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2016年11月27日 (日)

ヨハネ15章26節~16章24節「悲しみは喜びに変わります」

                                            20161127

   キリストの十字架と復活によって、「新しい創造」が起きました。どんなに世界が暗くても、そこで私たちは希望を見出し、悲しみのただ中でさえ、喜ぶことができます。それは、人生の不条理を悲しみ、うらみ、あきらめ、自己憐憫に浸る日本の演歌の世界とは異なります。

多くの方々は、聖霊の働きをなかなか実感できずにいます。私も自分のうちに御霊が住んでおられるという神秘を理解できずに、目に見える周囲の状況や自分自身の成長のなさに失望ばかりしていた時期があります。しかし、あるとき、ふと、「天においてはすでに勝利のハレルヤ・コーラスが響いている」という霊的な現実を覚えることができました。

どんな絶望的な状況の中でも、私たちはキリストの勝利を信じることができます。それこそ、御霊の働きです。

 

1. 「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」

   イエスはご自身と弟子たちを、「理由なしに」「世が・・憎む」という現実を指摘し(15:18,19,24)、その上で御霊について語ります。その方は、「わたしが父のもとから遣わす助け主」であり、「父から出る真理の御霊」と呼ばれます(15:26)

つまり、御霊は、イエスご自身が遣わすイエスの代理でありながら、イエスより劣った方ではなく、直接に「父から出る」イエスと同格の方だというのです。それは、イエスが「ただひとり父から生まれた方(1:18)であるので御父と同質であるのと同じです。

そして、その方がイエスについてあかしするとともに、イエスの弟子たちも「あかしするというのです。それは「初めから」イエスと「いっしょにいた」者の責任でもありますが、そこに、「助け主」である聖霊ご自身の働きが現れることは明らかです。 

 

そしてイエスは弟子たちに、「これらのことを・・話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」(16:1)と言われますが、人間的に考えると、つまずいて当然です。

彼らはすべてを捨ててイエスに従って来たのに、今、主から置き去りにされ、社会から追放され、異端者として殺されるというのですから・・。

 

ただし、イエスはご自身の十字架の苦しみを前に、それを勝利の凱旋かのように、「わたしを遣わした方のもとに行こうとしている」(16:5)と言われます。彼らは目の前の戦いばかりを見ていました。

それで、イエスは、「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」と言われます。確かに、かつてペテロは、殉教の覚悟を持ちながら、イエスについて行くと豪語しました(13:3637)。またイエスが、「わたしの行く道はあなたがたも知っています」と言われたとき、トマスは、「どうして、その道が私たちにわかりましょう」と応答しています(14:4,5)

彼らは、イエスのことばの意味を真に知ろうとはしていませんでした。彼らは、そこにある「希望」を見ることができず、イエスの話しを聞きながら、「心は悲しみでいっぱいになって」(16:6)いるばかりでした。

そこでイエスは、「わたしは真実を言います」と強調しながら、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとってなのです(16:7)と大胆に述べます。

 

私たちは、イエスがいつも目に見える形で、私たちの傍らにいてくださったらどんなに幸いかと思います。主はひとことで嵐を静め、病をいやし、やさしく語りかけてくださるはずだからです。イエスの魅力の前に、富も権力も名誉も色あせてしまい、私たちは弟子たちのようにすべてを捨ててでも従いたいと思うはずです。

ところがここで、イエスはご自身が「去って行く」なら「助け主をつかわす(16:7)ことができると言われます。そしてそれは何と、目に見えるイエスが傍らにいるよりも「益なのです」と断言されました。

 

私たちは、聖霊が遣わされることが、どんなにすばらしいことか知っているでしょうか?イエスとの関係の中で、弟子たちの間には「誰がイエスの身近にいられるか?誰が一番偉いか?」という競走がありました。そして、人は、ひとりのイエスのもとからは、時間的にも空間的にも離れがたくなります。

 

しかし、目に見えないイエスとまったく同じ「助け主」と呼ばれる方が、いつも私たち自身のうちに住んでおられるなら、そんな心配もなく、自由に行動できるようになります。

確かに、目に見える存在は依存関係を作りがちですが、イエスは、親が子供を自立させるように、弟子たちの自由を望んだのです。

 

イエスは私たちを「友」と呼びましたが(15:15)、真の友は、依存関係ではありません。その人は、友が別の友を作ることを喜び、離れた所での活躍を喜びながら、必要になったら飛んで来てくれます。それこそが、「互いに愛し合う」という友の関係を築くことです。

聖霊はひとり一人のうちに住んでくださいますが、それは、クリスチャンと同じ数のイエスがそれぞれの傍らにいつも寄り添ってくださることと同じなのです。

 

2. 「その方は、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」

  イエスは、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16:8)と、聖霊の働きは、特に以下の三つの点で、「世の人間的な常識」を覆し、その誤りを認めさせると言われました。

第一に、聖霊は「罪について(16:9)誤りを指摘します。ここでの「」とは、「悪い行い」という以前に、イエスは「彼らがわたしを信じないからです」と言われました。当時のユダヤ人は「神の国」の実現に憧れながら、神の御子が遣わされたことを認めず、この翌日には、その方を十字架に架けて殺そうとしています。その「誤りを認め」ることこそが求められているのです。

」には様々な側面がありますが、ここのギリシャ語のハマルティアは「的外れ」を意味します。それは、「イエスを自分の人生の主とする」という生き方に反すること自体を指します。「」に関してのこの世と、神の視点はまったく異なるのです。

 

また、御霊は「義について」(16:10)の誤りを指摘しますが、それは、「わたしが父のもとに行き、あながたがもはやわたしを見なくなるからです」と記されています。この福音書では、イエスがご自分のことを、天の父なる神から遣わされ、御父のもとに帰ると繰り返し語っておられます(7:28-33)

また、ご自身の十字架を、不思議にも「人の子が栄光を受けるその時(12:23)と言っておられます。それに対し、世の人々はキリストの弟子を殺すことで神に奉仕しているのだと思う」(16:2)と記されます。後にパウロは、ユダヤ人の問題を、「彼らは神の義を知らず自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ10:3)と記しています。

世の人々は自分にとっての正義を求めながら、争いを正当化しますが、「神の義」とは、何よりも、神がこの世界を再創造するためにご自身の御子を遣わし、罪と死を支配するサタンの力を砕き、御子をご自身のもとに引き上げることを意味しました。「神の義」とは正義を求める人間の努力以前に、神の救いのご計画の中に身を任せることの中にあります。

しかも、弟子たちがイエスを見なくなる」代わりに聖霊が弟子に下るのですから、そこに人の努力による「」を逆転する「神の義」が見られます。

 

御霊は「さばきについて(16:11)の誤りを指摘します。それは「この世を支配する者がさばかれたからです」と記されますが、世の人々の誤りは、サタンに対するキリストの勝利を認めないことです。

この世の権力者が暴力の脅しで人々を支配する背後に、サタンがいます。サタンは自分を隠しながら、人々が権力闘争や復讐の連鎖に走るように誘導しています。イエスは、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言われましたが、それはイエスに従う者の最終的な勝利が明らかだからです。

さばき」とは何よりも神のご支配の現実を指します。多くの人々は富と権力の奴隷になって行きますが、聖霊に導かれる者は、その恐ろしい力を認めつつも、神の「さばき(支配)を知って、それに従うことができます。

 

   先日お招きいただいた教会で、日本を代表する食品会社の社長からご著書をいただきました。彼は高校生の時、神との不思議な出会いの体験をしながらも、「この世に生きて、喜怒哀楽を自分で体験したい」と願い、神に背を向けた歩みを続けました。

大学卒業後、父親の会社に就職し、英国でも訓練を受け、帰国後、様々な部署で働きながら、「苦しみと悲しみの中で、どこに出口があるかわからない暗闇の中での仕事となってしまった」とのことです。ただ、その頃、初めて出席した教会の礼拝で、「その方は、罪について・・・その誤りを認めさせ」とのメッセージを聞き、「それでは、信じて従えばいいんですね」と自問自答し、方向転換します。

32歳で受洗しますが、そこで彼は、「暗闇のはるか彼方にある一点の光を」を見出します。感動的なのは、その後、四十数年間、この箇所のみことばを徹底的に自分の人生の指針にしつつ、そこからイエスの「山上の垂訓」を中心とした教えを仕事の中で実践する方向へと、みことばの学びと会社経営が車の両輪のように進むことです。

彼は、「この世は罪と世とサタンが支配し、暗闇がこの世を覆っています。しかし、この世に人が住み、人の叫び声は生ける神、主に届きます」と記しつつ、この世の正義ではなく、神にとっての「」とは何か、また、この世的な判断(さばき)ではなく、主に喜ばれる「さばき」(判断)とは何かをいつも慕い求め続けておられます。

興味深いのは、彼はご自分の会社は「クリスチャンの会社ではない・・・日本の社会は複雑で、会社の中で信仰を説いても良い結果は生みません」と言っておられることです。確かに、ビジネスはお金の論理で動きますから、そこに聖書の論理を不用意に入れることは、かえって会社を危機にさらします。

罪について、義について、さばきについて」の「誤り」は、個々人の祈りの生活の中で明らかにされることです。この社長さんの場合、経営が危機に瀕するたびに、原点に立ち返り、会社の成長と信仰の成長が並行して進んで、その生き方が証しになっています。

 

  ビジネスは、お金の論理で展開されます。しかし、お金は、真の夢のあるところに集まってくるものでもあります。お金は自己増殖を求めているからです。

そして、「夢」は、私たちの内側で、神との祈りの交わりから生まれるものでもあります。御霊に導かれた信仰者の中でこそ、お金が真に生かされるのです。

 

3.  「御霊はわたしの栄光をあらわします」

  イエスは、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません(16:12)と言われました。人は、将来の苦しみの可能性すべてを一度に語られると、圧倒されて気持ちが萎えるからです。

しかしイエスは、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16:13)と、必要な知識は、時が来たら御霊ご自身が知らせてくださると約束してくださいました。しかも、御霊は、イエスが弟子たちの傍らにいるかのように、主のことばを「聞くままに話し」てくださるというのです。

私たちは先の心配をする必要はありません。イエスはマルコ1311節で、弟子たちが世の権力者たちに、「捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを話しなさい。話すのは、あなたがたではなく、聖霊です」と保証されました。

 

またイエスはここで、御霊は「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」と言われますが、これは、未来の予知というより神の救いのご計画の全体像のことです。弟子たちがまだイエスの十字架も分かっておらない段階では、主の再臨によって世界が新しくされるという基本教理を教える余地もなかったからです。それを、イエスは後に、黙示録を通して語ってくださいました。

私たちの場合は、既に聖書で「やがて起ころうとしていること」が示されています。しかし、私たちは世的な感覚に縛られているため、御霊の導きがなければ、それが自分の人生に重大な意味を持つということが分からないことがあります。

 

その上で、イエスは、もっとも大切な原理として、「御霊はわたしの栄光を現します」とも言われます。御霊はご自身の働きを隠してイエスに栄光を帰します。なぜなら、私たちの内側には「私を認め、私に耳を傾けて」という願望が根強くあり、「御霊の導き」という名目で自分の「栄光」を求める誘惑にしばしば負けてしまうからです。

御霊は、迫害や苦しみのただ中で、イエスこそがサタンに勝利した歴史の支配者であることを証しし、私たちの心を、この地から「天」に向け、イエスの栄光を拝する者としてくださいます。

 

さらに主は、御霊が「わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる(15,16)と二度繰り返します。御霊はイエスの生き方に反することを教えはしませんし、人が真に御霊に導かれているなら、その人の日常生活の中で、イエスがあがめられて行くはずなのです。

ただし、これでは、御霊がイエスのしもべかのような誤解が生まれる可能性がありますので、イエスは、「父が持っておられるものはみな、わたしのものです」(16:15)と、御霊はイエスを通して御父のものを受けているということを明かされました。それは、つまり、御霊は「父から出る」ということの確認であり、御霊がイエスと同格の神であることの証しになります。

 

   聖書では、キリスト者は「御霊を受けている人(Ⅰコリント2:15)と呼ばれます。イエスは、「わたしが去って行くことは・・益なのです」と言われるほどに、それは途方もない恵みです。

御霊は、全能の創造主であられ、私たちにイエスの栄光を拝させ、私たちをイエスの栄光の姿にまで造り変えてくださいます。

 

4. つかの間の悲しみと、永遠に続く喜び

  イエスは続けて弟子たちに、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます(16:16)と語られ、弟子たちの困惑が同じ言葉を用いての会話として描かれ(16:17)、イエスもまた同じ言葉で答えます(16:19)三回も同じ表現が繰り返されるのです。

その中で弟子たちの疑問が、「しばらくすると」とは「何のことだろう」と描かれます(16:18)。ここではしばらく(原文:ミクロン)が七回も繰り返されますが、それは「ごく短い期間」を意味します。それは、イエスの十字架に至る時と、復活が確認されるまでの、弟子たちが「泣き」、「嘆き悲しむ」「悲しむ」時期を指します(16:20)

 

   続けてイエスは、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と断言し、それを女性の出産の激しい苦痛」にたとえます(21)。誕生の後には、苦痛を忘れさせるほどの「喜び」があるからです。

同じように弟子たちも、「もう一度(復活のイエスに)会う」その時に、「あなたがたの心は喜びに満たされ(22)というのです。「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありませんと断言されます。

 

そして、イエスはその後、天の父なる神のみもとに上り、再び見えなくなりますが、その時には、別れが悲しみにはなりません。なぜなら、イエスは既に、死の力に勝利し、「もうひとりの助け主(14:16)としての「聖霊」を遣わされるからです。

つまり、嘆き悲しみはごく短期間なのに、喜びは永遠に続くのです。

 

   日本文化の背景には、「十字架から復活」という逆転が見られません。そのため特に、「喜び」に関する語彙が極端に少ないように思われます。たとえば、英語の讃美歌で原作者がrejoice, glad, delight, pleasure, enjoy, happy, exult, jubileeなどと使い分けることばを翻訳し切れません。

一方、「悲しみ」の表現は驚くほど豊かです。「切ない、わびしい、つらい、うらめしい」などをどう英語に訳せるでしょうか?百人一首には恋の歌が40首ほどありますが、その38首までは「添い遂げられない恋」の歌だと言われます。演歌もその流れで、「あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります。着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます・・・あなた、死んでもいいですか?胸がしんしん泣いてます・・」などという「北の宿から」の歌詞が多くの人の心の琴線を震わせます。

多くの日本人の心の底には、終わりのない悲しみが流れているのかもしれません。ところが、福音を知る者は、十字架という残酷なことばを用いながら、消えることのない「喜び」を表現します。

私たちにとって、悲しみは「ごく短い間」(ミクロン)の出来事です。だからこそ、教会では悲惨なことをも隠さずに語ることができます。それは、十字架のことばの底辺には、消えることのない喜び、日本語で表現しきれないほど豊かな「喜び」のテーマが流れているからです。

私たちは、永遠の喜びに満ちた愛に動かされつつ、この世の困難に立ち向かって行くことができます。

 

   「その日には・・」(16:23)とは、彼らが復活のイエスにまみえ、真理の御霊を受ける時です。これは、主の復活以降に生きる私たちすべてに適用できます。

23-26節には、「父に・・求める」という祈りの勧めが三度繰り返されますが、その鍵のことばは「わたしの名によって」です。「イエス様の御名によって」とは、祈りの締めくくりの言葉というより、「イエスと一体とされた者として」という意味です。

聖霊を受けるとは、イエスが私たちのうちに住んでおられることを意味します。ですから、第一に、「父は、わたしの名によって・・お与えになる(16:23)とあるように、神は、あなたの願いをイエスご自身からの願いかのように受けとめて下さいます。

そして、第二に、「わたしの名によって・・求めなさい。そうすれば受けるのです(16:24)とあるように、あなたは、イエスに結びついた者として、イエスに導かれた夢の実現を、その父なる神に大胆に求めることができます。その結果、「あなたの喜びが満ち満ちたものとなる(24)というのです。

 

十字架と復活を知ることは、価値観が覆されることです。私たちは、悲しみや患難を恐れて避ける必要はありません。そこでこそ神の御手に抱擁されている喜びと平安を味わうことができるのですから・・・。

 

そして、患難に立ち向かう勇気が与えられるとき、私たちはそこで、死の脅しによってこの心を支配しようとするサタンにすでに打ち勝っています。勝利はキリストのものです。

そして聖霊の働きは、私たちの中で、復活のキリストにある世界の完成の希望が生まれることです。そして、希望から愛が生まれます。また、聖霊の働きは、私たちが絶望している人に寄り添い、ともにうめき、ともに祈る中に現されています。

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2016年11月20日 (日)

申命記19章~22章「地に足の着いた愛の交わり」

                                             20161120

   私たちの生きている世界では、「これは絶対にあってはならない」と思える悲劇や不条理が必ず起きます。日本ではそこで、あらゆる問題の可能性を「想定」しながら、未然に備えることが求められがちですが、それでは「息が詰まる」ことになりかねないばかりか、「想定外」という事態への対処ができなくなります。

それよりは、「問題は必ず起きる・・不条理はあり続ける」ということを前提として、そこで「最悪の事態を避ける」ための歯止めを考える方が、「失敗者に優しい」対応ができます。

しかし、同時に、「これは絶対に赦してはならない」という厳しい基準がなければ、社会が成り立たないという面もあります。

 

「互いに愛し合う」ことを抽象的に理想化し、それで人や自分をさばいたり、反対に、人に振り回されたりということがないでしょうか。現代は特に、人と人との関係についてあまりにも性急な解決を望む傾向があります。

三千数百年余り前の原則は、その点で驚くほど日常的で具体的です。そこには、原則を徹底的に大切にしながら「地に足の着いた愛の交わり」を築くための現実的な知恵が記されています。

 

1. 「のがれの町」と「あわれんではならない」と言われる場合

   191-13節では、「知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合(19:4)「のがれの町」のことが述べられます。それはたとえば、斧を振り上げて、その頭が柄から抜け、隣人に当たったような場合を指します。

現代の日本で高齢者ドライバーによる事故に似ているかもしれません。被害者の家族にとっては厳罰を望みたいところですが、「殺人の罪」とは明確に区別される必要があります。

 

民数記35:9-34では、ヨルダン川の東と西に三つずつの町を設定し、その運用の仕方が細かく記され、最後には「血は土地を汚す…土地を汚してはならない」と記されていました。

一方、ここでは、ヨルダン川の西側の「地域を三つに区分し」、「三つの町を取り分ける」こと、そして、「その者はこれらの町のひとつにのがれて生きることができる・・その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない(19:5,6)という救いの面が強調されます。

しかも、89節では、主の道に従って、領土を広げることができたなら、「さらに三つの町を追加」するようにと命じられています。

 

それを一般原則化し、「あなたの神、主(ヤハウェ)が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血(原文:咎のない血)が流されることなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである」(19:10)とまとめられます。

私たちはしばしば、取り返しのつかない失敗をしたと落ち込みますが、神は「心の動機」を見ていてくださいます。悪意がないのに死刑にされてしまう可能性を、神は「咎のない血」と見てくださるというのです。

 

   しかし、「もし、人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町のひとつに逃れるようなことがあれば・・・人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者(原文「血を贖う者」)の手に渡さなければならない・・彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪(原文:咎のない血)は、イスラエルから除き去りなさい」(19:13)と命じられます。

原文で、「血を贖う者」と記されるように、その目的は、血で汚された「土地を贖う」ことで、それは殺人者の血によるしかないからです(35:33)。また同時に、「除き去る」のは、「罪」である前に「血」であると記されます。主の相続地をきよく保つことが主題なのです。

14節ではその関連で、「隣人との地境を移してはならない」と記されます。

 

   また、15節では「すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたり・・または三人の証人の証言によって・・・立証されなければならない」と記されます。

その上で、「悪意のある証人が・・・偽りの証言をしていたのであれば・・彼がその同胞にたくらんでいたとおりに、彼になし・・」(19:16-19)と、たとえば偽証によって人を死刑にしようとたくらむ者は、その人自身が死刑にされると言われます。

私たちは「偽りの証言」をあまりにも軽く考える傾向がありますが、それによってもたらされる破壊的な影響力のほうを見るなら、直接的に人を殺すことと何ら差がないことがわかります。

嘘は恐ろしい力を持って、被害者ばかりか、加害者自身をも窒息させます。もちろんナイーブな正直さが人を傷つけるということもありますが、神は心に隠された悪意を厳しく問われるということを決して忘れてはなりません。

 

そこには「ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を・・再び行わないであろう」(19:20)と言われるような共同体的な配慮もあります。放置された悪は、伝染病のように広がるという面があるからです。

現実の世界では、「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」(19:21)という罪とさばきを同害にする原則が犯罪への最大の抑止力になります。ただし、これは、個人的な復讐を容認する教えではなく、裁判の基準です。

もちろん新約の時代、イエス・キリストの十字架はどんな罪をも赦すことができますが、それは罪を罪と宣言した上で赦すことであって、罪に妥協し、力を与えることではありません。

 

2. 平和のための戦いにおいて

   20章にはこれから始まる聖なる戦いに関することが記されています。イスラエルの民は四十年間の荒野の生活を終え、これからモーセの後継者ヨシュアに導かれてカナンの原住民と戦う必要があります。しかし、彼らには「馬も戦車」もなく、敵の軍勢は彼らを上回っているのです。

それでモーセは、「あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主(ヤハウェ)があなたとともにおられる・・・あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)である(20:14)と改めて強調します。

 

   その上で、軍役を猶予してもらえる三つの例外が記されます(20:5-7)「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者」は家を奉献できるまで、また「ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者」は最初の収穫ができるまで、そして、「婚約して、まだその女と結婚していない者」は、結婚生活を始めるまでの猶予期間が与えられました。

少なくとも昔の日本の徴兵でそんな配慮がなされたことは聞いたことがありません。「例外を許してはきりがない・・」「勝つためには一致団結しなければ・・」と言われたのではないでしょうか。

しかし、今から三千数百年前、戦争は日常茶飯事であり、負けた者は皆殺しか奴隷にされるのが常だった中で、このように個々人の事情に配慮する規程があったのは何とも驚きです。

  イスラエルが戦う目的は、約束の地に定住し、畑を耕し、増え広がるためでしたから、この三点への人道的な配慮を欠いては、戦いを正当化できなくなります

世には、「目的が正しければ、手段を問わない」という風潮がありますが、神は私たちの歩みの一歩一歩が正しくあることを願っておられます。 

 

さらに、「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が・・くじけるといけないから」(20:8)と記されます。昔の日本なら、「根性を叩き直してやらねば・・」と言われそうですが、それは人の心の繊細さを理解しない発想です。

脅しによって人を動かすことは、戦いの理念を無に帰させます。私たちの真の敵は、「死の恐怖」で人を操作するサタンだからです(ヘブル2:15)

たとえば、今、教会でも様々な伝道的な活動や集会が開かれますが、そのための熱い議論の傍らで、それについてゆけない人たちが教会を去るということがあり得ます。そんなときは、「弱気になっている者」をそっとして、彼らに居場所を与えたまま、同時に、心が燃えている人だけで働きを続けるという配慮も必要なのです。

 

その上で、10節から描かれる町の攻略戦では、主は約束の地の外側と内側での戦いの仕方を変えるように命じます。主は、決して無意味な血が流されることを望まれないからです。

約束の地の外側では、降伏勧告を受け入れた町の人々を奴隷として生かし、用いることも認めます。しかし、16節以降にあるように「(ヤハウェ)相続地として与えようとしておられる・・町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない・・・ヘテ人、エモリ人、カナン人・・は、必ず聖絶しなければならない」と厳しく命じられました。

そしてその理由が、「それは、彼らが、その神々に行っていたすべてのいみきらうべきことをあなたがたにするように教え、あなたがたが・・・主(ヤハウェ)に対して罪を犯すことのないため(20:18)と記されます。主は約束の地に、神の国を建てるためにイスラエルを導きましたが、彼らはすぐに偶像礼拝に影響を受けて堕落する恐れがありました。

その地は、退廃した異教の文化から完全に遮断され、聖別された神の土地になる必要がありました。絶滅命令は約束の地を聖別するための命令だったのです。

 

そして、1920節では、主は、戦争で町を包囲する時に、むやみに森林が伐採されることを避けるようにと「野の木」への配慮も命じました。

私たちも切羽詰って、後のことが考えられないことがありますが、死ぬか生きるかの中でさえ、敵への配慮や自然環境への配慮を忘れないようにと命じられるのです。

 

これらの戦争におけるルールは、あくまでも、主が与えてくださった約束の地を占領し、その地に「神の国」を建てるという、その時代だけに適用できる教えでした。

現代の私たちにとっては、全世界が神の神殿であり、私たちはそこで「神のかたち」として生きるように召されています。そして、そこでは「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)であるサタンとの戦いがあります。それは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と記されている通りです(エペソ6;12)

サタンの勢力との取引や妥協はありえません。悪霊は、最初のアダムとエバの場合のように、神に背くことを無意識に望ませるように心の底にささやきかけます。神が与えてくださった生活の場から、サタンの惑わしにつながるものを聖絶する必要があります。

 

3. 共同体と家庭と隣人への責任

  21章では、町の近くの野で殺された人を発見した場合の対処が記されています。彼らは自分たちの町の中で起こった事件については、うやむやにせずに、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」(16:10)と命じられていました。そして、町の外の事件に関しても、加害者が不明であれば、「雌の子牛」を犠牲とし、「主(ヤハウェ)よ・・お赦しください。咎のない血を・・負わさせないでください」と祈るように命じられたのです(21:8私訳)

いけにえは、血を流すというわけではないので、きよめの意味はありません。これは殺人者が発見されなかった、その代わりにその罪をこの子牛に負わせることです。それによって、「咎のない血を・・除き去る(21:9私訳)ことになるというのです。

どちらにしても、殺人の血で汚された「土地を贖う」必要があり、それが本来の方法で不可能だったことに対し、町は犠牲を払いました。

私たちも、自分たちの属する共同体で起きたことに、「それは私の責任ではない!」と言い張ってはなりません。共同体から恵みを受けるものは、そこでの災いとそれに対する対処にも責任を担う覚悟が求められるのです。

 

   21:10-14は理想と現実の折り合いという点で示唆に富みます。本来、異邦人を妻としてはならないはずなのに、約束の地の外の戦争捕虜の女性を「恋い慕い、妻にめとろうとする」場合に、一定の条件の下で認めました。

その際、「女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ…自分の父と母のため、一か月間泣き悲しまなければならない(21:12,13)と命じられていました。これは、それまでの異邦人としての生き方から完全に決別するという意味もあったことでしょう。

そして、妻として受け入れた以上は、もう「奴隷として扱ってはならない」(21:14)と命じられていました。異邦人の女性の人権も尊重されたのです。

 

21:13-17では、「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており」という現実を前提にして、きらわれている妻の息子が長子である場合に、母によって差別することは許されないと敢えて記されます。

まるでヤコブとレアとラケルの関係を見るようですが、「ヤコブもそうしたのだから、自分がそうしても赦される」という言い訳は許されません。一夫多妻自体も神のみこころではありませんが、そうならざるを得ない現実がありました。その際、妻たちの間に不当な差別をしないように命じられました。

 

現在も、信者が未信者と結婚するとか、「できちゃった婚」など、本来のあるべき姿とは異なる様々な結婚があります。

しかし、神のみこころは、「すでにある関係」を否定することではなく、その中で、徹底的に結婚相手を尊重することです。決して、「これをなかったことにしよう」などという後戻りは許されません

 

   18-21節では、「かたくなで、逆らう子が・・・父母に懲らしめられても、父母に従わないときは・・・町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない」と、何とも恐ろしいことが記されます。

ただし、対象となっているのは、「放蕩して、大酒飲み」と呼ばれ得る年齢に達した「息子」です。そこには、「父母を敬え」との律法を、共同体全体で責任をもって果たさせようとの意図が見られます。

子どもは親の期待通りには育ちません。そこでは、親不孝な子どもの問題を、親の教育の失敗と非難する代わりに、それを共同体全体の問題と捉え、責任ある大人としてさばくことが命じられていました。

 

   2223節の記述ですが、当時の死刑には、見せしめという意味もあり、その死体を「木につるす」というようなことがありましたが、そのときには、「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日に埋葬しなければならない」と命じられていました。

そして、その理由が、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである・・・主(ヤハウェ)が相続地として・・与えようとしておられる地を汚してはならない(21:23)と記されます。これも地をきよく保つテーマです。

なお、新約で「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)と引用されます。神の御子が「のろわれた者」となることで、私たちを「のろい」から贖い出すということは、本来、レビ記などからは考えられないことです。これは先の「咎のない血」が流された責任を「雌の子牛」に負わせたことに似ています。

イザヤ531112節では「(ヤハウェ)のしもべ」が、イスラエルが負うべき咎を引き受けることで、彼らがバビロン捕囚という「律法ののろい」から贖い出されることが預言されていました。これは、イエスが創造主であり、イスラエルの王であるからこそ可能になったことです。

神のひとり子が「のろわれた者」となるというあり得ないことが起きた時、思いもつかない「救い」が実現することになったのです。

 

   22:1-4では、「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない・・・すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたら・・知らぬふりをしてはならない」と記されます。

これとほとんど同じ趣旨で、出エジプト記235節では「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ずいっしょに起こしてやらなければならない」とも記されていました。

「自分の敵を愛する」(マタイ5:43)ことは、知らぬふりをしないことから始まるのです。

 

   225節では男女のアイデンティティーを明確に保つことが命じらせ、それに反する行動に関して「(ヤハウェ)は忌みきらわれる」と強く非難されますが、これはカナンの異教の神殿で行われていた性的な倒錯と結びついていたのだと思われます。

また、9-11節では「二種類の種」を混ぜること、「牛とろばとを組に」すること、「羊毛と亜麻糸とを混ぜ」ることが禁じられますが、これも神の創造の秩序を大切にするということで一貫しています。新しさの追求には、「もっと、もっと」という駆り立ての落とし穴があります。

 

2213節以降に関しては、当時の女性は、父または夫の保護なしには生きてゆくことができなかったことを理解する必要があります。

結婚した後、夫が「この女に・・処女のしるしを見なかった」と「悪口を言いふらし」、それが嘘だった場合は、鞭打ちにされたうえ、多額の罰金が科せられました(22:19)。銀百シェケルとは羊百頭分の値段でした(イスカリオテのユダがイエスを売り渡した代金は30シェケル)

一方、そのことが真実で、女が父の家にいる間にすでに男を知っていたなら、石で打ち殺されました(22:21)。また、「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は・・・二人とも死ななければならない」(22:22)と記されます。

そして、「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は」、男女とも石で打ち殺されました(22:23,24)。それは「女が町の中におりながら叫ばなかったから」ということで、ふたりの合意が明らかだからです。

そして、21-24節の三つの姦淫の罪の死刑のさばきの終わりには、「あなたがたのうちから悪を取り除きなさい」と繰り返されています。

 

2526節では、婚約中の女が野にいて、助けを呼び求められなかった場合は、男だけを石で殺すように命じられました。

28,29節では、男が「まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝」た場合は、花嫁料に相当する銀50シェケルを父親に払って一生妻として面倒を見ることが命じられました。13-21節にあったように女にとって純潔を守ることは最も大切な掟であり、それを奪われた女性にとって、男が死刑になって罪を償ってもらうよりも、一生の保護を得られる方が大切だからです。 

 

すべての背景には、男女の結婚関係を「聖別する」という基本原則があります。女性の純潔は将来の夫のために守るべき神秘であり、男性が他人の妻または婚約者を奪うことは殺人に等しい罪と見られました。

新約では、男性の性も結婚相手のために聖別すべきとされています(マタイ19:9、Ⅰコリント7:4)

 

悪意のない過ちを赦すのは愛ですが、「教会はどんな悪人も受け入れるべきだ」と言いつつ、悪意に満ちた人や嘘つきを安易に受け入れることは自滅行為です。また夢を実現しようと熱くなりながら、目の前の人の必要が見えなくなるのは本末転倒です。

世界には理想と程遠い現実が満ちていますが、一足飛びに変えようとすると別の矛盾を引き起こします。譲ってはならない原則や善悪の基準を明確にしながら、目の前の問題に柔軟に対処する必要があります。神の愛は、一歩一歩を大切にすることです。

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2016年11月 6日 (日)

申命記16章18~18章22節「あなたが従うべき権威とは」

 

申命記16:18-18:22 「あなたが従うべき権威とは?」

 

                                                   2016116

 

   「幸せは持つものではなく、感じるものだ」と言われます。フーストン師は、「幸福とは、痛みのないことでも享楽にふけることでもなく、鍛練、自己洞察、他者への貢献、個人的な充足感、安心感、心の平安などという特定の生き方から生まれるです」と定義しています。

 

イギリス人の彼は、米国独立宣言の幸福追求権という表現にさえ疑問を呈します。それが「幸福」を何か獲得するものであるかの印象を与えるからであり、その過度な個人間の幸福追求競争が、人を様々な依存症の罠に迷わすからです。

 

 

 

   民主主義のパイオニアでもあるイギリスが今も、国王制度を保っているのが不思議です。しかし、そこに何とも言えない知恵があるのかもしれません。それはたとえば、最近話題の韓国の歴代大統領に見られる悲劇と権威の失墜の話しと比較しても明らかです。

 

信頼できる権威のない社会は不安定になります。しかし、抑圧的な権威は、個々人の自由ばかりか、生きる権利さえ奪いかねません。人は、心の奥底で、自分のいのちをささげても悔いのない様な真実の権威を求めているのかもしれません。

 

そして、現代の日本には、「権威への渇き」があるのではないでしょうか。それは戦後、「権威」が軽んじられ続けた反動かもしれません。三千数百年前に記された聖書は、この問いにバランスのある回答を示します。

 

 

 

1.「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」

 

 「あなたの神、主(ヤーウェ)があなたに与えようとしておられる・・・すべての町囲みのうちに・・部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない・・」(16:18)と記されていますが、当時は、現在のような三権分立が無く、「さばきつかさ」は政治指導者であるとともに裁判官でした。

 

ただ、「さばき」の基準は神ご自身のみことばでしたから、当時の他の国々のように「王のことば」が法律となるような独裁国家とは異なりました。

 

人は、神が創造された最もひ弱な生き物でしょうが、互いに協力し合うことを通して驚くほどの力を発揮できます。その鍵が、人と人との間の利害を調整する権威の存在です。

 

 

 

ただし、その際、「さばきつかさ」は様々な利害関係から独立するとともに、「治める」基準は「神のことば」でなければなりません。

 

そして、神はここで第一に、「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵ある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである」(16:19)と命じておられます。どんなに知恵がある人でも、自分に何かの利益をもたらしてくれた人の意見には心が動かされます。

 

戦後の韓国の大統領は誰一人として平安な引退生活をできた人がいないということが話題になっており、現在の大統領にも同じ末路が訪れることが明らかになっているようですが、権力に群がる人間関係、「わいろ」の恐ろしさを思わざるをえません。

 

 

 

なお、「裁判」に関して言えば、その独立性は、当時は任命」する神の権威によって、現在は三権分立などの政治機構によって保障されます。

 

どちらにしても、神は、この地の政治機構に深い関心を払っておられるという事実があります。神はこの世の政治に調整を任せながらも、ご自身のときにご自身の方法で、この世の権力機構を正されます。ただ、それは、神が天のはるか上から地を見下ろし、ときおり、この地に降りて来て、人と人との利害の衝突に直接介入するという意味ではありません。

 


   使徒パウロは、ローマ皇帝がネロであったときに、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたからです(ローマ13:1)と記しています。

 

ただ、それは王権神授説のような意味では決してありません。権力には恐ろしい誘惑があり、権力者は自分の主張が神からのものであるかのように絶対化することがあるからです。

 

それに対してイエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(マタイ10:28,29)

 

権力者は「雀」よりもはるかに大きな存在ですから、どんな圧政も神の支配下にあります。ですから、すべての地上の権威を尊重しつつ、その脅しに屈することなく、父なる神とイエスとを自分の「」として認め、そのすべての権威の源である方に従う必要があります。

 

 

 

ですから、私たちはこの世の政治や社会制度を一方的に批判する以前に、そこに表わされた神の恩寵を見いだす必要があります。

 

ルターは、「ほんとうに悪い暴君は悪い戦争よりも忍びやすい」と言いました。独裁者フセイン大統領を滅ぼしたことで、そこに起きた無政府状態の悲惨を忘れてはなりません。

 

 

 

私たちは、その際、「王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって平安で静かな一生を過ごすためです」(Ⅰテモテ2:1,2)とのみことばを覚えるべきです。

 

そして、そこで神が為政者に、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」(16:20)と命じておられることを覚え、正義が行なわれるように祈る必要があります。

 

それと同時に私たちは、与えられた役職や子育てにおいて「正義」を追い求めなければなりません。

 

 

 

これは神の教会に関しても適用され、パウロはテトスに、「私があなたをクレテに残したのは・・町ごとに長老たちを任命するためでした・・それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです・・・ですからきびしく戒めて、人々の信仰を健全にし・・」と命じました(テトス1:5913)

 

人は、生まれながら身勝手で、自分を正当化することには天才的ですから、指導者なしに人と人の協力関係は築くことができないという現実があります。ですからペテロも、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)と命じました。理想を求める余り現実を軽視してはなりません。

 

 

 

2.「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない」

 

16:21-17:7では、偶像を作ることや、欠陥のあるいけにえをささげることを禁じることが記された後、特に、神の民でありながら「ほかの神々に仕え・・・拝む者があり・・聞いたならよく調査し・・そのことが事実・・・なら・・・ふたりまたは三人の証言によって、死刑に処さなければならない・・まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな手を下さなければならない」17:3-7と厳しく命じられます。

 

ほかの神々を拝む」ことは、神の共同体の土台を崩す最大の悪事と見られます。ただし、この際、証人たちの責任が誰の目にも明らかになり、しかも複数の証人が必要ということで、不当な訴えへの歯止めがなされます。

 

 

 

   17:8-13には中央裁判所の機能が記されますが、それは12章の中央聖所での礼拝に対応します。それぞれの「町囲み」の中で「さばきかねる」事件については、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り・・レビ人の祭司たち、あるいは(そして)、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい」(17:8,9)と、現在の最高裁判所のような仕組みが三千年前に命じられました。

 

なお、1917節を見ると、「相争うこの二組の者は、主(ヤハウェ)の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない」と記されているように、この法廷は複数の祭司たちと一般の指導者から構成されており、これが後のサンヘドリン(最高議会)になったのだと思われます。これがなければ、部族間の争いも調整できませんでしたから、これはイスラエルの一致を保つために何よりも大切なシステムでした。

 

そしてその際、「彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない・・もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければならない」(17:11,12)と、その判決を、神の意思として受け止めさせます。現代も、最高裁判所の決定には絶対的権威を認めなければ法の支配が成り立たないのと同じです。

 

 

 

ローマカトリック教会は、ローマ法王の権威によって一致を保ちますが、プロテスタント諸教会は、それを否定した結果、分裂に分裂を繰り返していると批判されます。

 

しかし、私たちには絶対的な権威としての聖書がすべての人に開かれており、それを基準とすることで地上的な組織を越えた一致を保つことができます。

 

自由教会の父祖は、異論が出た場合、「それは聖書のどこに書いてあるのですか?」ということばを合言葉にしてきました。どちらにしても教会政治をこの世の民主主義と混同してはなりません。

 

 

 

17:14-20には将来の王政のことが示唆されています。ここではまず、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、という前提が記されます(14)。それは、たとえば、一夫多妻や奴隷制などと同じように、本来の神のご意志に反することが明らかでありながら、同時に、当時の置かれている状況の中で、そうならざるを得ない現実が生まれるということを前提としています。

 

私たちは、「これはみこころかどうか」を、白黒どちらかと判断しがちですが、聖書の記述はずっと現実的です。

 

 

 

後の士師記時代の混乱を見ると、王制が生まれる必然性もあったのかとも思われ、それを神は予め前提として、王制が導入された時、それが近隣諸国のような独裁制に至らないようにと、あらかじめ語ってくださいました。

 

とにかく、神の民の王は、回りの国々のようであってはなりません。そこではまず最初に、「あなたの神、(ヤハウェ)の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない」と記されます(17:15)。それが後に、「主に油注がれた王」という記述につながり、「メシヤ」預言に至ります。

 

 

 

「王」は、「同胞の中から立てられ」自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない・・・多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常にふやしてはならない」(17:16,17)という制限が加えられました。

 

これはいわゆる富国強兵策を取ることで、この世の政治的にはすべて効果的なこととも思われますが、力や富を持つことには「これで十分!」ということはありませんから、結局、神を第一にするという国の根本原則を揺るがすとともに、民を重税で苦しめることになります。

 

後にダビデの子ソロモンはこのすべての命令に背いてしまいました。その結果、彼の死後、国は二つに分裂してしまいまい、破滅へと向かいました。この原則は教会にも適用できます。それが、目に見える数字を前面に掲げた教会形成の危なさです。

 

 

 

その際、王には、「このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない」17:19と命じられます。そして、その目的は、「(ヤハウェ)を恐れ・・・王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため・・・長くその王国をおさめることができるため」と記されています。

 

この世の王は、自分を神としてしまいがちですが、それこそが自滅への道なのです。ちなみに、米国の大統領が就任式の際に聖書の上に手を置いて誓うのは、これを背景にしていると思われます。

 

ただ、それは指導者を謙遜にするためであり、「私の判断は神のみこころにかなっている」と自分の正当性を認めさせるためではありません。それは、今も、昔も、指導者が最も陥りやすい罠です。

 

しかし、もし、教会の指導者が自己弁護のために聖書を利用するなら、聖書の権威という土台を自分で傷つけることになります。

 

 

 

3.「わたしは・・彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」

 

18:1-8では祭司を含むレビ人のことが記されます。彼らは、原則、土地を所有することができませんでしたが、「主が約束されたとおり、主ご自身が相続地である」(18:2)と断固として告げられます。それは、主ご自身が彼らを養ってくださるという意味です。

 

祭司たちが民から受け取る物は、いけにえの肉などでも最上の部分でした。ただし、民数記18:18などとの違いはありますが、穀物などの「初物」(18:4)が彼らに与えられました。

 

人間的には他の部族によって支えられる弱い立場の彼らが、主の御名によって奉仕に立つために・・選ばれた」(18:5)存在であると強調されます。また彼らには、いつでも「主の選ぶ場所」である唯一の神殿には「望むままに行くことができる」という特権が与えられ、主に仕える場に困りはしなかったばかりか、そこでの分け前にあずかる自由が保障されていました(18:6-8)

 

これは、現代の牧師たちにも適用されることです。主が選ばれた働き人は、人の顔色を見ずに、主に仕えることを第一としなければなりません。そのとき、主ご自身がその生活の必要を満たしてくださいます(Ⅰテモテ5:17参照)

 

 

 

なお人は、いつの時代でも、将来のことが気になります。それで未来を予言するという占い師や霊媒師のような働きが栄えます(18:10,11)。しかし、これこそ主が最も「忌み嫌われる」(18:12)ことでした。

 

それで、神は、モーセの「ようなひとりの預言者を、立ててくださるというのです(18:1518)。これは「ただひとりの」という意味ではありません(原文は単数形というだけで冠詞はない)。それは、民がシナイ山で十のことばを神から直接聞くことで、死ぬほど怯えたからです。

 

人は、ときに直接に主のみことばを聞きたいと願いますが、それは恐怖に満ちた体験になるので、主は私たちと同じ身体を持つ預言者を立ててくださるのです。ですから、その人のことばに「聞き従わない」なら、「責任を問う(18:19)とも記されます。

 

 

 

神は必要に応じて預言者を立てられます。たとえば、エリヤもイザヤもエレミヤも、確かに、モーセのように主のことばを語り、将来のことを正確に預言しました。つまり、主は、不安に振り回される人の弱さを十分理解した上で、人が必要とする知恵を与え続けてくださったのです。

 

ただし、真にモーセのような預言者は一人だけでもあります。イザヤも暗い時代に、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を・・」(イザヤ8:17)と告白しつつ、主が再び御顔を現してくださる時を、「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み・・聞かれるとすぐ・・答えてくださる。たとい主があなたに乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うみことばを聞く」(30:21,21)と預言しました。

 

そしてそれが今、イエスにおいて成就されました。

 

 

 

今、私たちの霊の「目」は、聖書によって救い主の生き方を「見る」ことができます。そこで明らかになるのは、自分にとって楽な人生を選ぶことの空しさです。また、イエスの復活は、どんな困難にも必ず出口があることの保証です。

 

また、左右の道の選択に迷うときも、思い切って一歩を踏み出すとき、私たちの「耳」は、後ろから「これが道だ・・」というイエスの御霊の語りかけを聞きます。しばしば、左右の選択よりも、誰を見上げるかが問われているのではないでしょうか。前にも後ろにも主がおられるからです。

 

 

 

ただし、1820-22節では、偽預言者が現れることと、そのような者に主が死刑を与えることが記されます。そしてその見分け方が、「そのことが起こらず、実現しないなら、それは主(ヤハウェ)が語られたことばではない」と簡潔に記されます。

 

今も、未来を予言するという霊能者のような人が次々と起きて来ます。しかし、彼らの嘘は、時を経ると必ず明らかになりますし、神はそのような偽預言者を誰よりも厳しく罰してくださいます。ですから、「彼を恐れてはならない(18:22)と簡潔に結論が語られます。

 

 

 

なお、使徒ヤコブが、「あなたがたには、あすのことはわからないのです(ヤコブ4:14)と記しているように、預言者は、「いつ、何が、どのように起きるか」を予言する者ではありません。それは、イザヤ書からマラキ書に至る預言書を読むと明らかです。

 

そこに記されていることの中心は、何よりも、主ご自身が歴史の支配者であり、神はご自身のときに悪をさばくとともに、ご自身の平和(シャローム)を実現してくださるということです。そして、そこに記されていることが正しいことは歴史が証明してきました。

 

そこでは将来について記されたと思われることが成就してきたといことばかりか、何よりも、そのみことばが人々の心を動かしてきたという現実で明らかにされています。聖書の啓示の正しさは、私たちがそれを証明しようとしなくても、おのずと明らかにされます。それは、みことばに従った人々の生きざまを通しても明らかになります。

 

ですから、私たちは、聖書の正しさを証明しようと必死になったり、また反対に、偽物を暴き出そうと正義感に燃える必要もありません。それは、神ご自身が時と共に明らかにしてくださるからです。

 

 

 

以前、悲しい死を遂げられた方のお父様が、「息子の生き難さは、親から受け継いだものです。彼がもっとはやく、真の教師と出会っていたなら・・・その方がイエスなのでしょうが・・」と言っておられました。それは、神のことばのように私に響きました。

 

現代は、「正義」よりも、「心地よさ」が追及される時代です。教会の指導者もそのような期待に答えようとの誘惑にさらされますが、現実から遊離したインスタントな解決を示すのは偽教師です。

 

牧師の使命は、三千年前の文脈と現代の文脈の橋渡しをし、ひとりひとりが聖書を日々の生活に適用するための助けをするという地道なものであり、自分を隠しながら、真の教師であるイエス・キリストを指し示すことです。

 

今、ひとりひとりに、真の権威の書である聖書が授けられ、それを解き明かすイエスの御霊が宿っています。真の教師がどなたかを決して見失ってはなりません。

 

 

 

ダビデは、「私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置いた。主(ヤハウェ)が右におられ、私は揺るがされないから。それゆえ、この心は楽しみ、いのちが喜び、この身体も安らかに落ち着いている」(詩篇16:8,9私訳)と告白します。

 

真の幸せは、私たちの前と右と中におられる三位一体の神のうちにあるのです。

 

 

 

 

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