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2017年1月29日 (日)

ヨシュア記1-3章「恐れるな。わたしがあなたとともにあるから」

                                            2017129

「ヨシュア」とは、「主(ヤハウェ)は救い」という意味で、そのギリシャ語名が「イエス」です。神が約束の地を占領させるためにヨシュアを立てたように、神はイエスを立てて私たちを世界に遣わされます。

当時の神の民の敵はカナンの原住民でしたが、現在の私たちの敵は目に見える人間ではなく、目に見えない悪魔の力です。それは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と記されている通りです。

 

世界大恐慌のただ中で失業率が25%に達していた1933年初めに米国大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、その就任演説で次のように語りました。

The only thing we have to fear is fear itself (私たちが唯一恐れるべきなのは、恐れそれ自体である)。特定できない、不合理な、正当化できない恐怖(terror)が、退却から前進へと転換するために必要な努力を麻痺させてしまっている・・・」

 

日本におけるサタンの最大の働きは、人々の目を漠然とした「恐怖(terror)に釘付けにし、主に信頼する一歩を踏み出させなくすることです。

最近、遠藤周作の「沈黙」が映画化され上映されていますが、「神は、忠実な信徒が死に直面しても、沈黙したまま」という恐怖感を広める結果にならないかと心配です。なお、主人公の神父ロドリゴは、日本人信者の命を守るために棄教せざるを得なくなりますが、それはかなり史実を反映しています。

 

古代教会以来、殉教者の血が流されるたびに、かえって福音が爆発的に広がったと言われますが、日本だけは例外です。1700年代初めの幕府の権力者、新井白石の記録では、20万人から30万人もが日本で殉教の死を遂げたとさえ言われています。残念ながら、それらが、「死の恐怖に勝利した」美談ではなく、日本の伝統に背いた「のろい」かのように見られるのは、世界では珍しいことかもしれません。

しかも、当時の迫害の先頭に立ったのは、大目付の井上政重を初めその多くは転びキリシタンだと言われます。彼らは信仰者の心理を熟知していました。これほど巧妙で残酷な迫害が行なわれた国はないのかもしれません。

しかも、棄教した神父たちも、キリスト教信仰を根絶やしにする働きに着かされます。人助けのために棄教することは、残念ながら、サタンの手先にされることを意味しました。

そして、キリスト信仰の「恐怖」が、互いを監視し合う五人組制度を通じて、日本人の心の奥深くに刷り込まれました。

 

私たちは新しいヨシュアイエス)によって、「地の塩」、「世の光」として、恐怖に満ちた世界に「平和をつくる者」として派遣さます

その際、強大な勢力の前で、「こんな私に何ができましょう?」と怖気づくことがあるかもしれません。そのようなとき、このヨシュア記は時代を超えた慰めを与えてくれます。

 

1.「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができる」

 (ヤハウェ)はヨシュアにモーセの死の直接、「このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」(1:2)と命じます。イスラエルの民は、かつてカナン南部の荒野から約束の地への侵入を命じられたとき、その地の民の大きさと強さに圧倒され尻込みしました。

今、ヨルダン川を渡ることは、自分たちで退路を断って、その敵の勢力の前に身をさらすことです。しかし、主の明確な命令に従うとき、主ご自身が道を開いてくださいます

それで主は、あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている(1:3)と言います。

しばしば人は、危険や障害が目の前から消えるのを待とうとしますが、これは、恐れに打ち勝って足を踏み出さない限り神の約束の真実を体験することはできないという意味でもあります。なお、約束の地は、現在のイスラエルの占領地ばかりかシリア、レバノン、ヨルダンを含むユーフラテス南部の広大な領域とされています。

 

そして主は、ヨシュア個人に、「一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(1:5)と途方もないことを言われました。使徒パウロも、「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と語ったとおり、これは私たちへの約束です。

そして、その根拠として、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てないと言われます。ですから私たちも、世の人々から、「見放され、見捨てられ」ることを恐れて、悪事に加担したり、この世の習慣に妥協して仏壇や神棚に手を合わせるなどというようなことをする必要はありません。

それを前提として、「強くあれ(奮い立て)。雄々しくあれ(動じるな)」(1:6、7、9)と三回も命じられます。その第一の理由が、「あなたは、この民に地を継がせなければならないから(1:6b私訳)と言われます。そこにはヨシュアの使命が記されています。

また第二の理由が、「モーセが命じた律法を守り行って・・あなたが行く所ではどこででも・・・栄えるため(1:7)と記されます。つまり、主の御教えを全うするという目的が記されているのです。「恐れを感じる」ことと、「脅しに屈する」ことには天と地の違いがあります。

 

そのために、「この律法の書(モーセ五書)を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさま(黙想し)なければならない(1:8)と命じられます。みことばを実行する前に、黙想することが何よりも大切です。遠藤周作が描いたフィクションによる心理描写の世界ではなく、聖書の物語を思い巡らすのです。

しかも、「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、栄える(成功する)ことができるから」という祝福の約束が伴っています。そして、9節では、先の「強くあれ、雄々しくあれ」に加えて、「恐れてはならない。おののいてはならない」と命じられます。それは恐怖感情を抱くことではなく、恐れに圧倒されて退却してしまうことの禁止です。

「主よ、怖いです!」と告白することは「祈り」になります。そこには、「あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたの行く所どこにでもあなたとともにある」(1:9)という堅い約束が保障されています。

 

多くの人々は、「行い」の命令ばかりに反応し、自分を駆り立て、失敗して自己嫌悪に陥るという悪循環を繰り返します。しかし、聖書は神の愛と真実の啓示です。私たちはそれを黙想し、腹の底で味わった結果として、真心から主の命令を実行できるようになるのです。順番を間違えてはなりません。

しかも、その目的は、自分の願望を絶対化するご利益信仰ではなく、神が約束してくださった「地の支配」にあります。それは「神の国」という愛の共同体として実現します。そこには人知を超えた祝福があります。

 

2. 遊女ラハブが信仰の母とされる

   ヨシュアは、神の約束を信じながら、戦いへの備えを注意深くします。備えがないのは、勝利に賭けているだけで、腹の底で信じていないしるしかも知れません。勝利を与える神は、準備の段階から導いておられるからです。彼はまず、「糧食の準備」(1:11)を命じます。

そして、約束の地の東側に既に占領地を与えられたルベン、ガド、マナセの半部族に、妻子や家畜を置いたまま、戦いに出ることを命じました(1:12-18)。それは、民数記32章にあるようにヨルダン川をはさんで広がる民族の一致のために極めて大切でした。東岸に残された女性や子供、老人たちには心細く、不安なことだったでしょうが、ここでは主の前に立てた約束を守ることが、何よりも大切でした。なぜなら、民を守るのは、戦士たち以前に、主ご自身であられるからです。

18節では驚くべきことに、この三部族の代表自身が、ヨシュアの命令に逆らう者がいれば、「その者は殺されなければなりません」と言いながら、ヨシュアに向かって、「ただ強く、雄々しくあってください」と励まします。これは彼にとってどれだけ力強いことばだったことでしょう。

 

どんな国も共同体も、敵の攻撃以前に、内輪の権力闘争から崩れ始めます。戦国時代のカトリックの日本宣教はイエズス会によって始まりました。

彼らの多くは日本の権力機構を尊重していたようですが、宣教の大躍進の中、あとで入って来た修道会との間で、またスペインの政治権力者との結びつきの関係などで、宣教師たちの間に様々な意見の相違が生まれ、豊臣秀吉の迫害を招いたとも言われます。

 

   その上で、ヨルダン川を渡ったすぐの大きな砦の町エリコ偵察のため、ふたりのスパイを遣わします。不思議に、偵察の様子を省くかのように、「彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった」(2:1)と記されます。

その後の記述をみると、彼女は自分の父の家族全体に責任を持つような人であったことがわかります。当時は、町に知り合いを持たない旅行者が遊女屋のような所に泊まるのはよくあったようです。事実、王の使者がスパイの侵入のことを尋ねても、彼らが一時滞在して立ち去ったということが信じてもらえるほどに、この家は町の中で旅行者向けの遊女屋として認められていたようです。

 

それにしても、ラハブは、いのちがけでふたりのスパイをかくまったのです。それは彼女が、多くの旅行者から、川向こうでの彼らの劇的な勝利のことを聞き、エリコの王ではなく、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をこそ恐れるようになったからです。

その上でラハブがふたりのスパイに、「私が・・真実を尽くした(誠実《ヘセド》を行なった)ように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くす(誠実《ヘセド》を行なう)と、今、主にかけて誓って・・・確かな(エメットな)証拠をください。私の父、母、兄弟、姉妹、またすべて彼らに属する者を生かし・・いのちを救い出してください」(2:12,13)と迫ります。

彼女はイスラエルの神が何よりも「誠実」と「真実」を大切にされる方であると知っていました。それに対しふたりは、「私たちのいのちを、あなたがたのためにかけよう。もし、私たちのことを漏らさないなら」という条件を付け、「主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実(ヘセド)と誠(エメット)を行なおう」と、ラハブのことばを用いて保証します。

なお、その家は城壁の中に建て込まれていたので、彼らに逃げ方を教え、窓から城壁の外につり下ろします。17節は、「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる以下の条件を守れないならば」という意味だと思われ、18節以降はその条件です。それは、赤いひもを窓に結び付け、家族をみな家の中に集めておき、スパイのことは黙ったままにしておくことでした。

 

そして、ふたりのスパイは無事にヨシュアのもとに帰り、エリコの町にある恐怖を伝えることができました。その際、内外の情報に詳しいラハブが命をかけてスパイをかくまって逃亡を助け、イスラエルの神、主(ヤハウェ)に救いを求めたという事実こそが、彼らを励ます大きな材料になったことは疑いがありません。

 

ところで、後にヨシュアは、「あの遊女に誓ったとおり・・」(6:22)と言うように、彼女は確かに遊女です。しかも、自分の町を売り渡そうとさえしています。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、神の目に彼女は、「家族全体の救いのために、自分の命をかけて主に信頼した」と映ったのだと思われます。

マタイの系図で、ラハブはルツをめとったボアズの母、ダビデの祖先であり(1:5)「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブル11:31)と記されるような、「信仰の母」でした。

後に他の神々に浮気をするようになったイスラエルが、「それゆえ、遊女よ」(エゼキエル16:35)と滅亡を告げられるのと何と対照的でしょう。あなたは、信仰の名の下に、尊敬される人間になろうと自分を縛っていないでしょうか?しかし、遊女ラハブは、善行を積んだというより、ただ必死に、「主にすがる」(申命記30:20)ことをしただけです。

 

ラハブは、イスラエルの神の偉大さ、誠実、真実を伝え聞いていました。一方、日本の豊臣や徳川政権は、スペインの中南米での残虐な支配、フィリピンの植民地化がカトリック教会の密接な協力でなされたことを伝え聞いていました。

カトリックでの救いは、神父のミサや告解の秘跡(サクラメント)によって保障されますから神父は非常に尊敬されます。外国人の神父の意見が真剣に聞かれることに、日本の支配者が脅威を抱くのも無理はありません。当時のカトリックの悪評こそが、日本での大弾圧の原因でした。

 

3.「全地の主の契約の箱が・・・ヨルダン川を渡ろうとしている」

   3章には、ヨシュアに導かれた民が、ヨルダン川の東岸に着き、そこに三日間滞在することから描かれます。その上で、「主の契約の箱」を先頭に、ヨルダン川を渡るように命じられます。

その際、民の集団は契約の箱から約2,000キュビット(約900m)の距離を取ることによって、「通ったことがない」ところで「行くべき道を知る」ことができると記されます(4節)。

そこでヨシュアは民に向かって、「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主(ヤハウェ)が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(5節)と言います。

 

ヨルダン川は、カナン人にとって天然の要害ですが、11節では、全地の主の契約の箱が・・・ヨルダン川を渡ろうとしている」と表現されます。つまり、主ご自身が道を開いてくださるのです。

しかも、ここでは、「主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」(3:13)あるように、危険な流れに足を踏み入れるまで、主のみわざを見ることはできなかったということを忘れてはなりません。

 

15,16節では、「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき・・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなた・・にある町アダムのところで、せきをなして立ち、…塩の海のほうに流れる水は完全にせき止められた」と記されます。これは3月から4月の春の穀物の収穫期で、ヨルダン川は春の雨とヘルモン山の雪解け水であふれかえっています。それが30㎞近くも上流のヤボク川近くのアダムでせき止められたというのです。

しかも「水は・・せきをなして立ち」と、「イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった(17節)という描写は、モーセに導かれた民が、「海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となった(出14:29)を思い起こさせる表現です。

 

そして、「民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地に立つうちに(16、17節)という表現は、普通であれば恐怖を覚えさせられることです。

エリコから川を渡っている最中に攻撃を仕掛けられる可能性があり、また、上流でせき止められた川が流れてきたら祭司たちは真っ先に大水に呑み込まれて溺れ死ぬことは確実だからです。

これは、主ご自身が、「恐れるな。わたしがあなたとともにあるから」(イザヤ41:10)と語ってくださったからと言えましょう。

 

ただし、「主の契約」の箱が先立つとは、聖書を導き手にして世の荒波に向うことを意味します。神がイスラエルの民を約束の地に導かれたのは、そこに「神の国」を建てるためでした。

かつてのカトリックの日本宣教があのような悲劇に終わったのは、そこに「神の国」ではなく、「地上の国」の意図が微妙に絡んでいたからかもしれません。人間的な計画のために一歩を踏み出すときにではなく、主のご計画のために踏み出すときに、主は道を開いてくださいます

ですから、私たちはすべての前に、主の御前に静まりながら、自分の計画を、神の永遠のご計画、この地に神の平和(シャローム)を実現するという観点から見直す必要があります。

そこで問われるのは私たちの誠実さです。それは、「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。人の望むものは、人の変わらぬ愛(誠実、ヘセド)である(箴言19:21,22)と記されている通りです。私たちの心の願いが、主の願いと調和することが大切です。

 

主のみこころを思い巡らし、主に信頼して一歩を踏み出すことこそ、信仰の歩みの原点です。そこに驚くべき祝福が約束されます。ただ、それを躊躇させる、「焦点を絞ることによる錯覚」の可能性があります。それは、「人は意識を集中させる時、それが生活のどんな面であっても、その重要性をあまりにも誇張してしまう傾向が強烈にある」という原則です(ダニエル・カーネマン「心理と経済を語る」P166)

たとえば、放射能汚染は科学的に気をつけなければなりませんが、問題は、それを過度に意識するストレスによって心を病んでしまうことです。30年前のチェルノブイリ原発事故では、放射能よりも、心の病の方が恐ろしかったとも言われます。

 

信仰についても同じことが言えます。遠藤周作は「沈黙」の中で、ある一部の神父の棄教という現実から、「神は私たちの危機的状況には沈黙しておられる。ただそこでは、キリストご自身がいっしょに苦しんでいてくださること自体に慰めを見出すことができる」という趣旨の解釈を示しているように思えます。しかし、そこに「復活」がなければ、ナルシズム的慰めに留まります。

超自然的な解決ばかりを求めることも危険ですが、確かに神は、海を二つに分け、ヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を救われました。そして、何よりも神は、死んだはずのイエスを三日目に死人の中からよみがえらせたのです。

残念ながら遠藤はこの「復活」を文字通りのこととは認めていないように思えます。少なくとも私の場合は学生の時に「沈黙」を読んで、イエスを信じることが怖くなるばかりでした。そして、そこで最も不思議なこと、当時の多くの無学な農民たちが、どうして自分の命を犠牲にしてまで信仰を守り通すことができたかという、聖霊のみわざには全く目が向かいませんでした。

 

しかし、イエスはご自身の弟子たちが信仰のゆえに捕らえられることを予告しながら、「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何を言おうかなどと案じるには及びません。ただそのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあながたがではなく、聖霊です(マルコ13:11)と言っておられます。これは、まさに「焦点を絞ることによる錯覚」「不安の先取り」を戒めたものと言えましょう。

話すのは、あなたではなく聖霊です」とあるように、主の導きに従って一歩を踏み出した者を、主は支え、守って、道を開いてくださるのです。

神はときに私たちを具体的な危機的状況の中から救い出し、また、時には、殉教の死の中にご自身の臨在を現してくださいます。

何よりの不思議は、かつて信じられなかった私が、聖書を読んで感動し、目に見えない神を信じていることです。私たちの信仰告白自体が、聖霊による奇跡なのです。

 

現代の私たちはヨシュア記の時代よりもはるかに恵まれています。何よりも、領土獲得のための戦争に駆り立てられることはありません。しかも、ヨシュアを導いた聖霊ご自身が私たちを導いてくださいます。

しばしば、信仰の強さ、弱さが話題になりますが、聖霊のみわざの前には、その人間的な判断は意味をなしません。聖霊は私たちが「どのように祈ったらよいかわからない(ローマ8:26)というような葛藤の中でこそ働かれるからです。

強がらず、弱さに居直りもせず、悩む者の中にこそ、みわざが現されます。

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2017年1月22日 (日)

申命記31-34章「自業自得の苦しみにあった後にある希望」

                    2017122

   現代は、聖書が記された三千数百年前には想像もつかなかったような驚くべき豊かさと便利さの中にあります。しかし、何と多くの人々が孤独と失望と恐怖の中に生きていることでしょう。物質的に満ち足りることは幸福の保証にはなりません。

行動経済学でノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは所得の上昇と満足度の関係に関して記しています。彼が引用した調査によると、日本人の平均所得は1958年から30年間に五倍に上昇したのに、自己申告された幸せの平均値は上昇しなかったとのことです。

また中国で15,000人に調査をしたところ、1994年からの十年間で平均所得が2.5倍に増えながら、自己申告された満足度はまったく伸びていないばかりか、かえって不満が増え、満足が減っているという驚くべき傾向が確認されました。それは、所得の伸びと共に願望も膨らむからではないかと分析されています。

世界的に、豊かさの中で快楽や楽しみを求めながら、満足できない人々が増え続けています。

 

ルカ福音書15章に描かれた「放蕩息子」は、自業自得の罪ですべてのものを失いましたが、不思議にも、「父のもとにある平安(シャローム)」だけは忘れませんでした。それゆえに彼は「立ち返る」ことができました。

すべてを失いながら、なお希望を忘れなかった鍵がこのモーセの最後の説教に記されます。

 

1. 「彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そしてほかの神々のほうに向い・・」

モーセは今、約束の地を前に、百二十年の生涯を閉じるにあたり、イスラエルの民に、「私は、いのちと死祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい・・」(30:19)という究極的な選択を迫りました。

その目的は、「あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるため」(30:19,20)と描かれていました。その際、「確かに主はあなたのいのちであり」と続くように、「いのち」は、「主(ヤハウェ)を愛し、御声を聞き、主に結びつく(別訳)というただ中にあることを見落としてはなりません。

「心の渇き」の有無よりも、その方向が問われています。「死」をもたらす「罪」とは、取り返しのつかない失敗というよりは、神の御顔を避けることです。それこそが、最初の人アダムの問題でした。

彼はかつて主の語りかけを喜んで聴いていました。それは愛し合う二人が互いの声を聞くだけで幸せになるのと同じでした。ところが彼は、その交わりにある祝福を、軽蔑してしまったのです。 

 

モーセはイスラエルの民を約束の地に送り出すのに際し、そこにいる強力な敵のことを思いながら、「強くあれ、雄々しくあれ、彼らを恐れてはならない。あなたの神、(ヤハウェ)ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(31:6)と保証します。

その上で、後継者のヨシュアを呼び寄せながら、ほぼ同じことばを繰り返します。そして、モーセは自分が語ったすべて(申命記全体のことば)を書き記し、レビ族の祭司たちとイスラエルのすべての長老たちに授けます(31:9)。

 

さらに、「七年の終わりごとに・・仮庵の祭りに」、約束の地に広がった「イスラエルのすべての人々が」、この神の幕屋の前に集まったときに、彼らに「このみおしえを読んで聞かせなければならない」とレビ人たちに命じました(31:11)。七年の終わりはすべての負債が免除されるときで、それによって「貧しい者がなくなる」ことを目指しました(15:1-4)。

またレビ記25章2-7節では、七年目には、種まきを禁じ、土地を全面的に休ませるように命じられていました。それは奴隷、在留異国人ばかりか、家畜や獣の保護のためでもありました。

そして、この七年目の終わりに、仕事がない中で、「男も、女も、子どもも…在留異国人も」すべての人が、約束の地で唯一の礼拝の場に集められ、みおしえを聞くのでした(15:12)。

 

その後、主はモーセとヨシュアを呼び寄せます。そこで、「(ヤハウェ)は天幕で雲の柱のうちに現れ」、驚くべきことを告げられます。それは、「この民は、入って行こうとしている地の・・外国の神々を慕って淫行をしようとしている」(31:16)という予告でした。

しかし同時に主は、堕落をした後の回復が可能になるように「」を与え、それを歌わせるように命じます。その意味が20,21節で、「わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そしてほかの神々のほうに向い、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする」と記されます。

主はご自身が裏切られることをご存知の上で、彼らに回復への道を予め備えてくださったのです。人は苦難にあった時、「私たちの神、主(ヤハウェ)が無力なため・・」と誤解し、偶像礼拝を加速する恐れがあるからです。

自分の人生の歯車が狂い出したと感じた時、それがどこから始まったかを理解するなら、そこから回復への希望が生まれます。

 

人は、苦しみの時には必死で神の救いを求め、平安が与えられると、しばらくは感謝します。しかし、やがてそれに飽き足らなくなり、「もっと別の祝福を・・」と新たな刺激を求めることがしばしばあります。

残念ながら、そのようにして教会を離れる人もいるかも知れません。しかし、離れた後で、様々な苦難に会いながら、「あの教会にいたときが一番幸せだった・・」と思えるなら幸いです。そのような人を決して責めてはいけません。

私たちの何よりの責任は、戻って来られるような場を守り続けることです。それと同時に、人が信仰を離れないようにと厳しく警告する以上に、回復のための「歌」を教え続けることです。

 

2. 「主は荒野で・・彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、守られた」

32章1-43節は、モーセが民に覚えさせた歌です。その第一は、「栄光を私たちの神に帰せよ」と命じられ(3節)、続けて主がどのような方かが歌われます。

その核心は、「主は岩・・主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、すぐな方」という表現です。それは人生が期待したように進まない時、なお主に信頼するための鍵になるからです。

そして6節では、「あなたがたはこのように主(ヤハウェ)恩を返すのか・・・主はあなたを造った父ではないか」と呼びかけます。父に対する忘恩こそが問われているのです。

 

そして10節では、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」と歌われます。

それはまず、彼らが苦しみのなかで神を見いだしたのではなく、神ご自身のほうから荒野で迷っているイスラエルを見つけ出してくださったということです。

 

私たちも自分の「信仰」を人間的な尺度ではかる傾向がありますが、信仰はあくまでも、主の眼差しから始まっているのです。しかも、原文では敢えて、「主の民」イスラエルを、彼の目のひとみ」と重複するような呼び方をします。

誰が、「神の目」に、しかも、その「ひとみ」に触れることができるでしょう。つまり、主ご自身がお許しになるのでなければ、誰も私たちを傷つけることはできないのです。

 

ですからイエスも、からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません・・・二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:28-30)と言われました。

この真理が納得できるのは順風満帆な中ではなく、人生の嵐のただ中です。

 

また同時に、「ひとみ」は、危険を最初に察知する器官ですから、あなたが怖がりであることを恥じる必要はありません。身体全体が「ひとみ」の感覚によって動き出し、それを「守られる」のと同じように、主ご自身があなたの心の叫びにすぐに応えて、あなたを守り通すことがおできになるのです。

 

また、この主のみ守りのイメージは11節で、鷲がひなを「羽に載せて」飛ぶ様子として描かれます。私たちはひ弱で、嵐の中に身をすくめることしかできなくても、主ご自身が力強い御腕で私たちをとらえ、私たちをその翼(つばさ)の上に乗せて、目的地にまで安全に運ぶことがおできになるのです。

 

しかもイスラエルが、約束の地で、最良の産物で養われるのは、「ただ主(ヤハウェ)だけでこれを導いた」結果なのです(32:12)。13、14節では約束の地の産物の豊かさが様々な角度から描かれます。ところが、「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった・・」(32:15)と歌われます。

「エシュルン」とはイスラエルの愛称です。本来「正しい者」という意味で、汚れた民の中にあって、主の正しさを証しするために選ばれたという思いが込められています。ところが、その彼らが、豊かさの中で、その使命を忘れたばかりか、何と、異なる神々を礼拝して、「主のねたみを引き起こし・・主の怒りを燃えさせた」(32:16)というのです。

17,18節では彼らの罪が、「神ではない悪霊どもに・・いけにえをささげた・・・それらは彼らの知らなかった神々だ・・・あなたは・・・産みの苦しみをした神を忘れてしまった」と非難されます。

 

それを「(ヤハウェ)は見て、彼らを退け」、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう(32:19、20)と言われます。つまり、神ののろいとは、何より、ご自身の守りの御手を引っ込めることなのです。

その時、人は互いの悪意によって互いを滅ぼしあい、自然界も人に害を加えるようになります。イスラエル王国は北から攻めてくるメソポタミヤの大国と南のエジプト王国とのパワーバランスの中で、神を忘れて生き残ろうと画策し、自業自得で滅びますが、その背後には、神のさばきがありました。

 

ただし、主はイスラエルを滅ぼす敵、つまり、「彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな(ヤハウェ)がしたのではない』と言うといけない」(32:27)と考えられて、敵となる国々の滅びをも計画され、「彼らは思慮の欠けた国民・・・もしも知恵があったなら…自分の終わりをもわきまえたろうに」と言われます。

事実、後に北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国も、また南王国ユダを滅ぼしたバビロン帝国も、不思議なほどに忽然と、歴史から姿を消しました。

30節では、イスラエルの「」である方が、「彼らを売らず・・渡さなかった」なら、「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」ような圧倒的な勝利を、神の民の敵は収めることはできませんでした。続けて、「彼らの岩は、私たちの岩には及ばない(32:31)と歌われます。これは敵が頼った「」である神々の無力さが知れ渡ることを指します。

 

私たちを直接的に苦しめるのは、人間の罪です。ただ、神の御許しがなければ誰も私たちに触れることはできないという意味で、その背後に全知全能の神がおられるということを決して忘れてはなりません。

しかも神は、ご自身の民の敵の高ぶりを最終的に裁かれます。それを主は、「復讐と報いとは、わたしのもの」(32:35)と宣言します。ですから、私たちが恐れるべきは、人間ではなく神なのです。

 

3. 「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民・・」

   36節の「主(ヤハウェ)は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ」以降の記述はさばきの後の恵みです。そこでまず、主は偶像礼拝者を嘲って、「彼らの神々はどこにいるのか・・彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて・・・あなたがたの盾とならせよ(32:37,38)と言われます。

つまり、主のさばきの目的は何よりも、偶像の神々の空しさを思い知らせることなのです。そのことが39節では、「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない」と記されます。これはESV訳では、'See now that I, even I, am he, and there is no god beside me;(今こそ見よ。わたし、このわたしこそ彼なのだ。わたしのほかに神はいない)」と記されます。

神はご自身の名を、「わたしは、『わたしはある』という者であるI am who I am)と紹介されましたが(出エジプト3:14)、それを思い起こさせる表現です。

 

  そして、「わたし」ということばを再び強調しながら、「わたしは、殺し、また生かす。傷つける、しかし、わたしは、いやす。わたしの手から引き出せる者はいない」(32:39私訳)と表現されます。人間の悲惨は、神の御顔を避けたことから始まります。しかも、誰も神から逃れられません。

神のふところに飛び込むこと以外に救いはありません。神の前での強がりや嘘こそが、何より恐ろしい罪とも言えましょう。

 

   そして、この歌の最後は、「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血かたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから」(32:43)で閉じられます。主は、イスラエルを偶像礼拝者の手を用いて懲らしめながら、最終的には、イスラエルを「ご自分のしもべ」と見て、敵に復讐するとともに「ご自分の地と、民の、贖い」をされるというのです。

この「贖い」とは、イスラエルの民が大贖罪の日に、契約の箱の「贖いのふた」に雄牛とやぎの血を振りかけることを指します(レビ16:14,15)。その目的は、主ご自身がイスラエルの地とその民の真ん中に住むことができるためです。

つまり、贖い」の目的とは、神との交わりの回復自体なのです。そして、今、私たちにとってはイエスご自身が「贖いのふた」となって(ローマ3:25別訳)、私たちは神の御前に立つことができるようにされました。

 

神がイスラエルの忘恩に対しさばきを下し、また、救い出してくださることの目的は、世界の人々を、創造主に立ち返らせることに他なりません。

黙示録21章で、最終的な世界の救いは、「新しいエルサレムが天から下って来る」との表現から始まり、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と描かれます。

救いとは神との交わりの回復、エデンの園にあった調和の回復なのです。

 

   最後に、モーセは33章で、イスラエルの部族それぞれへの祝福を祈ります。これは創世記の最後で、ヤコブが十二部族のために祈ったことに重なります。ただそこの表現と決定的に違うのは、8-11節に記されたモーセの民であるレビ族への祝福です。

彼らは「トンミムとウリム」で神のみこころを知らされます。彼らは、自分の父や母、兄弟、子供たちよりも神の契約を第一とします。これは、イエスご自身も、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37)と厳しく言われたことに対応します。

そして彼らは神の「みおしえをイスラエルに教えます(10節)という何よりも大切な使命を授かります。そしてまた、「かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を・・ささげます」という民の礼拝を導きます。

イスラエルの命運は、レビ人たちの働きにかかっていました。そして、旧約最後のマラキ書では、救い主の働きが、「この方は・・・レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」(3:3)と描かれていました。

 

   そして、最後にモーセはイスラエル民全体を再び、「エシュルンよ」と呼びかけ、「神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる・・・しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民・・」(33:26-29)と祝福します。

この祝福は、今、私たちに受け継がれています。あなたはイスラエルの歴史の教訓から何を学ぶでしょうか。 

 

 最後の34章では、モーセがネボ山のピスガの頂に上って、約束の地の全地方を見せられ、「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである」と言われます(4節)。そして、「こうして、(ヤハウェ)の命令によって、主(ヤハウェ)のしもべモーセは・・死んだ」とその死が簡潔に報じられます(5節)

ただ、不思議にも、モーセを葬ったのは、主ご自身であると記され、彼は120歳で死にながら、「目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)と描かれます。モーセは老衰で死んだのではなく、与えられた使命を全うし、勝利のうちに生涯を閉じたのです。

そして、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主(ヤハウェ)は、顔と顔とを合わせて選び出された」(10節)と述べられます。しかし、この新約の時代に、神はモーセにまさる方を遣わされました。何と、世界の創造主である神の御子ご自身が、「人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14)のです。

 

  イスラエルの民は、この後、モーセが警告したとおりの堕落をします。彼らはまさに、自業自得の苦しみを味わいました。それは、ルカ15章での放蕩息子が、父の財産分与を受け「湯水のように財産を使って」しまった後で、飢饉に襲われ、「」の餌で腹を満たしたいと思うほどに落ちぶれたのと同じです。

しかし、彼の父は息子の帰りを待ち続け、「まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした」(20節)のです。

それと同じようにこの申命記では、神がイスラエルをご自身の「目のひとみ」のように思われ、苦しみの後の回復までをも約束しておられます。律法が福音と対立概念として描かれることがありますが、放蕩息子のたとえは申命記の延長線上にあります。

 

   ところで、イエスは律法学者やパリサイ人を放蕩息子の兄にたとえましたが、それは彼らが、神の愛の「教え(トーラー)」を、「律法」と位置づけ、「人々をさばく規範」に変えたからです。兄息子は、父が過酷な奴隷主人であるかのように勝手に思い込み、自分に与えられた自由を忘れていました。

しかし、神がモーセを通して語られたことの中心は神の一方的な愛であり、私たちの責任は、その愛を無駄にしないことだったのです。

放蕩息子の「悔い改め」とは、「父の愛」を思い出したことでした。そして、彼が帰って来たとき、父はその反省のことばを聞く間もなく、抱擁しました。彼はこの世が提供する喜びに失望して初めて、本当の喜びに出会うことができたのです。

 

先のカーネマンの本に書いてありましたが、下半身不随などの身体障害になった人でも、二年も経てば生活上の満足度は障害前の水準に戻るとのことです。逆に急に大金持ちになった場合でもその満足感は二年後には消えてしまいます。このプロセスは適応、あるいは習慣化と言われます。

お金を使って何かを手にしてもすぐに飽きが来て、次の刺激を求めたくなります。それよりも永続的な満足感は、自分が大切にされているとか、愛し愛される関係を築くとかの交わりから生まれます。それこそ、私たちがイエスを救い主と信じることから生まれる喜びです。

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2017年1月15日 (日)

ヨハネ16章25節~17章8節「わたしはすでに世に勝ったのです」

ヨハネ16:25節~178節「わたしはすでに世に勝ったのです」

                                                2017115日 

  最近日本でもブームになっている「サピエンス全史」という本があります。進化論的説明を絶対化することには賛成できませんが、ホモ・サピエンスと呼ばれる人類が、驚くほどひ弱であるにも関わらずこの地の支配者となれたのは、ときにフィクションとも呼ばれる「想像上の現実」を大集団で共有して協力し合うことができたからであるという解説には感心しました。

私たちは自分の不信仰や愛の足りなさに悩みますが、それは、目に見えない神を信じることや、また自分の利害を超えて人を愛するように、「神のかたち」として創造されていることの現われでもあります。チンパンジーはそんなことを悩むことはありません。

「永遠の愛」を求めて悩むことができること自体を喜び、イエスにある完成を待ち望みましょう。

 

1. 「父ご自身があなたがたを愛しておられる」

  イエスの弟子たちに対する告別説教が、13章から16章まで詳しく記されています。弟子たちの「心は悲しみでいっぱいになって」いましたが(16:6)、イエスは、「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)と断言し、それを女性の出産の「激しい苦痛」にたとえます(21)

同じように弟子たちも、「もう一度(復活のイエスに)会う」その時に、「心は喜びに満たされる(22)というのです。

 

23-26節には、「父に・・求める」という祈りの勧めが三度繰り返されますが、その鍵は「イエスの御名で」です。それは、「イエスと一体とされた者として」という意味です。

主は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です(15:5)と言われました。ぶどうの木と枝は決して区別できません。枝は必死につながろうとはしません。ただ、力を抜いて、木に自分の身を任せ、自分を通して木に生きていただくときに実を結ぶことができるということでした。

 

  そして、25節でイエスは、「これらのことを・・・あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきり告げる時がきます」と言われます。それは私たちが、イエスを通して間接的に御父を知る代わりに、イエスの父を直接的に、「お父様!」と呼んで、「神の子」としての特権を味わうことができることを指します。

復活のイエスはマグダラのマリヤに対し、臆病な弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びながら、ご自身の父を「あなたがたの父」と紹介されました(20:17)

 

26節では23節に続いて再び「その日には」と繰り返しながら、「あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われます。それは私たちがこのままで、イエスと同じ「神の子」の立場にされることです。

ですから主の祈りの始まりは、「お父様!」という呼びかけになっているのです。しかも、27節の原文ではまず、「それは、父ご自身があなたがたを愛しているからです」と記されています。これほど簡潔に福音を要約したことばはありません。

そしてその根拠が、「あなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出た者と信じた」ということに基づくと記されます。確かに、この特権はすべての人に無条件に与えられているものではなく、私たちがイエスを愛し、イエスは神の「ひとり子」であると信じることによって実現したことでもあります。

 

その上で主は、「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます(28)と言われました。それこそイエスの生涯の要約です。主は常に、父から遣わされ、また父から委ねられた責任を果たすことに、目を向けていました。

「キリスト者の生涯とは、キリストご自身の生涯の再現(REPLAY)である」と言われるように、私たちもその歩みに習います。ですから、「イエスの御名によって」何かを「求める」ことは、自己中心的な求めを全面的に肯定するものではありません。

 

しかし、それは同時に、何事も最初からあきらめることなく、子が信頼する父に向かうように、大胆に求め続けることでもあります。日本語では、演歌で「女心の未練でしょう・・」などと歌われるように、「未練」は「女々しさ」と見られ、「男らしさ」には、「潔くあきらめる」という意味が込められがちです。

ところが聖書では、「雄々しくあれ」は「待ち望め」とほとんど同じ意味なのです(詩篇27:14)。私たちは「求め」続ける中で、希望に満たされ、いつも喜ぶことができるのです。

イエスの弟子たちは、成人の男だけでも五千人に及ぶ大群衆を前に、最初は「あきらめ」ました。しかし、主が天を見上げて五つのパンを祝福したとき、彼らを満腹させたあげく十二のかごいっぱいのパンが余りました。マザー・テレサも、あきらめることなく求め続け、何十万人もの人々にパンを与える修道会を導きました。

イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ7:7)と語りました。世界の平和のため、まわりの必要のために、求め続けましょう。

人の価値は、「あなたは何を望んでいるのですか?」という問いへの答えで決まるとも言えます。動物的な欲望ではなく、神の「望み(みこころ)」を「求める(望む)」ことができるかが問われます。

 

2. 「あなたがたがわたしにあって平安を持つため」

 弟子たちは、イエスの一連の話しによって慰めを受け、「ああ、今あなたははっきりお話しになって、何一つたとえ話はなさいません(29)と応答します。これは、2526節でイエスが「その日には」と言われたことがすでに弟子たちに成就したとも解釈できますが、その後の弟子たちの臆病な行動を見る限り、彼らは決してイエスの話しを理解したとは言えません。

ただ理解がまだまだ不足しているとはいえ弟子たちは、「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」と喜びます(30)

 

しかし、それに対してイエスは、「あなたがたは今、信じているのですか」と、彼らの「信仰」に疑問を投げかけます。そしてその上で、「見なさい。あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています(32)と断言されます。

弟子たちは未だ、十字架と復活のことを分かってはいませんでした。そしてそれを知らずに生きている者は、患難に立ち向かうことができないからです。ここに「もう、わかった」と思うことの危なさが記されています。

 

   ただし、イエスはここで、「あなたがたは・・・わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです(32)と言われました。ここでは、「ひとり」(モノス)ということばが繰り返され、強調されています。

イエスの苦しみは、この世的には、弟子たちに裏切られるという「孤独」でした。しかし、同時に、イエスの喜びまた平安は、「父がわたしといっしょにおられる」ということでした。

私たちも周りの人々から誤解され、「ひとり」という孤独を味わうことがあるかもしれません。しかし、そのときこそ、イエスの御跡に従うことで。人々から見捨てられながらも、父なる神がいっしょにいてくださることを心の底から体験する機会になるのです。

 

  そして、主は、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」と言われます。「平安」のギリシャ語は「エイレネー」ですが、それはヘブル語の「シャローム」に由来します。私たちはまわりが敵だらけでも、イエスにあって「平安(シャローム)」を味わうことができます。

その上でイエスは何と、「あなたがたは、世にあっては患難があります(33)断定されました!ですから、何のわざわいにも会わないという意味での『平安』を期待することは最初から無理なのです。

日本は「恥の文化」であるとも言われます。いつも、「人が自分をどう見るか」を気にし、「見捨てられる」ことにおびえます。人の評価こそがアイデンティティーの基盤であるため、そこには絶え間のない競走があり、「平安」がありません。まさに、「集団の奴隷」状態です。

しかし少し前に、イエスは、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう(16:2)と予告しました。主は私たちに、「世から見捨てられる」という患難を覚悟させた上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(33)と言われました。それは、イエスの勝利が、私たちの勝利となるという意味です。

復活」こそは、御父が、十字架で見捨てられたと見えたイエスと、ずっと「いっしょにおられた」ことのしるしです。

 

   十字架と復活を知ることは、価値観が覆されることです。私たちは、悲しみや患難を避ける必要はありません。そこでこそ神の御手に抱擁されている喜びと平安を味わえるのですから。

「サピエンス全史」には、「人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた」(P50)と記されており、感心しました。

 

日本でも19458月に一夜にして、「天皇を中心とした神の国を大東亜共栄圏として東アジアに実現する」という神話の「虚構」に目覚め、個人の人権を尊重する平和国家として歩み出すことができました。

ただ、今もなお、私たち日本人には、「を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗とせよ」という神話的な同調圧力が強く働きます。そしてそれは、かつて第二次大戦への集団暴走や、安全神話という名のもとでの原発事故、また、過度な残業による過労死などの問題を生み出してきました。

私たちはそのような中で、人はみな神のかたちに創造されたという聖書の物語で、絶対的な真理を否定する「八百万神(やおろずのかみ)の汎神論的な調和」の神話を変えて行く必要があります。

 

3. 「あなたの子の栄光を現わしてください」

   イエスは十字架にかかられる前の夜、弟子たちと最後の晩餐を守り、彼らの足を洗い、最後の説教をなさいました。それから目を天に向けて」、「父よ。時が来ました・・・」(1)と祈られました。その内容が17章に記録されています。

」とは、ご自身が十字架で苦しまれる時を意味しますが、「父よ」で始まるイエスの祈りには、御父への信頼があふれています。

現代の多くの人々は、祈りの時に、頭を下げる傾向がありますが、当時は、目を開いたまま天を見上げる姿勢を取りました。例外的に、ルカ18章に描かれている取税人は、「目を天に向けようともせず・・こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。これは、自分のような罪人は神様に顔を会わせる資格がないという謙遜な姿勢を表わします。

 

もちろん、私たちは取税人の祈りの姿勢にも習うべきですが、恵みを見失うような過度の内省は危険です。

たとえば私は、自分自身の問題を分析することに多くの時間を費やしてきました。しかし、それによって、自分がどれだけ変わることができたかは疑問です。かえって、「私は自分のことが分かっているけれど・・・あの人は、まだ・・」などという気持にさえなりました。

このままの私が、神の最高傑作で、支えられ、愛されている」と実感することこそが、人に対しても優しくなることができる秘訣なのではないでしょうか。

弟子たちはこの時、御父と御子が親密に語り合う、その傍らに置いてもらえました。そしてイエスは今も、祈っているあなたの傍らにいて、ご自身に倣うように励ましてくださいます。

 

   イエスの願いの第一は原文の語順では、「あなたの子の栄光を現わしてください(1)と記されています。それが、「今は・・わたしを栄光で輝かせてください(5)と若干異なった表現で繰り返されます。

私はかつて、「御父の栄光ばかりを求めていたはずのイエスが、なぜ自分の栄光を求めて祈るのか?」と疑問に感じたことがありましたが、それはこの福音書での「栄光」ということばの用い方を知らなかったためでした。

イエスは、かつて「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言いつつ、ご自分が「一粒の麦」として死ぬことを予告されました(12:23,24)。また、ユダの裏切りが実行に移される時、「今こそ人の子は栄光を受けました」(13:31)と言われました。

つまり、イエスが「栄光を受ける」とは、何と、ご自分の愛弟子に売り渡され、人々からののしられ、十字架で殺されることを指していたのです。

 

十字架が「栄光」と呼ばれるのは、アダムの子孫の生き方とあまりにも対照的です。私たちはしばしば、人よりも勝った者と見られることや、より多くの物を所有することを求め、名誉や富によって、裸のままのひ弱な自分を隠そうとしがちです。それは、偽りの自己像を築き上げることです。

ところが、イエスはご自分から、すべての人々から見捨てられ、無力な裸の姿になることを求められました。それは、ただ、神から与えられる「栄光」だけをご自分の衣とすることを願われたからです。

アダムは、自分を神とすることで世界を悲惨に追いやりました。しかし、キリストは、しもべの姿となり、すべてを失うことで、神に生かされる者としての「栄光」を現したのです。それこそが、真の神のかたち、真の人の姿でした。

 

そして2節の原文では、「それはちょうど、あなたが子にすべての肉なる者を支配する権威をお与えになったように、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるためです」と記されます。

つまり、ご自身の栄光を求められたのは、私たちに「永遠のいのちを与えるため」であったのです。しかも、「永遠のいのちとは・・唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ること」(3)だというのです。

なお、「知る」とは、単なる知識ではなく、深い信頼関係に入ることを意味します。「永遠のいのち」とは、天国という場所に入れられる保証である前に、今ここで、御父と御子から愛され、その愛に応答して生きるという交わりであり、それが永遠に続くことを意味します。

 

   4節ではご自身の生涯を振り返りながら、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と言われます。それは先の「神のかたち」としての生き方と同時に、「神の国がこの地に実現した」ということを現す預言の成就です。

目の見えない人の目を、また耳の聞こえない人の耳を開くこと、足の萎えた人を立たせることなどはすべて、「神の国」がイエスにおいて実現したというしるしでした。

しかし、5節では原文の語順ではさらに、「今、わたしの栄光を現してください。父よ、みそばにおいて、世界が存在する前にごいっしょにいて持っていた栄光」と、大胆に祈っておられます。

これは、たとえばダニエル713節で、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えることになった」という預言が成就することを意味しました。

イエスは父なる神とともに世界を創造しましたが、今、その創造主としての「栄光」が、父なる神とともに王座に着くということで再び現されることを、願われたのです。

ちなみに、イエスが最高議会で、冒涜罪の死刑判決を受けたのは、ご自身がダニエル7章に描かれた「人の子」であると宣言したからです(マタイ2664-66)。イエスはその「栄光」を、弟子たちに聞こえるように求めたのです。

 

   また先にイエスは、「あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与える(2)と言われましたが、6節では改めてまず、「あなたの御名を明らかにしました」と言われながら、その対象となった弟子たちを、「あなたが世から取り出してわたしにくださった人々」と呼び、さらに、「彼らはあなたのものであって・・・彼らをわたしにくださいました。彼らはあなたのみことばを守りました」と言われます。

永遠のいのち」の核心とは、御父を「知る」ことですが、それは私たち自身の知恵や信仰心によるのではなく、イエスご自身が「明らかに」してくださった結果であり、しかもそれは、父なる神が人をイエスのもとに引き寄せてくださった、その一方的な「選び」から始まっています。

つまり、「永遠のいのち」の恵みは最初から最後まで、徹底的に、御父と御子との共同のみわざから生まれているのです。

 

イエスはさらに、「いま彼らは知っています、あなたがわたしにくださったものはみな、あなたから出ていることを。それは、あなたがくださったみことばを、わたしが与えたからです。彼らはそれを受け入れ、確かに知りました、わたしがあなたから出て来たことを。また彼らは信じました、あなたがわたしを遣わされたこと(78節私訳)と言われます。

つまり、私たちに知らされた神秘とは、御子が私たちにくださったみこばを初めとするすべてのものが御父に由来し、またイエスご自身も御父から生まれ、送られたということを知ることなのです。

まさに、御父の御子との関係を知ることこそ信仰の核心なのです。

 

当時の宗教指導者は、神の命令を学び、それを実行することで、永遠のいのちを自分のものにできるかのように考えていました(ルカ18:18)。彼らには知識がありましたが、真の意味で神を知ってはいませんでした。そればかりか、神の教えを、人間をさばく手段に用い、人々を神のもとから遠ざけてしまいました。

このように、人が必死に神に近づこうと空回りしている時、神の側から人に近づいてくださったのです。イエスは「世界が存在する前(5)から神とともにおられた方ですが、その方が、あわれみに満ちた神の姿を明らかにしてくださり、しかも、ご自身の身を犠牲にすることによって、私たちに「永遠のいのち」を与えて下さったのです。

つまり、自分の無力さを知ると同時に、神の一方的な恵みを知り、味わい、その愛の中に今ここで憩うこと、その中で私たちは永遠のいのちの喜びを体験できるのです。

 

ダニエル・カーネマンというノーベル経済学受賞者は、人々の日常生活の各瞬間で何が楽しく何が嫌だったかの聞き取り調査を行ないました。

たとえば子育てでは、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすること自体を喜ぶ人はいませんでしたが、大多数の親は、子供こそ自分の幸福の源泉だと言いました。

つまり、人間の幸せとは、不快な時間を快い時間が上回るというような生物学的な観点から測れるものではなく、人生が有意義か、無意味かという「認知的、倫理的な側面」による価値観から生まれるというのです。

イエスは、私たちに平穏無事な人生を保証する代わりに、患難の中に『平安(シャローム)』が与えられることを保証してくださいました。そしてそれは、イエスがご自身の十字架を前にして、「わたしはすでに世に勝ったのです」と言われたことから生まれます。

神を愛し、人を愛することには、ときに面倒に巻き込まれることですが、そこにこそ人知を超えた喜びが生まれます。

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2017年1月 1日 (日)

イザヤ40章「主を待ち望む者は新しく力を得る」

イザヤ40章 「主を待ち望む者は、新しく力を得る」

                                                     2017年元旦      

2016年紅白歌合戦のテーマは「夢を歌おう」でした。その中でひと際、歪んだ夢が歌われていました。高橋真梨子さんの「ごめんね」です。そこでは、「好きだったのに、それなのに貴方を傷つけた。ごめんねのことば涙で言えないけど・・・世界中きっと、いちばん大切な恋を無くしたのね・・・連れて行って、別離(わかれ)のない国へ」と歌われています。自業自得で苦しみながら、永遠への夢が歌われています。  

私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、どれだけ聖書を学んでも何も変わっていないように思える現実があります。黙示録17章では富と権力が結びついた「大バビロン」の支配が、今なお、この世界を支配して、神の民を苦しめる様子が描かれています。それは、この世界が今もなお、バビロン捕囚の「苦役」の中に置かれている現実を指します。しかし今、私たちに向かっては、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)とも言われます。これこそ、「新しい創造(New Creation)」です。それを私たちは日々、「主を待ち望む」という中で、キリストにある「いのち」として体験できるのです。

 

1.「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」

イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」(1)と記されます。神は、自業自得の罪で苦しむ人々を、「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことを「あなたがたの神」と紹介し、「慰め」に満ちたメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められています。

しかも、続けて「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ」(2節)と記されますが、これは原文では、エルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」という不思議な表現になっています。エルサレムが傷つきやすい女性にたとえられ、神が優しい夫であるかのように語りかけます。神は、身勝手な浮気女の心の痛みに寄り添ってくださるのです。そしてそこでは、三つの「慰め」が語られます。第一は、「その労苦は終わり」で、これは戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したという意味があります。第二は、「咎は償われた」です。バビロン捕囚は、申命記28章などで、主ご自身が警告しておられた「のろい」が成就したものです。そのため、その「咎が償われて」初めて、神の「慰め」の計画がスタートされると預言されていました。そして、第三は、「そのすべての罪に対し、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けたのだから」と訳すことができます。現在の新改訳は、罪と引き換えに恵みを受けたという趣旨で訳されていますが、最も単純な解釈は、二倍の刑罰を受けることで、すべての裁きが完了したという意味かと思われます。申命記29章ではのろいの誓い」というイスラエルの不従順への報いとして、「(ヤハウェ)は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた(28節)と言われるようになると警告されていました。ただその直後にモーセは、「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、(ヤハウェ)があなたを追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返り・・・御声に聞き従うなら・・・主(ヤハウェ)はあなたの繁栄を元どおりにし・・・あなたを連れ戻す」という回復が約束されます(同30:1-3)

  主は後にホセア11章8,9節で、イスラエルをさばくときのお気持ちを、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない・・・わたしは怒りをもっては来ない」と記しておられます。私たちの罪に対して神は怒りを発しますが、私たちがそのさばきを受けながら苦しんでいるときに、神は決して、「わたしに逆らったことの刑罰を思い知ったか…すべて自業自得だ・・・」とあざ笑うことはありません。さばきを下す神ご自身も、ともに苦しまれ、深く息を吐きながら、「これからやり直そう!」と言ってくださるのです。「慰めよ」ということばと、ホセア書での「あわれみ」とは同じヘブル語から生まれています。ご自身の契約とともに警告していた「さばき」を下しながら「あわれみで胸が熱くなる」神が、「慰め」を与えてくださいます。

 

2.三重の福音

  そしてそこから生まれる「慰め」のことが、「呼ばわる者の声」(3)「呼ばわれと言う者の声」(6)「シオンに良い知らせを伝える者」(9)という三重の福音として語られます。

第一の「呼ばわる者の声」は、荒野に(ヤハウェ)の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ・・」(3節私訳)と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。そのことが具体的に、「すべての谷は高くされ、すべての山や丘は低くなれ。起伏のある地は平地に、険しい地は平野とされよ」(4節私訳)と描かれます。そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)としてその預言を成就したと紹介されます。ヘブル語では「荒野に」ということばは、「呼ばわる(叫ぶ)」にも「道を」にも、どちらをも修飾するとも考えられますが、このイザヤの文脈では、整えられるべき道の状態が、「荒野・・荒地」と強調されています。ヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を平らにすることにありましたが、彼自身が「叫ぶ」場は「荒野」でした。

私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。預言者たちはまず、それを「整え」るようにと呼びかけています。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。ですからイエスは山上の説教の初めで、「心()の貧しい者は幸いです」と言われました。そこに主を迎える「心の中にシオンへの大路」(詩篇84:5)が開かれているのです。

「そして、主(ヤハウェ)の栄光が現され、すべての者(直訳『肉なる者』)が共にこれを見る」(5節)と言われますが、イエスこそ約束された「主(ヤハウェ)の栄光」の現れでした。それは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されているとおりです。そしてイエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主(ヤハウェ)の栄光」「現して」くださり、「すべての肉なる者」がそれを見たのです。実に、イエスのことばこそ、そのように、主(ヤハウェ)の御口が語られた」(5節)ことの成就でした。 

   第二の、「呼ばわれ」という者の声に対し、イザヤは「何と呼ばわりましょう」と答えます。それは、荒野のような世界に住む私たちへのメッセージです。そこではまず、すべての人(直訳『肉なる者』)は草、その栄光(直訳『誠実《ヘセド》』)は、みな野の花のようだ」(6節)と語られます。「その栄光」と訳された原文は「ヘセッド」で、新改訳脚注にある「誠実」の方がふさわしいと思われます。私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だと思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。そのことが、「草は枯れ、花はしぼむ。主(ヤハウェ)のいぶきがその上に吹くから」(7節私訳)と記されます。主はご自身のいぶきの「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。たとえば、共産主義運動に走る人には「誠実」な人がほとんどでしょうが、そこで路線の違いが明らかになると、悲惨な権力闘争が生まれ、隠されていた罪の性質が制御できなくなることがありましょう。しかし、詩篇には、自分の不安や怒りを赤裸々に神に訴え、神に取り扱っていただく祈りが満ちています。

ここでは人の「誠実」のはかなさを語った後ですぐに、「まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と記されます。私たちには明日のことは分かりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを知るなら、自分たちの労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。その新しい世界では、私たちの愛の交わりは完成するのです。今、分かり合えないことがあったとしても、新しい世界では、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。私たちはそれぞれ、キリストにつながっている限り、そのような愛の完成の世界に入れられることが約束されているのです。

   第三に、「良い知らせ」の声は、高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節)と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。その第一は。見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。イエスは、「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」というピリポに対して、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:8,9)。そして、イザヤはここで引き続き、見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは御もとにあり、その報酬は御前にある」(10節)と告げられます。「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちはすでに「祝福」の時代に入れられています。そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。            

  それと同時に、主は羊飼いのように群れを飼い」と表現されます(11)。そこで、「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませている雌羊を優しく導くと描かれます。それこそが新約で強調される「主(ヤハウェ)の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」ばかりを求めていましたが、現された主の「御腕」とは、主の御前に立つことがとうていできないような者をも招き、内側から作り変えてくださるという「あわれみ(慰め)でした。私たちの「いのち」はすでにキリストによって守られ、すべての労苦が無駄にならないという祝福の時代に移されています。ですから、もう目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決することが保障されています。その希望に満たされるなら、どんな中でも「勇気」が生まれます。

 

3.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

12節からは「だれ・・」という問いが繰り返され(12,13,14,18,25,26)、主(ヤハウェ)が私たちの想像をはるかに超えた方であることが強調されます。なお、21節では特に、お前たちは、知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の始まりのことを悟らなかったのかと記され、人間的な知恵を横に置き、神の「創造」の原点に立ち返ることが勧められています。多くの人々は、この世界は永遠に存在するかのような誤解をしていますが、「地」には「始まり」があるということは明らかです。

しかも、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22)とあるように、神は全宇宙からも超越しておられる方です。地の住民はいなごのようだ」とありますが、創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。しかし、主は、天を薄絹のように延べ、住まう天幕のように広げ、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる(22、23節)とあるように、神の偉大さは、人の想像をはるかに超えています。そして、今、私たちの救い主は、ご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介しながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。

そして、神の前における人の力の頼りなさが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主が風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす」(24節)と描かれます。主のあわれみがなければ、私たちの労苦の果実は一瞬のうちに消え去ってしまいます。

また25節で、主は「だれに、わたしをなぞらえ、比べようとするのか」と問われ、その方が「聖なる方」と紹介されながら、その方の語りかけが、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26)と記されます。これは大宇宙や壮大な山々に目を向けることの勧めです。しかも、創造主は、万象を呼び出して数え、一つ一つその名をもって呼ばれる方」と描かれます。人は誰も天に輝く星の数を計算することはできませんが、神はすべてを数え、一つ一つの星を区別してそれに名をつけておられます。それと同時に、神はミクロの世界の創造主であり、どんなにちっぽけなものをも区別しておられるということが、精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはないと描かれます。ですから神は「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる方」であられます。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。

 「なぜ、ヤコブよ、言うのか。イスラエルよ。言い張るのか(27)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、さばきの訴えは私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。私たちはそのとき、心が萎え気力を失います。しかし、主イエスもそのような神の不在を体験されました。そしてその御苦しみによって全世界の罪が贖われたのです。その不思議に思いをめぐらすことの大切さが、私たちへの問いかけとして、知ってはいないのか。聞いてはいないのか。主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむ(弱る)ことなく、その英知は測り知れない(28節)と描かれています。しかも、私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという復活の力の原点に立ち帰ることができます。

なお、「主は・・疲れることなく、たゆむ(弱る)ことなく」という表現は、「若者も疲れ、たゆみ(弱り)(30)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走ってもたゆま(弱ら)ず、歩いても疲れない」(31)というクライマックスに結びつきます。「弱る(たゆむ)とは、気力が湧かなくなる状態です。それは肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心が弱った者、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です(29)。私たちに求められていることは、外からの刺激に反応しながら時間を惜しむように動き回る代わりに、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。それは、すべての働きを、主のみ前で静まることから始めることです。この一年の初めに、日々の静まりの時間の確保を心に据えましょう。

しかも、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わって、より高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、鷲のように翼をかって上って行く」(31節)と表現されています。なお原文では、「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。これは主の約束です。私たちは常に、何かをできている自分の方に目が向かいますが、「待ち望む」ことの中心は、自分の徹底的な無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことです。「できる」とか「できない」とかの人間的な枠を超えて、神のみわざに期待することです。それは一瞬一瞬問われている心の状態です。私たちはいつでもどこでも「疲れて、弱り」ます。しかし、そこで主を待ち望むやいなや、主の御霊の働きが私たちのうちに始まり、「走っても弱ら(たゆま)ず、歩いても疲れない」という超自然的な変化が生まれるのです。私たちがこの主のみわざを体験できないのは、自分が強すぎるからかもしれません。

今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)ご自身が入って来てくださいました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝った「キリストの力」が働いています。私たちは自分を「いなご」のように、ちっぽけに感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たち自身の中にも住んでおられます。そして、私たちが「鷲のように翼をかって上ってゆく」ときに、私たちはこの地上の様々な問題を、「天におられる主」の視点から見下ろすことができるようになります。

   

クリスチャンになっても、何も変わっていないと思えることの方が多いかもしれません。私たちの「救い」には常に、「すでに実現している」alreadyという部分と、「まだ実現していない」not yet という両面があります。私たちは何よりも、「望みによって救われている」(ローマ8:24)ということを忘れてはなりません。私たち自身もこの世界も、神にある平和(シャローム)の完成に向かっており、それが保障されているのです。また、「慰めよ。慰めよ」という語りかけは、歩みの途中で疲れ失望しがちなすべての信仰者に対するメッセージです。「新しい創造」の中に入れられている者の歩みは、繰り返し、「目を高くあげて、だれがこれらを創造したかを見よ」という呼びかけに応答することから始まります。そして、「地をおおう天蓋の上に住まわれる主」が、「いなご」のような私たち一人一人に「力を与え、活気をつけ」てくださいます。

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