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2017年2月12日 (日)

マタイ6章5-15節 「三位一体の神の愛に包まれた祈り」

主の祈り ギリシャ語原文対訳

                                                      

 テール  モン   ホ     エン  トォイス ーラノォイ

 お父様    私たちの (関係代名詞)  中に   (冠詞) 諸々の 天の  

 

 ギアスト    ト ノーマ   スー

 聖とされますように (冠詞) お名前     あなたの

 

 エルト     ヘ バシレエイア   スー

  来ますように  (冠詞)  国(ご支配)     あなたの

 

 ゲネト     ト レーマ   スー          

 行われますように (冠詞) ご意思    あなたの  

 

ス  エン ーラノォー カイ  エ ース 

のように  中に  天(単数)   にも   上に  地の 

   

 

 トン ルトン モン トン エピーシオン  ス    ミン メロン

(冠詞) パンを 私たちの (冠詞) 日毎に必要な  与えてください 私たちに  今日も  

 

カイ フェース ミン  タ オフェイレエマタ  ヘ

そして 赦してください 私たちを (冠詞)負い目を      私たちの

 

 ス カイ  ヘーメエイス アフェカメン トォイス オフェレエタス  モン

 のと同じように   私たちが   赦します    (冠詞) 負い目ある人たち    私たちに

 

カイ  メ  エイセンゲース マース  エイス  ペイラス

そして  ないで  陥らせ       私たちを    の中に    誘惑

 

アラ リューサイ  ヘス   ポ  トゥー ポネ

 かえって 救ってください 私たちを   から   (冠詞) 悪い者から 

 

ティ  スー  スティン  ヘ バシレエイア カイ ヘ ドゥナミス カイ ヘ クサ

それは  あなたの ものだから  (冠詞)  国      と  (冠詞)   力    と  (冠詞) 栄光 

 

エイス トース アイナス  アメェン 

至るまで  (冠詞)  永遠に       アーメン

 

祈りにはその人の性格が現れます。感情の激しい表出が自然な人もいれば、静かにポツリポツリと思いを語るほうが自然な人もいます。また、そのときの気持ちによっても変わることでしょう。イエスはここで、祈りに関して二つのことを避けるように命じます。

第一は、人に見せるための祈りです。当時は、皆の前で、美しい言葉で、長々と祈ることが、その人の日頃の敬虔さを現わすこととして尊敬を受けました。それに対しイエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」(6:6)を意識して祈るように命じました。

第二は、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような姿勢です。それはバアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的な言葉を繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。

 

   これに対しイエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられる」(6:8)と言われました。

祈りは、神との親密な交わりの時です。最愛の人に向かって、その人の心の声を思い巡らそうともせずに、自分の願望ばかり一方的に語るということがあるでしょうか?ほかの人の目ばかりを気にして、心の伴わないことを言うということがあるでしょうか?

 

ところで、私たちの信仰が正統かどうかの分かれ目は、三位一体信仰にありますが、その説明は困難です。しかし、私たちは祈っているとき、実は、三位一体を体験しているのです。

イエスは神のひとり子として、天地万物の創造主に向かって「お父様(アバ)!」と呼びかけました。そして今、イエスはあなたの傍らで、「わたしはあなたの罪を贖ったから、いっしょに『お父様!』と呼びかけなさい」と言ってくださいます。そのとき、聖霊ご自身が私たちの心の奥底にあるうめきを聞きながら、ともに「うめき・・とりなして」(ローマ8:26)くださっています。

このときの私たちの目の前には父なる神が、傍らにはイエスが、背後には聖霊がおられるのです。つまり、祈っているとき私たちは三位一体の神の愛に包まれているのです。

 

ルカ11:1では、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った」と記されますが、それはヨハネが弟子たちに教えたのと同く、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を見せてくださるものでした。

そこでイエスは、私たちの「兄」として、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と教えてくださいました。

 

神は、この世界を美しく創造してくださいましたが、アダムの罪によって世界は矛盾と混乱に満ちたものとなりました。しかし、神の御子が葛藤を持つ人間となり、私たちのすべての罪を負い、私たちの負い目をお赦しください」と祈ってくださいました。

私たちは、この祈りを自分の祈りとすることによって、イエスの弟子として、このままの姿で「地の塩、世の光」とされ、この世界の再創造に関わる名誉ある働きに加えていただけます。「主の祈り」こそ、この世の奇跡であり、奇跡を生み出す祈りです。

 

1。アダムの祈りと主の祈り

  主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

 

この世の幸せをくださる神様! (永遠の世界の話より目の前のことが・・)

 私の名前が大切にされますように(私は誤解され、傷ついています・・・)

 私の権威が認められますように。 (私の立場がないのです・・・)

 私の意志が行なわれますように。 (思い通りにならないことばかりだから・・・)

 私の一生涯の経済的必要が保障されますように。(一切の経済的不安から自由になれたら・・)

 私は悪くないと認められますように。彼らは仕返しされて当然ですが・・。(私は特別です・・)

 私が誘惑などを恐れず、悪魔など気にしないでいられますように。(恐れがなくなれば・・・)

 私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ですから」 (私が王なら・・・)

 

   しかし、救い主イエスの祈りはそれと正反対で、以下のように訳すことができます。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊によって導かれる必要があります。

ですから、古代教会においてはこの祈りは、信者にしか祈ることが許されていなかったと言われます。

 

(複数)におられる私たちのお父様!

 あなたのお名前が聖くされますように。 (私の心の中で、人々の間で)

 あなたのご支配が現われますように。  (私の内に、人々の間に)

 あなたのご意志が行なわれますように。 (私の心の中に、人々の間に)

 天のように地の上にも。  (上の三つすべてを修飾する)

 

パンを、私たちに必要なものを今日もください。 (一日一日の糧のため)

 赦してください!私たちの負い目を。   (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

  私たちが自分に負い目ある人を赦すように。 (人を赦すことで、神の赦しを確信できる)

 陥らせないでください!私たちを誘惑に。 (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

  救ってください!私たちを悪い者から。 (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

 

永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン (父なる神こそが真の王)

 

2。父なる神のための祈り

 人は神に向けて造られました。ですから私たちの「幸い」「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)の実践にあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

 

★「天にいます私たちの父よ。

   イエスが、ゲッセマネの園で「深く恐れもだえ」ながら「アバ。父よ」と祈られたように(マルコ14:33,36)、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の「」とされた特権を味わいつつ祈ります。

 

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭のユダヤ系フランス人哲学者は、キリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです」と言いました。彼女はギリシャ語で「主の祈り」を暗唱しながら、その類まれな美しさに胸を打たれました。

それは「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が私たちのお父様」であり、また「天(複数)におられる」と続きます。彼女は、それを祈りながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わい、「そのキリストの臨在の実感は・・・現実的で、切実で、明澄なのです」と言っています。

 

   私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この私自身が「諸々の天の支配者」であられる神の王国のご支配によって守られ、支えられていることを覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちをこの地で輝かせるように召されています。

そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸い、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾しません。神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

 

★「(あなたの)名が あがめられますように

   エデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝する代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。

ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

 

そのとき私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。この心が、主の創造のみわざをたたえるとき、真の自由が生まれます。「主の御名をあがめる」ことの意味を抽象的に考えがちかもしれませんが、ただ詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきでしょう。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思っても見なかった祝福が体験できるかもしれません。

 

「御(あなたの)(ご支配)が来ます(実現します)ように」

    神は、「見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)という世界を創造されました。ところが今、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈ります。

それには、まず私たち自身が神のご支配に服する必要があります。試練に会い、深い孤独を感じるときは、祈りの学校に置かれているのです。孤独から逃げ出す代わりに、「孤独を深める」ことが必要とも言えます。私自身、孤独を味わう中で詩篇69篇や詩篇22篇の意味が心に迫ってきました。そこにおいてイエスが私の悲しみや孤独感を軽蔑なさらないばかりか、それをはるかに深く味わってくださった方であることがわかりました。

イエスは孤独と悲しみのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれました。私たちは、自分がいかに無力であるかを痛感することによって初めて、神のご支配に身を委ねることができるようになります。そのプロセスを通して、神は欠けだらけの私たちひとりひとりを、ご自身のご支配をこの地に広げるために用いてくださいます。

 

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、

 アダムは、「土の器」(Ⅱコリント4:7)「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けました。私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出し、小さなイエスとして、この神の御旨を現せるように祈ります。

それは、神のご意志に対し、Let it be と心を開くことの幸いです。

 

 「天のように地の上にも」

これは、「御名、御国、みこころ」の三つを修飾すると考えるべきでしょう。ルカ福音書の「主の祈り」では、「みこころが行なわれますように」という祈りは省かれています。それは、「御国が来ますように」という祈りに含まれているだと思われます。

ですからこれは、「御国が、天(単数)におけるように、この地にきますように」とまとめることができましょう。黙示録では、世の完成の状態が、「新しいエルサレムが・・・神のみもとを出て、天から下って来る(21:2)と記されています。

つまり、私たちが天に上るのではなく、神の「天」のご支配がこの地に下って平和が完成するのです。それこそが、天と地がひとつになるときで、讃美歌90番の最後では、「あめ()つち()、ついには一つとならん」と歌われているとおりです。

 

3。私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

 

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

  突然、「パンをください!」という現実的な祈りが登場します。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が支配します。ですから私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と祈ります。

それは、箴言で、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(ヤハウェ)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30:8、9)と祈られているのと同じです。

 

しかも、これは、自分たちの生活を越え、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

 

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

 善悪の知識の木の実を食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・」と答え、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます

その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦されたのは、この私が「キリストの使節」とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあります。

 

なお、14,15節では、「人の罪を赦す」ことと、「天の父の赦し」を受けることがセットとされています。

多くの人はこの警告に怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように・・・」と祈りだしますが、それは自分を神とする傲慢な祈りにもなりえます。

罪を裁いたり赦したりするのは神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、それに関係なく、神はその人を赦し、また裁いたりしておられるのですから。

 

また、それ以上に、「赦させてください・・」などと祈れば祈るほど、人の罪を赦せない「自分のこと」が見え、自意識過剰に陥ります。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります

その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に、心がその方向に向かいます。人を恨んでいる人は、顔が暗くなり、喜びが消え、やることなすことがうまく行かなくなります。人を赦すのは、何よりも自分の精神の健康のために必要なことです。

 

   昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式がありますが、主は、私たちが人と関わり人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと導いてくださいました。

私たちは、赦せない人を赦したという体験の中で、14節のみことばに基づき、自分の罪が赦されていることを確信できます。

 

「私たちを試み(誘惑)会わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

   エバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、欲望に身を任せました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があります。

ただ、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。私たちの痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、多くの誘惑が取り囲みますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

 

最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と賛美します。これは、もともと原文にはなかった頌栄で、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。

主の祈りを心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神との愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられている喜びです。そのとき私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。同時に、そこには世界の完成の希望があります。

 

遠藤周作の小説「沈黙」の中で、主人公の神父ロドリゴは、「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる」と迫られます。そして彼は、「最も大きな愛の行為」として、踏絵を踏もうとします。

 

当時の教えでは、「たましいの救い」という個人的なことが課題となっています。しかし、それでは、「お前は自分の救いのために、人の死を見過ごしている」という非難から自由になることはできません。

もしそこで、キリスト者の使命が、「世界を神の愛と平和で満たすために、それを妨げるサタンの勢力と戦う」ことと定義されていたら、違っていたのかもしれません。そして、主の祈りの構成こそは、それを指しています。

最初の「天」は複数形ですが、そこには空中の権威を持つ支配者としてのサタンの領域もあります。そこで、「御名が天(単数)におけるように、地でもあがめられ、御国が、天(単数)におけるように、この地にも実現する」とは、その天と地の間のサタンの領域がなくなることに他なりません。

そして、本来の祈りの最後が「悪い者からお救いください」で終わるのは、私たちがこの地でサタンとの戦いに召され、キリストにあって勝利する必要があるからです。

主の祈りは、この不条理と争いに満ちた世界に、神の平和(シャローム)が実現するようにという、壮大な祈りです。これは神の救いみわざの完成を求める祈りです。

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