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2016年11月27日 (日)

ヨハネ15章26節~16章24節「悲しみは喜びに変わります」

                                            20161127

   キリストの十字架と復活によって、「新しい創造」が起きました。どんなに世界が暗くても、そこで私たちは希望を見出し、悲しみのただ中でさえ、喜ぶことができます。それは、人生の不条理を悲しみ、うらみ、あきらめ、自己憐憫に浸る日本の演歌の世界とは異なります。

多くの方々は、聖霊の働きをなかなか実感できずにいます。私も自分のうちに御霊が住んでおられるという神秘を理解できずに、目に見える周囲の状況や自分自身の成長のなさに失望ばかりしていた時期があります。しかし、あるとき、ふと、「天においてはすでに勝利のハレルヤ・コーラスが響いている」という霊的な現実を覚えることができました。

どんな絶望的な状況の中でも、私たちはキリストの勝利を信じることができます。それこそ、御霊の働きです。

 

1. 「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」

   イエスはご自身と弟子たちを、「理由なしに」「世が・・憎む」という現実を指摘し(15:18,19,24)、その上で御霊について語ります。その方は、「わたしが父のもとから遣わす助け主」であり、「父から出る真理の御霊」と呼ばれます(15:26)

つまり、御霊は、イエスご自身が遣わすイエスの代理でありながら、イエスより劣った方ではなく、直接に「父から出る」イエスと同格の方だというのです。それは、イエスが「ただひとり父から生まれた方(1:18)であるので御父と同質であるのと同じです。

そして、その方がイエスについてあかしするとともに、イエスの弟子たちも「あかしするというのです。それは「初めから」イエスと「いっしょにいた」者の責任でもありますが、そこに、「助け主」である聖霊ご自身の働きが現れることは明らかです。 

 

そしてイエスは弟子たちに、「これらのことを・・話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」(16:1)と言われますが、人間的に考えると、つまずいて当然です。

彼らはすべてを捨ててイエスに従って来たのに、今、主から置き去りにされ、社会から追放され、異端者として殺されるというのですから・・。

 

ただし、イエスはご自身の十字架の苦しみを前に、それを勝利の凱旋かのように、「わたしを遣わした方のもとに行こうとしている」(16:5)と言われます。彼らは目の前の戦いばかりを見ていました。

それで、イエスは、「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」と言われます。確かに、かつてペテロは、殉教の覚悟を持ちながら、イエスについて行くと豪語しました(13:3637)。またイエスが、「わたしの行く道はあなたがたも知っています」と言われたとき、トマスは、「どうして、その道が私たちにわかりましょう」と応答しています(14:4,5)

彼らは、イエスのことばの意味を真に知ろうとはしていませんでした。彼らは、そこにある「希望」を見ることができず、イエスの話しを聞きながら、「心は悲しみでいっぱいになって」(16:6)いるばかりでした。

そこでイエスは、「わたしは真実を言います」と強調しながら、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとってなのです(16:7)と大胆に述べます。

 

私たちは、イエスがいつも目に見える形で、私たちの傍らにいてくださったらどんなに幸いかと思います。主はひとことで嵐を静め、病をいやし、やさしく語りかけてくださるはずだからです。イエスの魅力の前に、富も権力も名誉も色あせてしまい、私たちは弟子たちのようにすべてを捨ててでも従いたいと思うはずです。

ところがここで、イエスはご自身が「去って行く」なら「助け主をつかわす(16:7)ことができると言われます。そしてそれは何と、目に見えるイエスが傍らにいるよりも「益なのです」と断言されました。

 

私たちは、聖霊が遣わされることが、どんなにすばらしいことか知っているでしょうか?イエスとの関係の中で、弟子たちの間には「誰がイエスの身近にいられるか?誰が一番偉いか?」という競走がありました。そして、人は、ひとりのイエスのもとからは、時間的にも空間的にも離れがたくなります。

 

しかし、目に見えないイエスとまったく同じ「助け主」と呼ばれる方が、いつも私たち自身のうちに住んでおられるなら、そんな心配もなく、自由に行動できるようになります。

確かに、目に見える存在は依存関係を作りがちですが、イエスは、親が子供を自立させるように、弟子たちの自由を望んだのです。

 

イエスは私たちを「友」と呼びましたが(15:15)、真の友は、依存関係ではありません。その人は、友が別の友を作ることを喜び、離れた所での活躍を喜びながら、必要になったら飛んで来てくれます。それこそが、「互いに愛し合う」という友の関係を築くことです。

聖霊はひとり一人のうちに住んでくださいますが、それは、クリスチャンと同じ数のイエスがそれぞれの傍らにいつも寄り添ってくださることと同じなのです。

 

2. 「その方は、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」

  イエスは、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16:8)と、聖霊の働きは、特に以下の三つの点で、「世の人間的な常識」を覆し、その誤りを認めさせると言われました。

第一に、聖霊は「罪について(16:9)誤りを指摘します。ここでの「」とは、「悪い行い」という以前に、イエスは「彼らがわたしを信じないからです」と言われました。当時のユダヤ人は「神の国」の実現に憧れながら、神の御子が遣わされたことを認めず、この翌日には、その方を十字架に架けて殺そうとしています。その「誤りを認め」ることこそが求められているのです。

」には様々な側面がありますが、ここのギリシャ語のハマルティアは「的外れ」を意味します。それは、「イエスを自分の人生の主とする」という生き方に反すること自体を指します。「」に関してのこの世と、神の視点はまったく異なるのです。

 

また、御霊は「義について」(16:10)の誤りを指摘しますが、それは、「わたしが父のもとに行き、あながたがもはやわたしを見なくなるからです」と記されています。この福音書では、イエスがご自分のことを、天の父なる神から遣わされ、御父のもとに帰ると繰り返し語っておられます(7:28-33)

また、ご自身の十字架を、不思議にも「人の子が栄光を受けるその時(12:23)と言っておられます。それに対し、世の人々はキリストの弟子を殺すことで神に奉仕しているのだと思う」(16:2)と記されます。後にパウロは、ユダヤ人の問題を、「彼らは神の義を知らず自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ10:3)と記しています。

世の人々は自分にとっての正義を求めながら、争いを正当化しますが、「神の義」とは、何よりも、神がこの世界を再創造するためにご自身の御子を遣わし、罪と死を支配するサタンの力を砕き、御子をご自身のもとに引き上げることを意味しました。「神の義」とは正義を求める人間の努力以前に、神の救いのご計画の中に身を任せることの中にあります。

しかも、弟子たちがイエスを見なくなる」代わりに聖霊が弟子に下るのですから、そこに人の努力による「」を逆転する「神の義」が見られます。

 

御霊は「さばきについて(16:11)の誤りを指摘します。それは「この世を支配する者がさばかれたからです」と記されますが、世の人々の誤りは、サタンに対するキリストの勝利を認めないことです。

この世の権力者が暴力の脅しで人々を支配する背後に、サタンがいます。サタンは自分を隠しながら、人々が権力闘争や復讐の連鎖に走るように誘導しています。イエスは、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言われましたが、それはイエスに従う者の最終的な勝利が明らかだからです。

さばき」とは何よりも神のご支配の現実を指します。多くの人々は富と権力の奴隷になって行きますが、聖霊に導かれる者は、その恐ろしい力を認めつつも、神の「さばき(支配)を知って、それに従うことができます。

 

   先日お招きいただいた教会で、日本を代表する食品会社の社長からご著書をいただきました。彼は高校生の時、神との不思議な出会いの体験をしながらも、「この世に生きて、喜怒哀楽を自分で体験したい」と願い、神に背を向けた歩みを続けました。

大学卒業後、父親の会社に就職し、英国でも訓練を受け、帰国後、様々な部署で働きながら、「苦しみと悲しみの中で、どこに出口があるかわからない暗闇の中での仕事となってしまった」とのことです。ただ、その頃、初めて出席した教会の礼拝で、「その方は、罪について・・・その誤りを認めさせ」とのメッセージを聞き、「それでは、信じて従えばいいんですね」と自問自答し、方向転換します。

32歳で受洗しますが、そこで彼は、「暗闇のはるか彼方にある一点の光を」を見出します。感動的なのは、その後、四十数年間、この箇所のみことばを徹底的に自分の人生の指針にしつつ、そこからイエスの「山上の垂訓」を中心とした教えを仕事の中で実践する方向へと、みことばの学びと会社経営が車の両輪のように進むことです。

彼は、「この世は罪と世とサタンが支配し、暗闇がこの世を覆っています。しかし、この世に人が住み、人の叫び声は生ける神、主に届きます」と記しつつ、この世の正義ではなく、神にとっての「」とは何か、また、この世的な判断(さばき)ではなく、主に喜ばれる「さばき」(判断)とは何かをいつも慕い求め続けておられます。

興味深いのは、彼はご自分の会社は「クリスチャンの会社ではない・・・日本の社会は複雑で、会社の中で信仰を説いても良い結果は生みません」と言っておられることです。確かに、ビジネスはお金の論理で動きますから、そこに聖書の論理を不用意に入れることは、かえって会社を危機にさらします。

罪について、義について、さばきについて」の「誤り」は、個々人の祈りの生活の中で明らかにされることです。この社長さんの場合、経営が危機に瀕するたびに、原点に立ち返り、会社の成長と信仰の成長が並行して進んで、その生き方が証しになっています。

 

  ビジネスは、お金の論理で展開されます。しかし、お金は、真の夢のあるところに集まってくるものでもあります。お金は自己増殖を求めているからです。

そして、「夢」は、私たちの内側で、神との祈りの交わりから生まれるものでもあります。御霊に導かれた信仰者の中でこそ、お金が真に生かされるのです。

 

3.  「御霊はわたしの栄光をあらわします」

  イエスは、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません(16:12)と言われました。人は、将来の苦しみの可能性すべてを一度に語られると、圧倒されて気持ちが萎えるからです。

しかしイエスは、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16:13)と、必要な知識は、時が来たら御霊ご自身が知らせてくださると約束してくださいました。しかも、御霊は、イエスが弟子たちの傍らにいるかのように、主のことばを「聞くままに話し」てくださるというのです。

私たちは先の心配をする必要はありません。イエスはマルコ1311節で、弟子たちが世の権力者たちに、「捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを話しなさい。話すのは、あなたがたではなく、聖霊です」と保証されました。

 

またイエスはここで、御霊は「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」と言われますが、これは、未来の予知というより神の救いのご計画の全体像のことです。弟子たちがまだイエスの十字架も分かっておらない段階では、主の再臨によって世界が新しくされるという基本教理を教える余地もなかったからです。それを、イエスは後に、黙示録を通して語ってくださいました。

私たちの場合は、既に聖書で「やがて起ころうとしていること」が示されています。しかし、私たちは世的な感覚に縛られているため、御霊の導きがなければ、それが自分の人生に重大な意味を持つということが分からないことがあります。

 

その上で、イエスは、もっとも大切な原理として、「御霊はわたしの栄光を現します」とも言われます。御霊はご自身の働きを隠してイエスに栄光を帰します。なぜなら、私たちの内側には「私を認め、私に耳を傾けて」という願望が根強くあり、「御霊の導き」という名目で自分の「栄光」を求める誘惑にしばしば負けてしまうからです。

御霊は、迫害や苦しみのただ中で、イエスこそがサタンに勝利した歴史の支配者であることを証しし、私たちの心を、この地から「天」に向け、イエスの栄光を拝する者としてくださいます。

 

さらに主は、御霊が「わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる(15,16)と二度繰り返します。御霊はイエスの生き方に反することを教えはしませんし、人が真に御霊に導かれているなら、その人の日常生活の中で、イエスがあがめられて行くはずなのです。

ただし、これでは、御霊がイエスのしもべかのような誤解が生まれる可能性がありますので、イエスは、「父が持っておられるものはみな、わたしのものです」(16:15)と、御霊はイエスを通して御父のものを受けているということを明かされました。それは、つまり、御霊は「父から出る」ということの確認であり、御霊がイエスと同格の神であることの証しになります。

 

   聖書では、キリスト者は「御霊を受けている人(Ⅰコリント2:15)と呼ばれます。イエスは、「わたしが去って行くことは・・益なのです」と言われるほどに、それは途方もない恵みです。

御霊は、全能の創造主であられ、私たちにイエスの栄光を拝させ、私たちをイエスの栄光の姿にまで造り変えてくださいます。

 

4. つかの間の悲しみと、永遠に続く喜び

  イエスは続けて弟子たちに、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます(16:16)と語られ、弟子たちの困惑が同じ言葉を用いての会話として描かれ(16:17)、イエスもまた同じ言葉で答えます(16:19)三回も同じ表現が繰り返されるのです。

その中で弟子たちの疑問が、「しばらくすると」とは「何のことだろう」と描かれます(16:18)。ここではしばらく(原文:ミクロン)が七回も繰り返されますが、それは「ごく短い期間」を意味します。それは、イエスの十字架に至る時と、復活が確認されるまでの、弟子たちが「泣き」、「嘆き悲しむ」「悲しむ」時期を指します(16:20)

 

   続けてイエスは、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と断言し、それを女性の出産の激しい苦痛」にたとえます(21)。誕生の後には、苦痛を忘れさせるほどの「喜び」があるからです。

同じように弟子たちも、「もう一度(復活のイエスに)会う」その時に、「あなたがたの心は喜びに満たされ(22)というのです。「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありませんと断言されます。

 

そして、イエスはその後、天の父なる神のみもとに上り、再び見えなくなりますが、その時には、別れが悲しみにはなりません。なぜなら、イエスは既に、死の力に勝利し、「もうひとりの助け主(14:16)としての「聖霊」を遣わされるからです。

つまり、嘆き悲しみはごく短期間なのに、喜びは永遠に続くのです。

 

   日本文化の背景には、「十字架から復活」という逆転が見られません。そのため特に、「喜び」に関する語彙が極端に少ないように思われます。たとえば、英語の讃美歌で原作者がrejoice, glad, delight, pleasure, enjoy, happy, exult, jubileeなどと使い分けることばを翻訳し切れません。

一方、「悲しみ」の表現は驚くほど豊かです。「切ない、わびしい、つらい、うらめしい」などをどう英語に訳せるでしょうか?百人一首には恋の歌が40首ほどありますが、その38首までは「添い遂げられない恋」の歌だと言われます。演歌もその流れで、「あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります。着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます・・・あなた、死んでもいいですか?胸がしんしん泣いてます・・」などという「北の宿から」の歌詞が多くの人の心の琴線を震わせます。

多くの日本人の心の底には、終わりのない悲しみが流れているのかもしれません。ところが、福音を知る者は、十字架という残酷なことばを用いながら、消えることのない「喜び」を表現します。

私たちにとって、悲しみは「ごく短い間」(ミクロン)の出来事です。だからこそ、教会では悲惨なことをも隠さずに語ることができます。それは、十字架のことばの底辺には、消えることのない喜び、日本語で表現しきれないほど豊かな「喜び」のテーマが流れているからです。

私たちは、永遠の喜びに満ちた愛に動かされつつ、この世の困難に立ち向かって行くことができます。

 

   「その日には・・」(16:23)とは、彼らが復活のイエスにまみえ、真理の御霊を受ける時です。これは、主の復活以降に生きる私たちすべてに適用できます。

23-26節には、「父に・・求める」という祈りの勧めが三度繰り返されますが、その鍵のことばは「わたしの名によって」です。「イエス様の御名によって」とは、祈りの締めくくりの言葉というより、「イエスと一体とされた者として」という意味です。

聖霊を受けるとは、イエスが私たちのうちに住んでおられることを意味します。ですから、第一に、「父は、わたしの名によって・・お与えになる(16:23)とあるように、神は、あなたの願いをイエスご自身からの願いかのように受けとめて下さいます。

そして、第二に、「わたしの名によって・・求めなさい。そうすれば受けるのです(16:24)とあるように、あなたは、イエスに結びついた者として、イエスに導かれた夢の実現を、その父なる神に大胆に求めることができます。その結果、「あなたの喜びが満ち満ちたものとなる(24)というのです。

 

十字架と復活を知ることは、価値観が覆されることです。私たちは、悲しみや患難を恐れて避ける必要はありません。そこでこそ神の御手に抱擁されている喜びと平安を味わうことができるのですから・・・。

 

そして、患難に立ち向かう勇気が与えられるとき、私たちはそこで、死の脅しによってこの心を支配しようとするサタンにすでに打ち勝っています。勝利はキリストのものです。

そして聖霊の働きは、私たちの中で、復活のキリストにある世界の完成の希望が生まれることです。そして、希望から愛が生まれます。また、聖霊の働きは、私たちが絶望している人に寄り添い、ともにうめき、ともに祈る中に現されています。

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