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と誘惑しました。「パン」は生きる力を生み出す源で、現代は「お金」とも言えましょう。これこそ、イエスが神の子であることの最高の証明にもなり得るはずです。

それに対し主はこの8章3節から、「人はパンだけで生きるのではない、人は(ヤハウェ)の口から出るすべてのもので生きる」と引用されました。イエスが四十日間断食したことは、主がイスラエルの民を「四十年の間…荒野で…歩ませられた全行程を覚え」ることと重ねて理解する必要があります(8:2)。

彼らはその荒野の生活を通して、目に見えるパンよりも、「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」(民数記9:23)なかで、すべての必要が満たされるということを体験したのでした。

そこで主は、あえてイスラエルの民を「苦しめ、飢えさせて・・・マナを食べさせられた」のですが、それは、目に見えるパンよりも、主の口から出るみことばによって生きるということを体験させるために、「人がその子を訓練するように、あなたの神、主(ヤハウェ)が・・・訓練されることを、知る」ためでした(8:3、5)。

 

このことを振り返りながら、モーセは、「主は・・マナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった── あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」(8:16,17)と警告します。

私たちも、苦しみの中で主に真剣に助けを求めながら、物事がうまく行った途端、自分の力を誇ってしまう傾向があります。「豊かさ」の中に罠があり、人生が一見順調と思われることの中に大きな危険が隠されています。

だからこそ、モーセはここで続けて、「あなたの神、(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」(8:18)と命じます。

(ヤハウェ)を心に据える」とは、主の真実をいつでもどこでも「思い起こし」続けることです。それは私たちが日々の生活の中で常に実践すべき第一のことでもあります。

 

「恩知らず」な生き方は、人間関係を壊すばかりか、神との関係にも障害を引き起こします。それでモーセは続けて、「あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる」(8:18、19)と警告します。

神の恵みを忘れるなら、すべてを失うのです。ですから、神はしばしば、私たちが恵みを自覚できるように、まず「苦しめ、試み」、その上で「しあわせにする」というプロセスを敢えてとられるのです。

 

人はだれしも、幸せになりたくて神を求めます。しかし、聖書は、「自分を忘れるほどに主を愛するなら、あなたは幸せになる」と語ります。

パリサイ人はそれを誤解し、神を愛する「自分」に目を向けてしまいました。私たちも、神の愛を「聞く」ことが足りないなら同じ過ちに陥ります。

パウロは、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)と言いましたが、それは、「神の律法を自分の力で守ろうとして自分を忘れられないなら、必ず行き詰まります。しかし、神のみわざに注目し、神の御霊にこころを明け渡すなら、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けます」(E.Peterson訳参照)と意訳できます。

また、昔の英語の賛美歌に、「not I,but Christ」(私ではなく、キリストが)という題名のものがありましたが、そこでは、「O to be saved from myself, dear Lord」(どうか私が自分自身から救われますように、いとしい主よ)と歌われています。つまり、主を愛するとは、自分自身から救われる道なのです。

 

イエスが受けた誘惑はすべての人が受ける誘惑の原点でもあると言われます。それは、権力、名声、富の誘惑であるとも言われます。私たちもみことばを暗唱し、心に刻むと同時に、それによってサタンの誘惑に打ち勝ったイエスご自身の聖霊に、私の人生を生きていただく必要があります。

それと同時に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・御子を遣わされた。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)とあるように、神の愛を心の底から味わい、聖霊の働きによって律法を全うさせていただきましょう。

|

2016年9月11日 (日)

ヨハネ15章1-11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」

                                                  2016911

  あなたは「私なんか・・・」などと、自分で自分に限界を設けたり、自分の信仰を恥じたりして、ぶどうの枝でありながら、木からの養分を差し止めようとしてはいないでしょうか?

ぶどうの木につながろうと必死になるよりも、すでにぶどうの木の枝とされているという圧倒的な恵みをまず覚えるべきでしょう。

 

1. わたしはまことのぶどうの木です。

   イエスは、最後の晩餐の後、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒たちに向かって、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(1)と言われましたが、その旧約聖書的背景を知るなら心が感動で震えることでしょう。

当時のイスラエルの民は、「ぶどうの木」ということばを聞くと、すぐにホセア101節以降を思い起したと思われます。そこでは、「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多くの木を結ぶにしたがって、それだけ祭壇を増やし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる」と記されていました。

 

これはイスラエルの豊かさが仇になって、偶像礼拝に走り、父なる神にさばかれることを描いたものです。

それに対しイエスはご自身を、滅びに至る「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」としての「新しいイスラエルとして提示され、それにつながる弟子たちに対して、「あなたがたが多くの実を結び・・・あなたがたの喜びが満たされる」(811)という、逆転の祝福を約束してくださいました。

 

イザヤ5章では、主(ヤハウェ)がご自分をぶどう畑の農夫にたとえて、「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるか」(4)と問いかけられます。

それは、主ご自身が、「よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた・・そこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、そこにやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた(12)と、イスラエルが豊かな実を結ぶことができるためにあらゆる準備をしてくださっていたからです。

ところがそれにも関わらず、「酸いぶどうができてしま(2)いました。それは決して農夫の責任ではありません。放蕩息子のたとえにあるように、どのようなすばらしい親のもとにも、放蕩息子が育ってしまうことがあります。子育ても、教会の信徒教育も、原因結果の論理を超えて、労苦とは正反対の実を結ぶことがあります。

 

問題の根本は、イスラエルの民がアダムの子孫であったことにあります。アダムはエデンの園において、圧倒的な恵みの中に置かれながら、「善悪の知識の木」に目を奪われ、蛇が、「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、神のようになる」と言ったことばに従ってしまいました。それ以来、人は恵みを受ければ受けるほど、「もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに」と、自己中心的な成長の誘惑に身を任せてしまいました。

それに対し、イエスは、新しい神の民、まことのイスラエルとして、神の民をこの滅びの悪循環から救い出そうとしてくださいました。イエスはこのたとえで、ご自分を神が望まれる「甘いぶどう」(イザヤ5:2,4)の実をならせる「まことのぶどうの木」であることを強調しながら、同時に、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です(5)と言われました。

木と枝は区別がつけがたいもので、旧約ではそのように区別するたとえはありません。主はご自身と私たちを一体として見ておられたのです。私たちは、もはや、「酸いぶどう」を成らせるぶどうの木の一部ではなく、「甘いぶどう」を成らせる木につながっているのです。そして、これを知ることは、私たちの信仰生活に革新をもたらします。

 

   今から150年ほど前、ハドソン・テーラーは中国奥地伝道を始めました。彼はキリストにまねることに必死でしたが、本格的な伝道団を始めて間もなくの頃の日記には「毎日、罪と失敗と力の欠乏が記録されるばかり」でした。

しかし、37歳になったある時を境にして、キリストに生きていただくという解放感に満たされました。彼は「ぶどうの木と枝のことを考える時、祝福の聖霊は何とすばらしい光を私の魂に注ぎこまれたことだろう・・・私は、私が主のからだの一部分であることを知ったのだ!・・・よみがえり、昇天された救い主と真実に一体であること、キリストの枝であるのは、何とすばらしいことか!・・・キリストが富んでおられ、私が貧しいということがありえようか。頭が十分に養われているのに、からだが飢えているということがありえようか」と記しています。

自分の努力によって、キリストのようになろうともがくことは、かえって自意識過剰の悪循環に陥ります。成長を自分で計って、「私って、なんて偉いんでしょう・・」と誇るか、反対に、「私なんて、生きている価値もない・・・」と自己嫌悪に堕ちるかのどちらかになることがあります。自分を忘れて、イエスだけを見ることができるようになることに真の救いがあります。

 

旧約のイスラエルは神の恵みを受ければ受けるほど、自分の美しさに酔いしれ、他の神々を恋い慕うようになり(ホセア2:13)「甘いぶどう」の実をならせる代わりに「酸いぶどう」の実を結びました。

それに対して、神はその結果を深く嘆きながら、「その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく」(イザヤ5:4-6)と言われます。彼らは偽りの神々に向かって根を伸ばし、自滅したぶどうの木だったのです。

それに対して、イエスは、「わたしこそ、豊かな実を結ぶ、まことのぶどうの木、まことのイスラエルである」と宣言されたのです。

 

そして、イエスが、「わたしの父は農夫です」と言われたのは、御父との親密な交わりを述べ、ご自身が、決して捨てられることのない「ぶどうの木」であることを証しするためでした。

しかも、ここでも、「ぶどうの木」であるイエスご自身に求められていることは、ご自分が実を結ぶように、何かの努力をすることではありませんでした。ただただ、御父が良いぶどうを成らせる農夫としてなしてくださる働きに身を任せていればよかったのです。

そして、イエスご自身が御父の愛に身を任せておられたように、私たちもぶどうの木の一部とされた者として、御父と御子との愛の交わりの中に、身を置いていれば良いのです。

 

旧約で常に、木と枝が一体で描かれていたように、私たちは、まことのぶどうの木の一部とされたことによって、豊かな実を結ぶことができます。

必要なのは、何よりもこの新約における圧倒的な恵みを思い起し、感謝することです。人にはできないことを、父なる神と御子イエスがなしてくださったのです。

 

2. 「あなたがたは、わたしが話したことばによって、もうきよいのです。」

   イエスは続けて、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます(2節)と言われました。

取り除き」と訳された言葉は、「持ち上げる」が中心的な意味です。生まれたばかりの枝は、そのままにしておくと垂れ下がり、地面に沿って伸び、葉が土にまみれて、枝全体が日陰に入り実を結ばなくなります。それで、枝を持ち上げてよく洗って、つる棚に巻きつけるか結ぶというのです。

刈り込む」とは、実を結ぶ枝の余計な部分の刈り込みをしなければ、葉ばかりが茂って、実が小さくなることへの対策です。これは、「私は実を結ばない枝として取り除かれるかも知れない」などという恐れを抱かせる表現ではありません。

 

イエスはすぐに、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです(3)と言われますが、「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます(2)とあったのは、一般的な「刈り込み」という動詞ではなく、この3節の「きよい」の動詞形が用いられています。それは、御父がイエスを通して語ってくださった「ことば」によって「きよい」ものとされているというのです。

先の「持ち上げる」はギリシャ語でアイレイ、「刈り込む」はカタイレイ、「きよい」はカタレイと記され、ある意味での言葉遊びが見られます。「持ち上げる(取り除く)」も、「刈り込む」もすべて「きよさ」につながるのです。

 

あなたの心の奥底にイエスのみことばが響き、自分の罪を認めたこと自体が、神の刈り込みのみわざです。私たちは、自分中心の生き方を改め、イエスを主と告白したことによって、「もうきよい」と宣言されています。

ですから、私たちが受ける「刈り込み」とは、心の動機がきよめられることを意味します。私たちは自分の願望がかなえられたときに、「祈りが聞かれた」と言いがちですが、それは大きな間違いです。

祈っても願いどおりに行かないことを通して、私たちの願いと神の願い(みこころ)が調和されて行くのです。それは、有名な米国の南北戦争の無名の傷病兵の祈りにある通りです。

 

「大きなことを成し遂げられるように力を求めたのに、謙遜に従うようにと弱くされた。

偉大なことができるようにと健康を求めたのに、より良いことができるようにと病弱さを授かった。

  幸せになれるようにと豊かさを求めたのに、賢くなるようにと貧しさを授かった。

  人々の称賛を得られるようにと権力を求めたのに、神の必要を覚えるようにと弱さを授かった。

  人生を楽しむためのすべてを求めたのに、すべてのことを楽しむようにといのちを授かった。

  求めたことは何一つ得られなかったのに、心で望み続けていたことはすべて与えられた。

  こんな自分であるにも関わらず、ことばにならない私の祈りはすべてかなえられた。

  私はすべての人々の中で最も豊かに祝福されたのだ。」

 

  イエスの命令は、「わたしにとどまりなさい(4)です。それは、「わたしの愛の中にとどまりなさい(9)とも言いかえられます。

そして、ここではイエスご自身が、「わたしも、あなたがたの中にとどまります」と約束された上で、「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と説明されます。

私たちの問題は、恐れや寂しさに耐えきれなくて、始終動き回って何かをつかみとろうとし、「とどまる」ことを止めてしまうことです。獲得しようと頑張る中で、既に与えられている恵みが見えなくなります。

 

   ハドソン・テーラーは、ほとんど何の経済的保証もない中で、ただ主に信頼し、働き続けたような人でした。しかし、彼は記しています。

「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と。

そのような絶望を味わっていた時、友からの手紙が届きます。そこには、「信仰を強められるため、どうしたら良いのだろう。それは信仰を求めて努力するのではなく、忠実なお方によりかかることだ」と記されていました。

その時彼は、「私にはすべてが分かった。『たとい、私たちは不真実であっても、彼は常に真実である(Ⅱテモテ2:13)。私は主を仰ぎ、『決してあなたを見捨てない(ヘブル13:15)と言われる主を見た!」と感動を味わい、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2:20)という信仰の事実の中に憩うことができたのです。

 

   比較するのも恐れ多いことですが、私も同じような体験をしました。自分の不信仰、祈りの浅さに悩み、カナダのフーストン師を訪ね相談した時、先生は「それなら祈るのをやめたら良い」と言われました。そのとたん、私は「自分のうちで祈りを導いてくださる御霊の働き」に目覚めました。それ以来、祈ることが、ずっと楽になり、喜びとなりました。

なおも、私は「イエスを求める動機が純粋ではなかった」と恥じていましたが、それは、何よりも、私の信仰が自分の誠実さではなく、神の一方的なあわれみから始まっていることの証明となりました。

振り返ってみると、自分が心の奥底で何を望んでいるかも分からないような私をあわれんで、イエスが語りかけ、私のうちにイエスへの信仰を「創造」してくださいました。その信仰を恥じるなど、まさに本末転倒です。

イエスが、「わたしが・・話したことばによって」(3)とあるように、信仰の始まりはキリストの愛の語りかけに心を開き、やすらぎ憩うことです。ぶどうの枝は、木から養分を受けようと必死になりはしません。枝を通して実をならせようとする木の力に身を任せているだけなのです。

 

3.「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる」

さらにイエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです(5)と言われました。

既に述べたように、「枝」である私たちは「ぶどうの木」の一部とされているのです。問題は、この世の基準で自分を測り、イエスにつながることなしに何かができると錯覚してしまうことです。

自分の弱さや愚かさを恥じる必要はありません。私たちは自分が、すでに豊かな実を結ぶと保障されたぶどうの木の一部とされているということ自体を喜べばよいのです。そのとき、イエスご自身が私たちの「中にとどまる」と約束されましたが、それをイエスは7節で、「わたしのことばがあなたがたにとどまる」と言い換えられます。

それは具体的には、イエスがあなたに語られた主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)(詩篇1:2)ことを実行することです。

 

一方、6節では、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と、恐ろしいことが記されますが、これは最初に述べたように、「すいぶどう」を成らせたイスラエルの悲劇を指し、同時に、神から独立して生きようとするすべての不信者に対するさばきでもあります。

それが記されているのは、「まことのぶどうの木」であるイエスにつながっていることの圧倒的な恵みを逆説的に思い起こさせるためです。

 

詩篇80篇でもイスラエルが「ぶどうの木」として描かれます。その8節では、「あなたはエジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました」と言いつつ、その後の「ぶどうの木」の繁栄と、それによって周辺諸国がぶどうの実を奪い取るようになった様子が描かれます。

イスラエルは、繁栄の中で近隣諸国の偶像礼拝にならうようになり、それがまた近隣諸国の侵入を招くようになって、最終的に国が滅亡します。

そのような中で詩篇作者は、「万軍の神よ。どうか帰って来てください・・・そして、このぶどうの木を育ててください」とすがりました。

そして今、イエスを通して神がイスラエルに帰ってきて、まことのぶどうの木であるイエスのみからである教会を育ててくださるのです。

 

そのような中で「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます(7)と約束されます。それは、みことばによって私たちの願望が聖められた結果と言えましょう。

ハドソン・テーラーは、その後、神に大胆に宣教師を起こして下さるように祈り続けました。そして、それから三十年後、イエスが彼を通して始めた宣教団は750人の宣教師を遣わすようになっていました。いつも経済的には綱渡り状態でした。しかし、イエスは不思議な形で必要を満たし続けて下さいました。

 

イエスはさらに、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(89)と言われます。

ここで「多くの実を結ぶ」とは、キリストの弟子となっているなら必然的に起こることであって、それは私たちの栄光ではなく、御父の栄光になることであるはずです。

しかも、イエスが約束された「多くの実」は、目に見える数字で表わされるとは限りません。いや、そうならない方が多いと言えましょう。数字は魔力を持つからです。

大切なのは、父なる神が「栄光をお受けになる」ことが、「あなたがた」「弟子たち」によってなされるという複数形に目を向けることです。

イエスの「愛の中にとどまる」とは、10節にあるように「イエスの戒めを守る」ことです。それは何よりも弟子たちが互いに愛し合うことです。つまり、「多くの実を結ぶ」とは、キリストにある愛の交わりが成長することに他なりません。

そして、互いに愛し合う交わりは、周りの世界の人々を次々と引き寄せます。それが結果的に、数的な教会の成長につながることがありましょうが、あくまでも問われるのは、愛の交わりの質です。

 

十二弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、お金に表現される数字の世界に心が奪われました。そして、自分から「まことのぶどうの木」であるイエスを離れることを願ってしまい、6節にあるように自分を「枯れ」させ「火に投げ込」まれる「」としてしまいました。

なお、ここでの「投げ捨てる」と、2節で「取り除く」とも訳されている言葉はまったく異なります。イスカリオテのユダは、イエスを利用することばかりを考えていたのであって、イエスに本当の意味で結びついてはいませんでした。彼はイエスに頼らず自分の力で生き、自分の願望に縛られていた見せかけの信者でした。

多くの木の枝は、切り取っても何かの役に立ちます。しかし、ぶどうの枝だけは何の役にも立ちません。それは焼かれるしかないのです。

 

ぶどうの木」であるイエスが、「枝」である私たちを通して生み出して下さる「実」には様々なものがあり、比較はできません。ただ、例外なく生み出されるのは、イエスが「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる(11)と言われた現実です。

必要なのは、あなたの目を、実ではなく、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)と言われるイエスに向けることです。

主はここで、「多くの実」とは何かについての明言を避けておられます。それは、私たちが「」を比較する誘惑に陥りやすいからではないでしょうか。

確かに、私たちの信仰は、「実」によって判断される面があります。しかし、良い「実」をならせるのは「」ではなく、「木」の働きです。「枝」である自分を忘れて、「」であるイエスを見上げることこそ真の信仰です。

|

2016年9月 4日 (日)

申命記4,5章「そうして、永久にしあわせになる」

申命記 4,5章「そうして・・永久にしあわせになる」

         201694日 

   NHKの大河ドラマや朝ドラに歴史上のクリスチャンが頻繁に登場します。みんなから好かれる人格者がほとんどです。それなのに、クリスチャン人口が増えないのはどうしてかといぶかしく思えるほどです。日本での宗教の役割は、人を謙遜で柔和で忍耐心のある人格者に育てることにあると見られがちですが、そこで問題なのは、人々の目が、神ご自身ではなく、神を信じる個人に向かうことです。

それに対し、聖書の物語は違います。その中心はイスラエル民族の物語ですが、読者はヤコブに始まる民の狡猾さ、身勝手さ、心の弱さに唖然とするのではないでしょうか。そしてそれこそ、聖書の醍醐味です。神はこのように問題に満ちた民を用いてご自身の愛とあわれみを知らせようとしたということです。

そのことを使徒パウロは、「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました・・・これは、神の御前でだれをも誇らせないためです(Ⅰコリント1:27,28)と記しています。

 

   神は欠けだらけの人を敢えて選び、用いることで、世にご自身の知恵と力を示そうとしておられます。

先日、59歳の若さで天に召されたY兄はシンガポールのビジネスマンの家庭集会等を契機に信仰告白に導かれ、日本的「敬虔なクリスチャン」のイメージを超越した方でしたが、同地の日本語教会が無牧であった期間、献身的に教会を支えて来られました。

彼のお宅では毎週、祈祷会が開かれ、みことばが分ち合われていました。何よりも自分が陰に隠れて数々の霊的指導者を立てながら、日本的な組織の枠を超えた交わりを支えて来られました。仕事では部下を厳しく指導する方で、帰国後はその大手の会社の役員になっていました。その葬儀に、幅広い教会関係者や仕事の同僚など延べ600人もが参列しました。

申命記46-8節では、イスラエルの民が「偉大な国民」と呼ばれる理由が、「(ヤハウェ)は・・・呼ばわるとき、いつも近くにおられる」「この御教えのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っていると描かれています。

つまり、私たち自身の人格や能力が評価されるのではなく、私たちの祈りを聞いてくださる神とその御教えのすばらしさが、神の民の共同体を通して証しされるというのです。自分の人格を通して神のすばらしさを証しするなどと考えると息苦しくなりますが、Y兄にはそれを超越した自由がありました。

 

 <「十のことば」の背景と「神のかたち」の意味> 

聖書は基本的に、モーセとそれに続く預言者を通して語られた記録ですが、十のことば(4:13)だけは神が直接に天から国民全体に語りかけたものです。

モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に約40年前にそれを受けたときのことを思い起こさせ、山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主(ヤハウェ)は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった・・主はそれを二枚の石の板に書きしるされた」(4:11-13)と言います。

つまり、神はご自身の御姿を暗黒の中に隠し、ことばだけを啓示されたのです。

 

それゆえ、「自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も・・」(4:16、17)と強調されます。また、「日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい」(4:19)とも言われます。天地万物の創造主を被造物の姿で現すこと自体が、何よりも神を辱めることになります。

同時に、「(ヤハウェ)はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた」(4:20)と改めて記されます。彼らが人々から軽蔑されていた民であるからこそ、彼らが約束の地で繁栄する時に、それは人の力ではなく、イスラエルの神のみわざであることを周辺の国々が認めざるを得なくなるという意味です。

神は、だれの目からもひ弱な民族集団を敢えて選んで、「偉大な国民」にしようとしてくださったのです。この並行記事こそ出エジプト記19章5,6節で、そこでは、「わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる・・・わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されていました。

 

なお、「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創1:27)とあるのは、神がご自身の栄光を目に見える人間を通して現すという意味でした。そのため、主はイスラエルを選ばれました。

彼らの共同体こそが、神の栄光を現す目に見える存在だったのです。ですから彼らが神の栄光を目に見える被造物として現すことは自分で自分の使命を否定し、自分の存在の意味を自分で消し去ることを意味しました。

 

その上で彼は、「何かの形に刻んだ像を造り・・御怒りを買うようなことがあれば・・ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる・・・主(ヤハウェ)はあなたがたを国々の民の中に散らされる」(4:25-27)と警告します。神を偶像で現すことこそが、七百年後のバビロン捕囚とその後の悲劇の原因だというのです。

彼らはそこで、「人間の手で造った、見ることも、聞くこともできず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える」(4:28)と言われます。「見ること・・」などの能力は「神のかたち」の一部ですが、神を何もできない偶像に現すことで、自分自身を何もできない偶像と同じ姿に貶めることになるというのです。

ただ彼らは、そのどん底で初めて、「(ヤハウェ)を慕い求め、主に会う」という回復への道を歩み出せます(4:29)。それこそ放蕩息子のたとえの原点です。そしてそこで彼らは初めて「心を尽くし、精神を尽くして・・・主(ヤハウェ)に立ち返り、御声に聞き従う」ように変えられます(4:29,30)。

そこでは、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず・・滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない」(4:31)という救いも保証されます。その「契約」がキリストにあって成就するのです。

神のご計画は不思議です。イスラエルの悲劇は、目に見えない神を見えるようにする偶像礼拝から始まりました。しかし神はご自身の御姿を、人となられたイエスを通して現してくださったのです。

 

<「主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ」>

 さらにモーセは、「さあ・・尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた・・・これほど偉大なことが起こったであろうか・・・あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

あるいは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)が、エジプトにおいて・・・なさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか・・・このことが示されたのは、(ヤハウェ)だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るため」(4:32-35)と語ります。

 

   つまり、イスラエルの民の偉大さは、主の御声を直接に聞くことができたことと、主の一方的なあわれみによって「ご自身のものとされた」ことにあるのです。そのことが4章36節以降で再び記されます。

そこでは、「主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中から、あなたは、みことばを聞いた」と言われます。彼らは、主の圧倒的なみことばを聞き、そのことばに動かされることによって、約束の地にエデンの園の祝福を回復できるはずだったのです。

主のことばに反抗したアダムの子孫を、主のことばに従う者へと変えることが、主が彼らを「エジプトから連れ出された」目的でした。彼らは主のことばに動かされることによって、自分たちよりも「大きく、強い国々を・・追い払う」ことができます。それが、「神のかたち」として生かされ、主の栄光を全世界に証しする歩み方でした。

 

また、主ご自身が「天から」直接に語りかけたという事態の中に、彼らとの親密な交わりを求める神の熱い思いが見られますが、その目的は、「あなたも・・後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主(ヤハウェ)が永久にあなたに与えようとしておられる地で・・長く生き続ける(4:40)ことにありました。

私たちはこれを十の「戒め」などと呼び、罪深い自我を矯正し、さばきの根拠を示すという面ばかりに目を向け、ここに人の「しあわせ」を切望する、神の燃えるような愛が表わされていたことを忘れてはいないでしょうか。

 

   さらにモーセは、「(ヤハウェ)が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである」(5:3)と語ります。主はこの約四十年前に、彼らの父と契約を結ばれたのでした。しかし、彼はそれを今生きている人との契約として示します。

そして、主は、それから三千数百年後に生きる私たちとも、この契約を結んでおられるのです。それは今新しい契約」と呼ばれますが、それは契約の内容が変わったのではありません

「新しさ」とは、「石の板にではなく、人の心の板」に聖霊によって記される「与えられ方」にあるのです (Ⅱコリント3:3、エレミヤ31:31-33参照)

 

   私たちはモーセの時も、今も、主の御声によって動かされ、主のすばらしさを証しするようにと召されています。ですから、共に集まり、主の御声を聞くということがすべての出発点です。

その際、現代の時代には聖霊が与えられています。聖霊がみことばを心に刻みつけてくださいます。そのプロセスこそがすべての出発点です。それは、日々、主の御前に静まり、みことばを読み、祈ることを通して実現されます。

 

<前文> 「わたしは(ヤハウェ)あなたの神である」 (5:6)  神は、ご自身の名を、「わたしは『わたしはある。』という者である」と紹介しつつ、結婚の申込みのように、「わたしは、あなたの神」と直接に語りかけます。

そして、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」という具体的なみわざを思い起こさせて、ご自身の真実を示されました。「十のことば」の前文を省くことから、堕落した戒律宗教が始まります。

 

1.「あなたには、わたしのほか()に、ほかの神々があってはならない(5:7)   これは、愛の語りかけであり、結婚の際、浮気をしないと誓わせることと同じです。

私たちも、主(ヤハウェ)を信じると言いながら、「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)などを、主との交わりよりも優先することがあります。

 

2.「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない・・・」(5:8)   「偶像」は「イメージ」とも訳されます。夫婦関係は、自分の理想のイメージを相手に押し付け、あるがままの姿を認め合わないことから破綻します。偶像を作るとは、神をあなたの身勝手な理想のイメージに作り変えることに他なりません

4章からの文脈では、これこそ「十のことば」の核心と言えます。それは神に「聴く」ことを阻む行為だからです。

 

拝んではならない、仕えてはならない」と命じられた後、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と繰り返され、「ねたむ神」(5:9)と付け加えられます。「ねたみ」は激しい情熱です。神は愛の交わりを切望されるからこそ、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と警告されます。実際、親の生き方の歪みは孫の代まで及ぶものです。

ただし神は、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」との対比を見せ、祝福は、数万年後にまで受け継がれると約束されました。

 

3.「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない(5:11)  この解釈から、御名が「(アドナイ)と呼び変えられ、大贖罪の日に大祭司が一度だけ、ヤハウェと発音したと言われます。

ただ、中心は「誓い」の際、「むなしく、わざとらしく」御名を用いることの禁止でした(レビ19:12)。イエスも、「『主よ。主よ。』と言う者が天の御国に入るのではなく・・」(マタイ7:21)と言われ、軽々しく御名を持ち出すことを戒めました。

 

4.「安息日を守って、これを聖なる日とせよ(5:12)  これは肯定命令であり、これに最も多くの解説が加えられています。

出エジプト記では、「それは(ヤハウェ)が・・七日目に休まれたから」(20:11)と説明され、神が休まれたから神に似せて造られた人も休むべきであると、人としての尊厳思い起こさせます。人の価値が仕事の能力で計られる社会で、「どんな仕事もしてはならない」と命じられることは革命的です。

 

ここでは特に、「そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も・・・休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主(ヤハウェ)が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない」(5:14,15)と、出エジプト記と異なった説明が加えられます。

これは、神の救いのみわざを思い起こす日です。それで初代教会は安息日を主の復活の日に移動しました。同時にこの日は、奴隷のように今苦しんでいる隣人に休息を与えるという形で愛を実践する日です。ですから初代教会では日曜日ごとに豊かな食事の交わりがありました。イエスは、これを果たすべき義務としてより、やがて実現する真の安息の影として、喜び祝うように勧められました。

 

5.「あなたの父と母を敬え(5:16)  これも肯定形で、「第一の戒め(エペソ6:2)とさえ呼ばれ、人間関係の基盤です。

敬え」は、神を崇め、恐れることにも用いられる「栄光」と同じ語源のことばです。これは親の良し悪しや年齢に関わらず、無条件の命令で、ここでは「あなたの神、主(ヤハウェ)が与えようとしておられる地で、しあわせになるため」との約束が加わります。

確かに、親から虐待を受け、親から離れなければ自由になれない人もいますが、親を愛せないこと自体が何よりの不幸であることに変わりありません。

 

6.「殺してはならない」(5:17)  昔も今も、胎児や障害者、老人の命が軽んじられます。たとえ殺さなくても、誰にも「神のかたち」に創造された自分も他人をも、無用の存在と決めつけることは許されません。

殺人は、まず私たちの「心の中」で、「神のかたち」に創造された人間の価値を貶めることから始まります。

 

7.「姦淫してはならない(5:18)   当時のカナンの宗教の特徴は、神殿娼婦をはじめ想像を絶する性的退廃にありました。これは現代のカルトにも通じます。

イエスは結婚を聖別し、結婚以外でのすべての性的な交わりを姦淫の罪とされました。姦淫は、他者を自分の欲望達成の手段に貶めることだからです。

 

8.「盗んではならない」(5:19)  昔は、敗戦国の人の所有権が認められないのは当然で、権力者はしばしば民衆の財産を合法的に奪うこともできました。これは社会的な弱者の生存権を守る命令でした。

 

9.「偽りの証言をしてはならない(5:20)   当時は、少しの罪でも死刑になりましたから、偽りの証言は恐ろしい力を持ちました。現代は、うわさ話しによって、人の名誉を傷つけることが戒められるべきです。

 

10.「欲しがってはならない(5:21)  この命令は二回繰り返され、心の中の思いが問われます。パウロですら、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました(ローマ7:8)と告白せざるを得ませんでした。

エデンの園での罪は、「賢くするというその木はいかにも好ましかった(欲しがった)それで女はその実を取って食べ・・」とあるように(創3:6)、欲しがることが悲劇の原因でした。人は獲得することを喜びますが、イエスは、失うことの中での自由と祝福を保証してくださいました。

 

ところで、ここでは、出エジプト記で「隣人の家」と記されている所が、「隣人の妻」と記されます。一見、女性を「もの」と同列に扱っているようですが、この命令の背後に、女性を男性の欲求の対象にさせない神の熱い思いが見られます。

実際、一夫多妻の社会では、「姦淫の罪」でもっぱら女性が裁かれましたが(ヨハネ8:2-11「姦淫の場で捕らえられた女」の例)、イエスは「姦淫」をこの戒めに結びつけ、「情欲を抱いて(欲しがりながら)女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)と、女性の尊厳が守られるようにしました。

同じようにこの命令は、「殺す」こと「盗む」こと、「偽証する」ことの動機につながります。

 

  イスラエルの民は主の御声を直接に聞いて、死ぬほどおびえ、以後モーセを介して間接的にみことばを聞くことを願いました。

(ヤハウェ)は、それを「もっともである」と受けとめられ、「どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように」と言われます(5:28、29)。そこに神ご自身の祈りが込められています。

 

神は、私たちをご自身の花嫁と見られた上で、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられました。これこそ第一から第四の教えの要約です。

また、当時も、今の独裁国家でも、社会的弱者の生命、家庭、財産、名誉の権利が軽んじられましたが、神はご自身が神の民の王として、人と人とが愛し合う共同体を造ろうとされました。第四から第十までの教えのまとめが、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」です。

そして、安息日の教えはこの前半と後半に関わる「十のことば」結びの帯です。ただし、昔から、大切なものこそサタンの誘惑の餌食にされます。イエスの時代のパリサイ人たちは、この命令を、主への従順の度合いを測る厳しい尺度にしてしまいました。安息日が、「喜びの日(イザヤ58:3)ではなく、人を不自由にする厳しい「おきて」に変えられたのです。

それに対し、イエスは敢えて安息日に人を癒すことによって、安息日を「喜びの日」へと回復させてくださいました。そして、ユダヤ人に安息日の見直しを迫ったヘブル人への手紙49-11節では、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです・・・ですから、私たちは、この安息に入るよう、力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落伍する者がひとりもいないようにしようではありませんか」と特に記されています。

 

私たちは、安息日の度ごとに、「安息の完成の日」を待ち望むように召されています。イスラエルの民は、約束の地に「神の国」を建てることに失敗しましたが、私たちは神の霊によって「新しい天と新しい地」を待ち望みつつ、その「つぼみ」を目に見える共同体としてこの地に現すために招かれているのです。

 

主が祈りに応えてくださったという確信を深めること、また、主のことばが不思議に響いて来たという体験を思い起し続け、神の民として集められてともに喜ぶこと、それこそが私たちが「神のかたち」として成長する秘訣です。

その際、人の評価を意識すると、個々人をアイドル(偶像)にするという誘惑に陥ります。私たちの主は、当時の最高の文化人からは嘲りを受けたのに、日本で「敬虔なクリスチャン」と評価されるのは矛盾です。

主は私たちが「永久にしあわせになる」ためにご自身のみことばを授けてくださいましたが、それを守る個々人ではなく、神の民全体への愛に満ちた主の語りかけ自体に心を向けましょう!

|

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »