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2017年2月26日 (日)

ヨハネ17章9-26節「彼らが全うされて一つとなるため」

                                             2017226

   江戸時代の踏絵を用いた徹底的なキリシタン弾圧以来、多くの日本人はそのトラウマに支配されているのかも知れません。学生時代、福音を聞きながら、「でも、クリスチャンになったら、何か悪いことが起こるかも・・」と不安でした。しかし、アメリカに留学中、「クリスチャンであるとは、喜びに満ち溢れることなのだ!」と、目が開かれました。当時、自然体で美しく輝いている方を知らなかったからです。

初代教会時代、福音が爆発的に広がったのは、迫害が、「人知を超えた喜び」をかえって際立たせたからです。

 

   しかも、信仰者としての成長とは、周りの状況に動じることなく、平安でいられるというよりも、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)という交わりの中に現されます。

義人ヨブの友人たちは、神の正義を弁護しようとして、ヨブの苦しみには原因があると分析しましたが、皮肉にも、神の怒りが彼らに向かって燃えたと記されます。彼らは、共感の欠如のゆえに非難されたとも言えましょう。

 

1. 「わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるため」

   イエスの祈りの第一は、「あなたの子の栄光を現してください・・わたしを栄光で輝かせてください(1,5)でした。

それは世的な栄光とは対照的に、ご自身の十字架が神の栄光を現し、また人々に「永遠のいのち」を与えるためのものとなるためでした。それはまた、「遣わされた」者としての「栄光」でした(8)

   その上で、イエスは、残される弟子たちのことを思いながら、「わたしは彼らのためにお願いします(9)と言います。願いの中心は、「聖なる父。あなたがわたしにくださっている・・御名の中に、彼らを保ってください」です(11)。そしてイエスは、「わたしは・・あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました」(12)と付け加えました。それまで、弟子たちの信仰を育み、守ったのはイエスご自身でしたが、主は今、彼らを残し、世を去ります。ですから、主は御父に対して、彼らの信仰を守ってくださるようにと願われました。

つまり、私たちの信仰を守るのは、イエスご自身の祈りと、御父の働きなのです。人間的な情熱や信念など、軽い脅しだけでくじけるようなもろいものではないでしょうか。実際、「あなたのためにはいのちも捨てます(13:37)豪語したペテロは、鶏が鳴くまでに、三度イエスを知らないと言ってしまいました。ペテロの失敗の原因は、自分の肉の弱さを認めていなかったためでした。

その彼が、立ち直ることができたのは、イエスの祈りの力によるものでした。主はペテロの裏切りを予告しつつ、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)と言っておられたのですから・・。

 

  なおイエスはここで、「彼らの信仰を守って」という代わりに、「あなたがわたしに下さっている・・御名の中に、彼らを保ってください」と願っておられます。「御名」は、単なる呼び名ではなく、神ご自身の御性質やあり方の全体を指します。つまりこれは、人の信仰心を強めようという祈りではなく、イエスを通して示された神の一方的な愛と恵みのうちに包まれ続けるようにとの祈りなのです。

私たちは、イエスを通して示された神の魅力に引き寄せられて、神の子どもとされました。ところがその後、神にではなく、自分の信仰の姿勢ばかりに目が向かうことがあります。それは信仰の堕落です。

エペソ教会の人々は、行ないも立派で、誤った教えをも見分けていました。しかし、神は、ヨハネを通して、「あなたは初めの愛から離れてしまった(黙示2:4)と厳しく非難しました。「初めの愛」とは、私たちの信仰心である以前に、神が私たちを愛してくださった、その「」です。信仰の喜びは、神の愛が迫って来たことから生まれた自然な感動でした。

 

   ただし、イエスはここで、「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました(12)と言われます。それはイスカリオテのユダのことを指します。しかも、「それは聖書が成就するためです」と記されています。これはユダが、悪役を演じる定めだったという意味ではなく、イエスが、最愛の弟子のひとりから裏切られたことが、預言の成就であったという意味です。

詩篇の中では「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいてかかとを上げた(41:9)などのように、親友から裏切られることの苦しみが、繰り返し「祈り」として記されています。イエスの十字架は、その痛みを味わうことでもあったのです。

しかも、主は、私たちが御跡に従う時、親友ばかりか「家族の者がその人の敵となります(マタイ10:36)とさえ語っておられます。つまり、裏切られることは、私たちが負うべき十字架の一部だというのです。

 

   ところで、イエスはご自身のこの地での最後のお話しの目的を、「わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるため(13節フランシスコ会訳)と言っています。それは、イエスが父なる神との愛の交わりの中で味わっておられた「喜び」が、弟子たちのうちにも同じように「満ち溢れる」ことを意味しました。

主は、私たちを、ただ苦しめ鍛えたいと願っておられるわけではありません。「世は彼らを憎みました(14)とあるように、キリスト者はこの世から憎まれるのが常です。それは私たちが、イエスだけに忠誠を誓い、偶像礼拝もせず、この世の権力者を恐れもしないからです。

また同時に、「私はイエス様なしには生きられない!」などと言いながら、自分を卑下することもなく、喜んでいられるのは、世の人々にとっては奇異だからです。

 

   人の心を恐怖心で委縮させるのはサタンの惑わしです。ところがイエスは、「自分の十字架を負い・・わたしについて来なさい(マタイ16:24)と、恐怖への突入を命じられました。神のみわざとは、私たちが困難のただ中で、イエスと同じ「喜び」を体験することです。

実際、憎まれ、命を奪われた人が、喜びに満ち溢れていたからこそ、福音が伝わったのです。「喜び」の反対語は、苦しみではなく、退屈とも言えましょう。

 

2.「彼らがみな一つとなるため・・全うされて一つとなるため」

   イエスは御父に、弟子に関し、「あなたが世から取り出して、わたしにくださった・・(6節)と言い、また、「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでない(1416)と繰り返しています。多くの日本人は社会で「浮いてしまう」ことを恐れていますが、キリスト者は「浮いてしまう」ことを逆に喜んでいる人とも言えましょう。人の目を意識して生きることは、集団の奴隷になることだからです。

しかもイエスは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします(15)と祈られました。これは、主の祈りに通じるものです。そこでは、「誘惑に陥らせないで、悪い者からお救いください」と祈られています(私訳)。つまり、この世で悪い者(サタン)の攻撃を受けることを前提とした上で、その中で、誘惑に陥り、負けてしまうのではなく、守られ、救い出されるようにとの祈りです。

しかも、イエスは、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました(18)と言われました。世は、様々な誘惑で満ちています。しかし、そこでこそ、キリストにある勝利を体験できるのです。

 

   初代教会の時代は、世界は正面からキリストの弟子に戦いを挑んできました。彼らは自分の命を賭けて、キリストの勝利を証しできました。しかし、四世紀にキリスト教がローマ帝国で公認されると、その証しの場がなくなったばかりか、信者であることで社会的評価さえ得られるようになり、信仰が世と調和し、堕落し始めました。それで、多くの人々は、敢えて荒野に出てサタンの誘惑と戦い、キリストにある勝利を体験し、証しする機会を求めました。

つまり、修道院生活は、世からの逃避ではなく、世の力との戦いの場だったのです。たとえばアメリカには、良い信仰者が同時に良い市民として認められる雰囲気があります。そのため、世の富、名誉や力を用いて誘惑するサタンとの戦いが不明確になりがちです。その点、日本のキリスト者は幸いな立場にいます。敵を探すために出て行かなくても、この地が既に荒野であり、世が私たちの信仰を攻撃してくれるからです

誘惑や迫害を敢えて求めてはなりませんが、その中でこそ、イエスに習って、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方に任せる」(Ⅰペテロ2:23)という、十字架を負う歩みの中で、「喜び」を体験できるのが信仰の真実です。

 

   イエスは弟子たちのために「あなたの御名の中に、彼らを保ってください(11)と祈られましたが、そこには、「それは私たちと同様に、彼らがひとつとなるためです」という目的がありました。

さらに19節でイエスは、「わたしは、彼らのために、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」と言われました。これはイエスが十字架でご自身を「献げられ」たように、彼らも自分自身を「献げる」ようになることを指します。

続けてイエスはこの祈りの対象を、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」(20)と、使徒たちの宣教の「ことば」によって生まれるキリスト教会全体に広げますが、そこには「彼らがみな一つとなるためです」(21)という目的が記されます。

つまり、イエスの祈りの内容は、私たちが世から分離された者として、神の愛の中に留まり続けることですが、そこには常に、一つとされた愛の交わりが実現するはずなのです。「一つとなる」ということばが11,21,22,23節と四回繰り返されます。

 

   最近、欧米の神学者たちの間に、福音を個人主義的に捉え過ぎていたとの反省が起きています。今までの「教会」では、日本語名のごとく、聖書を学ぶ学校、また伝道を推し進める組織としての性格ばかりが強調されていたのかもしれません。もちろん、そのような側面は大切ですし、私たちの教会はその点の足りなさを反省すべきかもしれません。しかし、聖書によれば、伝道も教育も、すべて「神の民の創造」という共同体的な目的にあることを忘れてはなりません。

個々人が人格的に成長することは大切ですが、それは必ず、「愛の交わり」として表わされるはずなのです。アダムとエバが、エデンの園で善悪の知識の木の実を取って食べた結果、夫婦の断絶が生まれ、そこから生まれ育った最初の子は、弟を殺しました。人間の堕落とは、愛の交わりの破壊だったのです。

それに対し、キリストのみわざによって実現する「新しいエルサレム」は、愛の交わりが完成する世界です。愛は、私たちの義務というよりは、目的地なのです。

 

イエスは続けて「彼らが全うされて(完成されて)ひとつとなるため(23)と祈られました。「完成」は、個人のことである前に、交わりの完成を意味します。地上の教会の使命は、天で完成する愛の交わりのつぼみを、目に見えるように示すことにあります

使徒の働きでは、「信じた者の群れは、心と思いをひとつにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず(主張せず)すべてを共有にしていた(4:32)と記されますが、それは所有権の否定ではなく、それぞれが自主的に分ち合う愛の交わりでした。

その結果、「ほかの人々は・・彼らを尊敬していた・・そればかりか、主を信じる者は男も女もますます増えていった」(5:13,14)と描かれています。教会の成長は、世の人々がそこにある「」に引き寄せられた結果でした。

 

   13歳で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母、早紀江さんは、悲しみに打ちひしがれながら、勧められたヨブ記を読み、神に出会いました。悲劇の原因も解決も見えないまま、なお、この悲しみのすべてがはかり知れない神の御手の中にあると感じました。

自分の真面目さだけでは人生を全うすることができないと分かった時、初めて力を抜いて深呼吸ができ、空気がおいしいと思えました。悲しみではなく、不思議な感動の涙が流れて来ました。「私は、こうして何とか自分を見失わずにすんだのでした」と記しています。

彼女は、めぐみさんの死を告げられた後の記者会見で、その証拠の曖昧なことを落ち着いて指摘し、自分たちが力を合わせて戦ってきたことによって北朝鮮の闇が明るみに出されたと振り返り、「めぐみはそのために犠牲になり、使命を果たしたと思います」と語りました。

彼女は、国籍を超えたすべての拉致被害者の救出のための運動の先頭に立っています。実は、前面には出ませんが、彼女の心を誰よりも支えているのは、新潟で出会った「聖書を読む会」の婦人の交わりなのです。このような悲惨を見て、「神も仏もあるものか・・・」と思う人々もあるでしょう。しかし、彼女の痛みを自分の痛みとして寄り添い、祈る交わりの中に、神の愛を見ることができます

世は不条理の原因を分析しますが、原因、結果を論じることが被害者を苦しめるという現実もあります。残念ながら、いつの時代にも、不条理はあり続けます。イエスの祈りは悲劇がなくなること以前に、私たちが「一つとなる」ことであるというのは何と不思議なことでしょう。

 

3.「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」

   イエスが言われた「一つ」には、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように(21)との説明が加えられています。この関係は、ペリコレーシス(mutual indwelling 相互内住)というギリシャ語で説明されます。

イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われましたが、それは、ご自身のみわざが「わたしのうちにおられる父が、ご自分の働きをしておられる(14:9,10)という現れだったからです。パウロも、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている(コロサイ2:9)と言いました。つまり、キリストのうちには、父なる神ご自身が完全に住んでおられるのです。

一方、イエスのことは、「父のふところにいるひとり子の神」 (1:18)として描かれます。つまり、イエスは御父の中に完全に存在していることを確信しているからこそ、ご自分のいのちを捨てることができたのです。

三位一体を父、御子、御霊なる神の役割の違いから理解する前に、御父と御子との交わりから理解すべきではないでしょうか。

 

   日本の夫婦は役割分担を中心に成り立ってきました。最近、離婚が急増しているのは、女性の主体性が認められてきた当然の結果であるとも言われます。結婚とともに苗字を捨て、出産とともに職業を捨てることが暗黙の了解とされてきた中で、子育てが終わる頃、「私の一生は一体何なのか?いつも夫と家族のために自分を殺してばかりいた・・・」と疑問を感じる女性がいます。その一方で、「亭主、元気で、留守が良い」と割り切っている妻たちもいます。

どちらにしても、主体的に「互いを生かし合う」という愛の交わりではなかったのです。どの交わりでも、「自主性を抑える代わりに、保護を求める」という人がいることで「一致」があると見えたのかも知れません。これは共依存関係に過ぎません。心の底で互いを軽蔑しながら、利害のために結びついているだけです。それぞれが自主性を発揮した途端、関係が壊れてしまいます。

 

   しかしイエスは、神の御子であることを喜び、父のみこころをご自分の意思として積極的に受けとめられました。御父もイエスを支配するのではなく、すべてを分ち合っておられました。互いの自由な意思を信頼しつつ、完全な意思の一致があります。そこには、独立した人格どうしの対話の関係があります。

そして、イエスは、私たちもそのような関係を築くようにと、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです(22)と祈られたのです。

なお、イエスはそれに先立って、「彼らもわたしたちにおるようになるため(21)と言われましたが、それは、私たちがこの御父と御子との愛の交わりの中に、神の家族として招き入れられることです。

そして、イエスは、「あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました・・わたしは彼らにおり、あなたがわたしにおられます(2223)と続けます。これはイエスが、「父から出る真理の御霊(15:26)を遣わしてくださることで、私たちのうちに住んでくださることを意味すると思われます。

 

先のペリコレーシスは、御霊のうちに御子が完全に住んでおられることにも適用されます。それはイエスが「御霊はわたしの栄光を現します(16:14)と言われた通りです。その結果、イエスは、御霊によって、私たちのうちに完全に住むことが可能になるのです。

その際、私たちの人格的な独立性は損なわれることはありません。私たちは、イエスの御父に対する姿勢に習って、自分の身を積極的に差し出し、この身を通してイエスに生きていただくのです。その結果として、私たちは「全うされて一つとなる」ことができます。一致を作ろうと自主性を殺すことによってではありません。

そして、「この世」は、私たちの間に愛の交わりが実現していることを見ることによって、御父が御子を遣わし、御父が御子を愛されたように私たちをも愛してくださっているという霊的な現実を、「知る」ことができるようになるというのです(23)

 

イエスは最後に「父よ、お願いします(望みます)あなたがわたしに下さったものをわたしのいるところにいっしょにおらせてください・・わたしの栄光を、彼らが見るようになるため・・」(24)と祈られます。これは、「新しいエルサレム」に実現する、喜びに満ち溢れた希望ですが、それは遠い夢ではありません。御父と一体のイエスのご意志は、実現が確定しています。

しかも、イエスは先には「聖なる父(11)と呼ばれ、ここでは、「正しい父よ。この世はあなたを知りません・・・わたしは・・御名を知らせました(2526)と、イエスは神の正義を世に知らせるために来られたと言われ、その目的を、「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるため」という愛の交わりで表現します。

 

つまり、神にとっての正義とは、愛の交わりに現されるのです。最近、再び、「アメリカの福音派」が独善的な集まりであるかのように報道されことがあります。福音派は聖書をそのまま受け止めますから、罪を罪として断罪しながら、罪に対する神のさばきも明確に語ります。十字架は、罪に対する神のさばきでなければ、十字架の贖いという概念は成り立ちません。つまり、とは、すべてを許容する心の働きではなく、「さばき」と表裏一体のことなのです。北朝鮮の暴挙を許して、どこに愛が生まれるでしょう。

しかも、「神は愛です(Ⅰヨハネ4:16)とは、神のご性質である前に、神が愛の交わりのうちに生き、その愛を分ち合ってくださるという「あり方」を意味します。その「見えない愛」を、私たちの間において「見えるようにする」ことこそが、課題ではないでしょうか?

今、イエスが御霊によって私たちのうちに住んでおられます。私たちは「聖なる神、正しい神」に愛されている者として、罪を憎みながらも、罪人のままの互いを愛し合うことができます。

 

以前結婚した夫婦は、誓約の最後に「御父と御子の間に見られる愛の交わりが、私たちの交わりのうちにも表わされるように、聖霊の導きにお委ねします」と加えました。これは、私たちが、すべての兄弟姉妹との間で誓うべきことばです。「天の愛の交わりをこの地で表わす」とは、何というチャレンジでしょう。

私たちの心の底には、「私は愛に病んでいるのです(雅歌2:5)という「渇望」があります。それを癒すために、神の愛が注がれているのです。そしてそれは身近な人との関係に現され、成長し、完成に向かいます。

「愛」は歴史の目的地です。私たちのうちに始まった「新しい創造」は、「シャローム」として実現します。

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2017年2月19日 (日)

ヨシュア7-9章「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」

                                            2017219

   「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」という近代史の本が以前、ベストセラーになりました。昔は、一部の軍閥が勝手に戦争を引き起こしたという見方が大勢を占めましたが、最近はもっと大局的な視点が重視されるようになってきました。たとえば、日米開戦時の工業生産高では米国は日本の10倍にも達していました。しかし、そのような無謀な戦争に勝利を期待したのは、その36年前の日露戦争では日本が8倍の国家予算を持つロシアに勝利を収めたことが最も大きな理由になっていました。

しかも、時代遅れの大軍艦の建造を初め、日露戦争の勝利の方程式がいろんなところに現れ、それが新しい事態への対処を遅らせて来ました。ですから、「成功こそ失敗の母」ということができましょう。

 

一般的に、人の成功体験に学ぼうとする風潮がありますが、基本的にそれぞれの成功体験はあまりにもユニーク過ぎて、参考になりません。一方、失敗体験には驚くほどの類似性が見られます。そして、その最大の共通点を日本語にすると、「奢れるもの久しからず・・」と言われます。

ただ、世の成功者を斜に構えて、そのように批判することも注意しなければなりません。長く続く会社はどこでも健全な危機意識を共有しています。私が昔、勤めていた会社の10年次研修ではそのことが驚くほど徹底されていました。そして、世界で最も長く続いている組織体こそキリストの教会です。私たちはそのことを本日の箇所から学ぶことができます。その核心とは、主の前に遜ることです。

 

1. 「民の心がしなえ、水のようになった」

主はエリコとの戦いに先立ち、「聖絶のものに手を出すな・・・イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないため」(6:18)と警告されました。ところが、ユダ部族のゼラフ氏族に属するアカンが、「聖絶のもののいくらかを取った」というのです(7:1)

彼らが密かに天幕の中の地に隠したものは21節に初めて記されますが、ここではこれがイスラエル全体の問題であることとして、「イスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し・・・主(ヤハウェ)の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった(7:1)と、たった一家族の罪が、イスラエルの民全体への「主の怒り」を引き起こしたと描かれます。

 

ヨシュアはかつてヨルダン川を渡る前に、民全体に向かって、「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主(ヤハウェ)が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから(3:5)と言っていました。当時のイスラエルの民はこれから起こることに期待と同時に不安を味わっていました。

ところが、神の圧倒的なみわざによってエリコの「城壁が崩れ落ち・・民はひとり残らず、まっすぐ町に上って行き、その町を攻め取った(6:20)とき、彼らはその成功に酔いしれ、心が緩んだのだと思われます。それがアカンの罪を引き起こしたと言えましょう。

しかも、これは一部の人の問題に留まりません。なぜなら主は、「聖絶のものに手を出す」ことが、「宿営を聖絶のもの」にすると警告しておられたからです(6:18)。それは、神の所有物を盗んで、宿営の中に隠すことによって、宿営を汚し、そこを神のさばきの対象とすることを意味したからです。

 

エリコに対する劇的な勝利は、「主(ウェ)がヨシュアとともにおられ(6:27)、彼が求める先から、「主(ウェ)の軍の将」が、「抜き身の剣を手に持って」現われ(6:13,14)、戦いを導いてくださった結果でした。ところが、「アイ」との戦いの準備では、エリコの戦いまでの描写とあまりにも違います。

アイはエリコの西20㎞あまりの、約1000m余りも高い地にありましたが、ヨシュアが遣わしたスパイは、アイが小さな町で、二、三千人ぐらいの軍勢を送るだけで、町を攻め落とせると断言しました(7:3)。しかし、それは地理的な面からも楽観的すぎる計画でした。何よりも、彼らはこの戦いを、主との交わりの中で行うという基本が欠けていたようです。

スパイのことばには224節のエリコの場合とは異なり、「(ヤハウェ)は・・・渡され」ということばはありません。ですから、彼らは、自分たちが「聖絶のもの」となって、神が、彼らとともにはいないという重大なことにまったく気づかないまま、軍隊を送り、まさかの敗北を喫することになりました。

 

そのことが、「アイの人々は、彼らの中の約36人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打った(7:5)と記されますが、シェバリムという地名がどこかは不明です。地理的な目印という点からすると、アイの東5.6㎞にある石切り場の当たりとも言われます。戦死者は少なかったものの、いざ負けてしまうと、アイに向かっての上り坂は天然の要害に思えて来たことでしょう。

その結果、「民の心がしなえ、水のようになり」(7:5)と描かれています。これはかつて、「カナン人のすべての王たちの・・心がしなえ・・勇気がなくなった」(5:1)と描かれていたことと対照的です。主はヨシュアに、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(1:5)と約束されたのですから、彼らが敗北するということは、神の約束が、空手形だったということになります。

この敗北の理由は、人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ(箴言18:12)と記されている通りと言えましょう。

それと同時に、ある一部の人が、主の命令に逆らってしまったことにより、「宿営が聖絶のものとなった」ことの悲劇を知ることができます。これはイスラエルの宿営が、神のさばきの対象となって、滅びることを意味しました。

 

2.「そこで、主(ヤハウェ)は燃える怒りをやめられた」

それで、「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主(ウェ)の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった」(7:6)と記されます。これは深い悲しみの表現ですが、アイとの戦いにおいて、「(ヤハウェ)の箱」が登場するのはここが初めてです。彼らは戦いの前に、このように主の前に遜るべきだったと気づいたのかも知れません。

しかし、ヨシュアは、この敗北がイスラエルの滅亡につながるという現実を良く理解していました。切羽詰った彼は、大胆に神の責任を問うかのように、「ああ、主、ヤウェよ・・・どうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか」(7:7)と訴えました。彼には、敗北の原因が自分たちの高慢さだけではないと思われたからです。

実際、エリコの戦いとは対照的に、この戦いで、主は、沈黙し続け、敗北を見過ごされたと思えたからです。そして、このとき初めて、主は、敗北の真の原因を示してくださいました。もし、このときヨシュアが主の前にひれ伏していなければ、イスラエル全体が主の前に「聖絶のもの」となったまま滅亡していたことでしょう。危機の原因を人間的に分析する前に、ただ主の前にひれ伏すこと、また、率直に、主に訴えることが何よりも大切です。大胆に主にすがることこそが信仰の基本です。

 

 主は、ひれ伏すヨシュアに、「立て・・」と命じ、「イスラエルは罪を犯した・・わたしの契約を破り・・・聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない(7:11,12)と言われました。

主は、一人の罪の連帯責任を全員に負わせようとされたのではなく、彼らの間から「汚れ」を取り除かせ、「主(ウェ)がイスラエル人の真ん中に宿る」(民数記35:34)という状態を回復させたいと願っておられたのです。だからこそ、主は、「くじ」を用いて、ご自身の側から、アカンが汚れの元凶になっていることを示してくださいました。

 

この期に及んでようやくアカンは、自分の罪が神の御前に明らかだったことを悟り、「ほんとうに、私は主(ウェ)に対して罪を犯しました」(7:20)と認めました。しかし、宿営の中をきよめるというのが課題である以上、彼の謝罪を受け入れることはできません。

私たちはときに、「謝ったら、赦してもらえるはず・・・」と期待しますが、それでは神の赦しは、こちらが操作できることになってしまいます。人と人との関係でも、「契約」を破ったことには明確な処罰規定があります。

しかもここでは、イスラエル全体が「聖絶のもの」として滅びるのが契約の結果であるはずでした。ですから、アカンとその一族を取り除くことで、主が再びイスラエルの真ん中に戻ってくださるということ自体が圧倒的な恵みであることを忘れてはなりません。

 

アカンとその家族、所有物すべてが、宿営から遠く離れた(アイの約30㎞南東)ユダの荒野の中にある「アコルの谷」に連れて行かれます。そして、「全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけ・・アカンの上に、大きな石くれの山を積み上げた(7:25,26)というのです。

イスラエルの民は、石を投げつけながら、アカンを憎む以上に、主の契約を破ることの恐ろしさを覚え、心を痛めていたことでしょう。その結果、「(ヤハウェ)は燃える怒りをやめられた(7:26)と描かれます。

 

ところが(ウェ)は、後に「アコルの谷を望みの門としよう」(ホセア2:15)と言われ、「のろい」「祝福」の源に変えると約束してくださいました。アカンへのさばきが全うされることによって、神がイスラエルの真ん中に住んでくださったように、キリストが私たちすべての罪や汚れを負って十字架にかかられ「のろわれた者」となってくださった(ガラテヤ3:13)ことで、私たちは「神と和解させられた」と言われます(ローマ5:10

そして、今、神ご自身が、私たちの交わりの真ん中に住んでくださるばかりか、何と、ひとりひとりのからだを、「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)とし、いつまでも、私たちとともにおられるというのです。

 

私たちにも、「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい(Ⅰコリント5:13と命じられることがありますが、それは、「神のみこころに添った悲しみが・・熱心を起こさせた」(Ⅱコリント7:11)という動機によらなければなりません。それは、「良心が麻痺してしまった」(Ⅰテモテ4:2)者への最後の手段です。

十字架の福音は、「罪に泣く」という心にしか届かないからです。それは、神のあわれみを無にしないためです。

 

3. 「見よ。わたしはアイの王と、その民・・その地を、あなたの手に与えた」 

このように宿営の中がきよめられた結果、主は、ヨシュアが求める前から、ご自身の方から現われ「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ・・・見よ。わたしはアイの王と、その民・・その地を、あなたの手に与えた(8:1)と言ってくださいました。

しかも、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい(8:2)と、エリコでは禁じられたことが、ここでは一転して許されました。神は、民の必要をご存知で、時に応じて柔軟な指示をくださいます。そればかりか、「伏兵を置け・・」などと、人間的とも言える戦略を授けられます。初戦に勝ったアイの民が高慢になっているからです。

主はこれを通して、高慢になることを戒めると共に、敗北の体験を無駄にせずに生かすことを教えてくださいました。そして、ヨシュアは今回、前回の十倍の勇士たち三万人を選びます(8:3)

 

そして、ヨシュアは主の戦略を伝えた後、「主(ヤウェ)の言いつけどおりに行わなければならない」(8:8)と改めて命じます。そして、「彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイとの間に伏兵として配置」しますが、この二つの町は2.5㎞程度しか離れていませんので、伏兵はベテルを背にするという危険を冒しています。

またヨシュア自身も、敵の目の前にある「谷の中で夜を過ごし」(8:13)自分の身を囮として危険にさらしました。それは、怯えた民に、主に信頼することを教えるという意味もあったことでしょう。

 

先の勝利に酔っていた「アイの王」は、「気づくとすぐ…出て来た」と警戒心を持つこともなく襲いかかってきます(8:14)。その際、その後方にある「ベテル」の人々までも、町を空っぽにしておびき出されます(8:17)。先の戦いでは、イスラエルの民が勝ち誇っていたために敗北しましたが、ここでは反対にアイとベテルの民が勝ち誇ったために敗北したのです。

なお、「アイ」は、より大きな町のベテルの前線基地的な意味があります。ですからここでは、かつてイスラエルがアイに敗北したことが、ここでは逆に「ベテル」の民をもおびき寄せることにつながりました。

イスラエルは、アイでの敗北によって、主の前に遜り、より大きな勝利を手にできました。まさに、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)と記されている通りです。キリストのうちにある者にとっては、取り返しのつかない失敗はありません。

 

アイとベテルの人々がイスラエルの後を追って町を出た時点で、何と(ヤハウェ)ご自身がヨシュアに直接に、「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ」と命じられます(8:18)。まさに、主ご自身が反撃のタイミングを指示されたのです。伏兵を置くという策略から、伏兵に攻撃させるタイミングまでも主ご自身が導いておられるというのは何という驚きでしょう。先の敗北を喫したときの戦いとは正反対です。

そして、町の背後に隠れていた伏兵が町を攻め取り、火をつけ、イスラエル軍はアイの住民をはさみうちにします。その際、「ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を指し伸ばした手を引っ込めなかった」(8:26)とありますが、それは主のみこころが、イスラエルを用いてカナン人の悪を断ち切ることにあったからです。

これを現代の私たちの感覚で非難することは時代錯誤になります。ここに書いてある絶滅作戦は、当時の戦争では極めて常識的な方法でした。しかも、そこにはこの時期だけに適用できる主の明確な命令がありました。そしてイエスこそは、その常識を変えてくださった平和の王です。

 

現代の私たちには、罪人の身代わりに十字架にかかられた主ご自身が、「あなたの敵を愛しなさい。彼らに良くしてやりなさい」(ルカ6:27,35)と命じておられます。私たちの真の敵は、人間ではなく、自分の存在を隠しながら、人と人との間に憎しみの種を蒔いているサタンです。

そして、ヨシュアの時も、今も、方法に違いはありますが、神の目的は愛と平和に満ちた「神の国」を建てることです。神が私たちの罪を赦してくださったのは、私たちとの交わりを回復し、ご自身の働きに加え、生かすためなのです。

 

4. 祝福を選ぶか、のろいを選ぶか

 ヨシュアはその後、アイから中央高地を北上し、約束の地の真ん中に当たるシェケム近郊に達します。そして、主がモーセを通して「主(ウェ)があなたがたを導き入れたなら、ゲリジム山には祝福をエバル山にはのろいを置かなければならない・・」(申命11:2927:1-26)と命じられたことを実行します(8:30-35)

ヨシュアは、エバル山に大きな石を建てて、モーセが記した申命記を書き写した上で、民をふたつの山の前に分かれて立たせ、「祝福とのろい・・をことごとく読み上げ」(8:34)ました。彼らは、このような具体的な行動を通して(ウェ)を愛するか、また反対に主に背いて「のろい」を選ぶかを問われたのです。

 

イエスも私たちに対して、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません(マタイ6:24)と言われました。しかし、多くの人は、イエスが不可能と言われたことにチャレンジしようとして信仰の破船に会います。

一方、イエスが、外に出て「空の鳥を見なさい・・野のゆりがどうして育つのかわきまえなさい」(マタイ6:26,28)と言われた簡単なお勧めを無視してしまいます。私たちも、聖書の朗読を耳で聞き、神の創造のみわざを目で観察するという具体的な行動によって初めて、「だから、神の国とその義とをまず第一に求め(捜し)なさい」(マタイ6:33)というみことばが心の底に響きます。あなたは自分の目に何を見させ、耳に何を聞かせているでしょうか。

 

91節ではヨルダン川の西側の「王たちは・・一つになって・・イスラエルと戦おうとした」と描かれます。これは12章まで続く戦いの要約のような表現です。

ただし、9章ではその戦いのきっかけになった事件が記されます。「ギブオンの住民たち(3)とは、アイやベテルから南南西約10㎞、エルサレム北北西10㎞ぐらいにあるまさに約束の地の中心の住民です。申命記712節ではカナンの住民に関して、「彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない」と命じられていました。しかし、それは約束の地の「外」の住民との関係には適用されませんでした。

 

ここでは、「ギブオンの住民」たちがヨシュアを欺き、自分たちがカナンの外の住民であるかのように装って「盟約を結んだ(9:615)ことが描かれます。

このときイスラエルは、「主(ウェ)の指示をあおがなかった」(9:14)というのです。主がともにいてくださったのに、主がおられないかのように行動してしまいました。これは、エリコの戦いの後に、主にすがることを忘れてアイとの戦いに負けたときのパターンと同じです。彼らはすぐに失敗体験を忘れ、主が与えてくださった成功の中で、危機意識を失っていました。

 

その結果、彼らは、カナン人との妥協という問題の種を蒔くことになります。実際、後にイスラエルの民が約束の地の征服に失敗し、偶像礼拝の習慣に飲み込まれてしまったのは、彼らがカナン人との共存を図ったからでした。

しかし、それが騙された結果であっても、「主(ウェ)にかけて彼らに誓った(9:18,19)という盟約は無効になりませんでした。実際、それは、数百年後のダビデをも拘束し(Ⅱサムエル21章)、主(ウェ)は、この盟約を持ち出して、サウルがギブオン人の血を流したことの償いを命じます。

つまり、偽りの情報の上に立った契約でも、主の前での誓約は互いを縛るのです。結婚してしまってから、「こんなはずではなかった・・・」と言ったとしても、それは手遅れです。誓約は絶対的な意味を持ちます。

 

人は、基本的に、困難の中で主にすがり、祝福を受けても、それを自分の手柄のように思うものです。ですから、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築きあげたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい(申命記8:17,18)と記されています。

主の恵みを忘れ、主にすがることを忘れることこそ、すべての失敗の始まりとなります。ただし、数々の失敗をしたとしても、「アコルの谷を望みの門としよう」と言われた主は、新しい歩みを何度でも始めさせてくださいます。

しかもそこでは、失敗体験が、主との交わりを深化させ、新たな祝福の母となっています。

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2017年2月12日 (日)

マタイ6章5-15節 「三位一体の神の愛に包まれた祈り」

主の祈り ギリシャ語原文対訳

                                                      

 テール  モン   ホ     エン  トォイス ーラノォイ

 お父様    私たちの (関係代名詞)  中に   (冠詞) 諸々の 天の  

 

 ギアスト    ト ノーマ   スー

 聖とされますように (冠詞) お名前     あなたの

 

 エルト     ヘ バシレエイア   スー

  来ますように  (冠詞)  国(ご支配)     あなたの

 

 ゲネト     ト レーマ   スー          

 行われますように (冠詞) ご意思    あなたの  

 

ス  エン ーラノォー カイ  エ ース 

のように  中に  天(単数)   にも   上に  地の 

   

 

 トン ルトン モン トン エピーシオン  ス    ミン メロン

(冠詞) パンを 私たちの (冠詞) 日毎に必要な  与えてください 私たちに  今日も  

 

カイ フェース ミン  タ オフェイレエマタ  ヘ

そして 赦してください 私たちを (冠詞)負い目を      私たちの

 

 ス カイ  ヘーメエイス アフェカメン トォイス オフェレエタス  モン

 のと同じように   私たちが   赦します    (冠詞) 負い目ある人たち    私たちに

 

カイ  メ  エイセンゲース マース  エイス  ペイラス

そして  ないで  陥らせ       私たちを    の中に    誘惑

 

アラ リューサイ  ヘス   ポ  トゥー ポネ

 かえって 救ってください 私たちを   から   (冠詞) 悪い者から 

 

ティ  スー  スティン  ヘ バシレエイア カイ ヘ ドゥナミス カイ ヘ クサ

それは  あなたの ものだから  (冠詞)  国      と  (冠詞)   力    と  (冠詞) 栄光 

 

エイス トース アイナス  アメェン 

至るまで  (冠詞)  永遠に       アーメン

 

祈りにはその人の性格が現れます。感情の激しい表出が自然な人もいれば、静かにポツリポツリと思いを語るほうが自然な人もいます。また、そのときの気持ちによっても変わることでしょう。イエスはここで、祈りに関して二つのことを避けるように命じます。

第一は、人に見せるための祈りです。当時は、皆の前で、美しい言葉で、長々と祈ることが、その人の日頃の敬虔さを現わすこととして尊敬を受けました。それに対しイエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」(6:6)を意識して祈るように命じました。

第二は、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような姿勢です。それはバアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的な言葉を繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。

 

   これに対しイエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられる」(6:8)と言われました。

祈りは、神との親密な交わりの時です。最愛の人に向かって、その人の心の声を思い巡らそうともせずに、自分の願望ばかり一方的に語るということがあるでしょうか?ほかの人の目ばかりを気にして、心の伴わないことを言うということがあるでしょうか?

 

ところで、私たちの信仰が正統かどうかの分かれ目は、三位一体信仰にありますが、その説明は困難です。しかし、私たちは祈っているとき、実は、三位一体を体験しているのです。

イエスは神のひとり子として、天地万物の創造主に向かって「お父様(アバ)!」と呼びかけました。そして今、イエスはあなたの傍らで、「わたしはあなたの罪を贖ったから、いっしょに『お父様!』と呼びかけなさい」と言ってくださいます。そのとき、聖霊ご自身が私たちの心の奥底にあるうめきを聞きながら、ともに「うめき・・とりなして」(ローマ8:26)くださっています。

このときの私たちの目の前には父なる神が、傍らにはイエスが、背後には聖霊がおられるのです。つまり、祈っているとき私たちは三位一体の神の愛に包まれているのです。

 

ルカ11:1では、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った」と記されますが、それはヨハネが弟子たちに教えたのと同く、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を見せてくださるものでした。

そこでイエスは、私たちの「兄」として、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と教えてくださいました。

 

神は、この世界を美しく創造してくださいましたが、アダムの罪によって世界は矛盾と混乱に満ちたものとなりました。しかし、神の御子が葛藤を持つ人間となり、私たちのすべての罪を負い、私たちの負い目をお赦しください」と祈ってくださいました。

私たちは、この祈りを自分の祈りとすることによって、イエスの弟子として、このままの姿で「地の塩、世の光」とされ、この世界の再創造に関わる名誉ある働きに加えていただけます。「主の祈り」こそ、この世の奇跡であり、奇跡を生み出す祈りです。

 

1。アダムの祈りと主の祈り

  主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

 

この世の幸せをくださる神様! (永遠の世界の話より目の前のことが・・)

 私の名前が大切にされますように(私は誤解され、傷ついています・・・)

 私の権威が認められますように。 (私の立場がないのです・・・)

 私の意志が行なわれますように。 (思い通りにならないことばかりだから・・・)

 私の一生涯の経済的必要が保障されますように。(一切の経済的不安から自由になれたら・・)

 私は悪くないと認められますように。彼らは仕返しされて当然ですが・・。(私は特別です・・)

 私が誘惑などを恐れず、悪魔など気にしないでいられますように。(恐れがなくなれば・・・)

 私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ですから」 (私が王なら・・・)

 

   しかし、救い主イエスの祈りはそれと正反対で、以下のように訳すことができます。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊によって導かれる必要があります。

ですから、古代教会においてはこの祈りは、信者にしか祈ることが許されていなかったと言われます。

 

(複数)におられる私たちのお父様!

 あなたのお名前が聖くされますように。 (私の心の中で、人々の間で)

 あなたのご支配が現われますように。  (私の内に、人々の間に)

 あなたのご意志が行なわれますように。 (私の心の中に、人々の間に)

 天のように地の上にも。  (上の三つすべてを修飾する)

 

パンを、私たちに必要なものを今日もください。 (一日一日の糧のため)

 赦してください!私たちの負い目を。   (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

  私たちが自分に負い目ある人を赦すように。 (人を赦すことで、神の赦しを確信できる)

 陥らせないでください!私たちを誘惑に。 (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

  救ってください!私たちを悪い者から。 (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

 

永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン (父なる神こそが真の王)

 

2。父なる神のための祈り

 人は神に向けて造られました。ですから私たちの「幸い」「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)の実践にあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

 

★「天にいます私たちの父よ。

   イエスが、ゲッセマネの園で「深く恐れもだえ」ながら「アバ。父よ」と祈られたように(マルコ14:33,36)、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の「」とされた特権を味わいつつ祈ります。

 

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭のユダヤ系フランス人哲学者は、キリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです」と言いました。彼女はギリシャ語で「主の祈り」を暗唱しながら、その類まれな美しさに胸を打たれました。

それは「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が私たちのお父様」であり、また「天(複数)におられる」と続きます。彼女は、それを祈りながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わい、「そのキリストの臨在の実感は・・・現実的で、切実で、明澄なのです」と言っています。

 

   私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この私自身が「諸々の天の支配者」であられる神の王国のご支配によって守られ、支えられていることを覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちをこの地で輝かせるように召されています。

そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸い、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾しません。神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

 

★「(あなたの)名が あがめられますように

   エデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝する代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。

ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

 

そのとき私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。この心が、主の創造のみわざをたたえるとき、真の自由が生まれます。「主の御名をあがめる」ことの意味を抽象的に考えがちかもしれませんが、ただ詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきでしょう。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思っても見なかった祝福が体験できるかもしれません。

 

「御(あなたの)(ご支配)が来ます(実現します)ように」

    神は、「見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)という世界を創造されました。ところが今、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈ります。

それには、まず私たち自身が神のご支配に服する必要があります。試練に会い、深い孤独を感じるときは、祈りの学校に置かれているのです。孤独から逃げ出す代わりに、「孤独を深める」ことが必要とも言えます。私自身、孤独を味わう中で詩篇69篇や詩篇22篇の意味が心に迫ってきました。そこにおいてイエスが私の悲しみや孤独感を軽蔑なさらないばかりか、それをはるかに深く味わってくださった方であることがわかりました。

イエスは孤独と悲しみのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれました。私たちは、自分がいかに無力であるかを痛感することによって初めて、神のご支配に身を委ねることができるようになります。そのプロセスを通して、神は欠けだらけの私たちひとりひとりを、ご自身のご支配をこの地に広げるために用いてくださいます。

 

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、

 アダムは、「土の器」(Ⅱコリント4:7)「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けました。私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出し、小さなイエスとして、この神の御旨を現せるように祈ります。

それは、神のご意志に対し、Let it be と心を開くことの幸いです。

 

 「天のように地の上にも」

これは、「御名、御国、みこころ」の三つを修飾すると考えるべきでしょう。ルカ福音書の「主の祈り」では、「みこころが行なわれますように」という祈りは省かれています。それは、「御国が来ますように」という祈りに含まれているだと思われます。

ですからこれは、「御国が、天(単数)におけるように、この地にきますように」とまとめることができましょう。黙示録では、世の完成の状態が、「新しいエルサレムが・・・神のみもとを出て、天から下って来る(21:2)と記されています。

つまり、私たちが天に上るのではなく、神の「天」のご支配がこの地に下って平和が完成するのです。それこそが、天と地がひとつになるときで、讃美歌90番の最後では、「あめ()つち()、ついには一つとならん」と歌われているとおりです。

 

3。私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

 

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

  突然、「パンをください!」という現実的な祈りが登場します。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が支配します。ですから私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と祈ります。

それは、箴言で、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(ヤハウェ)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30:8、9)と祈られているのと同じです。

 

しかも、これは、自分たちの生活を越え、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

 

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

 善悪の知識の木の実を食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・」と答え、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます

その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦されたのは、この私が「キリストの使節」とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあります。

 

なお、14,15節では、「人の罪を赦す」ことと、「天の父の赦し」を受けることがセットとされています。

多くの人はこの警告に怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように・・・」と祈りだしますが、それは自分を神とする傲慢な祈りにもなりえます。

罪を裁いたり赦したりするのは神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、それに関係なく、神はその人を赦し、また裁いたりしておられるのですから。

 

また、それ以上に、「赦させてください・・」などと祈れば祈るほど、人の罪を赦せない「自分のこと」が見え、自意識過剰に陥ります。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります

その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に、心がその方向に向かいます。人を恨んでいる人は、顔が暗くなり、喜びが消え、やることなすことがうまく行かなくなります。人を赦すのは、何よりも自分の精神の健康のために必要なことです。

 

   昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式がありますが、主は、私たちが人と関わり人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと導いてくださいました。

私たちは、赦せない人を赦したという体験の中で、14節のみことばに基づき、自分の罪が赦されていることを確信できます。

 

「私たちを試み(誘惑)会わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

   エバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、欲望に身を任せました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があります。

ただ、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。私たちの痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、多くの誘惑が取り囲みますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

 

最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と賛美します。これは、もともと原文にはなかった頌栄で、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。

主の祈りを心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神との愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられている喜びです。そのとき私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。同時に、そこには世界の完成の希望があります。

 

遠藤周作の小説「沈黙」の中で、主人公の神父ロドリゴは、「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる」と迫られます。そして彼は、「最も大きな愛の行為」として、踏絵を踏もうとします。

 

当時の教えでは、「たましいの救い」という個人的なことが課題となっています。しかし、それでは、「お前は自分の救いのために、人の死を見過ごしている」という非難から自由になることはできません。

もしそこで、キリスト者の使命が、「世界を神の愛と平和で満たすために、それを妨げるサタンの勢力と戦う」ことと定義されていたら、違っていたのかもしれません。そして、主の祈りの構成こそは、それを指しています。

最初の「天」は複数形ですが、そこには空中の権威を持つ支配者としてのサタンの領域もあります。そこで、「御名が天(単数)におけるように、地でもあがめられ、御国が、天(単数)におけるように、この地にも実現する」とは、その天と地の間のサタンの領域がなくなることに他なりません。

そして、本来の祈りの最後が「悪い者からお救いください」で終わるのは、私たちがこの地でサタンとの戦いに召され、キリストにあって勝利する必要があるからです。

主の祈りは、この不条理と争いに満ちた世界に、神の平和(シャローム)が実現するようにという、壮大な祈りです。これは神の救いみわざの完成を求める祈りです。

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2017年2月 5日 (日)

ヨシュア4-6章「新しい創造を、記念する」

                           201725

   私たちはみな、どこかで神のすばらしいみわざを体験しているからこそ、イエスにつながっているのではないでしょうか。

しかし、ときに、「あの頃は、神の臨在を身近に感じていたのに、今は、私の心は渇いたままだ・・・どうしたら、信仰の喜びを回復できるだろうか?」と悩むことがあるかもしれません。その際、その「体験の記憶」を繰り返し思い起こし、「新しい創造」として「記念」することこそ神の命令です。

聖書はそのような「記念」のための祭りを毎年、同じ日に祝うことを命じています。すべての「祭り」の目的は、一度限りの神のみわざを「記念」することにあります。信仰の喜びと幸いは、そこにあると言えましょう。

 

一方、恩知らずな生き方は、自分で不幸を招いています。亡き義父は、あの悲劇のインパール作戦からの撤退の際、ビルマの大河を前に怯えていました。その時、上官が命綱を結んで励まし、渡らせてくれました。彼はその綱を生涯保管し、「記念」とし続けました。そして満足しつつ生涯を終えました。

あなたの前にも渡れないと思えた人生の川があったかも知れません。それを忘れてはいませんか?

 

1. 主がヨルダン川を渡らせてくださった記念の「十二の石」

「契約の箱」を先頭にヨルダン川を渡った際、主が川をせき止められた様子が簡潔に描かれていました(3:15,16)。そしてその後、主(ヤハウェ)がヨシュアに、「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し・・・ヨルダン川の真ん中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り・・・宿営地にそれを据えよ」(4:23)と命じられたと記されます。

そして、彼がそのことばをそのまま民に向って繰り返す様子が描かれ(4:5、同じ言葉の繰り返しが目立ちます。彼はその目的を、「それがあなたがたの間で、しるしとなるためである」と述べ、その意味を「子どもたち」に、「これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ」(4:7)と伝えるようにと語ります。

そして、「イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり・・ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた」(4:8)と強調されます。つまり、川の水がせきとめられたという奇跡の様子以上に、それが「記念」とされることの方に強調点が置かれているのです。

しかもこれらの箇所では、主の命令、ヨシュアの取り次ぎ、民の服従という三段階において敢えて同じ表現が繰り返され、主のみことばが、正確に取り次がれ、実行されたことが強調されています。

そればかりか、9節では原文の語順では、「十二の石をヨシュアは立てた。それは、ヨルダン川の真ん中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの下にあった。それが今日までそこにある」と記され、読者が「十二の石」を見てそれを思い起すことができることが強調されています。

 

   そして1011節の原文の語順は、「箱をかつぐ祭司たちは、すべて終わるまで、ヨルダン川の真ん中に立っていた。それは主がヨシュアに命じて民に告げさせたことであり、すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡ることを終えたとき、主(ヤハウェ)の箱と祭司たちは民の前を渡ったと記されています。

不思議にもモーセの名がここに登場し、彼が神に従ったように、ヨシュアはモーセに従い、また民がヨシュアに従ったという従順の連続性が強調されています。

 

しかも、成人男性だけで60万人にも及ぶ大集団の移動はごく簡単な描写で、「主の契約の箱」が「渡ったことばかりが強調されます。いつ石が集められたかなども分かりません。中心は、主の命令が実行されたかということです。

12-14節ではヨルダン渡河後の隊列や4万人という軍勢、ヨシュアの権威が認められたことなどが記されます。そして15-18節では、主がヨシュアに「川から上がって来させよ」と言われ、彼が「川から上がって来なさい」と命じたと敢えて描かれ、「祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった」という劇的な奇跡が簡潔に記録されます。

とにかくその間、祭司たちは、今にも堰が切れそうな川の真ん中にじっと留まり続けたことが思い浮かぶように記されています。そこでは祭司たちの従順さこそが鍵でした。

 

 「十二の石」は、記念としてギルガルに据えられ、21-24節では、67節にあったのと同様にイスラエルの人々が自分の子供たちに、この石の起源を語るべきことが命じられ、イスラエルの民はその意味を思い起し続けることが命じられます。

そしてその意味が、「葦の海」が分かれてイスラエルがエジプトの追っ手から救い出されたことと「同じである」と描かれます(4:23)。それによって、「地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れる(4:24)というのです。

 

海が二つに分かれることも、ヨルダン川がせき止められることも、ただ一度限りのことでした。繰り返されるべきことは、奇跡ではなく、その記憶であり、その目的は、私たちが「主を恐れる」ということなのです。

そして、私たちも、新しいヨシュア(イエス)に従って、今の世界と「新しい天と新しい地」を隔てる川を既に渡り終え「永遠のいのち」の中に入れられたという霊的現実を覚えるべきです。

私たちにとってはイエスの十字架と復活に結びつくことがヨルダン川を渡ることに相当し、「新しい創造」の始まりでした。

 

2. 出エジプトの原点に立ち返る記念としての「割礼」と「過越の祭り」

   カナンの王たちはヨルダン川を天然の要害として頼りにしていましたが、これによって、「心がしなえ・・・もはや勇気がなくなってしまった」(5:1)と描かれます。

ヨルダン川を背にしたイスラエルに彼らが襲いかかっても不思議はないのに、敵地のただ中でイスラエルの安全が確保されたというのです。

 

その上で、主は、契約の民のしるしとしての「割礼」を命じます(5:2)。不思議なことに、過去四十年間に「荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかった」(5:5)という異常事態が続いていました。

その間、主は、「エジプトから出てきた・・戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまった(原文「完了した」)(5:6)のを待っておられたかのようです。それは、彼らがかつて、カナン人を恐れてカデシュから北上することを拒んだことへの「さばき」が成就することでした。

そして、「民のすべてが割礼を完了したとき」(5:8)、主はヨシュアに「きょう、わたしはエジプト(から出てきた民)のそしりを、あなたから取り除いた(直訳「ころがした」:「ギルガル」という地名の語源)(5:9)と言われながら、約束の地に生き始めることの祝福を告げました。彼らが割礼を「完了した」ことは、さばきが「完了した」ことを意味したかのように描かれています。

 

なお、割礼と洗礼(バプテスマ)には類似点があります。それは、「キリストにあってあなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです・・・バプテスマによってキリストとともに葬られ・・キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:11,12)とある通りです。

割礼」は契約の民とされたことのしるしでしたが、バプテスマには割礼とは比較できないほど、罪へのさばきが「完了した」というしるしが伴っています。そればかりか「バプテスマ」は、私たちが不条理に満ちた世界のただ中で、既に「新しい天と新しい地」に入れられた者としての生き方を始めたというしるしです。

バプテスマはイエスの先駆けであったヨハネに由来しますが、ヨハネが敢えてヨルダン川でバプテスマを施していたのは、このイスラエルの民のヨルダン渡河の原点に立ち返らせるためでした。

 

イスラエルの民がヨルダン川を渡ったのはエジプトを出て41年目の「第一の月の十日(4:19)でしたが、その四日後の「十四日の夕方」「エリコの草原で・・過越を行ない」ました(5:10私訳)。原文では「いけにえをささげた」ではなく「過越しを行なった」と記され、その強調点は思い起こすこと自体です。

出エジプトの際の最初の過越のいけにえの「血」は、「(ヤハウェ)がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主(ヤハウェ)その戸口を過ぎ越され、滅ぼす者が・・・家の中に入って、打つことがないようにされる(出エジ12:23)という「救い」のために用いられました。それは一度限りのことで、その後の過越しの祭りでは、血をかもいと門柱に塗るようなことはしません。中心は、羊をほふって、それを家族みんなで食べて、主の救いを思い起し、祝うということ自体の中にありました。

なお、その前に、彼らが過越の祭りを祝ったのはエジプトを出て一年後の第一の月、シナイの荒野で律法を受け、幕屋が完成された直後でした。つまり、彼らはようやく四十年前の原点に立ち返ることができたのです。

 

なお、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた(Ⅰコリント5:7)とあるように、イエスは新しい「過越の小羊」となって、私たちをサタンと罪と死の奴隷状態から解放してくださいました。私たちはそれを「聖餐式」として祝っています。

それは、「聖晩餐」とも呼ばれ、イエスが十二弟子と共に最後の晩餐を祝った原点に立ち返る「記念」です。私たちは信仰において、まさに時空を超えて、約二千年前のエルサレムで結ばれた「新しい契約」に、今ここで結びつけられるのです。

過越のいけにえ」に関しては、「無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない(出エジ12:48)と記されていましたが、それに対し、使徒パウロは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です(ガラテヤ6:15)と言いました。

私たちはキリストの十字架と復活によって、すでに「新しい者」とされています。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(新しい創造です)。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)と記されているとおりです。

 

   そして、彼らが「過越を行なった翌日、彼らはその地の産物・・を食べた・・翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナがなかった。それで彼らはその年のうちにカナンの地で収穫したものを食べた」(5:11,12)というのです。

多くの人々は、働かなくても食べられる状況に憧れるかもしれません。しかし、荒野で「天からのパン」によって養われるよりも、「乳と蜜の流れる地」(5:6)に入れられ、そこを耕し、種を蒔き、収穫することの方がはるかに豊かな生活でした。

事実、神のみわざは、ごく日常的な生活の中にこそ現されています。天からのパンは、荒野での苦しみとセットになっています。つまり、神の奇跡が必要にならない状況こそが、何よりの恵みなのです。

しかも、歴史上、二度と同じことは起きませんでした。人は、超自然的なことを体験し過ぎると、地に足をつけた歩みができなくなる傾向があるからです。仕事も、人間関係も煩わしいかもしれませんが、それがなくては退屈や孤独感に苛まれます。

 

   信仰生活の喜びは、何よりも、歴史上の神のみわざを「記念」ることから生まれます。現代の私たちが、天からのパンを思い起こすことは、神が今も生きて働いておられ、私たちに仕事や家族や友人を与え、目に見えない形で私たちの生活を支えておられることを覚えることです。

天からパンが降ってきたように、神は私たちの日々の生活を支えていてくださいます。毎日決まった時間に太陽が昇り、適度の雨が降り、適度の気温や空気が保たれていることは、この広い宇宙では驚くべき奇跡なのですから。

 

3. 主(ヤハウェ)の軍の将がもたらした勝利において私たちが記念すべきこと

   ヨシュアの前に、「ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持って・・わたしは主(ヤハウェ)の軍の将として、今、来たのだ」と言われます(5:13,14)

それは、主ご自身が戦うというしるしです。この方は、イスラエルの大将であるヨシュアに「あなたの足のはきものを脱げ」(5:15)と、しもべとして服従することを命じました。

 

  エリコは地球上で最も古い都市とも言われます。この百年余りの間に徹底的な発掘調査がなされ、それによるとここには二重の城壁があり、内側の城壁は紀元前3200年~2200年頃、外側の城壁は紀元前2000年から1550年頃に建てられ、城壁の厚さは、幅の広い所では1.5mもあったと言われます。

そして外側の城壁で囲まれた町の広さは南北300m、東西200m程度であったようです。一日に七回、町の回りをまわるのは簡単なことですが、城壁を崩すことは至難のわざであったことが想像できます。

 

   そこで、主(ヤハウェ)はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した(6:2)と、すでに勝利が確定していることを伝えます。

その上で、主は彼に、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らし・・・民は大声でときの声を上げなければならない。町の城壁が崩れ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」(6:3-5)と命じられます。

ヨシュアはそれを祭司たちと民に取り次ぎ(6:6,7)、民はその通り実行した様子が、同じことばの繰り返しで強調されます(6:8-10)。そして、「祭司たちは主(ヤハウェ)の箱をかついだ。七人の祭司たちは…進みながら角笛を吹き鳴らした・・・六日、そのようにした」と描かれます(6:12-14)

そして七日目には、主の命令によって、「同じしかたで町を七度回った・・・その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき(6:15,16)という表現と共に、ヨシュアの命令が続けて詳しく記されます。

 

ここにおいては、主のみことばによる勝利が印象付けられています。私たちは、町の周りを七日間回ったという「方法」ではなく、「主のことばに従った」という「従順の姿勢」をこそ学ぶべきです。

しかも、七日間の間、町を回るとは、過越の祭りに種を入れないパンを食べる期間と同じです。彼らは、黙々と歩きながら、出エジプトの際の神のみわざを思い起こしました。記念することこそ、新しい勝利への最も大切な備えでした。

また主の契約の箱の前を、七人の祭司たちが角笛を吹き鳴らしつつ歩むとは、エリコを包囲するのは主ご自身であるというしるしです。エリコの人々は、イスラエルの戦士が整然と、沈黙のうちに歩むのを見、角笛の音だけが聞こえたとき、ますます心がしなえ、勇気を失って行ったことでしょう。

 

  そこでヨシュアは民に向かって、「ときの声をあげなさい」と言った直後に、「この町と町の中のすべてのものを主(ヤハウェ)に聖絶しなさい。ただし、遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない」6:17と命じます。

そこでさらに「聖絶のものに手を出すな」と言いながら、それを破った時の警告も記され(6:18)、さらに「主のために聖別(6:19)すべきものが指定されます。そしてそこで初めて、「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした・・・城壁は崩れ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ攻め上って行き、その町を攻め取った(6:20)と、肝心の戦いの様子は驚くほど簡潔に描写されます。

そして、「彼らは町にあるものは、男も女も・・・すべて剣の刃で聖絶した」と私たちにとって心痛むことが記されています。ただし、22-25節では「聖絶」の悲惨な状況より、イスラエルのスパイをかくまった「遊女ラハブ」とその家族の救いに多くの記述が費やされます。それは神への従順が報われることの「記念」となっています。

神はエリコの陥落というさばきと遊女の救いをセットに覚えさせたいと願っておられます。それは、大洪水のさばきとノアの救いがセットで記されているのと同じです。

 

攻め取られた町は、占領されることなく廃墟のままに捨て置かれ、イスラエルは別の場所に新しい町を築くことが命じられました。それは、彼らが偶像礼拝の文化を受け継ぐことなく、約束の地だけを受け継ぐためでした。

私たちの目の前にも、エリコの城壁があり、この世の政治権力、豊かさ、宗教的な慣習が動かしがたいほど強固に見えることがあります。しかし、妥協してはなりません。私たちは少数であっても、この世に神の民として、主のみわざを「記念する」新しい文化を築くように召されているのです。

 

聖書にある多くの不思議な神のみわざは、繰り返されることないユニークな出来事です。一方で、それを思い起こすことは、繰り返し命じられます。

あなたにも、神のみわざに感動した体験があったことでしょうが、全く同じ出来事を期待すると、失望を味わい、神が見えなくなるでしょう。しかし、その感動をそのとき与えられたみことばとともに繰り返し「思い起こし」、今も生きて働かれる神に信頼し、主のみことばに従い、目の前に立ちはだかる城壁に向かうなら、さらに新しい神のみわざに感動できるでしょう。

 

私たちはキリストの十字架と復活によって、「新しく造られた者」とされていますが、それは現代の私たちの日常生活の中に生きて働くみことばを通して実感することができます。イスラエルの民が、3500年の歴史の中の一度限りの神のみわざを、毎年思い起こしたように、私たちも、みことばが私たちに生きて働いた記憶を、繰り返し思い起こす必要があります。

イスラエルの上に現された不思議なみわざはいつも驚くほど簡潔にしか記されていません。中心は、主のみことばが彼らを導いたという「記念」です。 

 

17世紀のフランスのブレーズ・パスカルは、数学や物理学で繰り返し名が登場する天才ですが、彼は31歳の時に決定的な回心の体験をします。それが「覚書」として終生、胴衣の裏に縫い込まれていました。

そこには、具体的な日時と共に、「」というタイトルで、そのとき味わったみことばと罪の告白、感動が記されていました。その後、彼は39歳で天に召されるまで、様々な信仰の洞察を書きつづけ、それが「パンセ」として多くの人々に励ましを与え続けています。

その最も有名なことばは、「人間は考える葦である」ですが、その核心は、人間の想像力の豊かさではなく、人は自分の弱さを知っているということにおいてすべての被造物にまさるということでした。

自分が味わったみことばの感動を記憶しているでしょうか。なぜ、そのみことばに感動したかを思い巡らしているでしょうか。毎日の記録よりも、人生に何度もない感動を繰り返し思い起こすべきでしょう。

 

 パスカル「覚え書き」

恩寵の年1654年 夜10時半頃より12時半まで

 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神(マタイ22:32)

哲学者および学者の神ではなく・・・

 確信、確信、感情、歓喜、平和(平安)

 イエス・キリストの神

わたしの神またあなたがたの神(ヨハネ20:17)

あなたの神は私の神です(ルツ1:16)

神以外の、世といっさいものの忘却

福音のうちに示された道によらなければ神は発見できない。

人のたましいの偉大さ

正しい父よ。この世はあなたを知りません。

しかし、わたしはあなたを知っています(ヨハネ17:25)

歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙

私は神から離れていました。

湧き水の泉であるわたしを捨てた(エレミヤ2:13)

わが神、わたしをお見捨てになったのですか?(マタイ27:46)

願わくば、私が永遠に神から離れることがありませんように。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、 

 あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)

   イエス・キリスト

   イエス・キリスト

私は主から離れ、主を避け、捨て、十字架にかけました。

願わくば、私が決して主を離れることがありませんように。

福音のうちに示された道によらなければ、主を保つことはできない。

完全で、心地よい自己放棄

イエス・キリストおよび私の指導者への全き服従

地の上での一日の修業のゆえに、永遠の喜びがある

私はあなたのことばを忘れません(詩篇119:16)

 

 (フランス語からの私訳)

 

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