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2016年10月30日 (日)

ヨハネ15章9-25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」

ヨハネ15:9-25「イエスの友とされ、互いに愛し合う」

                                                20161030

多くの信仰者は、「私はイエス様を信じて、このように変えられました」と、自分が結ぶことができた「実」の現実から、イエスのすばらしさを証ししようとします。しかし、これはイエスご自身よりも自分に目を向けるという信仰の落とし穴にはまる危険があります。

「実」に関しては、徐々に当初のような結果が見えなくなるのは当然の成り行きですから、「私が昔のような実を結べなくなったのは、ぶどうの木であるイエスへのつながり方が悪いのでは・・」と、ますます自分に目が向かいます。それは怠惰な人ではなく、ハドソン・テーラーのような偉大な信仰者と称される人が陥った罠でもありました

彼はその時期の葛藤を、「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と記しています。

しかし、信仰とは、目に見える現実を超えて、神の愛の中に憩うことに他なりません。

 

彼は37歳になったある時を境にして、キリストに生きていただくという解放感に満たされました。

彼は、「ぶどうの木と枝のことを考える時、祝福の聖霊は何とすばらしい光を私の魂に注ぎこまれたことだろう・・・私は、私が主のからだの一部分であることを知ったのだ!・・・よみがえり、昇天された救い主と真実に一体であること、キリストの枝であるのは、何とすばらしいことか!・・・キリストが富んでおられ、私が貧しいということがありえようか。頭が十分に養われているのに、からだが飢えているということがありえようか」と記しています。

自分の目が、自分自身からイエスに向かうことに真の救いがあるのです。

 

ところで、友情は古代に称揚されたが、今は軽んじられていると言われます。夫婦愛がなければ私たちは生まれなかったでしょうし、家族愛がなければ私たちは育ちませんでした。

ですからこの世は夫婦愛や家族愛に大きな価値を認めますが、友情は忘れられがちです。しかし、友情のない人生は、何と貧弱なことでしょう。イエスは「ぶどうの木」のたとえの後に、「友の関係」に焦点を当てられました。

 

1. 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」

   イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)と言われますが、これは多くの人の福音理解に反するかもしれません。多くの人は、「父なる神はイエスを私たちの身代わりに苦しめたが、イエスは御父を愛し続けた」と考え、私たちにもそのような従順が求められていると思いがちかもしれません。

確かに、御父はイエスを十字架の苦しみの中に送り込もうとしておられるのですが、イエスは、まず、「父がわたしを愛された」ということを思い起こさせます。それは、御父がイエスに幸福を与えたというよりも、御父がイエスを信頼し、ご自身のみこころを分ち合い、すべてをお任せになったという現実を指します。ここでの「愛」とは、その「信頼」を意味します。

そしてイエスが御父に倣って弟子たちを「愛した」とは、弟子たちを「」と呼び、イエスが御父からすべてを任してもらったように、イエスが弟子たちにご自身の働きを任せたことを意味します。

 

イエスは、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われ、10節では、「わたしの戒めを守る」ようにと言い換えられます。それは「規則を守る」というのではなく、イエスのことばを徹底的に尊重し、思い巡らすことを意味します。またそれは、イエスご自身が御父の「戒めを守って」、御父の「愛の中にとどまっているのと同じだというのです。

そして、続けて11節では、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と言われます。イエスがご自分の十字架を前に、「わたしの喜び」と言われるのは何とも不思議ですが、それはご自身が、十字架を通しても、御父の愛の中に守られているという自覚から生まれることです。

 

イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(12)と、今ここで、たまたま一緒に集っている礼拝者の交わりに向かって、「互いに」と語っておられます。

主は、最後の晩餐で弟子たちの前に跪いて彼らの足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです(13:14)と言われ、また、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです(13:35)と約束されました。

 

私たちはイエスのすばらしさを知って欲しいと願いますが、それは抽象的な概念ではなく、目に見える信者どうしの交わりとして具体的に証しされるというのです。

人によっては「それなら私は、もっと愛するに価する人々が集る教会でこの命令を実践したい」などと思うかもしれません。しかし、聖書の愛を表すギリシャ語の「アガペー」に最も近い日本語は「尊敬」であり、尊敬に価しない者を尊敬することこそが神の愛です。

日本では、主君のためにいのちを捨てることができた人がいたかも知れませんが、イエスは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛は持っていません」(13)と、欠けだらけの信仰の友を、自分の主君であるかのように尊敬することを命じたものです。

 

2. 「わたしはあなたがたを友と呼びました」

ところでイエスは、「友のためにいのちを捨てる」ことのすばらしさを語りながら、「わたしがあなたがたに命じることを・・行なうなら、あなたがたはわたしの友です(14)と条件付きとも思われる祝福を約束されました。

悲しいことに、第一次大戦時の英国では、この1314節が繰り返し多くの集会でメッセージされ、歌われて、若者たちがドイツとの戦争の前線に駆り出されて行ったとのことです。

 

しかし、これは、「あなたが友のためにいのちを捨てる覚悟を持たないならば、イエスの友になることはできない」という意味ではありません。ここの文脈では、イエスがまずご自分の弟子たちを「」と呼びつつ、ご自身がその「友のためにいのちを捨てるということを明らかにし、改めて、弟子たちに、「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました(15)と言っておられます。

これは指導者が、部下を「しもべ」扱いしながら、命がけで戦うように命じることではなく、部下を「」と呼びつつ、自分のいのちを犠牲にし、その姿に倣った人を、「あなたは真実に私の友だ」と称賛するという文脈です。

これは、「いのちをかける」覚悟のない、命令するだけの指導者が使う言葉ではありません。しかも、主が弟子たちを「友」と呼ばれたのは、何よりもご自分がなさろうとすることを弟子たちに予めお語りになったことを前提としています。

 

しかもイエスは、この弟子たちがご自分を否認したり、逃げ出すことを分かっていながら、彼らを「友」と呼ばれました。それは彼らにご自身の命令を実行する力をも与えようとしておられたからです。

 

私たちは人を愛することにおいてもあまりにも自意識過剰になりがちです。もし、「私は、自分のいのちを犠牲にすることも厭わないほどに、友を愛している」と誇る人がいるなら危険です。それは、ちょうどペテロがイエスの受難予告を聞いて、「主よ・・・あなたのためにはいのちも捨てます(13:37)と豪語したのと同じです。それは英雄気取りになっているに過ぎず、イエスご自身の痛みにはまったく心が向いていません。

自分のいのちを捨てるほどに友を愛するとは、たとえば、ビクトル・ユーゴの名作、「レ・ミゼラブル(ああ、無情)」に描かれたジャン・バルジャンのように、目の前の人を次々と助ける中で、自分の身を危険にさらし続けるような生き方です。

ジャンは姉家族のためにパンを一個盗んで19年間も監獄生活を強いられ、釈放されても前科者の烙印のもとに生涯を過ごすように定められていました。

 

ジャンは釈放されて教会に一晩世話になりながら、銀の食器を盗み、警察に捕らえられて教会に連れて来られます。その司教ミリエルは、「あなたにはこの燭台も差し上げていたのに、忘れて行ったのかな・・・この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたは私に約束した」と言います。

そしてジャンに、「あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が贖うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、それを神にささげます」と言います。

ミリエルはジャンを「友として信頼」してくれたのです。ジャンはそれに応え、ある発明により実業家になり、市長にまでなりますが、そこで子持ちの寡婦ファンティーヌが職場からいびり出されるのを見過ごしてしまいます。彼女はその後、娼婦にまで身を落とし、病気になって死に瀕します。

ジャンは自分の配慮が足りなかったことを心から悔いながら、その最期を看取り、その娘コゼットを引き取って育てると約束します。

 

コゼットは美しく成長し、マリユスという青年に出会い相思相愛になりますが、彼は革命運動に身を賭して死にそうになります。ジャンは命がけで彼を助けながら、自分が消え去ることで二人を結婚させようとします。

最後にジャンは瀕死の中でコゼットに見いだされ、天に召されようとしながら、その生涯の告白を、「これは憎むことから解放され、おまえを育てることで、愛することを学ばせてもらった男の記録」と呼びます。

そしてそのミュージカルの最後では、真理とは、「to love another person is to see the face of God(他の人を愛するとは、神の御顔を見ることだ)」と歌われます。

イエスのみこころに従って友を愛する者は、そこでこの世のあらゆる見返りを超えた、三位一体の神ご自身の愛に抱擁されている幸いを体験するのです。愛すること自体の中に神のかたちとしてのいのちの喜びがあるのです。

 

私たちは、創造主であるキリストから見たら「しもべ」以下の存在かも知れませんが、イエスは、「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせた(15)と言われたように私たちを「信頼」し、御父と御子との特別な愛の関係に、招き入れてくださいました。

私たちは、単に服従すべき命令だけを受ける兵隊のような存在ではなく、イエスの喜びも痛みも共有させていただける「友」とされました。そして、イエスはそのような友の関係を、一緒に神を礼拝している人々との間で築くことを命じられたのです。

 

3. 「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命し・・・」

   一般の友情は互いに相手を選び合う自由が前提のように思われますが、イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・・任命したのです(16)と言われました。その「選び」には、働きへの「任命」が伴い、そこには「行って実を結び・・実が残るため」という結果が期待されています。

神の「選び」ということばは「救い」よりは、地上の働きへの「任命」という目的に関して用いられています。そうでないと、「あの人は選ばれないのですか・・・」という不公平への不満が生まれます。これは、国務大臣に選ばれるのが、その人自身への恩賞などではあってはならないのと同じです。

クリスチャンは、「私は救われて天国行きを保証された」と喜ぶこと以上に、「私はこの地に神の国を広げるご計画のためにイエスによって任命された」という自覚を大切にすべきです。「私ばかりが、なぜ苦しまなければならないのか?」と問う代わりに、「主よ。私の使命は何ですか?」と問う必要があります。

しかも、私たちの働きの「実」は、イエスがそれぞれの個性を生かし、それぞれを通してご自身の計画を実現してくださった結果なのですから、互いに比べられるようなものではありません。 

 

それはまた、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです(16)とあるように、祈りが聞かれることの幸いは、この世に遣わされ、イエスの代理として生きようとする中でこそ味わうことができるものです。

それは決して、自分の願望が何でもかなえられるというのではなく、あなたが神から与えられた使命を全うできるように、神が助けてくださるという意味です。苦しみを担うことと、神の子とされた喜びを味わうことには切り離せない関係があります。

 

  イエスはこの後再び、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです(17)と繰り返されます。そこには「互い」の交わりに対して「あなたがたがお互いを選んだのではなく、わたしが、お互いのためにあなたを選んだのだ」というメッセージが隠されています(C.S.ルイス「四つの愛」)。私たちが自分の出生の時と場所などを選べなかったように、人と人との出会いの背後には隠れたホスト役がいたと信じるべきです。

友情は、互いのうちに美点を見出す識別力への報酬ではなく、神がご自身の被造物の美しさを見せるための道具です。友情は広がるものであり、それを通して、イエスは愛の交わりを創造し続けておられます。愛の交わりのホスト役はイエスご自身なのです。

 

4. 「それで 世はあなたがたを憎むのです

  ところで、互いの間の愛が増し加わるとともに、「世があなたがたを憎む」(18,19)という現実が生まれます。これは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)と言われる信仰者の勲章です。一方、サタンから「あいつは攻撃する価値もない」と見られるのは恥です。

イエスは「世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい(18)と言われました。世がイエスを憎むのはなぜでしょうか?十字架は、信者にとって神の愛のしるしですが、不信者には「お前は、神が御子を犠牲にしなければならないほどに、罪深い!」という断罪に聞こえます。

パリサイ人たちは真面目な努力家なのに、イエスは彼らの誇りを真っ向から否定しました。また、世の人々も、真面目な信仰者が「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と証しすることに誇りを砕かれます。

 

イエスは弟子たちに「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです(19)と言われました。ですから、私たちが憎まれるのは、自分たちの落ち度や欠点のゆえである以前に、主ご自身の「選び」の結果です

主の弟子となった者は何よりも価値観が変えられます。たとえば、日本の社会では、村社会の暗黙のルールのようなものがあり、ときに、神の善悪の基準を超えて、村社会への忠誠が求められます。私たちがイエスを自分の人生の主として心から信じているならば、そのルールと衝突するのは当然と言えましょう。

 

その上でイエスは、弟子たちがイエスの御名のゆえに迫害されるのは当然であると話しながら、イエスが御父のみこころをユダヤ人たちにお話しされたことを受け入れないことに関し、「その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです(2223)と言われます。

当時のユダヤ人たちは自分たちにとって都合の良い「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは、ローマ帝国の代わりに自分たちが支配権をふるうことができる国でした。

しかも彼らは、自分たちの立場やプライドが守られることばかりを望み、私たちの救いのためにご自身を犠牲にする神と御子の愛を知ろうとはしませんでした。彼らは自分の見たいものばかりを見ようとしていたのです。

 

そして、25節で「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」ということばが引用され、キリストご自身が受けた憎しみは、詩篇694節などに記された預言の成就だと言われました。これは、私たち自身にも適用されることであり、いわれのない非難を受けて胸を痛めるときの大きな慰めになります。

ただ、人によっては、「私が非難を受けるのは、人の期待を裏切り続けた結果で、自業自得なのです」と思うかも知れません。しかし、あなたが自分の罪を認めイエスにすがったその瞬間から、あなたの心の痛みはイエスとの交わりの機会となるのです。

もう自分を責め続けてはなりません。自分を否定する人は、必ず、他の人を否定するからです。主ご自身がいわれのない憎しみを受けました。まして過去に傷を抱えている者が憎しみを受けるのは当然です。私たちは、もはや人の期待の奴隷になる必要はないのです。

 

真の友とは、あなたの最悪の部分を知っていながら、なお尊敬してくれる人です。それは、イエスが私たちに対して持ってくださる姿勢です。ただそのような交わりは、多くの忍耐と犠牲を経て与えられるものです。ほんの少しずつ心を開く中から、「この人とは共感し合えるかも知れない」という出会いが生まれます。

この一対一の心の交わりを徐々に築き、そこに他の人を招き入れるのです。心の奥底にある「うめき」を共有できる交わりを築けるなら私たちの人生はずっと豊かになります。

イエスは、「互いに」と強調され、あなたが愛すべき友を選んでくださいました。しかも、「互いに愛し合う」力をもくださり、性急な結果をお求めにはなりません。イエスにある希望に満たされ、一歩一歩、進んでみましょう。                             

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2016年10月16日 (日)

申命記12-16章「主を礼拝する愛の共同体」

申命記12章―1617節「主を礼拝する愛の共同体」

                                                  20161016

   私たちはみな基本的に豊かさを求めています。富を得ると、大きな家に住み、一人ひとりの部屋を持つことができます。自分のやりたいことを自由にできる余裕が生まれ、個々人の活動範囲も広がります。しかし、それとともにいっしょに集まろうとしても、互いのスケジュールを調整するのが大変です。その結果、お互いの心と心が離れて行きます。

マザーテレサは、富は不幸です。それは人の気前の良さをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまうからですと言いました。豊かさは孤独の最大の原因になり得るのです。そのため、私たちは豊かになればなるほど、意識的に犠牲を払って、時間と豊かさを共有するスペースの確保が必要になります。

私たちの教会は、遠くから通って来られる方々が多くおられます。それぞれのご家庭から教会まで、一時間ぐらいかかる方がほとんどかと思われます。礼拝の場は、歩いて行ける距離にあるべきだと考える方も多いですが、そのような方は、今日の聖書箇所を読むべきでしょう。

 

1.「主が選ぶ場所でいけにえをささげ、主の前で喜び楽しむ

イスラエルの民は荒野において、神の幕屋を真ん中に、それを囲むように十二部族が宿営し、偶像礼拝の民から分離して生きていました。

しかし、約束の地では分かれて住み、様々な誘惑にさらされます。カナンの宗教は一見極めて陽気で自由奔放で、人の肉的な欲望を刺激するような性格を持っていたからです。豊かな現代の私たちの前にも、神から目を背けさせる世の文化の誘惑が満ちています。

 

121節の「おきてと定め」ということばは51節では「十のことば」の始まりに、11章では祝福のろいかの選択を迫った後の32節に記されていました。12章から新しい教えが展開される初めにこのことばが登場します。

まず、約束の地に入った後に、高い山や丘の上にある異教の礼拝施設を破壊し、「彼らの神々の彫像を粉砕し・・消し去りなさい」と命じられます。それは主が先に、「これらの国々が悪いために」(9:4,5)、主ご自身が「彼らをただちに追い払って、滅ぼす」(9:3)と言われたように、その地の先住民を主ご自身がさばくということを前提に命じられたことです。現代に適用できることではありません。

 

それにしても12章で何よりも興味深いのは、イスラエルの民が約束の地に入った後、主へのささげものは、定められた一つの場所だけで行うように命じられたことです。

現在のイスラエルの面積は日本の四国とほぼ同じと言われます。ただ、ヨシュアの時代に各部族に分配された地は、南は現在より狭かった一方、東はヨルダン川西岸、北はヘルモン山まであったので、四国の五割増しの広さだったと思われます。そこに礼拝の場が一か所だけというのはかなり不便な感じがします。

12章では「主が・・選ぶ場所」と繰り返されますが(5,11,14,18,21,26)、それは主が「ご自分の住まいとして御名を置く」、つまり「契約の箱」が置かれる場です。たとえば、サムエルの父エルカナは「自分の町から毎年シロに上って・・・家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとした」(Ⅰサムエル1:321)とあるように、それはかつてシロだった時期がありますが、最終的にエルサレム神殿として実現します。

これを実行することは、遠くに割り当ての地を受けた部族にとっては大変なことです。たとえば、北の中心地ダンからエルサレムまでは直線距離で170㎞ぐらい、立川から長野市に行くよりも若干短い程度の距離で、家族で旅行する場合は往復で一週間程度はかかったことでしょう。

士師記を見ると、そのためかダン部族は最初の段階から、自分たちの礼拝施設を勝手に作ってしまった様子が記されます。

 

しかし、それでも、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ・・をそこに携えて行きなさい」(12:6)と命じられました。約束の地の外では、「おのおのが自分の正しいと見られることを何でもしている」(12:8)という現実がありましたが、約束の地においては、主を礼拝することにおける一致が何よりも大切にされました。

イスラエルの民が荒野を旅する時、それぞれの部族の宿営は隣り合わせにあり、主の幕屋が十二部族の真ん中にありました。約束の地に入れば、それぞれが広大な土地を割り当てられる一方、幕屋までの距離は遠くなりましたが、それでも主がイスラエルの真ん中に住むということは、主の幕屋がそれぞれの部族にとっての共通の中心地であることに変わりはないのです。

幕屋まで遠くなるのは、主が与えてくださった豊かさの代償でした。ですから、彼らが礼拝のために犠牲を払うのは当然だったとも言えます。

人はすぐに自分の願望や理想を偶像としてしまう習性があります。この世は手軽さや便利さを追求しますが、神は物理的な距離を越えて、あなたに礼拝の場を備えておられるのではないでしょうか。

自分の都合を優先するところからすべての偶像礼拝が始まります。それにしても多くの巡礼地の中心には、何かの聖なるシンボルのようなものがありますが、ここでの礼拝の中心地にあったのは、主ご自身が石に刻んだ「十のことば(4:13)でした。みこばこそ礼拝の中心だからです。

 

ただし、それは苦痛が伴う義務ではなく、「家族の者とともに、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(12:7)という祝福のときでした。ここでは、「主の前で・・喜び楽しむ」(12:7,12,18)ように繰り返し命じられています。

しかも、まわりの民にとっては、肉を食べることと、礼拝とは切り離せない関係にありましたが、ここでは、礼拝の場が遠く離れている場合、どの町囲みの中でも「あなたは食べたいだけ肉を食べることができる」と言われます(12:2021)。ただし、その際、「血は絶対に食べてはならない」(12:23)と周辺の民に習わないように警告されます。

そして28節ではこれらをまとめて、「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、(ヤハウェ)がよいと見、正しいと見られることをあなたがたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」と記されます。自分ではなく、主の見方に従うべきです。

 

ダビデ王国が南北に分裂した後、北王国の王は、自分の民を南王国ユダの中心であるエルサレム神殿に上らせないように、勝手にサマリヤに礼拝の場を作りました。そして、後のサマリヤ人は、自分たちの山を礼拝の場と主張しました。

それを背景にイエスはサマリヤの女に、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネ4:23)と言われました。イエスは十字架によってご自身を、完全な永遠のいけにえとされたことで、神殿でのいけにえを不要にしてくださいました。それによって「父を礼拝する」ことが、物理的な礼拝施設から自由にされました。

ですから今、私たちは、いつでもどこでも、父なる神を礼拝することができます。ただしそれは、「霊とまことによって」、つまり、聖霊の導きと、「まこと」であるイエスを通してなされるべきものと言われます。

現在は、「キリストのからだ」である「教会(キリスト者の交わり)こそ、「神の御霊」が宿る「神の神殿」であると言われますから(エペソ1:23、Ⅰコリント3:16)、新約の時代も、おのおのが自分の正しいと見られること」をするというのではなく神が選んでくださった兄弟姉妹が共に集まる場において礼拝するという原則が生きています。

神は、「真の礼拝者を・・求めておられる」と言われましたが、昔も今も、自分の都合や心地よさを優先した礼拝は退けられているのです。

 

2.主(ヤハウェ)は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

   イスラエルの神は、民が荒野の旅するとき、海を真っ二つに分けて道を作ったり、天からパンを降らせるような「しるしと不思議」を行ないましたが、豊かな約束の地においてはそのような必要はなくなります

しかし、神の敵も「しるしや不思議」(13:2)を行なうことができると明言されています。大切なのは、神秘現象自体ではなく、それが人々の心を真の神から引き離そうとしているかどうかを見分けることです。ここではそれらの誘惑も主の御手の中で起こっており、「(ヤハウェ)を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられる(13:3)と記されています。

すべての神秘の背後に、私たちに対する主の試験があるのです。多くの人々も、神秘現象自体を追い求め、それが悪霊に由来するかもしれないということを疑いもしません。

しかし、神は、家族や親友がそのような偶像礼拝を勧める者になった場合、「そういう者にあわれみをかけたり、同情したりせずに…必ず殺さなければならない」(13:8,9)と厳しく命じました。そればかりか、場合によっては、町自体を破壊し尽くしてしまうように厳しく命じられています(13:12-18)

 

   ここでの鍵となるみことばは、「あなたは、あなたの神、(ヤハウェ)の聖なる民である。主(ヤハウェ)は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(14:2)です。彼らは「聖なる民」「宝の民」であるからこそ、カナンの偶像礼拝の文化からの分離される必要があったのです。

そしてその「分離」は何よりも食生活に現されました。14章3節から21節まで、食べて良い動物と食べてはならない動物の区別が記され、あなたがたには汚れたものである」と繰り返されます(14:7,8,10、19)。つまり、豚肉や蟹や海老自体が汚れているというのではなく、「あなたがたには」汚れていると記されています。実際、彼らにとって汚れたものを「外国人に売る」(14:21)ことは許されていたのです。

 

  ところが、新約の時代、福音が異邦人に広がる際に、主はペテロに、夢を通して、彼にとって汚れた動物を食べるように命じ、それを断る彼に、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言われました(使徒10:15)。これこそ、異邦人伝道の最大の障害を取り除く神のみわざでした。

 

現代の私たちにも、占いや性的不道徳など、断固拒絶すべきものがあります。しかし、私たち自身が既に「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)とされてますので、食べ物によって自分の身を汚す心配はありません。むしろ、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」(ローマ14:5)と、生活のほとんどの分野においての自主的な判断を委ねられています。

ただし、すべては、「あなたがたは、食べるのにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)という原則の中で判断する必要があります。私たちは、与えられた自由を放縦の機会としないように注意しなければなりません(ユダ4)。

 

3.「そうすれば、あなたのうちには貧しい者がいなくなるであろう」

「収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない」(14:22)との命令は聖書で一貫しています。ただし、それはすべてレビ族に与えるべきと命じられていました(民数記18:21)。ところが、ここでは「あなたの神、主(ヤハウェ)の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい」(14:26)と、神の幕屋の庭で家族がそろって食べるために用いるようにと命じられます。

これに関し、保守的な聖書学者は、申命記では、通常の十分の一のささげ物とは別に、交わりのための第二の十分の一を聖別することが命じられていると解釈します。

しかも、それは、三年ごとに町囲みにいるレビ人、在留異国人、みなし子、やもめらが「食べ、満ち足りる」(14:29)ためにも用いられました。人は豊かになるほど、けち臭くなる傾向があるからこそ、神は約束の地での豊かさを、独り占めにしないように新たに命じられたのではないでしょうか。

 

15章での、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」(15:1)と命じられます。レビ記25章で命じられた「主の安息の年」(サバティカル)では、「土地」の安息が中心でしたが、ここでは七年ごとに、主にある「兄弟」の安息のために、同胞の借金を棒引きにすることが命じられています。つまり、ユダヤ人の金融業は同胞に向けては成り立たなかったのです。

ただし、3節では、「外国人からは取りたてることができる」とあるように、外国人を対象には成り立ったので、ユダヤ人は後に金融業で栄えることができました。なお、この規定の目的は、「そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう」(15:4)という同胞の助け合いにあります。

その結果、「あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。また・・・多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない」というイスラエル共同体の繁栄が約束されます。それはただ、イスラエルだけが豊かになれば良いということではなく、それを見て、他の国の人々がイスラエルの神に引き寄せられるためです。

初代教会においても、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった(使徒4:34)という状態が実現しました。しかも、信者どうしが互いに助け合っている様子を見た周りの「人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますます増えていった(5:13,14)とあるように、信者どうしの助け合いが、周りの人々を引き寄せたのです。

 

157-9節では、「あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら・・心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない」と命じられながら、同時に、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、「貧しい兄弟に物惜しみ・・・しないように気をつけなさい。その人があなたのことで主(ヤハウェ)に訴えるなら、あなたは有罪となる」と記されます。

借金免除の年を意識して、見て見ぬふりをすることは、罪なのです。

 

12-18節では、七年目に同胞の奴隷を、報酬を持たせてまで解放することが命じられています。ヘブル人は、借金の取りたてのために、同胞を自分の手で奴隷にすることが禁じられていましたが(レビ25:39-46)やむをえない理由で他から売られてきたヘブル人を奴隷にするようになった場合でも、「七年目には・・自由の身にしてやらなかればならない」(15:12)と命じられました。

それは、「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい」(15:15)とあるように、主のあわれみを覚えることは、当然、隣人へのあわれみとして表わされるはずだったからです。

 

  16章では、過越しの祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、仮庵の祭りの三つの祭りのことが記されていますが、ここでも12章同様に、「主が御名を住まわせるために選ぶ場所」(16:21115,16)と繰り返されます。

特に興味深いのは、過越しの祭りでは、「家族のために羊をためらうことなく、ほふりなさい(12:21)とあるように、家族単位で祝うことが命じられているのに、それにも関わらず、自分の家のある「町囲み」の中で祝うことが許されていないということです(16:5)。彼らは神の幕屋がある場所まで家族でそろって来る必要がありました。

七週の祭りでは、「男女の奴隷・・レビ人…在留異国人・・・やもめとともに、主(ヤハウェ)の前で喜びなさい(16:11)と交わりの広がりと喜びが強調されています。

仮庵の祭りでも「共によろこびなさい・・・主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福される…大いに喜びなさい」と記されます(16:14,15)。奴隷も、みなしごも、やもめも一緒に神の幕屋まで旅をして喜びを分かち合うことが命じられています。

これは、収穫の十分の一を家族ばかりかそのまわりの人々とともに分ち合うことを意味します。主の前での祭りを祝うことは、何とも不思議なことに義務として記されています。

 

新約でも、ナザレに住んでいた「イエスの両親は、過ぎ越しの祭りには毎年エルサレムに上った」(ルカ2:41)とあります。ただし、ナザレのような遠隔地に住む人にとっては、年に三度も神殿に行くことは無理で、一年に一度しか行けなかったことをも示唆しています。

しかし、それはこの律法が与えられたはるか後の時代の事情です。本来、もしイスラエルの民が与えられた相続地で、主の御教えに忠実だったとしたら、生活ははるかに豊かになっていたはずで、年に三回の巡礼も義務というより、大きな喜びのときとなっていたはずなのです。

特に、イエスの時代には、民全体が不従順な結果、国全体が貧しくなり、それによって社会的な弱者が神殿に通う経済的な余裕もなくなるという負の連鎖が進んでいました。

 

なお、イスラエルの民は安息日ごとに、主を礼拝するために会堂(シナゴーグ)に集まりました。そこでみことばの朗読を聞き、主を賛美し、互いの祝福を祈りました。

ただし、それはエルサレム神殿でのいけにえを伴う礼拝を補完するようなもので、会堂での礼拝がエルサレム神殿での礼拝に代わり得るものではありませんでした。現代の私たちの礼拝は会堂と神殿での礼拝を合わせ持つ意味があります。

 

主を礼拝する場を一つに限ることは、非効率なようでありながら、神の民としての平和と繁栄を保つためには不可欠でした。初代教会の姿は、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた・・彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」(使徒5:32,34)と描かれますが、それこそ、聖霊ご自身が申命記の命令を成就されたしるしでした。

 

イスラエルの民は、荒野では、狭い宿営の中に肩を寄せ合いながら生きて来ました。しかし、広い約束の地に分かれて住み、それぞれが豊かになったとき、神の民の共同体が壊れる可能性がありました。それで主は、荒野で、主が彼らの真ん中に住み、互いに助け合いながら生きていた構造を、約束の地でも維持するように命じました。

この原則は、私たちにも適用できます。私たちはそれぞれ、主の不思議な導きによって、この会堂でともに礼拝するために集められています。そこには様々な異なった背景がありますが、私たちは今ここで、主によって召された礼拝共同体とされていることは確かです。

もちろん、様々な事情で教会を移って行かれる方もおられますが、私たちは決して、その方々を非難することはありません。ただ、今、この同じ空間で礼拝している私たちには互いの時間と富を共有する時を持ちながら、全身全霊でともに主を愛し、互いに愛し合うという、主からの明確な命令があると考えるべきでしょう。

 

多くの日本のクリスチャンは、日本の閉鎖的な、互いに過度に干渉し合う村社会を嫌悪するようにして、信仰に導かれています。しかも、私たち自由教会は、何よりも個々人の良心の自由を尊重し、人の心の中に無遠慮に入り込むことを避けるようにしてきました。

同時に、社会は百年前とは比較できないほど豊かに便利になり、個々人のスケジュールが一杯になっています。ただ、それらの結果、ともに集まり、ともに礼拝し、ともに食事をし、ともに奉仕をするという時間がどんどん少なくなる傾向があります。

しかし、豊かになり、個々人の自由が広がれば広がるほど、私たちは意識して、互いのために時間と財を犠牲にする必要を覚えるというのが、主のみこころです。

そして、この愛の冷めた東京の地で、私たちが個々人の自由を尊重しつつ、互いに愛し合うことは、何よりもキリストを証しすることになるのです。

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2016年10月 9日 (日)

申命記9-11章「全能の主に結び付く幸い」

申命記9章~11章「全能の主に結びつく幸い」

                                           2016109

   私は昔、ひとつの教えに熱くなると、別の思想に非寛容にならざるを得ないと警戒していました。しかし、それは逆でした。

真理はイエスにだけあると心に決めたとき、かえって心が自由にされ、いろんな考え方、感じ方に柔軟になれた気がします。それは、自分で自分を守る必要がなくなるからでしょう。

 

イスラエルの民が約束の地で祝福を味わうために必要な命令があったように、私たちも新しいヨシュア(イエス)によってこの世界に遣わされ、生かされます。その際、いつでもどこでも、主との交わりを第一とすることが何よりも求められています。

主を全身全霊で愛することこそが律法の初めであり、完成です。そのために必要なのは、みことばに心を浸し、神のビジョンに私たちの心が動かされることです。

 

1. 「あなたが正しいからではなく・・」「覚えていなさい。忘れてはならない・・」

9章は、「シェマーの祈り」(6:4)を思い起こさせる、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル」で始まり、続いて、「きょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえているその民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である(9:1,2)と記されます。

128節では同じ表現で、それこそがイスラエルの民が約40年前に、約束の地に登って行く勇気をくじかせた理由であると記されていました。とにかく今、40年前には絶対に不可能と思えたことが可能にされるということが強調されているのです。状況は何も変わっていませんが、40年の荒野の訓練を通して、神がこれをまったく別の視点から見させてくださったのです。

これこそ、今回の日本伝道会議のテーマであったRe-Visionの意味かと思われます。神の民の霊の目が開かれて、神の視点から現実を見られるようになりました。絶望的な状況を、希望の目で見られるようになったのです。

 

その際、「きょう、知りなさい。あなたの神、主(ヤハウエ)ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる(9:3)と、それが主の一方的な恵みであると強調されます。

ただそこには、別の危険も生まれます。私たちは物事がうまく行ったときには、差し当たりは神に感謝するとしても、すぐに、心の中で「私が正しいから・・(9:4)と、自分の側に成功の理由があると言ってみたくなるからです。そこに霊的高慢への道があります。

それでモーセは、彼らがエモリ人の地を「所有」できる理由を説明して、「あなたが正しいからではなく・・心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主(ヤハウェ)があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである」(9:5)と言います。

主は、約五百年前のアブラハムに、子孫が奴隷とされて苦しみながらも増え広がり、強い民族となって約束の地に戻って来ると誓われましたが(創世記15:13-16)、それが成就するのです。同時にそこでは、エモリ人(カナン人)の咎が・・(さばきを猶予できないほど)満ちるためとも記されていました。

 

それでモーセは再び、「知りなさい・・・」(9:6)と言い、また「覚えていなさい。忘れてはならない」(9:7)と言いながら、本来、イスラエルの民も主の怒りを受けて「根絶やし」にされるにふさわしかったことを思い起こさせます(9:8)

主はホレブ(シナイ)で契約を結びましたが(十のことば)、そこでは特に、「偶像を造ってはならない・・それらを拝んではならない」と命じられていました。それに対し、民は声を一つにして「主(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ないます」と答え(出エジ24:3)、それを受けて、主はそのことばを記した契約の板を授けるためにモーセを山に登らせました。

ところが、モーセが四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まずに、主の前にへりくだっているときに、イスラエルの民は金の子牛の像を作って、それを拝んでカナンの宗教を真似たような祭りをしてしまっていたのです。彼らこそ約束を破る天才でした。

 

申命記4章では、「十のことば」が与えられた際のことを思い起こさせながら、「(ヤハウェ)がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も・・・・あなたの神、主(ヤハウェ)の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(4:15-24)と、神を目に見える彫像で現すことが何よりも戒められていました。

それは、「聞きなさい」という命令とセットになっていました。

 

神を目に見える姿で現すことは、人が自分の望む神のイメージを勝手に作りだし、それを拝むことになります。イスラエルの罪は、何よりもこの偶像礼拝にありました。それに対し、新約では、神がご自身のイメージを私たちと同じ姿になられたイエスを通して現してくださいました。

ですから後にパウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と記しています。私たちの教会は宗教改革の伝統に立っていますが、英国で宗教改革が起こった時、そこにはどの町々や村々にも、既に素晴らしい会堂があり、多くの聖像が置かれていました。彼らはそれらの像を会堂の中から廃棄しながら、聞くことと歌うことを中心とした新しい礼拝の形を作りだして行きました。

どの教会の礼拝でも、聖書朗読者、みことばを歌う聖歌隊が特別に訓練されていることが良くわかりました。

 

英国の教会の聖歌隊は、「讃美歌」を歌うという以前に、聖書のことば自体を歌い、グレゴリアンチャントのように、神への祈りを歌でリードしています。今回、私たちは英国国教会や長老教会などに集いましたが、そこにはドイツのルター派教会に共通するものがありました。みことばが美しく歌われることによってそれが心の奥底に迫ってくるのです。

ただ音楽には、人々の心の偶像礼拝を刺激する強烈な力があります。たとえば、ロンドンを訪ねる人は、つい、ビートルズのアビーロードスタジオの前に行き、その道で写真を撮りたい思いにさえ駆られます(私たちも同じことをしました)。

それぐらいなら良いのですが、音楽は心の偶像礼拝と結びつく面があるので、スイスの宗教改革者ツウィングリは、礼拝堂からオルガンを締め出し、別の改革者は、詩篇以外は歌わせないようにしました。

しかしそれに対し、ドイツのルター派教会や英国国教会は、音楽をより創造的に礼拝の中に生かす工夫を重ねて来ました。そして、ついにはそこから生まれた讃美歌が、逆にこの世の音楽を変えたのです。

残念ながら、私たち自由教会の流れは、儀式的なものを次々に排除してしまい、このような歴史を忘れがちです。しかし、そのような中で私たちの教会は、儀式的な固定化を避けつつ、同時に、音楽の多様性を生かす試みを続けております。

 

イスラエルの堕落は、みことばを聴く代わりに、自分たちのために「鋳物の像を造った」(9:12)ことから始まりました。その後のカトリック教会の堕落も、偶像礼拝から始まっています。すべての偶像礼拝の根本に、自分の理想、理念、正義、願望、感覚などを絶対化する思いがあります

それに対し、みことばの朗読を聞くことと、みことばを歌うことこそ、主への礼拝の中心にあります。そしてその内容は、私たちが受けた救いは、私たちの功績によるものではなく、神の一方的なあわれみによるということでした。

 

2. 「そのときも、主(ヤハウェ)は私の願いを聞き入れられた」 二度目の契約の板

主は、金の「鋳物の子牛」(出32:8)を造って拝んだ民に対し、「この民は実にうなじのこわい民だ・・わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう」(9:13,14)と一度は言われました。それはご自身の愛が裏切られたことへの怒りです。同時にそのように警告されたこと(4:27)を実現するという意味でもありました。

しかも、モーセ自身も彼らが偶像礼拝をしている姿を見て、神からいただいた二枚の「石の板」「打ち砕いて」しまいました(9:17)。それは民の側から契約を反故にしてしまったことが明らかだったからです。これは結婚の誓いが即座に破られたのを見て、婚姻届を破棄するようなものです。

 

このときモーセは、「四十日四十夜、主(ヤハウェ)の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった」(9:18)のでした。それは彼が、「主の激しい憤りを・・恐れた」(9:19)からでした。ただ、彼は、「そのときも、(ヤハウェ)は私の願いを聞き入れられたと振り返ります。

また、「(ヤハウェ)は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされた」(9:20)と敢えて記されますが、民の圧力に負けたにせよ、金の子牛を実際に作ったのはアロンですから、彼が赦されたこと自体が奇跡です。それはモーセが「アロンのためにも、とりなしをした」からであると記されます。

彼はその際、神の「いのちの書」から「私の名を消し去ってください」とまで言って、民全体の罪の赦しを請い求めたのでした(出32:32)。モーセは、「聞きなさい!」と訴えますが、その前提として、主ご自身が彼の願いを再三にわたって「聞いてくださった」ということがあります。

主は私たちの罪に激しい憤りを示しながらも、私たちの訴えに耳を傾けてくださる方です。そのことは今、イエスが、私たちの王、代表者として、父なる神にとりなしていてくださるということで保証されています。

 

なおこのときモーセは主に、「あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そして、この民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください」(9:27)と言いつつ、彼らを滅ぼせば、世の人々から、「主(ヤハウェ)は・・できない(無力)・・彼らを憎んだ」だと言われ、主の力と愛への不信が広まると訴えています。

しかし、主(ヤハウェ)はご自身の誓いを真実に果たされ、ご自身の計画を人の罪によっても差し止められることなく、必ず成し遂げてくださる方です。モーセはその神のご真実と全能性に信頼したのです。

今回、私が17年ぶりにお会いしてきたN.T.ライト教授は、神がアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12:3)と約束されたことを、聖書をつらぬく神の契約の核心と捉え、「神の義」とは何よりも、この契約に対する真実さであり、それがイエスの十字架に現されたと強調されます。

そしてそれは、ここでモーセが、「アブラハム・・・を覚えてください」と祈ったことと対応します。私たちも主に訴えるとき、イエス・キリストによって表わされた神のご真実に訴えることができます。

 

そして、(ヤハウェ)はモーセに、「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ(10:1)と命じられ、主ご自身が再び、「その板に・・十のことばを、前と同じ文で書きしるされ」(10:4)、モーセに授けてくださいました。

「十のことば」は神の愛とあわれみのしるしでしたが、その最高の贈り物を前と同じように受けることができたのです。これは、王様が、自分で結婚の誓いを破ってしまった妻と、何もなかったかのように、前と同じ誓約を交わしてくれるようなものです。

イスラエルの真ん中に置かれた「十のことば」の石の板は、一度、民の側から反故にされ、二度目に与えられた恵みだったということを忘れてはなりません。まさに主は、やり直しの機会を与え続けてくださる方であることの何よりのしるしです。

 

なお、ここでも神の臨在のしるしとは、神の偉大さをイメージさせることができる目に見えるしるしではなく、民に直接に語りかけた「十のことば」自体であるということを忘れてはなりません。

私たちの教会では、講壇に、宗教改革の原点であるルター訳聖書のオリジナルのコピーを置いております。カトリック教会ではラテン語訳聖書のみが聖典とされ、民衆に分かる言葉に勝手に翻訳することは禁じられていましたが、ルターは一般の人々にわかることばに聖書を翻訳することに全生涯を賭けたとも言えます。そこからドイツ語の統一が生まれたとさえ言われます。

とにかく、主のみことばをわかる言葉で聴くことができるということ自体が、何よりの神からの愛とあわれみの現れであるということを常に覚えたいものです。

 

3.「心の包皮を切り捨てなさい」「うなじのこわい者であってはならない」

多くの人々は、「主のみこころは?」と尋ねます。モーセはそれに答えるかのように、「それは、ただ、あなたの神、(ヤハウェ)を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、(ヤハウェ)に仕えあなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる(ヤハウェ)の命令と主のおきてとを守ることである」(10:12,13)と述べます

ここでは、ヤハウェを「恐れ」「仕え」ということがまず強調されます。これは、「聞きなさい、イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神、主(ヤハウェ)は唯一である」に対応するものです。

その上で、そのことばを「守る」ことが特に強調されます。守る」とは、行動以前に、「教えに注目する」ことが中心的な意味で、そこには「あなたのしあわせのため」という言葉が加えられています。

これらのことばは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」というシェマーの祈りと呼ばれる申命記6章4,5節を別のことばで表現し直したものと言えましょう。

 

モーセは続けて、「見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主(ヤハウェ)のものである。主(ヤハウェ)は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛され・・あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた(10:14、15)と述べます。

これは、私たちの主が全宇宙の見える世界、見えない世界、来るべき世界全ての創造主であることを強調しながら、その方がまず私たちを「恋い慕い」「愛され」「選ばれた」ということを思い起こさせるものです。信仰とは、主の愛への応答です。

 

しかも新たに、「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい」(10:16)と命じられます。彼らの心は、指の「たこ」のような固い皮膚に覆われ、感覚が鈍くなっていました。

「あなたは、初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)という警告がありますが、心が動かなくなることこそ堕落の始まりです。回りの出来事に心が動じなくなることを願うなら、結果的に、主の愛にも心が動かなくなってしまうということになり得ます。

 

続けて、「もう、うなじのこわい者であってはならない」(10:16)言われますが、それは、農耕に使われる牛が「くびき」を通して伝わる御者のサインを感じられずに、衝動の赴くままに進むようなものです。私たちも主のみことばを聞きながらも、まったく昔と同じパターンでしか行動できない場合があります。

 

その上で、主は、みなしご、やもめ、在留異国人などの社会的弱者に特にあわれみ深い方であることが強調されます。

実際、イスラエルが特別に愛されたのは、彼らが余りにもひ弱で少数で、自分で自分を救う力がなかったからに過ぎません。主の愛とあわれみは、弱さを自覚する者に注がれるのです。

    

11章では特に、「乳と蜜の流れる国」としての約束の地が描写されます。エジプトの王パロの絶対権力はナイルの治水工事と結びついていましたが、約束の地は主(ヤハウェ)のご支配のもとで、天から必要な雨が調節されます。

イスラエルは温暖な地ですが、5月から10月の夏の六か月間は雨が降りません。しかし、それでも詩篇133篇3節にあるように、「ヘルモン山の露」がはるか南の「シオンの山々」にまで降ります。ヘルモン山は標高 2,814mでイスラエルの水源となり、その水はガリラヤ湖に流れ込みます。

11月から4月は雨期ですが、その始まりの秋の雨を「先の雨」、その終わりの春の雨を「後の雨」と呼びます(11:14)。この二回の雨季が守られさえしたら、作物は黙っていても育ちます。

そのことが11章10節では、エジプトでは、「野菜畑のように・・・自分の力で水をやらねばならなかった」のですが、約束の地では、水を運んだり、足で水車を踏んで水路に流し込むような必要もないという趣旨で記されています。簡単に種を蒔いて放っておけば豊かな収穫が期待できるのです。

ただ同時に、雨の降り方は人間の計らいを超えていますから、当地では、伝統的に、雨をつかさどる神バアルが礼拝し続けられていました。

 

13節~21節は申命記6章と並んでユダヤ人が暗唱し、持ち歩いていたみことばでしたが、ここでは「あなたがたの神、主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら」、季節に従って先の雨と後の雨とを与えよう(11:14)と約束されます。

大切なのは、豊かな収穫を得るための人間の努力ではなく、全身全霊で「主を愛し、主に仕える」ことなのです。そうすると、主ご自身が天から雨を支配し、人間の努力を越えた形で豊かな収穫が保障されます。

その一方で、他の神々に仕え、拝むなら、「雨は降らず、地はその産物を出さず・・・あなたがたは良い地から滅び去ってしまう」(11:17)と警告されます。

 

   それに加えて「あなたがたの神、主(ヤハウェ)・・にすがるなら」(11:22)と言われますが、これは「男は・・妻と結び合い」と言う場合にも用いられる言葉です。民の最大の務めは、働きを成し遂げること以前に、主としっかりと結ばれることなのです。

その結果、「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」(11:24)という途方もない約束がされます。

私たちの目の前にも、仕事の課題から子育て、夫婦関係のもつれまで様々な課題がありますが、根本で問われていることは主との結びつきなのです。

 

  その上で、「もし・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)の命令に聞き従うなら、祝福を、もし・・ほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」(11:26-28)と述べられます。これは申命記を貫く、「祝福とのろい」の選択のメッセージです。しかも、それは約束の地の真ん中に位置する二つの山、ゲリジム山とエバル山という目に見えるしるしとして覚えられます。

人生の根本においては、明確な、二者択一が必要だからです。コンピューターの言語が、すべてゼロか一かの二進法で成り立っているのと同じように、私たちは日々刻々と、主に仕えるか自分の心の偶像に仕えるかの選択が迫られています。

 

人の痛みに共感できるためには、心が適度に揺れる柔軟性が大切です。しかし、支点が不安定な振り子は揺れることができません。同じように、私たちは主にしっかりと結びつくことによって、かえって物事に柔軟に、また人の心に優しく寄り添うことができるのです。しかも、「しっかり主につながっていなければ・・・」と頑張っていると、ふと、自分の手が主に握られていることに気づくのです。

私たちの信仰は、すべて、主の一方的な愛と選びから始まっています。すべての霊的訓練の目的は、自分自身の心の偶像から解放され、主のみこころの中に生きられるようになることです。そのために、主の救いのご計画の全体像が心の中に満たされる必要があります。

ヨットの操縦士が、風を一杯に受ける技術を習得するように、神の霊によって生かされるために、日々、主との交わりの時間を聖別することが求められています。すべては恵みです。しかし、それを忘れさせる誘惑に負けないように主に「すがる」必要があるのです。

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2016年10月 2日 (日)

ガラテヤ人への手紙3章1-14節「のろいから祝福へ」

                                             2016102

今から40年近く前、証券会社の札幌支店での営業プレッシャーの中で文字通り「喘ぎ、うめいて」いました。当時は土曜日も全休ではありません。日曜日は、どうにか礼拝に出席する中での伝統的な祈祷文を用いての、「主よ、あわれんでください!」という祈りは、私の心の底からの叫びとなっていました。

 

義人ヨブは、人の苦悩を次のように描きます。「地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち望む日雇い人のように、私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている」(ヨブ7・1-3)。

 

このような苦しみは、それぞれ置かれている職場によって大きな違いがあるものの、根本的な原因は、人類の父祖アダムが、禁断の木の実を取って食べたことによって、「土地は・・のろわれてしまった…土地はいばらとあざみを生えさせ」(創世記31718)という労働への「のろい」が訪れたことによります。

 

そして、聖書の最後にある黙示録17章では、当時のローマ帝国が現在のユーロ経済圏よりもはるかに広い地域に共通の通貨と自由貿易を実現している中で、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン(5)という政治権力と結託した「富の支配」の横暴が描かれています。

つまり、この地の「のろい」は、私たち現代の人々の特定の罪への神のさばきという以前に、アダムの子孫が、それぞれ自分を神のようにして、自分の支配を押し通そうとして競争し合っていることから生まれているのです。

 

それにしても当時の私の葛藤は、営業目標のプレッシャーと同時に、自分の仕事が、社会の役に立っていないどころか顧客にも迷惑をかけていると思えた「空しさ」から生まれていました。

それでも幸い、学生時代に米国の熱い信仰者との交わりの中で信仰に導かれたおかげで、「いつでも、どこでも、神にお祈りする」という習慣が身についていました。そして、私たちの身勝手な祈りにも耳を傾けてくださる神は、それなりの営業成績を上げさせてくださり、二年間のドイツ留学への道が開かれました。

 

そこで、外から日本の証券市場を分析する中で、証券会社の働きに意義を見出せました。証券市場が、日本の経済成長、特にソニーやホンダのような戦後の新興企業の成長に大きな貢献をしているということが見えて来ました。確かに金融の世界では、人の貪欲の罪の弊害が、どの仕事よりも如実に現されます。しかし、市場経済は、限られた資源を、人々が最も必要とする分野に効率的に分配するための、驚くほど精巧なシステムです。

たとえば伝道者の書では、「金銭を愛する人は金銭に満足しない(510)などと、富の空しさが繰り返されながら、同時に、「金銭はすべての必要に応じる(1019)と、その有用さが認められます。

お金は、あまりにも大切だからこそ、罪の支配の影響を最も受けるのであって、その自由な動きを規制し過ぎると、個人の選択の自由や思想の自由さえ侵害されることになりかねません。

 

ただ、市場経済は弱肉強食の世界です。そこでは、貧富の格差が拡大するばかりです。それに対して、政府は、格差が世代を超えて拡大しないようにと、財産に対する課税や、教育の機会均等を計る政策などを作ります。

ただ、公平を実現しようとする権力機構自体が、腐敗や資源の無駄遣いの温床になります。この世界では一つの問題解決が次の問題を引き起こします。私たちは、その度に、自分たちがエデンの園の外の地がのろわれた」という荒野の矛盾の中に置かれていることを自覚せざるを得ません。

 

しかし、そのような中で、神の「救い」は、死後に天国に行くということ以上に、「今、ここで」体験できるものです。そのことが、コロサイ人の手紙では、「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました(113)と記されます。

この世界は「暗やみの圧政」という「のろい」のもとにありますが、私たちはそこから「すでに」救い出され、御子のご支配の中に、移されています。その現実は、旧約聖書のストーリーから新約を見て行くときにより良く理解できます。

 

1.「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」

神がアブラハムを召し、神の民を創造しようとされた目的は、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世記123)ということにありました。これはヤコブがその逃亡の旅の初めにベテルで、主から告げられたことでもありました。

そこで主は、「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」2814)と、イスラエルの民を通して、神の祝福が全世界に広げられることを約束してくださいました。神がその後、エジプトで増え広がったイスラエルの民を、圧政の苦役から救い出し、律法を与えてくださったのは、約束の地にエデンの園のような祝福の世界を実現するためでした。

そしてそれが実現したあかつきには、世界の民が、イスラエルの平和と繁栄を見て、主のご支配に中に自分たちも招き入れられたいと願うようになるはずでした。

そのことを主は、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる・・・あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エジ19:5,6)と言われました。

 

なお、この地での経済活動では、個人の自由を、尊重をすればするほど貧富の格差が広がるというジレンマがあります。自由と平等には、「あちらを立てればこちらが立たず」という矛盾した関係があります。それに対して、律法には、社会的弱者の人格を尊重し、その立場を守る様々な規定が存在します。

 

その第一は、「安息日」の教えです。そこで奴隷を含めたすべての人に、一週間に一度、すべての労働から離れて、互いを喜び合うという機会が定められました。

 

第二は「安息の年」です。七年に一度、イスラエルは土地を完全に休ませることが命じられました(レビ25:4)。それはすべての労働者にとっても「安息の年」であったばかりか、すべての同胞の負債が免除され、売られてきた同胞の奴隷も自由の身とされることになっていました(申命記15:112)

 

第三は「ヨベルの年」です。「安息の年の七たび」の49年目には、二年間の土地の安息が命じられ、翌年の「第五十年目は・・・ヨベルの年」として、「それぞれ自分の所有地・・・家族のもとに帰らなければならない」と命じられました(レビ25:8-10)。それは、神が最初に先祖に割り当てられた所有地に戻り、すべてを原点からやり直す機会でした。

自由な経済活動は、必然的に貧富の格差を生み出しますが、50年毎に、借金や奴隷状態から解放されるばかりか、すべての人が平等に土地を所有するという原点に戻ることができました。しかも土地の売買は、ヨベルの年までの期間限定の所有権の移転としてなされました。

 

安息年もヨベルの年も、個々人の経済活動の自由を認めながら、同時に、そこから生まれる貧富の格差を定期的に是正するという神の驚くべき知恵でした。

残念ながらイスラエルの民は約束の地に入って間もなく、近隣諸国と同じような王政を求めるようになります。そこでは、土地や様々な特権が、支配者からの恩賞として与えられるため、借金の免除もヨベルの年の解放も行われることはありませんでした。

 

レビ記2614節以降には神のさばきが記されますが、特にこの「安息の年」を守らない民に対するさばきとして、イスラエルの民が約束の地から追い出されると警告されます。

不思議にも、その理由が、「あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す(34)と記されます。つまり、後のバビロン捕囚は、「安息の年」を守らなかったことへのさばきであるというのです。

 

2.「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって・・・」

なお、イスラエルの民は、エルサレム神殿崩壊から70年後に神殿を再建できました。彼らは約束の地に戻ることができたのですから、そこで捕囚状態から解放されたとも理解できます。

しかし、ダニエルが、エルサレムの荒廃が70年で終わることをエレミヤ書から示され、神の救いを求めて祈った時、御使いガブリエルは彼に、最終的な救いまで「七十週が定められている」と告げました(ダニエル9:224)。七十週とは、「七の七十倍seventy sevens)」とも訳せることばで、それは、確かに期限はあるものの、人間の尺度では具体的に計算できない時間を意味します。

先に述べたように、黙示録に大バビロンの圧政のことが記されていることから見ると、肉のイスラエルはまだバビロン捕囚から解放されていないとも言えます。 

 

ところで、イスラエルに対するさばきがそれほど厳しくなったのには理由があります。モーセは申命記2726で神との契約を再確認した際、「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれると警告します。そのとき民は、口を合わせて、「アーメン」と応答しますが、すぐにそれを忘れ、偶像礼拝等に走りました。

バビロン捕囚は、警告された通りの「のろい」が実現したことに他なりません。彼らは約束の地で、神の怒りを積み上げるようなことばかりを行ないました。それに対し、モーセは、そのときになって人々は、「(ヤハウェ)の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがこの地にもたらされた。主(ヤハウェ)は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、他の地に投げ捨てた。今日あるとおりに」と言うようになると預言しました(2927,28)。まさに、その「のろいの誓い(2912)が実現したのです。

イスラエルの民は、約束の地に戻り、神殿を再建できはしましたが、そこに神の臨在のしるしの「契約の箱」はありませんでした。またその後も、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下で、彼らは苦しみ続けました。イエスの時代の人々は、自分たちが今なお、捕囚下にあり、神殿がなお未完成であることに嘆きながら、救い主の現れを待ち望んでいました。

 

イエスが救い主として現れた第一の目的は、この申命記に記された「のろいの誓い」から、民を解放するためでした。ガラテヤ人への手紙313節に「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と記されているのはそのためです。

ここでの「私たち」とは、直接的にはイスラエルの民を指します(十字架がアダムの子孫すべての罪のための贖いであることは、他の箇所からは当然に言えはしますが・・・)。

また、「律法ののろい」とは、律法自体に民を不幸にする破壊的な力があるという意味ではなく、彼らが契約を破った結果です。その「のろい」からの「贖い出される」とは、申命記27章から30章に記された契約に伴う「のろい」から解放されるという意味です。

 

モーセはイスラエルの民に、「祝福とのろい」の選択を迫りましたが(申命記30:19)、彼らは主のことばを軽蔑し、自分で「のろい」を選び取ってしまいました。それによって、「律法によって神の前に義と認められる(ガラテヤ311)という道が閉ざされたのです。

たとえば、最初の神殿に契約の箱が置かれていたとき、年に一度の「贖罪の日」のレビ記の規定が、神の前に義とされ、祝福を受けるために有効でした。しかし、イエスの時代、神殿は外側ばかりが豪華で、罪のいけにえによってきよめられるはずの「贖いのふた(レビ16:10)も失われたままでした。ですから当時、律法は罪の赦しと神の祝福をもたらす道として機能しなくなっていたのです。

それを前提にパウロはガラテヤ人への手紙310節以降で、「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにある・・・」と繰り返しています。ただそれは決して、律法が命じる「良い行い」ができなくても、「ただ、信じるだけで、救われる」と、福音を単純化したわけではありません。

後に、使徒ヤコブが、そのような誤解をした人に向かい、「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください」(ヤコブ2:18)と迫ったように、「信仰」と「行い」を対比させるのは聖書の教えに反します。

それは、信仰義認を説いた宗教改革者マルティン・ルターの意図にさえも反します。ルターは、イエスを救い主として信じることこそが最高の「善きわざ」であって、すべての善行はその信仰から生まれてくると言ったのです。

 

ところで、キリストがイスラエルの民を「のろい」から贖い出してくださることは、何よりもイザヤ書53章で、「それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから。だが、彼こそが多くの人の罪を負った(12節私訳)と記されていることに基きました。

つまり、イエスは十字架において、「イスラエルの王」として、そむいた人、のろわれた人の代表となって、ご自身を信じるイスラエルを「のろいの誓い」から解放してくださったのです。主はこのみことばを覚えて、十字架に向かわれたのです。

 

そしてさらに驚くべきことには、イザヤ496節には、「主のしもべ」が実現する「救い」が二段階に分けて記されます。

その第一で主は彼に向かい、「あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせることは、まだ小さいことに過ぎない」(私訳)と、イスラエルの民にバビロン捕囚からの解放を約束しておられます。

そして第二に、さらに大きな救いとして、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」(私訳)と約束されます。

つまり、主のしもべ」による「救い」には、ご自身に信頼するイスラエルの民を「律法ののろいから贖い出す」ことと同時に、「新しいイスラエル」を通して全世界の民を祝福するという二つの側面があったのです。

ちなみに、イエスの救いを最初に世界に知らせたのは、「新しいイスラエル」としてのユダヤ人クリスチャンたちでした。彼らこそヤコブの子孫として、すべての民族に祝福をもたらす者の先駆けとなったのです。

 

3.「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるため」

それにしても、私たち異邦人はどのように神の民に加えられたのでしょう。まず、主はイザヤ443節で、「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」と約束しておられました。

イスラエルの民に主の霊が与えられるという約束が、異邦人にも及んだことによって、私たちは神の民とされたのです。それは、イスラエルが「のろいの誓い」から解放されることとセットでした。

ですから、ガラテヤ314節では、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と記されています。「聖霊を受ける」ことこそ救いの鍵でした。

 

つまり、「のろいから祝福に移された」ということは、何よりもイエスを救い主と信じるすべての民に、「約束の御霊」が注がれることによって実現したのです。

ですから、イエスが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われたのは、私たちが聖霊によって、律法の目的を達成できるようになることを指しています。

それは、全世界に神の平和(シャローム)が実現することとして、やがて現されることになっています。

 

では私たちは、聖霊の導きによって、どのように、「のろわれた地」、「暗やみの圧政」のもとにある社会で生きるのでしょう。その際、この世界を一面的に悪くばかり見てはなりません。イエスの十字架と復活によって、世界は新しい段階に入っており、それは「新しい創造(ガラテヤ6:15)と呼ばれます。

事実、主の教えは、基本的人権の尊重や一夫一婦制の結婚、「神のかたち」としての一人ひとりのいのちの尊重など、歴史を変え続けて来ました。その教えは、今も世界に広がり、「御霊によって・・新しく生まれる」(ヨハネ36,7)という霊的新生を経ていない人にも、驚くべき影響を与え続けています。すべての人は、本来、「神のかたち」に創造されているのですから、この世の組織や会社の中にも、善意ある人々が多数います。

 

しかし、約束の御霊を受けた人には、それらを超えた、はるかに偉大な約束が伴っています。申命記28章では、「のろい」のもとにある生活が、「家を建てても、その中に住むことができない・・・ぶどう畑を作り、耕しても・・そのぶどう酒を飲むことも集めることもできない」と、労苦が無駄になることとして描かれます(3038節)。

それに対して、イエスの復活の御霊を受けた人には、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている(Ⅰコリント15:58)と断言されています。

事実、キリストの復活によって、「のろい」から「祝福」に移された私たちは、この世界に理想を追い求め過ぎてかえって混乱を作る者でもなく、またこの世からの分離ばかりを考える無責任者でもなく、自分に与えられた仕事を、主からの使命と受け止め、主との祈りの交わりの中で、自分の仕事を改善して行くことができます。

 

私はドイツでの留学生活の後、同社の現地法人において、ドイツの保険会社や金融機関を相手に、証券営業を続けました。同時に、現地の教会の集いつつ、日曜の午後は日本語の家庭集会を持つようになりました。

その中で改めて、自分に対する主の召しを考えるようになり、伝道者、牧師になるという導きを受けました。ただ、社費で留学させてもらっていた手前、すぐに退職することはできませんでした。

 

ところが、退職を決意し、上司に告げて以来の退職までの三年余りの間、上司や本社の評価がまったく気にならなくなりました(当然のことですが・・)

そこで改めて、「自分は一時的に、主の召しによって、この職場に置かれているに過ぎない。自分の仕事は、主に仕えるという霊的視点の中でなされるべきものだ」という真理に目が開かれました。すると、仕事がかえって、創造的に思え、楽しくなり始めました。

 

私は決して、人に誇れるような仕事をしてきてはいませんが、自分の仕事を軽蔑していた時にさえ、主に祈りつつ働いて来たことは事実です。礼拝で居眠りすることはあっても、礼拝を休もうと思ったことはほとんどありません。それは、イエスを救い主として信じて以来、無意識のうちにも、のろいから祝福へ」と移されていることを自覚できていたからでしょう。

自分はみこころを読み間違えて証券会社に入ったのではありませんでした。主の御手の中で、大切な十年間を、不条理が渦巻く金融の世界に置いていただいていたのです。それは、目に見える現実は苦難に満ちていたことはあっても、振り返ってみると、「自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っている」という霊的真理を体験できていたからです。

 

そして、あなたが「主のうちにある」という霊的真理は、「正義の住む新しい天と新しい地(Ⅱペテロ3:13)に至るまで、さらに深められる体験です。

自分のうちに生きて働く「聖霊」のみわざに敏感になりましょう。聖霊はあなたを守り通し、あなたを「シャローム(平和、平安)」の完成に導いてくださいます。

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