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2016年12月25日 (日)

マタイ2章1-23節「神のときを生きた人々」

マタイ2:1-23 「神のときを生きた人々」

20161225

 最近、お金や経済に関する話で他教会に招かれます。次のような文章をどのように思われるでしょう。

「経済が国家の決定的な支配者の地位にのぼるのにきっちり応じて、貨幣は神となり、あらゆるものはこれに奉仕し、だれもがこの前に屈服しなければならなかった。天上の神々はますます時代遅れで、すたれたものとなり、隅の方へしまわれてしまい、代わりにマモン()の偶像に香がたかれた。まことに困った堕落が始まった・・・崩壊の究極的原因は、もっと外の領域に・・あるに違いない・・旧帝国の破滅のもっとも深い究極的原因は、人種問題および、それが民族の歴史的発展に対して持つ意味を、認識しなかったことにある」・・・

金融資本に対する批判と、移民や難民問題を前面に出して勝利する政治家が世界的に増えていますが、彼らもこれと似たような訴えをするかもしれません。しかし、これは諸悪の根源がユダヤ人あると言ったアドルフ・ヒトラーのことばなのです。

 

ディートリッヒ・ボンヘッファーは、1933年ヒトラーが政権を取ってすぐ、民族としてのユダヤ人を初めとする非アーリア人を教会の牧師や役員の座から追い出すようにと強制して来たとき、異民族を排除するのはキリスト教会ではあり得ないと抗議し、組織的な抵抗を始めます。

ただ1939年には働きの限界を覚えてか、ニューヨクでの学者としての働きの招きに応じます。しかし、渡米後、そこに留まるなら、「全き自由の中で孤立して窒息死しなければならないだろう」と示されて、ドイツに戻ります。抵抗運動の後、19434月、彼はヒトラー暗殺計画に加わった容疑で捕らえられ、ドイツが降伏する一か月前、ヒトラー直々の命令で絞首刑に処せられます。39歳でした。

なお彼は、決して自分の行動の正当性を主張しませんでした。実は、30年前にある人が、「それは、大型トラックを暴走させるテロリストを必死で止めようとする行為だった。彼は罪の責任を引き受けようとしていた」と言っています。そこが十字軍的な自己犠牲とは異なります。

そして彼の生き様は戦後ドイツに決定的な影響力を残しました。それが現在のメルケル首相の信仰と政治理念に決定的な影響を与えていると言われます。

ボンヘッファーは、「自由というのは、第一義的に個人的な権利ではなく、ひとつの責任のことです。自由というのは、第一義的に個人に向けられているのではなく隣人に向けられているのです」と記しています。

私たちはみな、自分のためにではなく、神と他者のために生かされています。ビジョンは神の平和シャローム)から生まれるものです。

 

1.「ユダヤ人の王」を拝みに来た東方の博士たち…新しい時代の幕開け…

 「イエスが、ヘロデ王の時代にお生まれになったとき」とありますが、ヘロデはユダヤ人と敵対関係にあったイドマヤ人(エサウの子孫)で、ローマ帝国を後ろ盾に、ダビデ王の時代に匹敵する広大な領土を支配する王として君臨していました。彼はユダヤ人を手なずけるためエルサレム神殿の大拡張工事をし、自分こそが預言された救い主であるかのようにふるまっていました。

ところで、イエスがダビデの子として誕生するということはヨセフとマリヤ以外にはだれも理解できないことだったと思われますが、ここではそのことが、はるか「東方」において知られたと描かれます。マタイ1章の系図はユダヤ人以外にはほとんど理解できないものだったと思われますが、2章ではそれが世界を変える出来事であると報じられます。それが、「東方の博士たち」の訪問の記事です。

 

  「博士たち」は新しい時代の到来を、不思議な「」の出現によって知りました。彼らは当時の文化の中心地バビロンの地から来たのだと思われます。かつてユダヤ人はそこで捕囚となっていたので、彼らは聖書の預言をある程度知ってはいたはずです。

ただ、「東方の博士たち」の来訪の主導権は、彼らの知識や探究心である前に、神ご自身の導きであることを忘れてはなりません。それは、キリストの救いは異邦人に及ぶということを示します。

 

博士たち」は、エルサレムに行けばすべてが分かると信じて「やって来」ましたが、そこに栄光の王の誕生のしるしを見ることはできませんでした。それで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」(2)尋ねまわり、それがヘロデの耳にも入ってきました。

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人もヘロデと同じであった」(3)と描かれるのは、この問いかけが、ヘロデはイスラエルを復興する真の王ではないということを、内外に明らかにすることになるからです。それで祭司長たちは、ヘロデの質問に聖書から答えはしましたが、その方を拝みに行こうとは思いませんでした。自分たちの身を守るためです。

 

   預言者ミカは、ダビデの生誕地「ベツレヘム」「イスラエルの支配者になる者が出る」(5:2)と記し、そして、その方は、「アッシリヤが私たちの国に・・踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う(5:6)と預言されていました。

救い主の誕生は、浮世離れした霊的なことではありません。ミカ書を初めとするすべての預言書は、この地に神の救いが実現することを語っています。救い主は、神の民の敵を滅ぼすことによって世界に目に見える平和を実現すると描かれていました(ミカ4:3)。それは神の完全な平和(シャローム)の実現でした。

 

博士たちはが、その町に近づいたとき、東方で見た「星」が再び現れ、彼らを幼子イエスのところに導きました。それはまさに、神の一方的な導きでした。

イザヤ60章では、諸国の民が、「黄金、乳香」をたずさえ、神の「祭壇」にささげる(6,7)と預言されていました。しかし、その「祭壇」はエルサレム神殿ではありませんでした。

 

彼らは、「家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ」ました。これは王にささげる最高の贈り物の組み合わせでした。

「乳香」は当時の神殿で用いられる最高級の香料であり、エジプトでは王だけが使っていました。中世のペストの大流行のときその拡大を止めるような殺菌力を発揮したと言われます。

「没薬」はミイラを作る際に大量に用いられ、イエスの葬りの際にも用いられましたが、通常は祭司や貴婦人たちの化粧品や皮膚薬。香料などに用いられました。

 

それにしても、イエスの最初の住まいは家畜の餌を入れる「飼い葉おけ」で、それは村はずれの洞窟の中だったと思われますが、このときは、博士たちは「家に入って」と記されています。これは、イエスの誕生から二年近く経っていたときのことだからです。

なぜなら、ヘロデ王は、「星の出現の時間」を博士たちから「突き止め」、後に「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」(16)と記されているからです。

 

   真のユダヤ人の王の誕生を異邦人は認めましたが、ユダヤ人の支配階級は自分の身の安全を考え、確かめようともしませんでした。

しかしそれは、ユダヤ人ばかりか異邦人にとっても新しい時代の幕開けを意味したのです。そして、神のビジョンに導かれた博士たちは、新しい世界の王を人々に先立って拝むことができました。

 

2. 真のユダヤ人の王として、その歴史を再体験した方  

   博士たちは、「それから夢で、ヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の家に帰って行った」(12)とありますが、ヘロデにとって、博士たちがすぐにベツレヘムに向かい、自分を無視するように帰ったことは、途方もないショックでした。彼は、自分の三人の息子さえ、競争者と疑って殺したほどですから、その赤ちゃんを殺すのに躊躇はしません。

それで、博士たちが帰ったあと、主の使いが再び夢の中でヨセフに現れ、「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を探し出して殺そうとしています」(13)と言います。

このとき博士たちがくれた宝物がこの長い旅の必要を満たすことができたことでしょう。主はあらかじめ必要を満たした上で、困難な命令を下したのです。

 

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた」と描かれていますが、ここに改めてヨセフの従順さと同時に神のビジョンへの信仰が示唆されます。

 

そこで興味深いのは、「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われたことが成就するためであった」と記されていることです(15)。これはホセア111節からの引用ですが、それはイスラエルの原点、出エジプトのことに他なりません。

つまり、幼子イエスのエジプト逃亡は、イスラエルの歴史をやり直す意味があります。それは、イエスこそがイスラエルを代表する王であられる方だからです。

 

   ヘロデは博士たちの報告を待っていましたが、その期待が裏切られたと分かると、「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとりの残らず殺させ(16)ます。

当時の村のサイズからしたら、該当する幼児の数は10人から30人ぐらいでしょうが、幼子が平気で遺棄される当時の文化では記録にもなりませんでした。

 

しかも、このことが、「そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した」(17)と解説されているのにはやりきれない気がします。この悲劇も神のご計画だというのでしょうか。しかし、その原点のエレミヤ3115節前後の全体の文脈には、暗闇を通しての希望が記されています。

そこでは、「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」と記されます。これはイエスの誕生は、神がイスラエルの民の悲しみのただなかに降りてこられたという意味を持っています。

「ラマ」はエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(エレミヤ40:1)。

ラケルはヤコブの最愛の妻でベニヤミンを産むと同時に息絶え、ベツレヘムに葬られました。その前に、彼女からヨセフが生まれ、それがエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれました。しかし、北王国は滅ぼされ、その民は強制移住させられ、残るベニヤミン族もバビロンに捕囚とされてゆきます。それを彼女は嘆いているというのです。

 

ただエレミヤ書では続けて、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)という希望が告げられます。

「神が全能ならば、なぜ、この世にこれほどの不条理や悲劇があるのか?」という問いに明確な答えはありません。しかし、「私たちが痛んでいるとき、神もともに痛んでおられる」ということと、「私たちの悲しみには必ず終わりがあり、神は私たちの将来を開いてくださる」ということは明らかです。

 

旧約聖書の二大テーマは出エジプトとバビロン捕囚ですが、マタイは、その両方をホセアとエレミヤの預言をもとにイエスの誕生に結びつけました。

人間的に見ると、幼子イエスのエジプト亡命も、ベツレヘムの幼児虐殺も、サタンの使いとも言えるヘロデの残虐さに翻弄されている悲劇でしかありませんが、聖書全体からすると、それはイエスがイスラエルの王として、それまでの悲劇を生まれるとともに背負ってくださったことを意味します。

 

それにしても、「イエスがベツレヘムに生まれなかったら、そこの赤ちゃんは殺されずに済んだのに・・・」と思いたくなります。しかし、残念ながら、祝福の傍らで、悲劇も同じように生まれるというのは、この世の現実です。

たとえば第二次大戦におけるドイツの敗北は、194466日の連合軍のノルマンディー上陸作戦で決定的になりました。しかし、そのときから1945430日のヒトラーの自殺に至るまでの11ヶ月間、想像を絶する犠牲の血が流されています。勝敗が決まってからの戦いの方が激しかったのです。

イエスの誕生はサタンの敗北の始まりでしたが、自分の終わりを知ったサタンは、人々からイエスの救いを見えなくさせるために、あらゆる手段を尽くしています。

夜明け前が一番暗く感じられるとか、光が強いほど影も濃くなるとも言われるように、イエスの誕生にともなう悲劇は、サタンの最後の悪あがきの始まりです。それは黙示録のテーマでもあります。

 

3. キリストが支配する新しい時代に入れられている恵み

  この悲劇の直後に、1920節では、ヘロデの死が告げられるとともに、主の使いが再び夢で、「エジプトにいるヨセフに現れ」、イスラエルに帰還しても安全だと告げられます。

ヨセフは家族とともに「イスラエルの地に」入ります。ただそこで、「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行って留まることを恐れた」(22)と記されます。アケラオはヘロデにまさって残酷な王だったからです。

そして、そこで再び、「夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ち退いた。そして、ナザレという町に行って住んだ」と記されます。

 

ヨセフは夢のお告げのたびに、それに従っているというのは何とも不思議です。ふと、「どうして、目を覚ましているときに御使いが現れてくれないのか・・・」とも思いますが、それはヨセフの主体的な行動を尊重しているからかもしれません。

人によって、「神がもっと私の進むべき道を明確に教えてくれたら・・・」と願うかもしれませんが、幼子のイエスの父でさえ、夢を通してしか語っていただけなかったのです。それが神の導きの方法です。

 

とにかく、彼らが住んだのは辺鄙な田舎のナザレでした。そして、「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われたことが成就するためであった、とありますが、それはどこにも記されていません。

それは、預言された救い主の姿が「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ(イザヤ53:3)と言われていたことを指しているのだと思われます。これは、ダビデ王国の栄光を復興したと自負していた当時の権力者ヘロデ王の栄光と、何と対照的でしょう。

 

  マタイは、預言がひとつひとつ成就したことを何よりも強調します。東方の博士たちの贈り物さえその成就です。それは、いつ、どこで、何が起こるかを告げることではなく、神の救いの計画の全体像を知らせることが中心です。

神がご自身の御顔を隠される「のろい」の時代のことは、ずっと以前に警告されていました。その通りのことが起きて、彼らは、「恐怖にとらわれ・・心がすり減り・・種を蒔いても無駄になり・・あなたの力は無駄に費やされる」(レビ26:16-20)、また、「やまいが癒されず・・婚約者を寝取られ、家を建てても住むことができず・・ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない」(申命記28:27-37)という悲惨を味わっていました。

 

   しかし、神はご自身の民をあわれみ、御子キリストによって新しい時代を開いてくださいました。それは、古い時代と対照的に、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作ってその実を食べる・・自分で作ったものを存分に用いることができ、無駄に労することがない(イザヤ65:21-23)という「祝福」の時代です。

目に見える現実はまだ完成していませんが、イエスとの交わりのうちに生きる者はすでに、そのような御国の民とされています。

 

ですから、パウロは、あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と言いました。

それは、キリストにある「いのち」を生きている者は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)確信をもって告白することができるからです。

 

  マタイ1、2章では、預言の成就がテーマになっています。第一は、処女からインマヌエルと呼ばれる方が誕生すること、第二は、救い主はベツレヘムで生まれること、第三はヨセフ家のエジプト避難が、救い主がエジプトから呼び出されるという預言の成就であること、第四はベツレヘムの幼児虐殺が悲劇の預言者エレミヤの預言の成就であること、第五は救い主はナザレ人と呼ばれるという預言の成就でした。

このどれをとっても、人間的な意味での悲劇が伴っており、当時の誰も、「預言が成就した!」と祝うことができるようなことではありませんでした。しかもそれに関わったのは、一介の大工のヨセフと、東方の博士たちです。彼らは、そのときそのときの主の導きに従い、その結末を知らないまま、また、不安や悲しみに耐えながら、ただ、神のときを生きたのです。

そして私たちも神のご意志と「神のときを生きる」ように召されています。そこに新しい世界が広がります。

 

ヘロデは、政治的には、大王と呼ばれるのにふさわしい業績を残しました。ローマ帝国の信任を勝ち得て広大な国土を治め、神殿を初めとする多くの建造物を後の世に残しました。しかし、彼はそれらをあらゆる権謀術数を尽くしてやり遂げました。

それで彼には、信頼できる人がだれもいませんでした。ほとんどの国民から毛嫌いされ、ひとりぼっちで、自分が作ったもので自分を慰めるナルシズムの世界に生きていました。

 

一方、イエスの名は「インマヌエル」と呼ばれたように、神はたしかに私たちの味方となられ、私たちとともにおられます。それは、父なる神が、幼子イエスをマリヤとヨセフの腕に抱かせて守ったように、私たちがこのキリストにある交わり(教会)に包まれて生かされていることを意味します。

この目に見える交わりは、やがて実現することが確定している「新しい天と新しい地」のつぼみです。ヘロデと反対に、私たちは交わりに生きるのです。 

 

  今、ここに、「新しい天と新しい地」への道が開かれています。しかし、五年後、十年後のことは、まったく分かりません。しかし、手探りながら、今、ここでなすべき働きは示されているのではないでしょうか。

私たちの前には、今日なすべきことと、永遠のゴールだけが分かっています。しかし、それこそが、ヨセフの歩みであり、すべての神に用いられた人の歩みではないでしょうか。

イエスの救いを「永遠」の神の「救いのご計画」の中から考えることで、目の前で果たすべき責任が見えてきます。神はこの世界をご自身の「平和(シャローム)」で満たしてくださいます。私たちはその過程の中にいます。それであれば、私たちの「使命」は自ずと明らかになります。

 

ボンヘッファーは、実は、教会が政治に関わることには否定的でした。しかし、ヒトラー政権が教会からユダヤ人を排除させようと強制してきたとき、キリストの教会は多様な民族の共同体であるとの告白を守るために立ち上がりました。しかし、一時は、米国への亡命も考えるかのような心の揺れもありました。

主に従うとは、そのときそのときの問いに誠実に応答することに他なりません。彼は牢獄の中で死刑のときを待ちながらも、クリスマスの意味を家族に向けて、次のように記しています。

「刑務所で・・・はるかに意味深い、より本質的なクリスマスが祝われている…悲惨、苦しみ、貧困、孤独、失望、そして罪が、神の目には人間の裁きとは全く別の意味を持つ、また、人が目を背けようとするまさにその場所に神は目を向けたもうこと・・・それらのことを囚人たちは他の人より深く理解するのです・・・こうして、獄舎の壁はその意味を失うのです・・・

この頃になって僕は、「飼い葉おけの傍らに立ち」という歌をやっと初めて自分のものとして理解できたと思います…この歌を理解し自分のものとするには長い間一人で居て、黙想しつつ読まなければならぬようです。言葉一つひとつに特別な深みがあり、美しい」 

 

「飼い葉おけ(まぶね)のかたわらに」 Ich steh an deiner Krippen hier Paul Gerhardt 1653年(曲:讃美歌107番 讃美歌21:256番参照)

1. まぶねのかたえに われは来たり 

  いのちの主イェスよ きみを想う

  受け入れたまえや  わがこころすべて  きみが賜物なり

              

2. この世にわれまだ 生まれぬ先   

きみはわれ愛し 人となりぬ 

  いやしき姿で  罪人きよむる くしきみこころなり

 

3. 暗闇(くらやみ)包めど 望み失せじ 

  光 創(つく)りし主 われに住めば

  いのちの喜び  造りだす光 うちに満ちあふれぬ

 

4. うるわしき姿 仰ぎたくも 

  この目には見えぬ きみが栄え

  ちいさきこころに  見させたまえや はかり知れぬ恵み

 

5. 深き悲しみに 沈みしとき   

慰めに満てる 御声聞こゆ

  「われは汝が友  汝が罪すべてを われはあがなえり」と

 

6. 御(み)救いの星よ いといたわし 

干し草(ぐさ)とわらに 追いやられぬ

  黄金(こがね)のゆりかご 絹の産着(うぶぎ)こそ きみにふさわしきを

 

7.干し草を捨てよ  わら取り去れ

  きみがため臥所(ふしど)  われは作らん

  すみれ敷き詰め きみが上には かおりよき花びら

 

8.おのが喜びを  望みまさず

  われらが幸い  きみは求む

  われらに代わりて  きみは苦しみ 恥を忍びましぬ

 

9.主よ わが願いを 聞きたまえや

  貧しきこの身に  宿りたまい

  きみがまぶねとし  生かしたまえや わが主 わが喜び

 

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2016年12月24日 (土)

イザヤ11章1-10節「神の平和(シャローム)をもたらす救い主」

                              20161224日 クリスマス・イヴ礼拝

   聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。

 

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。

それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」 

 

救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。たとえば、しばしば聖誕劇では、ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。

ただ、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」(6節)と記されているだけです。それは、彼らが、ベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆しています。しかも、ギリシャ語ではしばしば主語が明記されなく動詞の形から主語を推測しますが、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)という際のふたつの動詞とも「男子の初子を産んだ」に続く三人称単数形です。つまり、飼い葉おけに寝かせたのはマリヤ自身であるということになります。出産を助けてくれる人が誰もいなかったのです。

 

また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。それは町はずれの洞穴の中だったとも推測されます。実は、ここで何より強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節)という一点なのです。なお、当時の宿屋は極めて粗末、かつ危険で、豊かな人々は親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でした。ところが、ヨセフは、「ダビデの家系であり血筋でもある」というのに、誰の紹介も受けられませんでした。つまり、彼らは「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」のです。

しかも、マリヤは誰の目にも出産間近と見えたことでしょう。それなのに、その粗末な宿にさえ入れてもらえませんでした。これは、住民登録で町が混雑していたからという理由ばかりではなく、彼らが誰からも相手にされなかったことを示唆しています。暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。

それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

 

   「きよしこの夜」は世界中で最も有名なクリスマスソングです。以前から、この曲は、1818年のクリスマス・イヴに、ザルツブルグ近郊の小さな村のカトリック教会で、そこの司祭補助のヨゼフ・モールがギターで伴奏をしつつテナーで歌い、作曲者のフランツ・グルーバーがバスで歌ったのが始まりであると知られていました。それは、その教会にあった小さなポジティブオルガンが故障して音が出なかったからのようです。ところが、最近の1995年になって作詞者モールの直筆の歌詞が見つかり、この歌詞は2年前の1816年に既に作られていたことが分かりました。ただこの詩に合わせた作曲が1818年のクリスマス・イヴ直前であったことは確かなようです。

これを通して、作詞者のヨゼフ・モールの生涯に改めて注目が集まりました。彼は、1,792年の12月に、貧しさのために兵隊にならざるを得なかった男と、その一時滞在の場で出会った女性との間から生まれました。しかし、父はすぐに別の場所に移動になり、ヨゼフは父親を知らない私生児として育つことになります。結婚をしないまま彼を産んだ母は、人々の冷たい視線に耐えながら、極貧の中で彼を育てます。

ただ、ヨゼフの美しい声に注目した人が育ての親になってくれ、彼は神学校まで行き、教会で仕えられるようになりました。彼はただ、貧しい村の人々の間でギターを奏でて歌うのが大好きで、上司の司祭からは、「従順の霊に欠ける」と言われ、評価が低かったようです。そのためいろいろな教会を転々とさせられ、最後の十年は貧しい人々の学校を作って教えるとともに、自分の手にしたお金はすぐに貧しい人々に施しながら、極貧の中で病気になり、56歳で息を引きとります。しかも、彼は自分の書いた曲がどれだけ世界の人々を慰め、力を与えたかは知りもしませんでした。彼はもともと六節の歌詞を書いています。以下は原文を基にした私訳です。

 

1. 静かな夜、聖なる夜。すべてが寝静まっている。

信頼し合う、聖なるふたりだけが目覚めている。

愛らしい巻き毛の赤子が、天的な平安のうちに眠っている。

天的な平安のうちに眠っている。

 

2. 静かな夜、聖なる夜。神の御子が何と、微笑んでいる。

その気高い御口からの愛をもって。

救いの時が私たちについに到来した。イエス、その誕生の時、

イエス、その誕生の時。

 

3. 静かな夜、聖なる夜。この世に御救いがもたらされた。

まばゆく輝く天の高みから。

満ち溢れる恵みが私たちに現された。人の姿のイエスにおいて、

人の姿のイエスにおいて

 

4. 静かな夜、聖なる夜。そこに今日、すべての御力が、

御父の愛から、溢れるように注がれている。

慈愛に満ちた兄として抱擁してくださる、イエスが世界の民を、

イエスが世界の民を。

 

5. 静かな夜、聖なる夜。はるか昔から私たちを思い、

主はご自身の御怒りを鎮めようとされていた。

御父は、はかり知れないご計画の中で、全世界への祝福を約束された、

全世界への祝福を約束された。

 

6. 静かな夜、聖なる夜。羊飼いたちは最初に御告げを受けた。

御使いたちの「ハレルヤ!」によって。

その声は、遠くに近くに響き渡る。「救い主イエスが今ここに」、

「救い主イエスが今ここに」と。

 

私生児として生まれたヨゼフ・モールであるからこそ、居場所がない者の仲間となるために人となられた神の御子イエスの愛が、誰よりも身に沁みたのではないでしょうか。イエスは、父ヨセフの正式な子として産まれましたが、血のつながりはありませんでした。人間的には、私生児と似た境遇とも言えましょう。

この歌詞には、「平和を作りましょう!」という呼びかけは記されていませんが、全能の神であるはずの神の御子が、ひ弱な赤ちゃんとして現れ、その気高い、御口の微笑みによって、私たちの心の中にある怒りや憎しみの思いを消してくださることが歌われています。また、人となられた神の御子を通して、神の愛が目に見えるように私たちの前に現されたことが歌われています。そしてまた、イエスが私たちのすべての痛みや悲しみを知る「兄」として私たちを抱擁してくださることが、告げられ、歌われることで、心が柔らかくされます。

 

第一次世界大戦が始まった1914年のクリスマス・イブ、北フランスの地で、ドイツ軍とフランス、スコットランド連合軍が対峙していました。ドイツ軍の陣地で真夜中に光が灯りました。何かと思うとドイツ語で、Stille Nacht! (静かな夜)、Heilige Nacht!(聖なる夜)と聞こえて来ました。

それに応じて、スコットランド軍もバグパイプの音色と共に、Silent Night! Holy Night!と応じて歌い出しました。その後、双方の兵士たちは銃を置いて中間地点に集まり、クリスマスの祝福を述べあい、食べ物を分ち合い、フランス軍はシャンパンを分ち合ったとのことです。

その話を基に、「戦場のアリア」という映画が2005年に上映され、世界中の人々に感動をもたらしました。

 

ところで、救い主の現われと、その方がもたらしてくださる世界のことが、イザヤ11章に記されています。

最初に、「エッサイの根株から新芽が生え」と記されますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。

救い主は人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「(ヤハウェ)霊がとどまり」ます。そして3-5節では「この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し・・・正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」と記されます。

 

神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人間に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。

そこで、神の御子である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。そして、その救い主が実現してくださる平和が次のように記されています。

  「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて」(6節)という描写には、食べる側と食べられる側の関係の変化が描かれています。つまり、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

そして、「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。かつて、人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていました。ですからそのときは、熊も獅子も、牛と同じように草を食べることですべての栄養が足りていたのです。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。

 

また、「乳飲み子がコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」8節)とはエデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意」(創世記3:15)が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

 神の御子が生まれて間もなく、ヘロデ大王はベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにします。それを思う時に、イエスはまさに乳飲み子として、「コブラの穴の上」に置かれたような状態であったことが分かります。

しかし、「きよしこの夜」の歌詞では、その赤子のイエスから、世界を変える愛に満ちた微笑みが見られたと歌われています。一見、何もできないひ弱な赤ちゃんとなれた「救い主」は、人の目には見えなくても、天の御父の愛の御手の中でしっかりと守られていました。この世界では、必死に自分を守ろうとする防衛本能から、先制攻撃という戦いが始まります。自分を守ろうとすることが戦いを生むというのは、何という皮肉でしょう。

 

それに対し、赤子の姿で現れた救い主イエスは、何もできないようでありながら、すべてを支配する神の御手の中で安らいでいました。私たちも同じように、天の父なる神の愛の眼差しのうちに守られているのです。

多くの人が、自分は神に愛される資格がないと自己嫌悪に陥っています。しかし、神の喜ばれる信仰とは、欠けだらけのままの自分が、天の父なる神から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけられていることを覚えながら生きることに他なりません。

それは肉の親子関係を見ても分かります。ほとんどの親は、欠けだらけの自分の子を、無条件に愛しています。そして、親にとって一番の悲しみは、その愛を子供が分かってくれないことです。自分の罪深さを見る前に、御父の愛を知ることこそ信仰の始まりなのです。

 

なお、9節の「わたしの聖なる山」とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になります。現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。

しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」という状態になるので、宗教戦争などはなくなります。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです(エレミヤ31:34)

つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が創造主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされるのです。

私たちが求めるべきことは、何よりも、私たち自身が、主をより深く知ることと、より多くの人々が主を知るようになることなのです。

 

   たとい、私たちが。この世界の悲惨に涙を流しているとしても、救い主がこのイザヤ11章に記された神の平和と繁栄(シャローム)を実現するためにこの世界に降りて来てくださったことを思い巡らすとき、そこに希望が生まれます。それは、聖書の預言がひとつひとつ成就していったように、神がご自身の御子を通して、この世界を、神の平和(シャローム)に満ちた状態へと変えられることを信じられるからです。

私たちは、この世界がシャロームの完成に向かっているということに、心の目を向けながら、いつでも喜ぶことができるのです。

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2016年12月18日 (日)

マタイによる福音書1章「ダビデの子としての救い主の誕生」

20161218日 

先日の子供クリスマス会で「靴屋のマルティン」の人形劇を上演しました。マルティンはロシアの田舎の評判の良い働き者の靴屋さんでした。若くして結婚しましたが、奥さんとお子さんたちを早くに亡くしてしまい、ひとり残った息子を育てながら後継ぎにすべく訓練していました。しかし、その子も病気でアッという間に死んでしまいます。彼は絶望の底に落とされます。

そのようなときに、古い友人が訪ねて来ます。マルティンは彼に、「わしにはもう夢も希望もない。願いと言えば早く死ぬことだけだ・・・」と愚痴ります。それに対し、友人は、「自分のためにではなく、神様のために生きるように・・・それを知るために聖書を読みなさい」と勧めます。

そして、そこから世界中の人々に慰めと希望をもたらす美しい「神の物語」が始まります。それは童話の世界では終わりません。

 

キリストのうちにある者は、「死からいのちに」、「のろい」から「祝福」へと移されています。「のろい」とは労苦が無駄になり、自分の身を守ることばかりに汲々として不安に苛まれ、愛が冷めてゆく状況です。

それに対し、「祝福」とは、キリストにある夢と希望に満たされ、「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と断言できる世界です。それこそが、申命記27-30章の結論として語るべきことばでした。

 

教会ではクリスマスのたびにイザヤ11章が朗読されます。そこでは「エッサイの根株から新芽が生え・・その上に、主(ヤハウェ)の霊が留まる」から始まり、「正義」と「公正」をもって世界を治める新しい王の登場が告げられます。

そして、その方が創造してくださる世界の姿が、狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和(シャローム)が満ちた世界として描かれます。

神の御子は、その約束を成就するために人となってくださいました。その神のシャロームは必ず完成へと導かれます。それこそ私たちの夢と希望です。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。

    

1.新しい創世記としてのキリストの系図

   この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。

「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。

 

原文では、「系図、イエス・キリストの、ダビデの息子、アブラハムの息子の」という順番で続きます。キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」(ヘブル語はメシヤ)、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。

そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。そして私たちは信仰によって、アブラハムの子孫とされています(ローマ4:16)

 

私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されているのですから、そうではありません。ヨセフは契約によってイエスの父とされました。養子縁組で親子関係が作られたようなものです。

実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使うようになっています。

しかも、個別に見ると明らかですが、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的でした。それはダビデという名前を数字化したものとも言われます。イエスは契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。

 

 2節から始まる具体的な名ですが、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。アブラハムには子孫が約束の地を占領するという約束と、その子孫が天の星のように増えるという約束が与えられましたが、聖書の物語の核心とは、アブラハムに対する主の契約が成就するというものです。

ただし、アブラハムは家長としては大きな欠点を持っていました。それがイサク、ヤコブへと受け継がれ増幅されます。ヤコブはラケルの息子ヨセフを偏愛し、子供たちの間に争いを作りますが、神は、兄たちによって奴隷に売られたヨセフを用いて、ヤコブ一族をエジプトで増えさせる計画を進めてくださいました。このプロセスで「ユダ」が家族をまとめるために大きな貢献をします。

 

ダビデはヤコブの第四男の「ユダ」の子孫です。ユダの子を産んだ「タマル(3)は息子の妻でした。ユダは彼女を迎えた息子たちが次々死んだので「やもめ」のまま残そうとします。それに対し彼女は遊女の姿をして義父のユダを欺き、子を設けました。それは本来、死罪にあたる罪です(レビ20:12)

しかし、神はタマルの信仰を見られ、その子を祝福してくださいました。そのことが「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されます。

その後の系図では、多くの人々の名が省かれた後、「サルモンにラハブによってボアズが生まれ(5)と記されますが、「ラハブ」はヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。

そして、続く、「ボアズにルツによってオベデが生まれ」(5)の経緯はルツ記に描かれています。「ルツ」は、のろわれた民の代名詞のような「モアブ」の女でした(申命記23:2)。しかし神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。その結婚からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。

 

そればかりか、「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれた」(6)とは、ダビデと「ウリヤの妻」バテシェバとの不倫関係を敢えて強調した表現です。しかも、ウリヤは誠実な人でした。

しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えられました。

 

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろいでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果、「祝福の基」と変えられたのです。

キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

 

2.神がダビデと結んだ契約

   ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」(11)までは、20人の王が立っていましたが、14名だけが記されます。名を連ねている王も問題に満ちています。

ソロモンの子の「レハブアム」(7)は傲慢さのために国を分裂させました。「アサ(8)は敬虔な王ですが、その子「ヨサパテ」は北王国の悪王アハブ家と同盟を結び、その息子「ヨラム」はアハブの娘アタルヤを妻に迎えます。これによって北王国の偶像礼拝が南王国に入り込みます。その後に名が省かれた三人の王はみな殺害されています。

「ウジヤ」(9)「ヨタム」は敬虔な王でしたが、その子「アハズ」はエルサレム神殿に異教の神への祭壇を建てた悪王です。一方、その子の「ヒゼキヤ」(10)と、そのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、その間の「マナセ」「アモン」最悪です。預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺され、その子のアモンは宮殿の中で家来に殺されるほどに無能でした。

マタイは敢えてこれらの救いがたい王の名も記しています。それは、神の救いのご計画は、愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。

 

「エコニヤ」(11)はバビロン帝国にすぐに降伏したため捕囚の地で優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。

それは主がダビデに、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つと約束してくださったとおりです(Ⅱサムエル7:16)。

 

神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記2847節以降に詳しく警告されていたことでした。

しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません。そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとするエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も・・・破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは・・・ダビデの子孫と・・レビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。

ダビデに対する神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きが、神とノアとの契約が守られ通している結果であることからも明らかだというのです。

 

なお、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ(12)とありますが、このエコニヤは二回数えないと17節の「十四代」が成り立ちません。しかも、その後の系図に関しては分からないことばかりですが、ダビデの系図が続いたことは確かで、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。

そして、この系図の最後に、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」と記されています。

その上で、17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期は「アブラハムからダビデ」で苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。

それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。

 

   18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、これも1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

そのために、ここではマリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。ヨセフが「ダビデの子」だからです。

 

   多くの人々がとまどうこの系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証しです。「のろい」が「祝福」に変えられ、預言がひとつひとつ成就しました。これを味わうとき、神が私たちの人生を確実に守り通してくださることがわかり、主の前に誠実を尽くす勇気をいただくことができます。

私たちの誠実は、神の真実への応答です。人に裏切られても、誠実を全うする者の人生は、美しく輝き、そこに「喜び」が生まれます。

 

3.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」

   18節でのイエスの誕生の次第では、ごく簡潔に、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とのみ記されます。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。

そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれるのは(19)、彼にとっては、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚は考えられないということになります。当時の正当な手続きとしては、彼女の浮気を祭司に訴え出るはずでした。律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。

ただし、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決め(切望し)た」というのです。それは、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだという意味だと思われます。

 

ところが、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます(20)。御使いの最初の呼びかけは、「ダビデの子のヨセフ」です。当時の習慣では父の名を用いて「ヤコブの子のヨセフ」と呼ぶはずでした。一介の大工に過ぎないヨセフを、「ダビデの子」と呼ぶのは途方もない驚きです。

しかも、御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と言います。つまり、マリヤの胎に子が宿ったのは、神が人智の超えた救いのみわざを実行に移されたからなのです。

 

そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。

なお「イエス」という名は、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。

 

その際、御使いはヨセフに、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らを飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。

しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。

 

私たちにとっての「罪からの救い」とは、アダムの罪によって「土地」が「のろわれ」、労働が苦しみになったことから解放され、すべての働きを主からの「使命」と受け止め、そこに「労苦が無駄にならない」という希望に満ちた喜びが生まれることです。

それは、「新しい天と新しい地」の「いのち」が今から始まっていることです。

 

4.「その名はインマヌエルと呼ばれる」

 「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22)と記されますが、「救い」は、イスラエルの民に与えられた預言の成就として見る必要があります。

そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ714節のみことばでした。これは、エルサレムの王アハズが、人間的な解決を求め、預言者イザヤの勧めを退けたときに与えられたもので、神の救いは、人間の期待や想像をはるかに超えているということを現すことばです。

ただ、それは、信仰を生み出す「しるし」ではありません。「みごもっている」女性を、誰が「処女」と見られるでしょう。

 

しかも、イザヤ715-17節は、インマヌエルと呼ばれる方の誕生の遅れを、また、当面の大きな悲惨を予告するものでした。自分の知恵や力に頼る人は、救い主を求めることができませんので、神は悲惨や苦しみを敢えて与え、その傲慢を砕かれます

つまり、「インマヌエル」の意味は、困窮と不安と敗北の中で理解できるものです。

実際、イザヤ88節では、アッシリヤの攻撃がユダ王国を呑み込みそうになるところで初めて「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」と記され、また、810節では、ユダ王国を攻める国々の「はかりごと・・は破られる」ことの理由が、「神が、私たちとともにおられるからだ」と記されます。

 

つまり、インマヌエル預言の核心とは、神の救いは人の期待をはるかに越えた形で実現するという意味なのです。イザヤ書ではその後、「あなたの神が王となる(52:7)と、神のご支配が明らかにされると言われながら、その道が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(53:4)という苦難のしもべの姿として描かれます。

そしてその方は、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスは十字架で七つのことばを発せられましたが、マタイは人を困惑させるこの不思議なことばしか記録しません。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びに他なりません。

しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。

 

幸い、インマヌエル預言はイエスの父となるヨセフにとっては信仰を生み出すことばになりました。そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されます。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。

無名の大工ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた誇り高き王アハズ王とは対照的でした。バビロン捕囚前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、捕囚を経たダビデの子ヨセフは、神の計画を実現する器になりました。

彼は、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけに信頼することができました。それは、ヨセフが日々の生活に苦しみながら、徹底的に自分の弱さを知ると同時に、神の救いのご計画に心を開いていたからです。

 

 かつてイスラエルの民はヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領しましたが、そこにはいつも全能の主がともにおられました。

私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、富や力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

 

「靴屋のマルティン」は、悲惨の中で自分にばかり目が向かっていたことに気づかされました。そして夢の中で、イエスの「明日、訪ねて来る」との声を聞きます。彼は翌朝起きて、おもてなしの準備をします。

その後、寒い朝、粗末な靴を履いて雪かきをしている老人が目に入り、彼を温かいお茶でもてなします。次には、赤ん坊を抱いて薄着のまま凍えている貧しい婦人を見かけ、食事に招き入れ、古い毛皮のマントを着せてあげます。そして、最後に、リンゴ売りのお婆さんからリンゴ泥棒としてひどく折檻されている少年を助け、二人を和解させます。

そして、夜になると、再び夢の中で、それらの人々を助けたことが、イエスをもてなしたことに他ならないと知らされます。彼はマタイ253540節でイエスが、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え・・渇いていたとき・・飲ませ・・・裸のとき・・着るものを与え・・・牢にいたとき・・たずねてくれた・・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語っておられることを読み、イエスが確かに彼の家においでになったことに気づきました。

原作では、それぞれの人々と、神のあわれみを語り合い、神を賛美する様子が描かれています。助ける方も助けられた方も、ともに神が彼らの心のうちに生きて働いてくださったことを喜び合っていました。

そして、キリストの福音は、そのようにして広がって来たのです。このトルストイの小説の原題は「愛のある所に神もある」です。それこそインマヌエルです。

 

マルティンは、「早く死にたい」という絶望の中で、生きる使命に目覚めました。それは「死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24)という「心の復活」の体験です。そして、彼の愛はそれを受けた人にも「心の復活」をもたらすことができました。

神が私たちとともにおられる」という現実は、この世的な成功の中にではなく、苦しみの中での互いの愛の中に現されます。

罪からの救い」とは、恐怖や憎しみの連鎖が、愛の連鎖に変えられること自体を指します

神の御子は、ダビデの子ヨセフの家に、処女マリヤを通して赤ちゃんになることを通して、不思議な神の愛のご支配を始めてくださいました。神の栄光は、この世の富や力よりも、愛の交わりに中に現されたのです。

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2016年12月11日 (日)

申命記27章~30章「のろいの誓いから祝福の契約へ」

 20161211

   星野富広さんは、身体が不自由になり、イエスに出会うという過程での心境の変化を、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と簡潔に描いています。

意識が自分に向いすぎる人は苦しくなります。聖書に記された神の救いのご計画に心を向け、その中に自分を置くなら、人はいつでも幸せを味わうことができます。

 

   この申命記の書は、これから約六百年余り後の紀元前622年、ユダの王ヨシヤ王の時に、失われていたものが発見され、それによって一時的な信仰の覚醒が起きました。ただそれは遅すぎたとも言えます。警告されていた「のろい」が実現し、イスラエルの民はバビロン帝国の捕囚とされます。

しかし彼らはそこで、すべてが予め記されていた通りであることを受け止め、自分たちの創造主に立ち返ることができました。

クリスマスの季節にはいつもイザヤ9章から、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た・・・ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる(26)と読まれますが、それは国の滅亡の後に現れる救い主の預言でした。今回の箇所に記された「のろい」を素通りして「祝福」を理解はできません。

 

1. エバル山で確認されるべきのろい(27)

   申命記26章の終わりは28章に続く方が、文章の流れが自然です。すべてモーセ自身のことばと理解できるからです。51節以降、モーセの名が登場するのは27章が初めてです。

しかし、12章から26章を「十のことば」の適用例と理解し、1129-32節の「ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない・・・」という約束の地での可視的な誓いの儀式に対応するものとして27章が描かれ、それに挟まれて具体的な教えが記されていると考えるなら、この全体の流れが理解できます。

 

27章でモーセはイスラエルの民に、「大きな石を立て、それらに石灰を塗り・・・それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書き記しなさい・・これらの石をエバル山に立て・・なければならない」(2-4)と命じました。この山は約束の地のほぼ真ん中の町シェケム(イエスがサマリヤの女と出会った井戸の近く)の北にあり、町の南にはゲリジム山がありました。

5-7節では、そこに祭壇を築いていけにえをささげ、「(ヤハウェ)の前で喜びなさい」と命じられます。これは12章の唯一の礼拝の場と矛盾するようにも考えられますが、「十のことば」を与えられた後の出エジプト記24章の契約の儀式との対応を考えると納得できます。

12章から26章の具体的な教えを全体としてみなで覚えるための儀式だからです。これはヨシュア記830-35節で、ヨシュアに導かれた民が具体的に実行したこととして描かれています。

 

9節でモーセは、「静まりなさい・・・きょう、あなたは・・・主(ヤハウェ)の民となった」と、今、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前の時点で、主の命令をここで聞いていることによって「(ヤハウェ)の民となっているということを思い起こさせます。

その上で、約束の地の中央を占領してすぐに行う儀式として、十二部族を二つのグループに分けて、二つの山に立たせるように命じられます(12-14)。そこで、東に向って右のゲリジム山には「祝福」を、左のエバル山には「のろい」を置くという目に見えるしるしで、祝福とのろいの選択を迫りました。

しかし、結果的にはエバル山に立たされた部族は辺境の地に住むことになります。ただ、救い主はその辺境の、ゼブルン、ナフタリの地を受け継いだガリラヤから現れます(イザヤ9:1)

 

 15-29節には、十二回にわたって「のろわれる・・」と繰り返され、そのたびに「アーメン」と応答するよう命じられました。ここでは性的な罪が四回にわたって特に厳しく戒められますが、全体として注目されているのは「ひそかに(15,24)行われる罪と言えましょう。それはなかなか公になりにくい罪です。

そして26節ではこれまでのすべてをまとめて「このみおしえを…実行しない者はのろわれる」と記されます。

 

ガラテヤ人への手紙310節では、このみことばが引用されながら、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです・・・キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と記されます(3:1113)

2123節でも、「木につるされた者は、神にのろわれた者」と記され、それがガラテヤ313節でも引用されて、アブラハムの民がのろいから贖い出され、私たち異邦人にも「約束の御霊」が与えられると保障されていました。つまり、「のろわれる」ということばにおののく者のために、イエスは十字架にかかってくださったのです。

 

2.祝福とのろいの対比(28)

   281-14節は、26章からつながる「祝福」の約束と考えることができ、そこではまず、「もし、あなたが、あなたの神、主(ヤハウェ)の御声によく聞き従い・・すべての命令を守り行なうなら・・次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される」と約束されます。

3-6節では美しいリズムで、六回にわたって「祝福」が約束されています。「入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」とは、日々の行動の自由の中に現れる祝福を指します。

7-13節は交差法によるひとつのまとまりで、7節と12b13節が敵や外国を圧倒すると約束され、8節と11節、12a地の産物の祝福910節が「聖なる民」、「(ヤハウェ)の名がつけられる」ことの祝福として描かれます。

それは具体的に、「(ヤハウェ)は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる・・主(ヤハウェ)は・・あなたのすべての手のわざを祝福してくださる・・・主(ヤハウェ)は・・時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される・・・主(ヤハウェ)はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない(28:7,8,13)というように表現されます。

自分の労苦が思うように実を結ばないときに、私たちは何よりもまず、(ヤハウェ)を見上げるように招かれているのです。

 

 「のろい」は「祝福」よりもはるかに多く記され、1546節、47-57節、58-68節の三つに区分できます。そこではまず第一部の初めでは、「もし、あなたが、あなたの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き従わず・・すべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる(28:15)と宣告されます。これは2節と正反対の表現で、16-19節も3-6節の真逆で六回にわたって「のろわれる」と警告されます。

そして20-44節は、先の7-13節の祝福の真逆が起きることが描かれます。

 

ある宣教師が未開のジャングルを訪れた時、そこで、「あなたの神は、どんな災いを下すのか?」と聞かれたので、宣教師が、「私たちの神は、災いではなく祝福だけを下さいます」と答えました。するとその人は、「災いを下さない神を、なぜ礼拝する必要があるのか・・」と言ったという事です。

しかし、文明社会?に住む人々も、この世の権力から下される「のろい」を恐れて生きてはいないでしょうか。人は、神からの「のろい」の可能性を理解できて初めて、この世の「のろい」を小さく見られるのではないでしょうか。

   20-24節では、「のろい」は様々な自然災害や疫病として国全体に及び、誰も逃れることはできないと強調されます。特に2324節は12節の天からの祝福とは逆に、「天は青銅となり」という「のろい」として描かれます。

25-29a節では7節と対照的に、「主(ヤハウェ)は、あなたを敵の前で敗走させる・・・主(ヤハウェ)はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる」恐怖に圧倒される様子が描かれます。

 

また、29bから33節では、12節の「手のわざを祝福される」とは真逆に、「あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪される・・・婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建ててもその中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」と労苦が無駄になる様子が描かれます。

イザヤ6517節以降の「新しい天と新しい地」の祝福は、「彼らはむだに労することがない(65:23私訳)と描かれます。

34節~44節はそれまでのことを別の角度から述べたもので、4344節は先の12b,13節と真逆の表現で、4546節は15節の繰り返しで第一部の「のろい」の結論部と言えましょう。

 

   2847節から57節は、はるか後のバビロン捕囚を示唆します。そこには「のろい」ということばは登場しませんが、それよりはるかに悲惨なことが記されます。その原因は47節では、「すべてのものに豊かになっても・・・主(ヤハウェ)に、心から喜び楽しんで仕えようとしない」という忘恩に対するさばきです。その結果、「主があなたの首に鉄のくびきを置き、ついには・・根絶やしにされる(48)というのです。

49節は、「主(ヤハウェ)は、遠くの地の果てから、鷲が飛びかかるように、ひとつの国民にあなたを襲わせる」とバビロン帝国のことが具体的に描かれているようにも解釈できますが、これはアッシリヤやギリシャの攻撃に適用できることですから、あまり固定的に考え、バビロン捕囚以降に書き加えられたなどという解釈にならないことが大切です。

それにしても、52節からは敵の包囲がもたらす悲劇が、「包囲と、敵がもたらした窮乏のために・・あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が・・自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ・・食べるであろう」(53,56,57)と皮肉に描かれ、哀歌220節では、その通りに実現したと記されています。

 

   58-68節では、「この光栄ある恐るべき御名・・主(ヤハウェ)を恐れて・・・このみおしえ・・・を守り行わないなら」、出エジプトの神の御業が逆転されると描かれ、60節ではエジプトを襲った「十の災い」がイスラエルに下ることが示唆されます。

そればかりか、64,65節では、「主(ヤハウェ)は、地の果てから果てまでのすべての民の中に、あなたを散らす・・これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない」と、その後の、今に至るまでのユダヤ人の悲劇が預言されます。

65-67節は圧倒的な不安に苛まれて精神を病んでしまうことが描かれます。

また68節では「あなたを・・再びエジプトに帰らせる」と、イスラエルに対する神の救いの御業が帳消しになると記されます。イスラエルは、地上のどの民族より愛された分だけ、厳しく裁かれました。彼らの神の無力さのせいではありません。

 

68節の「あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい」とは現代にも通じる悲惨です。それは、誰もが避けるほど惨めな仕事にもありつけないばかりか、誰からも声をかけてもらえないほどに身を落とす状態です。そこで深く反省しても、落ちた穴が深ければ自分で這い出すことは不可能です。

しかし、全能の主(ヤハウェ)にあって不可能はありません。そのような人に、主は「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示2:5)と命じられます。「初めの行い」とは、主の恵みのうちに歩ませていただいていた原点です。誰も自分だけの力で生きてきた人はいません。その恵みに立ち返って、そこにあった関係を回復するのです。

 

3.「のろいの誓い」の後に「あなたを栄えさせて喜ばれる(2930)

   申命記はモーセの三つの説教からなっています。第一は16節~443節、第二が5章から28章でした。そして、第三がこの29章と30章で、これはそれまでの教えをまとめる意味があります。

291節では、「これは・・ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である」と記されますが、シナイ契約の中心は、神がイスラエルの真ん中に住むということでした。それによって彼らは、「大きなしるしと不思議」を見ることができました。

ただ4節では、「しかし、主(ヤハウェ)は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった」と記されます。パウロは後に、このみことばを言い換え、イスラエルの民がキリストの福音を理解できなかった原因を、「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない心を与えられた。今日に至るまで」と記しています(ローマ11:8)

ホレブで結ばれた契約では、それを守るときの「祝福」、背く時の「のろい」が十分ではなかったので、モーセはこの「モアブ」の地で、279節にあったように、そこにいる民を改めて「(ヤハウェ)の民となった」と宣言し、契約を更新したのです。そこには彼らの「」と「」と「」とを開いて欲しいという熱い思いが込められています。それと同時に、彼らがすぐにそれを忘れることを心配し、「契約」に伴う「のろい」を思い起させたのです。

5-8節では、ホレブでの契約以降の歩みを簡潔にまとめ、彼らが四十年間の荒野の生活を守られ、最後にはヨルダン川の東側の強大な国々に劇的な勝利を収めたことを思い起こさせました。

それを前提に9節では、「この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである」という希望が記されます。

 

10-15節では、彼らの子孫が約束の地に広がって住むことを前提に、「あなたが、あなたの神、主(ヤハウェ)契約とのろいの誓いとに、入る。それは、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるものである」(12節私訳)と述べられます。

のろいの誓い」とは、先に「のろわれる」と繰り返されていたことばとは全く異なる一つの単語で、契約を守るという「誓い」自体を指します。ですから多くの英語訳では、契約という単語を修飾するように「誓われた契約に入る」と訳されます。

ただ、どちらにしてもこのモアブでの契約においては、この契約を破った時の「のろい」の部分が前面に出ているので、敢えて、「のろいの誓い」とここでは訳されています。

そして、1415節では、「この契約とのろいの誓い(誓われた契約)」が、彼らの中に住む在留異国人や奴隷ばかりか、そのすべての子孫に及ぶと強調されます。

 

しかも、16節以降ではイスラエルが異邦の民の神々に仕えるようなことが絶対にあってはならないと警告されます。

そして1920節では「(のろいの)誓い」ということばのみを用いて、それを軽んじる者へのさばきが、「『私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある』と心の中で自分を祝福する者があるなら、主(ヤハウェ)はその者を決して赦そうとはされな」と厳しく警告されます。

そして21節では、「契約のすべてののろいの誓いにしたがい」、その契約を軽んじた者を「イスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される」と警告されます。

異邦人たちはイスラエルの悲劇の歴史を見ながら、(ヤハウェ)を恐れるようになると言われます(22-28)。それは、この警告が予め記されていた結果です。

 

2929節の隠されていることは、私たちの神、主(ヤハウェ)のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり・・このみおしえのすべてのことばを行うためである」とは、啓示の核心です。知りたくても分からないことは、知る必要がないことです。しかし、本当に必要なことは既に知らされています。私たちの使命は、今明らかな御教えに従うことです。

主は、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る(ガラテヤ6:7,8)と、あなたの現在の選択が、あなたの未来を決めると言われます。

 

  30章では、「あなたの前に置いた祝福とのろい、これらのすべてのことが、あなたに臨み・・・あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返り・・心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主(ヤハウェ)は、繁栄を元どおりにし・・あなたを再び、集める・・・たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても・・そこからあなたを連れ戻す」と語られます(1-4節)

バビロン捕囚を通してイスラエルは劇的に変えられ一切の偶像礼拝と決別しました。しかし、彼らの回心は不徹底だったため、バビロンからの解放後もペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国に支配され続け、そのような中で、救い主の到来を待ち望んでいました。

しかし、彼らは真の問題は、神の御教えを法律の条文のように扱い、弱い人々を軽蔑し、神のあわれみを忘れていたことでした。イエスは何よりそれを指摘したのでした。

 

   6節で、真の救いは29章4節との対比で、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされる」と記されます。

それは私たちの心が変えられること、つまり、神を愛することができない者が、神を愛する者へと変えられることです。そのためにイエスはあなたの罪を負って十字架にかかり、三日目によみがえり、ご自身の御霊を遣わしてくださいました。

9節では、28章3-6節の祝福の約束が思い起こされながら、「まことに(ヤハウェ)は・・あなたを栄えさせて喜ばれると約束されます。

 

   14,15節でモーセは、「みことばは、あなたが行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にある(私訳:原文は「できる」とは書いてない)。見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く」と言い、また、「私は、いのちと死祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい・・」(30:19)と念を押しましたが、イスラエルは「のろい」を選び取ってしまいました。

それで神は、御子を世に遣わし、全ての罪の「のろい」をその身に負わせてくださいました。今は、キリストにある救いを受け入れるか、拒絶するかという選択が迫られています。

私たちも、日々刻々と、イエスにすがるか、自分の肉に従って生きるかが問われます。コンピューター言語がゼロと一の組み合わせで驚くほどの多様性が生まれるように、人生も、小さな選択の積み重ねによって形作られてゆきます。

 

  私たちは、確かに何度も失敗しますが、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)とあるように、既にキリストにあって、「のろい」から「祝福」の中に移されているということを決して忘れてはなりません。

自分の願望に縛られすぎて、既に実現した恵みや救いを忘れることがあったとしても、様々な困難は、もはや神の「のろい」の表れではなく、「平安な義の実を結ばせ」(ヘブル12:11)るための、神の愛の訓練のときです。たとえ、現在の苦しみが自分の罪の結果だとしても、キリストにすがりながら生きる者は、すべてが「祝福」へと変えられる神の御手の中に生かされているのです。

「のろい」の時代は、「ぶどう畑を作っても・・収穫・・できない…夜も昼もおびえ(28:30、66)などと、労苦が実を結ばず不安にさいなまれる状況として描かれていました

しかし、今は、「いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と約束されています。                        

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2016年12月 4日 (日)

申命記23章~26章「主の聖なる民となるために」

                                             2016124

   三千数百年前の遠い国の細かな教えを学ぶことにどんな意味があるのかと、ふと思われることがあります。しかし、当時の文化背景を理解しながらここを読むと、知らずに微笑が湧いてきます。

現代は、普遍のドグマ(教義)よりも個別が重んじられる時代と言われますが、その原点が既に記されています。 

 

なお、申命記12章から26章には様々な規定が記されていますが、それがどのような関係性で記されているのか、そのストーリを把握することが困難です。Gordon.J.Wenhamというモーセ五書の世界的な権威者は、この部分が「十のことば」に対応すると記しています。

それによると、12章は、「あなたがたには・・ほかの神々があってはならない・・偶像を造ってはならない・・拝んではならない」、すなわちカナン宗教との分離の命令です。

1314章は「(ヤハウェ)の御名を、みだりに唱えてはならない」、すなわち、カナン礼拝との妥協をしないことの命令です。

15章から1617節は「安息日を・・・聖なる日とせよ」、すなわち、時間を聖別することの命令です。1618節から1822節は「あなたと父と母を敬え」、すなわち権威を敬うことの命令です。

19章から228節は「殺してはならない」、すなわち人間の尊厳を守ることの命令です。

229節から2318節は「姦淫してはならない」、すなわち異教徒との分離の命令です。

2319節から247節は「盗んではならない」、すなわち財産の保護の命令です。

248節から254節は「偽証してはならない」すなわち、他者を公平に扱うことの命令です。

255-16節は「隣人の妻・・隣人のものを、欲しがってはならない」という命令に、それぞれ対応するとのことです。

 

1. 「姦淫してはならない」に関係する教え22:9-23:18

229節以降は、「姦淫してはならない」に関係する命令です。21-24節の三つの姦淫の罪に関しては死刑が命じられ、「あなたがたのうちから悪を取り除きなさい」と繰り返されます。聖書の教えは、男女の性的な関係において当時の異教文化と何よりも異なり、厳格で、姦淫の罪は基本的に死刑となりました。

2526節では、婚約中の女が野にいて、助けを呼び求められなかった場合は、男だけを石で殺すように命じられました。

28,29節では、男が「まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝」た場合は、花嫁料に相当する銀50シェケルを父親に払って一生妻として面倒を見ることが命じられました。13-21節にあったように女にとって純潔を守ることは最も大切な掟であり、それを奪われた女性にとって、男が死刑になって罪を償ってもらうよりも、一生の保護を得られる方が大切だからです。

すべての背景には、男女の結婚関係を「聖別する」という基本原則があります。女性の純潔は将来の夫のために守るべき神秘であり、男性が他人の妻または婚約者を奪うことは殺人に等しい罪と見られました。新約では、男性の性も結婚相手のために聖別すべきとされています(マタイ19:9、Ⅰコリント7:4)

 

231-3節では、「主(ヤハウェ)の集会に加わってはならない」ということばが五回も繰り返されます。第一の者は、男性の機能を失った宦官と呼ばれる人々、第二は「不倫の子」、第三は「アモン人とモアブ人」ですが、第二と第三に関しては「十代目の子孫さえ」という厳しい条件が記されています。

それは、「(ヤハウェ)の集会」が、主ご自身が真ん中に住まれる場所なので、「聖さ」の枠にはまらない人を排除するという意味がありました。ただ、それは忌まわしい偶像礼拝に満ちたカナンの地を占領するというプロセスの中で守るべき規定であって、永遠のおきてではありません

そのことがイザヤ56章では、外国人も宦官も主の集会に加わることができる時が来ると預言され、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とまとめられています。そして、のろわれた民を神の民に加えるのがキリストのみわざです。

 

「アモン人とモアブ人」(3)とは、ロトとそのふたりの娘との間の父娘相姦から生まれた子孫で、神の民をのろうことによって、のろいを招いてしまいました。

一方、エドム人エジプト人三代目は、かつての一時的な友好関係の故に、主の集会に入ることができました(7,8)主は、ご自身の民に敵対する者に敵対し、ご自身の民に少しでも誠実を尽くすものにはあわれみ深くあられます。

ですから、ルツはのろわれたモアブの娘でしたが、その誠実さのゆえに、何とダビデの曾祖母として迎えられたのでした。

 

また聖なる戦いに出陣しているとき、陣営の中がきよく保たれるように、生理的なことにも細心の注意を払うよう命じられました(23:9-14)。イエスの時代、あの死海文書で有名なエッセネ派は、これを入会の最も重要な条件としていました。

しかしこれは、「あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれる(23:14)という神のあわれみから生まれた命令でした。

 

15,16節では逃亡奴隷「主人に引き渡してはならない」とあるのは、現代の難民や亡命者を保護する国際協定の原型と言えましょう。対象となったのは外国から逃れてきた奴隷だと思われます。イスラエル人が所有する外国人奴隷は財産だったからです。

それにしても「彼の好むままに選んだ場所に住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない」というのは何とも寛大で、異教徒との分離の例外規定とも言えます。奴隷がイスラエルを偶像礼拝に堕落させる恐れはなかったからです。これより少し前の古バビロニア王国のハムラビ法典では、逃亡奴隷を匿った者は死刑とされると記されていました。

 

1718節では、イスラエルの民が「神殿娼婦・・神殿男娼」になることが禁じられそれから生まれた「遊女のもうけや犬のかせぎ」は、献金として受け入れてはならないと命じられます。

これは後に拡大解釈され遊女や取税人が社会から排除される根拠とされました。しかし、文脈から明らかなように、異教の退廃した性道徳からの分離こそがテーマだったのです。

当時のパリサイ人は律法に少しでも反する疑いのあるものを退けることで、別の問題を引き起こしました。しかし、イエスは彼らの友となられました。それこそイエスがもたらした革命です。十字架と復活で、神の民の枠が申命記の枠を超えたのです。

 

2.「盗んではならない」に関係する教え(23:19-24:7)

2319,20節では、「金銭の利息を・・あなたの同胞から取ってはならない」と記されますが、当時の「利息」は、現代の違法な高利貸しを超える、平均五割などという法外なものでした。これは貨幣流通に市場原理が働かない時代のことですから、これを現代に適用するなら、資本の分配がかえって人情や賄賂に左右されることになりかねません

私たちは常に戒めの原点に立ち返る必要があります。それは、互いに愛し合うべき同胞が困難にあっていることを、決して金儲けの機会にしないということです。

 

21-23節では「主に誓願」することに関してですが、それは、自分の大切なものを主にささげることで、主に自分の切実な願いを表現することですから、それを破ることは、主のものを盗むことになります。

 

2425節では、「隣人のぶどう畑に入ったとき…満ち足りるまでぶどうを食べても良いが・・かごに入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったとき・・穂を手で摘んでもよい。しかし・・・かまを使ってはならない」と記されます。

つまり、その場での自分の飢えを満たすことに限って、摘んで食べることは認められました。これは隣人から「盗んではならない」ことの例外規定です。財産権は隣人愛の枠の中で理解される必要があるという意味と解釈できます。

後にイエスの弟子たちが麦畑を通って、「ひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた」(マタイ12:1)ことは、安息日でなければ何の非難の理由にもなりませんでした。これは、土地の所有権は、本来、主(ヤハウェ)に属するものであることの信仰の表明でもありました。

 

241-4節では、「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」との記述から始まりますが、これは後に離婚の合法化の根拠に用いられた箇所で、律法学者は「何か恥ずべきことを発見した」(24:1)場合の意味を、「夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合」などと具体的に述べました。

それに対しイエスは、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と、不貞以外の理由での離婚を禁じましたが(マタイ19:6)、その際、パリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか」と尋ねました。しかし、新改訳第三版での翻訳にも明らかなように、この規程の目的は、夫が妻を去らせ「ほかの人の妻となり、・・」、その後、また同じように次の夫から離縁されたり、夫の死などによって、彼女が「ひとり身」になった場合、「再び自分の妻としてめとることはできない」(24:4)と、再婚した元妻との再再婚に歯止めをかけることです。

些細な理由で離縁し、「恋しくなった・・」などと気まぐれを起こす男に女性が振り回されてはなりません。これも財産権の枠で理解すると画期的です。女性は決して、男のきまぐれで捨てたり、戻したりできる財産ではないのです。

 

イエスの時代には、これらの教えをもとに、人々の生活を縛り、また守れない人を排除しました。イエスはそれに対し、律法が与えられた原点である「神のあわれみに人々を立ち返らせようとしました。本来、人を生かし合うための教えを、互いを裁き、排除しあう規程にする危険は今もあります。

 

5節は聖なる戦いに際しての徴兵免除の規定で(20:5-7参照)「人が新妻をめとったときは・・何の義務をも負わせてはならない・・一年の間、自分の家のために自由の身となって、めとった妻を喜ばせなければならない」と命じられます。

目的が「妻を喜ばせる」とあるのは妻の権利を守ることで、何とも画期的です。神は新婚家庭を守るように特別な配慮を命じておられることを現代の教会も理解すべきす。

 

6節の「ひき臼・・の上石を質にとってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである」とは興味深い表現です。財産権を尊重しながらも、それを隣人愛の大きな枠の中で理解すべきという意味です。

さらに7節では、イスラエル人をさらって奴隷に売るような者は、「死ななければならない」と厳しく記され、「あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい」とこの部分が締めくくられます。

 

3. 「偽証してはならない」に関係する教え(24:8-25:4)

2489節では、「ツァラアトの患部には気をつけて」という文脈の中で、ミリヤムがモーセを不当な理由で非難したために神のさばきを受けたことが思い起こされます(民数記12章)。

 

10-13節では、「隣人に何かを貸すとき」の、担保の取り方にも、貧しい人の生活が成り立たなくなるような方法は厳しく戒められています。また、雇い人が在留異国人であっても、賃金の支払いを遅らせるようなことがあってはならないと厳しく命じられました(24:14-15)

また、子の罪を父にまたは父の罪を子に負わせることを禁じていること(24:16)は、個人の人格と責任を尊重した近代法の起源と言えます。

また1718節では、在留異国人や、みなしご、やもめを保護することが命じられますが、その際、「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを(18)と、個々人を公正に扱うことと結びつけられます。

 

19節で、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」とあるのには、微笑みたくなります。

続く「オリーブの実(20)に関しても、「後から枝を探してはいけない」と訳すべきで、「ぶどうの実」に関しても「後になってまたそれを摘み取ってはならない」と命じられます(21)

レビ記では「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の具体例として、「刈り入れるときは、隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならないと命じられました(19:9,18)。落ち穂やぶどうの摘み残しは、貧しい人々が、恥じることなく自分の手で働き、生活を成り立たさせるために残すのでした。

後にモアブの娘ルツは、しゅうとめのナオミのために落穂ひろいを熱心にしますが、その際ボアズはしもべたちに、「あの女に恥ずかしい思いをさせてはいけない」(ルツ2:19)と、さりげなく落ち穂を残させました。

愛とは、人を恥じさせずに居場所を残すさりげない配慮です。そして主はそれらをまとめるように、「あなたは・・奴隷であったことを思い出しなさい」(24:22)と社会的弱者を軽蔑しないように命じます。

 

「むち打ち」(25:1-3)の限界が四十回と定められていた根拠が、犯罪者であっても「あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないため」とあるのに驚きます。

イエスが十字架にかけられる頃は、律法違反にならないようにと39回に減らされていましたが、「卑しめないため」との心は無視されていました。

 

「脱穀をしている牛にくつこをかけてはいけない」(25:4)とは、貧しい人のために収穫物を残すという先の教えと同じ文脈です。目の前に脱穀の麦が飛んで落ちているのを、牛に食べさせないようにするというのは牛を機械のように扱うことになります。

使徒パウロは、この教えを、福音を取り次ぐ伝道者に適用し、「脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事するのは当然だからです・・・御霊のものを蒔いたのであれば、…物質的なものを刈り取るのは行き過ぎでしょうか」とまで述べています(Ⅰコリント9:9-11。そこでも、福音を宣べ伝える者に「恥ずかしい思いをさせない」ことが申命記の文脈から命じられます。

 

4.「隣人の妻・・隣人のものを、欲しがってはならない」(25:5-16

255-10節の「兄弟・・のひとりが死に、子がない場合・・その兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない」との規定は、世界各地に見られるレビラト婚の原型のような記述です。

その趣旨は、子を残さずに死んだ夫の跡継ぎを残す責任を、彼の妻と彼の兄弟に命じるものです。当時は土地こそ、神の具体的な祝福の象徴であり、それを子孫に残すことは、最高の責任であったことを理解する必要があります。

そして、これを前提としなければルツ記は理解できません。彼らは、何よりも、「死んだ者の名をその相続地に起こす」(ルツ4:10)という使命のために結婚したとあるからです。

これを「隣人の妻を欲しがってはならない」という第十の教えの中で理解すると、結婚は互いの欲望を基にではなく、神からの使命のためにという原則が明らかになります。

 

今は、「みこころの人と結婚するには?」などと尋ねられますが、聖書は「結婚の目的は?」と問います。自分の幸せを第一に求める者が、絶え間のない欲求不満に陥るのと同じように、ふたりの愛自体を目標にする人は、波長の合わない伴侶に失望します。

しかし、主によりよく仕えるための同伴者を求めるなら、互いの違いを、すれ違いの原因としてよりは、補い合う関係の基礎として喜ぶことができます。

しかも、たとい、あなたの伴侶が愛するに値しない存在に思えたとしても、そこにこそ神から与えられた最高の使命を見ることができます。なぜなら、神の愛は、愛するに値しない者を、愛するに値する者に変えることであり、私たちもそれに倣うべきだからです。愛は、感じるものではなく、実践すべき歩み方です。

 1112節では、慎みのない妻が、夫の争いに加担して敵の男の性器をつかむ際に、「その女の手を切り落としなさい」と命じられています。

13-16節では「正しい重り石」や「正しい枡」を用いて取引を行なうことが命じられています。これらは、自分の不安や欲望に駆られて、相手の大切なものを侵害することの戒めです。

17-19節では、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、アマレクが襲いかかり、「あなたの後ろの落伍者を、みな切り倒した」罪に対して「アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない」と記されます(1819)。これは、「隣人のものを、欲しがってはならない」ことへのさばきです。

 

5.乳と蜜の流れる地で

26章は12章以降の律法の総まとめのような意味があり、神のみわざへの応答が見られます。主が与えられた相続地での収穫の初穂は、主の幕屋がある唯一の礼拝の場に持って行き、主に献げることが命じられました(26:1-11)。その際言うべき言葉は、神がイスラエルの民になされたみわざの美しい要約です。

「私の父はさすらいのアラム人」(5)とはヤコブ、別名イスラエルのことです。彼らは七十人でエジプトに下り(創世記46:27)、そこで「大きくて強い、人数の多い国民となり「過酷な労働を課せ」られ、「父祖の神、主(ヤハウェ)に叫ぶ」と、「主(ヤハウェ)は・・・私たちをエジプトから連れ出し・・乳と蜜の流れる地、この地を私たちにくださいました・・今、ここに私は・・初物を持ってまいりました」(6-10)と言うのでした。

 

12-15節は、三年毎の十分の一のささげ物の際に、民が告白すべきことばが記され、特に、「私は、私の神、主(ヤハウェ)のみことばに聞き従い、すべてあなたが私に命じた通りしました」(14)と告白できるようになることが求められていました。

そこでは特に、自分が社会的弱者を顧みたこと、また死人に供物を供えなかったことが強調されていました。それをもとに「民」「地」の「祝福」を祈り求めるのでした。

 

16-19節は、イスラエルに律法が与えられた根拠が、「あなたは主の宝の民であり」と語られています。それは彼らが主の命令を受けているという自体に保証されています。

主の御教えは、私たちを束縛するものではなく、私たちを幸せにすることができる神の知恵でした。そしてそれを守るなら、「主は、賛美と名声と栄光とを与えて・・すべての国々の上に高く上げ・・あなたの神、主(ヤハウェ)聖なる民となると約束されています(26:18,19)

46-8節では、彼らが律法を守ることで、世界の国々の民から、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と呼ばれると記されていましたが、それと同じことです。

そして、私たちも「主の宝の民」です。それは、私たちにみことばが与えられ、またそれを理解するために聖霊が与えられているからです。私たちに与えられている宝のすばらしさを忘れてはなりません。

 

それぞれの細かな規定を、「十のことば」との関係でみる時、神の御教えの柔軟さに感動します。私たちは「奴隷」状態から救われ「自由人」とされましたが(Ⅰコリント7:22,23)、心の底に奴隷根性が残っています。

神の御教えを、規則としてではなく、原点にさかのぼって現実に適用できる自由を楽しみましょう。

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