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2017年4月23日 (日)

Ⅱコリント5:11-21 「キリストのうちにある、新しい創造」

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   教会暦では、イエスの十字架への歩みを覚える四十日間の受難節に、自分の欲望を制するための様々な節制の実践が勧められました。しかし、実は、イースターの季節も四十日間あります。「使徒の働き」では、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り…ご自分が生きていることを使徒たちに示された」(1:3)とあるからです。

受難節は、あなたの心の畑から雑草を抜き取るときです。しかしイースターの季節は、そこに新しい花を植えるときです。あなたはどんな種を蒔きますか?このバランスを忘れると、寂しくなった心にサタンの誘惑を招き入れることになりかねません。

 

イエスの十字架と復活は「新しい創造」New Creation)の始まりです。先日、ある神学校で面白い人と出会いました。刑務所でエゼキエル37章の「干からびた骨」の復活の話しを聞いて、キリストにあって新しい歩みを始めた方です。

そこでは、イスラエルの民が、「私たちの骨は日からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られる」と絶望していましたが、(ヤハウェ)は、「わたしがあなたがたの墓を開き・・・わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」と約束されました11-14節)。そして、干からびた骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、そこに神の息が入って、彼らは生き返り多くの集団自分の足で立ち上がったと描かれています(4-10)

その方は、主の霊を受けて人生をやり直し、三谷地区にこのエゼキエルのビジョンを実現したいと、慣れない勉強に励んでおられます。

 

新しい天と新しい地」の完成に向かっての「新しい創造」が既にこの世に始まっています。それはこの世界を創造主ご自身の視点から見直すことです。日々の生活の中に、新しい創造のつぼみを見ることです。

「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました・・・アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされる(Ⅰコリント15:20,22)とあるように、復活のキリストは、どんな絶望的な人をも、生き返らせることができます。それこそ「新しい創造」です。

 

1.「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」

   コリント教会は様々な教師の教えを受けて混乱していました。そして多くの人々がパウロの使徒としての権威を疑い、彼が伝えた福音から離れそうになっていました。それに対し彼は、必死に自分の使徒権を弁明します。なぜなら、パウロの教えを拒絶する者は、彼を召したキリストご自身を拒絶することにつながり、いのちを失うからです。

そのことが、「私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです(11)と言われます。その際、彼は、「うわべのことで誇る人たち(12)のことを意識しながら、「私たちのことは神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」(11)と言います。

人の行動の動機を知るのは神ご自身です。そして、キリストの福音は、何よりも「人間の最奥の聖所」とさえ呼ばれる「良心」において明らかになります。私たちは「罪の赦し」による「新しい創造」という福音を、「良心」において体験するのです。

福音の正しさは、外面的な権威付けによって納得させられるものではなく、心の奥底での「神との和解」として体験させられるものです。

 

   なお、「もし私たちが気が狂っているとしたら、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです(13)と記されているのは、コリントの人々が神秘体験や恍惚になって「異言」を語ることに憧れていたからです。そのようなものは、人に見せたり自慢したりするものではなく、隠れた所でなされる神への愛の表現なのです。

しかし、人に対しては、人の理解度に配慮しながら、分かる言葉で語るべきです。ここでパウロは、「あなたがたのため」ということばを強調しています。

 

   そこでパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(新共同訳「駆り立てている」)からです(14)と言いました。彼はここで、「キリストの愛が逃れ場のないほどに押し迫って来たので、あなたがたを愛さずにはいられない」と証したのです。

そしてその霊的な事実の根拠を、私たちはこう考え(判断してい)ます」と記しつつ、福音の本質を語ります。それは「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです(14)という説明です。ひとりのアダムによって、人が死に支配されるようになりましたが、創造主であるキリストが第二のアダムとして、すべての人の死を引き受けてくださったのです。

 

これは、パウロ自身の体験に遡ると理解しやすいと思われます。彼は自分の力でキリストを見出したのではありませんでした。それどころか彼は、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて(使徒9:1)いたほどでした。

しかし、ダマスコへの途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし・・・『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた(9:3,4)とあるような予想外の展開でキリスト者とされました。つまり、彼が救いを求めていたのではなく、キリストが彼をとらえ、主のものとしたのです。

 

そしてパウロは自分の身に起こったことを、「すべての人」に結び付けます。なぜなら、キリストは私たちすべての創造主であり、王であり、私たちと一体となるために人となってくださったからです。

すべての人間は、キリストの御手の中にあります。キリストはすべての人の代表者として、すべての人を背負って十字架にかかられました。そのとき、「すべての人が死んだ(14)ということが起こったというのです。

 

そして続けて、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(15)と記されます。

それはたとえば、「あなたの日々の生活の必要をわたしが満たしてあげるから、これからはお金を目的に働く必要はないんだよ。わたしがあなたの心の中に夢を生み出し、あなたを生かすから、世の中の評価など気にせずに、自由に大胆に、わたしを喜ばすために生きてごらん」と言われるようなものです。それが芸術活動であったなら、キリストこそがあなたのパトロンであり、その作品に評価を下してくださる方という意味です。

それは先に、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける(10)と記された通りです。キリストは私たちの創造主であり、真の雇用主であり、最終的な評価を下してくださる方であり、私たちにとってのすべてです。

 

私たちはキリストの愛が押し迫ってきた結果として、キリストのために生き始めました。あなたはそのような最初の出会いを忘れ、信仰生活を肉の力で全うしようとして疲れを覚えてしまうということがないでしょうか。

そのような誤解は初代教会の時代からありましたが、パウロはそのような人に向かって、「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか(ガラテヤ3:2,3)と熱く語り、原点に立ち返るようにと促しています。

しかし、パウロの例にも明らかなように、イエスは主です(Ⅰコリント12:3)とあなたが告白できるのは、主があなたをとらえてくださったことの結果に過ぎません。あなたは神の好意を勝ち取るために毎週礼拝に参加しているのではなく、神にとらえられ、愛されたことの現れとして礼拝に来ているのです。

確かに、この世の誘惑を退け、様々な犠牲を払わなければ礼拝に出ることもできません。しかし、そのように礼拝を守ってきた人々は、自分が「キリストの愛」に捕らえられ、押し迫られ、駆り立てられてきたという一様に告白することでしょう。

 

2.「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません(16)とは、生きる方向が異なった結果として、自分や人の見方が変わるということではないでしょうか。

人間的な標準で」とは、原文では、「肉にしたがって」と記されています。私たちが自分を中心に人を見るとき、「あの人と親しくすると良いことがありそう・・・」とか、「あの人は私を必要としてくれる」などと、自分の価値を上げてくれる人か、反対に下げる人かというような基準で見ていないでしょうか。

しかし、この世界を、キリストを中心に見て行くときに、人間の能力や成功や失敗の尺度は根本から変わります。キリストはすべての人のために死んでくださったのであり、キリストはすべての人を神の栄光のために用いることがおできになるからです。

 

パウロは続けて、「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(16)と記します。当時の人々にとって、「十字架に架けられた者」とは、「神からのろわれた者」であり(ガラテヤ3:13)、イエスは神の国の実現に失敗した人でした。

かつてはパウロもそのように見てクリスチャンを迫害しました。しかし、イエスはご自身の十字架の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して」くださったのです(ヘブル2:14,15)

それによって、ローマ帝国は、剣の脅しで神の民を支配することができなくなりました。イエスが「死の力」を滅ぼしたので、神の国はイエスによって生かされた人々によって世界に広がり始めたのです。

しかも、最初の使徒たちは、パウロのような博学な貴族からしたら、無学で無能な人々と見えたことでしょう。しかし、パウロは彼らの中に、キリストが生きて働いているのを見ることができました。

それは、彼らが「この世の取るに足りない者(Ⅰコリント1:28)であるからこそ、そこに「干からびた骨」を「生き返らせる」神の霊の圧倒的な働きを見ることができたのです。パウロは、主の「新しい創造」に圧倒されたのです。

 

そして、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(17)という感動に満ちた宣言がなされます。「新しく造られた者です」と訳されたギリシャ語は、ガラテヤ615節では、「新しい創造です」と訳されています。

この世界の始まりは、「初めに、神が天と地を創造された」と描かれていますが、この世界のゴールについて、神は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する(イザヤ65:17)と約束しておられます。つまり、新しい天と新しい地に生きる「いのち」が、すでにこのときから始まっているというのが、ここでの「新しい創造」です

イエスを主と告白するすべての人のうちには、すでに創造主である聖霊が宿っており、あなたは既に「キリストのいのち」をここで生き始めているのです。

 

これを、「クリスチャンになったら、嫌な自分の性格や気質が変わるはず・・・」というような意味に誤解してはなりません。最初に述べた方も、「俺は頭が悪いから、レポートに苦労する」と言っておられました。でも、同時に、「俺だからこそ、分かり合える人がいるんだ」と、自分の使命に誇りを持っておられます。

私も昔は、「自分の中にある孤独感や不安感が信仰によって克服される・・・」というように願っていましたが、その期待は見事に裏切られました。それどころか、ますます感情が揺れやすく、涙もろく、傷つきやすくなってきている面もあります。

しかし、私はキリストとの交わりを深めることで、自分の気質を喜ぶことができるようになりました。そして、自分の傷つきやすさは、人の痛みに共感する窓になってきているように感じます。自分の感性を、神からの賜物と受け止めるように変えられてきました。

私たちの基本的な気質は、生まれながら決まっている面があります。そして、主は敢えて、異なったタイプの人々を使徒として選ばれました。「新しく造られた者」は、自分のいのちを神の視点から新しく見直すことができるのです。

 

3.「私たちはキリストの使節(大使Ambassadors)なのです

私たちは「キリストのうちにある」ことによって、この世の基準に別れを告げます。そのことが、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されます。

「新しい天と新しい地」とは、この世界が神にある平和と平安、愛と喜びという祝福で満たされるときを指します。これはヘブル語で「シャローム」と表現されます。

世界はシャロームの完成に向かっていますが、私たちはその基準から、自分や人を見るようになるとき、それぞれの人をまったく異なった尺度で見ることができるのではないでしょうか。

 

たとえば、企業では、一人ひとりの生産性の違いによって給与に差がつけられるとき、その企業は公平な人事を行っていると言われます。しかし、キリストにある共同体にその基準を持ち込んではなりません。存在の意味が違うからです。

教会の目標は、シャロームの完成です。そこにはあらゆる民族が平和のうちに集められています。教会は、この地での「新しいエルサレム」を指し示す「つぼみ」です。ですから、逆説的に言うなら、「話の通じない」と思える人同士が集まっているところに存在意義があるのかもしれません。

多様性を大切にすると言われても、「もっと気持ちが通い合う者どうしが集まっているほうが、気が休まる・・」と思うこともあるかも知れません。しかし、それでは仲良しサークルと同じです。

教会に一時的な争いが起こることを悲観的に見すぎてはなりません。「言葉も気持ちも通わない・・」と感じあうような人同士が、それでもともに集まり、同じ主を礼拝していること自体が、この世の奇跡なのですから。

 

パウロは続けて、「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました(18)と記します。

これによると、和解の務め」を与えられている者どうしが和解できていないことは自己矛盾です。私たちは互いに話が通じない状態のままに留まってはなりません。

ただし、その際、順番が何よりも大切です。あなた自身が、キリストによって、神との和解を、心の底から味わうということこそが、話の通じない人に向き合う前に何よりも必要です。私たちが人を赦すことができないのは、神の赦しを自分の中で十分に体験していないことの現れだからです。それこそイエスが弟子たちに教えた主の祈り、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します」という祈りの核心です(マタイ6:12私訳)

しかも、その際、人を赦すことができない自分の不信仰を責めることも自己矛盾になりえます。それは、まず最初に、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と記されている通りです。先に述べたように、自分の信仰が神からの最高の賜物であることを振り返り、感謝し、味わうことこそがすべてに先立つべきです。

 

その上でパウロは、「私たちはキリストの使節なのです」と自分の使命に言及します。「使節」ということばをほとんどの英語訳ではAmbassador(大使)と訳しますが、この方が誇りを感じられます。

そしてその意味が、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(20)と驚くべき表現で描かれます。

神は、あなたの反省の程度によって赦してくださるというのではなく、神の側から、「わたしはおまえを赦したい。わたしの赦しを受け入れてくれ」と懇願しておられるというのです。その神の「懇願」を私たちは取り次ぐのです。

 

そして、最後に、「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです(21)という「新しい創造」のことに再び目が向けられます。

キリストの十字架は、個人的なたましいの救い以前に、「新しい出エジプト」をもたらす「神の小羊」の犠牲と見るべきです。かつてイスラエルがエジプトでの奴隷状態から解放されたように、私たちがこの世のサタンの支配から解放されることです。

サタンの中心的な意味は「告発者(ゼカリヤ3:1)、「なじる者」とも訳されます(詩篇109:6,20)。それに対し、私たちが受けるべき罪の告発をイエスご自身が引き受け、主が私たちに「白い衣」を着せてくださいました(黙示3:4,5)。私たちはキリストともに死に、ともによみがえった者として、「神の義(真実)」を体現する、キリストの「大使とされているのです。

サタンはそれに対し、「おまえのような前科者が・・・」とか「おまえのような心の闇を抱えている者が・・・」と、私たちが「大使」として失格者であることを「告発」し続けます。

それに惑わされて、「私などは何の役にも立てない」と思う者こそが、エジプトの奴隷状態に留まっている人です。しかし、神はキリストにあってあなたをその奴隷状態から解放してくださいました。イエスが十字架で死んだとき、あなたを無力化する「人間的な基準」も死んだのです。

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」というみことばは、「心機一転、嫌なこと、すべてを忘れて、一からやり直そう!」というような意味ではありません。

「平安の祈り」にあるように、「神様。私にお与えください。変えられないことを受け入れる平静な心(Serenity)を。変えられることを変えて行く勇気を。そしてふたつのものを見分ける賢さを・・」と祈ることが大切ではないでしょうか。

私たちには、「過去と他人は変えられない」ばかりか、自分の基本的な体型も、基本的な気質も変えられません。あなたには変えられない弱さがあり、能力の欠けがあります。しかし、それはあなたに他の人の助けが必要であること、また他の人の様々な能力の大切さを教えるために与えられた「賜物としての弱さ」ではないでしょうか。

一方、あなたは神と人とに対する行動を「変えて行く」ことができます。それには「勇気」が必要ですが、臆病なために自分のことばかりを最優先するあなたを、「キリストの愛が取り囲んでいる」のです。それこそ私たちの信仰の出発点です。

そして、「神の和解を受け入れなさい」という勧めは、求道者や未信者ばかりに向けたことばではありません。これは私たちが自分の「良心の呵責」を感じるたびに、立ち返るべき神の招きなのです。

そこで告発者であるサタンの声ではなく、「新しい創造」の創始者であるイエスの御声を聞きましょう。

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2017年4月16日 (日)

ヨハネ18:28-40 「私たちの不真実を変えるイエスの真実」

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   「イエスはどうして、十字架に架けられたのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。ある人は、歴史的な観点から、「イエスの人気があまりにも高くなって、当時のイスラエルに混乱を起こすと見られたから」と答えます。またある人は、「神はイエスを、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた」と神学的な視点から答えます。

一見、まったく別のことを言っているようでありながら、ヨハネはそれを、「ひとりの人が民に代わって死ぬ(18:14)ということばでまとめます。イエスは独立戦争を引き起こす「ユダヤ人の王」として死刑判決を受けました。それは極めて不当でしたが、彼がユダヤ人の使命を成就する「」であられたことも事実です。その背後には、私たちを「罪の支配」から解放しようという「神の真実」がありました。

 

私たちは物理学の真理を知ったところで、生き方が変わるわけではありません。しかし、真実な人の真実な愛を体験したら変わるのではないでしょうか。ギリシャ語の「真理」は、「まこと」とか「真実」とも訳され、ヘブル語のエメット(アーメンと同根)「真実」「信仰」の翻訳として用いられます。

事実、米国留学中に物理学で博士号を取られた方が、その学びの途上で人生の方向に深く葛藤しているときに、クリスチャンの利害関係を越えた真実の愛に感動し、またそこに真実な交わりがあるのを見て信仰に導かれました。

 

1.「ひとりの人が民の代わりに死ぬことが得策である」

  「アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った」(24)とありますが、カヤパは最高議会を召集してイエスの裁判を行ないました。その様子は他の福音書に記されていますが、不思議にもヨハネはこれらの部分を全部省いて、ペテロの二、三回目の否認だけを記録し、「彼らはイエスをカヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった(28)という場面に移ります。

これによってユダヤ人の最高指導者アンナスと、十二弟子のリーダーのペテロというふたりの対極にいる人物に焦点が合わされ、彼らの不真実が前面に出ます。彼らは自分たちの身を守るために不正と嘘に身を任せていました。

 

なおヨハネは、それ以前の最高議会での大祭司カヤパの発言を記しています。それは11章に記されたラザロの復活の直後、数か月前のことでした。カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」と言って、裁判の前に、既に議会を説得し結論を出していました(11:49,5018:14)

当時のユダヤ人たちはローマ帝国の重税に苦しみ、自分たちの国を独立に導く指導者を求めていました。それこそが当時の人々が期待した「ユダヤ人の王」、またはメシア(救い主)のイメージでした。しかし、ローマ帝国はそのような動きが見えると、すぐに軍隊を送って鎮圧しようとします。そしてその運動が大きくなれば、結果的に、ユダヤ人の信仰の自由さえ奪われることになりかねません。それは何よりも当時の宗教指導者が避けたいことでした。

彼らにとっては、イエスが多くのユダヤ人たちから信頼を集めているということ自体が何よりの脅威でした。それで彼らはイエスの話しを聞こうともせずに、独立運動の指導者として処刑することによって、民の独立運動の芽を事前に摘み取ろうとしたのです。

彼らは、ラザロの復活によってイエスの人気が絶頂に達した時点で、イエスを死刑にすることを既に決めていました。その意味でヨハネは、ユダヤ人による裁判の様子を報告する必要を感じなかったのかと思われます。

 

福音記者ヨハネは、一人のサマリヤの女、38年間ベテスダの池に伏せっていた人、姦淫の現場で捕らえられた女、生まれつきの盲人など一人一人にイエスがどのように向き合われたかに焦点を合わせ、イエスがキリストであることを明らかにします。

一方、私たちの罪は、家族や友人という近しい個人との関係において顕にされます。神は、あなたが一人の人にどのように向き合っているかに関心を持っておられます。

 

2.「イエスのことばが成就するため」

イエスが総督官邸に連行されたのは、死刑執行の権威をローマ総督が握っていたからです。興味深いのは、「彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった(28)ことです。

愚かにもユダヤ人指導者たちは、イエスの言動について審査するという手続きに関して罪を犯すことに無頓着な一方で、食事律法を守ることには極めて注意深という本末転倒に陥っていました。

彼らは、死刑執行が過越の祭り前に行なわれるようにと急いでいましたが、官邸の前で立っているしかありませんでした。するとピラトは、混乱を何よりも恐れているので、自分から出て来て、「何を告発するのですか(29)と尋ねます。

彼らは、「もしこの人が悪いことをしていなかったら・・・引き渡しはしなかった」と不思議な答えをします。ユダヤ人はイエスを「神への冒涜罪」で死刑に定めましたが、それはローマ法では通用しない論理でした。それで彼らは告発理由を明確にできないまま、「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません(31)と言って、死刑判決を要求しました。

十字架刑は「神にのろわれた者」であることの象徴でしたから、それによって彼らはイエスの教えを絶滅できると考えたのです。

 

ところが、これらすべては、「ご自分がどのような死に方をされるかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった」(32)と記されます。その「ことば」とは何を指すのでしょう。1233節には「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して」と同じ表現がありました。

その内容は、その直前でイエスがご自身の十字架について、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます(12:31,32)と言われたことを指します。それは主の十字架が、ユダヤ人をローマ帝国の奴隷状態から解放するためばかりではなく、すべての人を死の脅しから解放するためという意味でした。

主はユダヤ人宗教指導者の謀略、その不信実によって殺されようとしています。しかし主はその時、人々の背後にいるサタンの勢力、「この世を支配する者を追い出すことで、「すべての人を自分のところに引き寄せ」、救おうとしておられたのです。

 

実は、イエスはご自身の肉体を「過越のいけにえ」とされたのです。そのことは136節で、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちにイエスを指して、「見よ。神の小羊」と言ったことに現されています。イスラエルの民はかつてエジプトの奴隷状態でしたが、神がエジプトのすべての長男を殺した時、「小羊の血」が鴨居と門柱に塗られた家を神の怒りが「過ぎ越し」ました。

イエスの時代のユダヤ人たちも自業自得の罪で外国の支配下に苦しんでいました。それはバビロン捕囚が続いていたことを意味します。その外国の異教徒の支配から救い出されるために、イエスは新しい「過越のいけにえ」になろうとしておられるのです。

 

イエスはユダヤ人をローマ帝国の支配から救い出すために戦っておられました。しかし、それは人々が期待するような独立運動ではありませんでした。剣の脅しによる暴力支配の背後にはサタンがいます。イエスはご自分がサタンの手にかかって死ぬことで、「死の力」による支配権の正当性を奪いました。

サタンは、罪人を告発し、殺すという権利を委ねられていましたが、罪のない者を殺した時、立場を失いました。そのことがヘブル人への手紙21415節で、「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と記されています。

これは理解が難しい理屈ですが、C.S.ルイスの童話(ナルニア国物語)第一巻「ライオンと魔女」に分かり易く描かれています。これは大人の方々にもぜひお読みいただきたい信仰書と言えましょう。とにかく、神の救いは、「死の力」を無力化し、私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放することだというのです。

 

この福音書で最初に十字架のことが示唆されるのは、最も有名な316節、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」の直前です。そこで、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです(3:14,15)と記されています。

荒野の蛇のことは民数記214-9節に記されています。イスラエルの不従順に対するさばきとして神は、「燃える蛇」を送られ、蛇が民にかみつき、多くの人々が死にました。民が悔い改めると、神は毒蛇を取り去る代わりに、モーセに「青銅の蛇」を作らせ、「旗ざおの上につけ」させました。

そこで実現された救いは、「蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」というものでした。神の救いは、毒蛇を無くすことではなく、毒蛇にかまれても、死ななくなることでした。それは、イスラエルの民が、神の恵みとあわれみを忘れる天才であり、苦しみや痛みを通してしか、真剣に神を求めるということがなかったからです。

私たちも人生が順調な時は、自分の知恵や力を誇って神を忘れがちかもしれません。神のみわざとは、この世で様々な苦しみに会いながらも、イエスの十字架を仰ぎ見て、救われることに現されます。

蛇にかまれることも、ローマ軍に殺されることも、とても辛いことで、それを避けたいのが人情です。しかし、それが神の救いの偉大さを現わす舞台とされ、ローマ軍の脅しが効力を失い、「永遠のいのち」を生き始めているクリスチャンの愛の真実が人々を次々と回心させて行きました。

 

3. 「あなたは、自分でそのことを言っているのですか」

   ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで尋問します。その最初の問いは、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」(33)というものでした。

それに対しイエスはすぐに答える代わりに、「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか(34)と反対に質問を投げかけます。なぜなら、これがローマ人ピラト自身から出た尋問であれば、帝国の支配を否定する革命主義者として死刑の対象になりますが、これがユダヤ人から出た概念であればさばきの対象とはなり得ないからです。

それで、ピラトは、「私はユダヤ人ではないでしょう」と答えることで、それがユダヤ人の問題であることを認め、自分がユダヤ人の問題に関わりたくないという本音を述べます。そして、「あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡した(35)と答えて、自分の受身的な立場を認めます。

不思議にも、イエスは尋問に答えながら、ピラトの微妙な不安定な立場を反対に明らかにしたのです。

 

そして、ピラトは改めて、「あなたは何をしたのですか」と尋ねます。それに対し、イエスは、「わたしの国は、この世から出たものではありません(36節私訳)と答えます。これはイエスの支配がこの地に及ばないということではなく、この世の国の上にあるという意味です。

イエスの王権は軍隊で守られ税金で支えられるようなものではありません。その上で、「もしこの世からのものであったとしたなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国は、そのようなものではありません(36節私訳)と付け加えます。

イエスはご自分の王国がこの世的な種類のものではないことを強調しながら、同時に、たといこの世から生まれたものであったとしても、それはローマ人に対してではなく、ユダヤ人に対する戦いになるはずのものだと、ローマは敵ではないことを明確にします。

つまり、主は、「これはあなたがさばく性質の問題ではない」と示して、ピラトをこの問題から解放しようとされたのです。

 

   ところがピラトは、イエスが「わたしの国は・・」と言われたことば尻を捉えて、「それでは、あなたは王なのですか(37)と尋ねます。しかし、イエスは、「わたしは王です」と答える代わりに、「あなたが、わたしのことを王である、と言っている(37節私訳)と、ピラトになお考えさせようとしています。

そして、「わたしは、このために生まれ、このことのために世に来たのです。それは、真理を証しするためです」と、ご自身が天の父から遣わされた目的に話を展開します。

それはこの書の初めで、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた・・・この方は恵みとまこと(真理)に満ちておられた(1:14)と記されていた通りです。イエスは、目に見えない神の「まこと(真理)」を目に見えるようにするために、人となられたのです。

 

その上でイエスは、「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います(37)と決定的なことを言われます。これは、ピラトを真の問題に直面させ、ご自身のもとへの招くことばです。彼は今ユダヤ人に気を使い不真実なさばきをくだそうとしているからです。

後にパウロはテモテに向かって、「ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しされたキリスト・イエス(Ⅰテモテ6:13)の模範に習うように命じています。イエスは、裁判を受けている立場でありながら、真実な牧者としてピラトに向かっておらます。

私たちは、自分が人から責められていると感じたとき、自分を弁護することに夢中になってはいないでしょうか?

 

4.「真理とは何ですか?」

  ピラトは、「真理とは何ですか」と尋ねながら、その答えを待たずにユダヤ人のところに行きます。彼は、悪い官僚の見本で、波風をたてずにユダヤを治めることにしか関心がありません。彼は、世界で最も愚かで絶望的なことばを発しました。イエスこそ「真理」であられるのに、その方との対話を自分から切ったのです。

ただ彼には明確になったことがあります。それはイエスをローマ法の基準で死刑にすることはできないということでした。それで、彼は「私は、あの人には罪を認めません(38)と語ります。

ただそこで終わればよかったのですが、彼は、「過越の祭りに、私はあなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、・・・ユダヤ人の王を釈放しましょうか」と言いながら、イエスを恩赦にするという妥協案を提示します。イエスを無罪とすることも、不当な裁判で死刑にすることも回避できるからです。

 

しかし、ユダヤ人たちは納得せず、「この人ではない。バラバだ」と言って、ローマ法から見て死刑がふさわしい強盗バラバを釈放するように叫びました。彼は「真理(真実)」に背を向けて安易な妥協を模索し、墓穴を掘ってしまいました。

ピラトは「真理とは何か」と尋ねながら、真理に真っ向からそむく判決を下さざるを得なくなります。イエスはかつてご自分を信じたユダヤ人に向かって、「もしあなたがたがわたしのことばに留まるなら・・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われました(8:31,32)

しかし、ピラトは自分がローマの自由を体現しているつもりでありながら、実は、ユダヤ人に操られる存在に成り下がっています。もし、彼が真にイエスに聞こうとしていたら、彼は自由になり得たはずです。真理とは、人に真の自由を与える神のご支配の真実です。真理とはイエスであり、イエスはあなたを自由にできます。

 

それにしても、ピラトは無自覚にも「過越の祭り」ということばを使うことによって、イエスが「過越のいけにえ」になることを印象付けています。しかも、ピラトの思惑に反して、本来死刑にふさわしいバラバを釈放することになってしまいました。イエスはバラバの身代わりに死刑になったとも言えます。

しかし、そこに神のみこころが現されました。イエスは、ローマ法から言えば、バラバがつくべき十字架にかかります。しかし、それは同時に、それはユダヤ人すべてが受けるべき苦しみ、彼らが飲むべき「神の憤りの杯」でした。

 

イエスは、私たちを剣の支配から、この世の力の支配から、またその背後にあるサタンの支配から解放する「過越のいけにえ」となるために十字架にかかろうとしておられます。そして、私たちはイエスを主と告白することによって真理に属する者とされ、あらゆる力の脅し、お金の支配などから自由になることができます。

私たちも自分の身を守ろうとして真理に反する行動を取ることがあります。イエスは人々の不信実によって、無実の罪で十字架にかけられました。しかし、それはユダヤ人にとってのスケープゴート、身代わりのいけにえでもありました。

私たちは真のいのちのみなもとであるイエスに属することによって、死の脅しから解放されました。私たちは、死の脅しに屈することなく真理に従う自由を与えられたのです。

 

当時のユダヤの権力者たちは、エルサレム神殿を中心とした既得権益と自治権を守るために、その基盤を揺るがす運動を起こしそうなイエスを、抹殺しようとしました。ピラトはただただ、自分の任期中にユダヤ人の暴動が起きないことだけを願っていました。その両者の利害が、イエスを殺すことにおいて一致しました。

彼らにとっての真理とは、誠実な生き方ではなく、権力を守ることであり、真理とは力でした。しかし、「永遠のいのち」ご自身であるイエスは、すでに「死の力」に打ち勝っていることを、彼らの手に架けられて死ぬことによって明らかにされました

そしてイエスに従う者も、様々な苦難を通して、イエスにあるいのちを証しすることができます。「真理」とは何よりも、私たちに対する「神の真実」を意味します。どれほどの知識を持ち、学問に通じていたとしても、これを知らない者の人生は、サタンの不真実に負けてしまいます。

 

私たちに何よりも求められているのは、イエスの真実に素直に応答することです。私たちの信仰(真実)とは、イエスの真実への応答なのです。真理であるイエスご自身が、あなたに真の自由を与えてくださいました。なぜなら、あなたのうちには既に、創造主である「自由の御霊」が住んでおられるからです。

私たちはもう自分で自分を守ろうと頑張る必要はありません。すでに復活のいのちに生かされているからです。

人はときに、保身のために嘘をつくことがありますが、イエスは私たちの心の奥底にある不安に寄り添って、損得勘定を越えた真実な生き方ができるように力を与えてくださいます。イエスの「真実」こそ力の源です。

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2017年4月14日 (金)

「新しい創造」の始まりとしての十字架

イエスの十字架に向かう歩みは、悲劇としては描かれていません。主はご自分の弟子たちのことを気遣いながら、雄々しく十字架に向かって行かれました。

しかも、イエスが十字架で息が絶えたとき、荘厳なエルサレム神殿の至聖所を仕切る「幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。そして、大きな地震が起き、岩が裂けました。そればかりか、「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った」というのです。そして、ローマの百人隊長が、十字架で死んだ犯罪人を見て、「この方はまことに神の子であった」と言います。ローマ軍の兵士にとって「神の子」とは、ローマ皇帝に他ならないのに、十字架で死んだイエスを、「神の子」と呼ぶというのは何とも不思議です。まさに、最初の聖金曜日は、「世界の革命が始まった日」と呼ぶことができます。

昨年、わざわざ英国まで行って、世界的に尊敬されている神学者N.T.ライト教授にお会いしてきました。先生は、英国国教会の代表の上院議員として、2003年から七年間、国政に関わったこともある方で、それに先立つ紀元二千年には、ヨベルの年運動として、開発途上国の債務免除のための先進国の協調への動きのためにも陰ながら力を発揮しました。そこで、先生の新刊「The Day the Revolution Began-(革命が始まった日―イエスの十字架の意味の再考)という本を個人的にいただいてきました。

 

  ライト氏はその本で、「十字架において、イエスはまさに、人々を隷属させている力を滅ぼされた。初代のクリスチャンにとって、革命は最初の聖金曜日に起こったのだ。支配者や権力者たちは確かに死の一撃を受けた。それは、『それで私たちはこの世から逃げて天国に行ける』という意味ではなく、『今やイエスはこの世界の王であられる。それで私たちは主のご支配のもとで生き、主の王国を宣言しなければならない』という意味である。革命は始まった。それは続かなければならない。イエスに従う者は単にその恩恵を受けられるというばかりでなく、王国の代理人(agents)とされたのだ」と記しておられます(pp391,392)

 

イエスの十字架は、世界を変える革命であったというのです。たとえば、近代国家では、その人の出生や能力に関わらず、すべての人の基本的人権が認められており、それは犯罪者にまでも及んでいます。それは、イエスが罪人の救いのためにご自身の身を犠牲とされたことを原点としています。

また、当時のローマ帝国では皇帝を「神の子」として崇めない者は、死刑にされることがありましたが、クリスチャンは新しい王国の代理人(agents)として、その死の脅しに屈することなく、社会的弱者を受け入れる愛の交わりを築き広げました。そして、ついにはローマ皇帝さえもイエスを「神の子」として礼拝するようになりました。

旧約聖書に描かれていた「救い」とは、イスラエルの民を、エジプトの奴隷状態から解放することであり、また、バビロン帝国の捕囚状態、また外国の異教徒の圧政状態から解放することでした。

同じように、イエスがもたらした「救い」は、私たちをお金や権力の奴隷とするサタンの力からの解放として描くことができます。「救い」は、何よりもお金の使い方や権力との関わり方に現されるのです。

なおライト氏は個人的な会話の最後に、福音宣教で何よりも「New Creation(新しい創造)」を強調することを勧めてくださいました。それに対し、それは私たちの教会のヴィジョンとして、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」として言語化されていると申し上げると、心から喜んでくださいました。

 

現代の多くの信仰者にとって、何よりも大切なのは、自分の日々の生活を「新しい創造」の観点から見られるようになることではないでしょうか。それはコリント第二の手紙51617節で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません・・・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されているとおりです。「新しく作られた者」ということばは厳密には、「New Creation(新しい創造)」と記されています。

つまり、イエスを自分の人生の主と告白して、「キリストのうちにある」者は、すでに創造主なる御霊を受けており、それによって、神の国の代理人(agents)になっています。この「agent」ということばを聞くと、 “Mission Impossible” を思い起します。そこでは銃や格闘能力で敵を圧倒して行きますが、キリストのAgentは、「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」という無抵抗の勇気で人々の心を変えて行きます。

実際、マルティン・ルーサー・キング牧師は無抵抗のデモ行進によって黒人の人権を回復する運動を広げました。彼の影響力が強くなった結果、メンフィスで暗殺されますが、それからたった四十年後にアメリカで黒人の大統領が誕生するまでになりました。またネルソン・マンデラも南アフリカの人種差別に無抵抗の運動で戦い、南アフリカに黒人と白人から構成される画期的な和解の政権を生み出しました。

実は、二千年来、イエスはいろんな形で世界の価値観を変えています。たとえば一人の男性と一人の女性が決して浮気をしないと約束し合って家庭を築くというのも驚きです。僭越ながら、日本の天皇家は血筋が何よりも大切なはずですが、キリスト教文化が流入して以来、天皇ですら複数の妻を持つことができなくなりました。それは歴史的には、首をかしげたくなるほどの大変化です。実際、それがどれほど大きなことかは、イスラム教の国を見たら納得できます。とにかく、イエスは新しい神の国の価値観を創造し、それが世界の常識を、時間をかけて変え続けています。「新しい創造」は、既に始まっているのです。

 

まもなく、お金に関しての二冊目の拙著が出版される予定で、作業が進んでいます。そこに書いたことですが、たとえば、会社はお金で計られる利潤を求めて動きます。しかし、それはお金に動かされているというわけではありません。適正な利潤が確保されるのは、何よりも、その会社の製品やサービスが、多くの消費者から必要とされていることの証しとも言えます。

そして、市場経済は、消費者の必要と生産者の働きを結びつける精巧なシステムです。しかも、それは、今から三千年以上も前の貨幣(お金)の発明から始まっています。市場経済もお金も、システムや道具に過ぎません。問われているのはそれを扱う人間の責任です。そして市場は何よりも人々が何を望んでいるかをストレートに反映し、お金はその望みをかなえてくれる人のもとに流れて行きます。

確かに、かつては英国のような国でさえ、麻薬や奴隷売買を堂々と行い、アヘン戦争では軍事力さえ用いたことがあります。

しかし、キリストの福音が時間をかけて人々の意識を変えて行きました。ごく普通の人々が聖書を自分への神からのメッセージとして読むようになったのは、ごく最近のことです。それとともに人々の価値観が変わってきています。ごく普通の若者が、「イエス様だったら、これをどう見るだろう」と問いかけるようになりました。今や、普通の人が、麻薬や人身売買に自分のお金が使われてはならないと主張します。

 

創造主を求めない人々の間でさえ、理念やヴィジョンが人々の心を動かし、お金の流れが変えられます。そして、すべて人の存在価値を無条件に認めるという価値観や、軍事力や権力によって自分の願いを実現しようとしてはいけないという価値観など、現代の社会の良心として認められている様々な価値観は、すべてイエスご自身から始まっているとさえ言っても良いでしょう。

多くの信仰者は、「神の国」がこの地に広げられることを願っています。まず、そのために私たちの福音理解が、矛盾に満ちた社会からの逃避を目標とするような天国志向から、この世界が神の平和(シャローム)に満たされる「新しい天と新しい地」を待ち望むという、実生活に生かされるものへと変えられる必要があります。そして、ヴィジョンを実現するために、「お金」は大切な道具です。

 

ところで、この世界の変革を願う際に、注意すべきことがあります。この世界は、人類の父祖アダムが自分を神のようにした結果、「のろい」のもとにあるということです。そこでは常に、神々となった人と人との利害の対立があり、理想と理想がぶつかる戦いが、国家間の戦争から家庭にまで及んでいます。

サタンは、その背後で、「お金と権力」こそが、問題解決の鍵だとささやき、人を「お金と権力の礼拝者」へと変えようと画策し続けています。そして、そこには、社会の動きに従わない人を社会から排除しようとする「死の脅し」が伴って来ます。それに対し、神の御子は、ご自身の力を捨て、私たちと同じひ弱な人間になることによってサタンの力を砕かれました。

それは、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖の奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした(ヘブル2・14,15)と記されている通りです。

 

ただ、サタンはイエスの十字架と復活以来、自分の敗北を悟り、必死に断末魔の抵抗を続けています。ですから、この社会では、福音によって世の人々の価値観がきよめられて行くという進歩と共に、黙示録に記されているような終わりの時代の苦難、背教が激しくなって行きます。

たとえば17章では、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン(5)という政治権力と結託した富の支配の横暴が記されています。それは当時のローマ帝国の広大な単一通貨の経済圏を背景として既にあったものですが、現在のグーロバル市場経済にも重ねてその問題を見ることができます。

そして、その中で中間層が没落するという形で、社会の矛盾が現れると、それが民族主義の台頭、強権的な問題解決へと向かったりします。サタンはその背後で、神々となった人と人との対立をあおり、神のご支配を見えなくさせて行きます。

そのような、権力による問題解決の動きに対して、イエスは、隣人との愛の交わりを広げるという地道な「神の国」の拡大を求め続けておられます。

 

私たちはキリストに結びつくことによって、力による問題解決ではなく、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・実に十字架の死にまで従われた(ピリピ2・7,8)というキリストの姿に倣う道に、人生の美しさを見出すことができるようになりました。それはこの社会におけるすべての仕事や市場経済下の働きの中に現すことができます。ある特定の仕事を聖なるものと見たり、またある働きを過度に汚れたものと見ることは、今ここに生きて働いておられる神のご支配を軽視することに他なりません。かつては私自身も、証券業務を過度に悪く見過ぎていたと反省していますが・・・・。

キリストの再臨が実現するまで、サタンの働きは止むことが無く、この世の矛盾は続きます。ですから、どんな仕事の中にもサタンの支配の現実が現されています。しかし、そのような絶対的な聖さの視点からばかり自分の仕事を見ると、社会の中に生きることすらできなくなります。

この世から、「お金」がもたらす矛盾が消えることはありません。しかし、私たちはそこで、お金や権力の奴隷になることなく、キリストに倣った「新しい創造」の中にある者としてのユニークな生き方を探り求めて行く必要があります。それはそれぞれの分野でまったく違った形で現されることでしょう。

そして、「新しい創造」の中に生きる者にとって、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている(Ⅰコリント1558)という告白こそ、揺るがない確信です。それはイエスが、死者の中からの「初穂」としてよみがえってくださったからです。

市場経済やお金の暴走を批判することは誰にでもできます。聖書はそれ自体を罪悪視し、それから離れることを勧める代わりに、富と権力の奴隷にならずに、死に至るまでキリストに忠実に従うことだけを命じます。しかも、その際、天地万物の創造主ご自身である聖霊が、私たちのうちに生き、私たちをこの世の矛盾の中に遣わし、神のかたち、小さなキリストとして用いてくださいます。

その際、新約聖書のタラントやミナのたとえにあるように、神は私たちに与えられた賜物やお金を、「神の国」のヴィジョンのために豊かに用いることを期待しておられます。それは音楽家、芸術家が、「神の国」の美しさをシンフォニーや芸術作品を通して現わすために日々、訓練を積むことに似ています。お金に使われずに、お金を賢く使うことができるための訓練も、現実の教会には求められています。そして、創造主なる聖霊が、あなたに創造的なお金の管理の仕方、創造的な働き方を導いてくださいます。

 

宗教改革者マルティン・ルターはキリストの十字架の意味を、死の力を持つサタンとの戦いとして描き、それをChrist lag in Todesbanden(キリストは死につながれたり)という讃美歌にしました。古いメロディーで歌いにくい面がありますが、これをもとに数えきれないほどのオルガン曲が作られています。私たちは十字架と復活を区別して理解しようとしますが、聖書ではそれは一体のこととして描かれています。

中世カトリック以来の神学では、キリストの十字架は、神が全人類の罪を激しく憎んだため、すべての罪をイエスに負わせ、厳しい刑罰をイエスに科することでご自身の怒りを鎮められ、人はイエスに結びつくことで、罪人であるにも関わらず地獄に落ちずに、天国に行けるようになったと説明されてきました。それに対しルターはここでキリストの十字架を何よりも「新しい過越のいけにえ」、「まことの過越」と描きました。私たちはイエスの救いを、「新しい出エジプト」「バビロン捕囚からの解放」として見るべきでしょう。

 

Christ lag in Todesbanden(キリストは死につながれたり)
                                    
 曲 Ⅱ讃美歌100 歌詞は私訳

 

   キリスト死にたもう われらの罪負い 
 主はよみがえりて いのちをたまいぬ

           喜びあふれ、御神をたたえ 
              声上ぐわれらも ハレルヤ

 

   いまだに死のとげ たれも折るを得じ  
  われらの罪こそ 死の支配招く

         脅(おど)しの力 襲(おそ)いかかりぬ  
               とらわれ人
(びと)らよ ハレルヤ

 

   神の子キリスト 死のさばきを受く  
死の力 もはや われらに及ばず

         残るは すでに、力なき影  
               とげ今 折れたり ハレルヤ

 

  くすしき戦い 死といのちにあり  
いのちは勝ちを得 死を呑み尽くしぬ

    罪なき死こそ 死の力砕く 
      死は死を呑みたり ハレルヤ

 

  まことの過越し 御神の小羊  
燃え立つ愛もて 十字架にほふらる

   気高きその血 頼れるわれらを 
       さばきは過越す ハレルヤ

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2017年4月 9日 (日)

ヨハネ18章1-27節 「『わたしはある』と言われる方に生かされる」

                                           201749

   あるお子さんが、「イエス様は、神様なんですよね。でも、イエス様も神様に向かってお祈りしてますよね。だったら、神様はふたりなんですか?」と聞いて来ました。

私たちは、そこで聖霊様を持ち出して三位一体の話しに持って行く前に、イエスがどのような意味で神と呼ばれるのかということと、イエスと父なる神は、明確に区別できる方でありながら、愛において一つということを説明する必要がありましょう。

 

イエスは、神の「ひとり子」と呼ばれます。子が父に似るように、イエスは神としてのご性質を御父から受け継いでおられます。天地万物の創造主が、ご自身のことを、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14と紹介されましたが、それをギリシャ語にすると「エゴー・エイミー」になります。

「初めに神とともにおられ」、「すべてのものを」を御父とともに「造られた」方が、今、人間の権力者から捕らえられ、もっとも悲惨な刑罰としての十字架刑を受けようとしています。この不思議が理解できるでしょうか?

イエスは私たちと同じひ弱な人間でありながら、同時にすべてを支配する「真の王」であられます。

 

1. 「それはわたしです」(エゴー・エイミー)と三度言われた方。

   18章初めで、「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた」と記されます。そこはマタイ福音書によると「ゲッセマネ」と呼ばれる場所です。

そこでイエスは、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい」と弟子たちに語られ、その上で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、ひれ伏して祈られました(マタイ26:36-39)。それは初代教会の弟子たちは皆知っていることでしたから、その祈りは省かれたのだと思われます。

それ以上に、17章でイエスは、「目を天に向けて・・・父よ。時が来ました・・あなたの子の栄光を現してください」ということばから大祭司の祈りをささげられたという文脈からしたら、イエスの十字架の悲劇性ではなく、栄光の玉座としての面がそれによってさらに強調されると言えましょう。

 

2節の原文の語順では、「ユダは(その場を)知っていたのだが」ということばから始まり、「彼はイエスを裏切っていた」と、裏切りが現在形で記されます。

そして「ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られてきた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た(3)と記されます。「一隊の兵士」とは、最小限度でも200人だったと言われます。彼らは暴動が起きた時の備えであって、実際にイエスを捕らえるために遣わされたのは、ユダヤ人の神殿警察隊のような「役人たち」だったと思われます。それにしても、たった一人を捕らえるために何と大がかりなことでしょう。

 

そこで、「イエスは自分に起ころうとするすべてのことを知っておられた」ので、隠れる代わりに、ご自分から「出て来て」、「だれを捜すのか」と敢えて尋ねられました4節)。それに対し、彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、「それはわたしです」と言われます(5)。これは「エゴー・エイミー」と記され、「わたしはある」と直訳できます。

ヨハネはそれが単なるに日常会話の一部ではないことを示すために、ここで、エゴー・エイミーと三回繰り返しました(5,6,8)。  

なお、5節にユダの名が再び登場しますが、ここでも「裏切っている」という現在形で記されています。マタイでは、彼がイエスへの口づけをもって、暗闇の中でイエスが誰かを指定したことが描かれますが、ここではそのことが省かれ、イエスがご自分の方から数百人にも及ぶ者たちに迫って行った様子が強調されています。イエスこそがこの場の支配者でした。

 

   イエスがそう語られたのを聞いたローマの兵隊たちは、何と「あとずさりし、そして地に倒れた(6)というのです。数百人もの人々が、「エゴー・エイミー」ということばに圧倒されて退却し、倒れるというのは何という不思議でしょう。それは詩篇27:12節にある通りでした。そこでは、

「主(ヤハウェ)は、私の光、また救い。だれを恐れることがあろう。

(ヤハウェ)は私のいのちのとりで、だれにおびえることがあろう。

悪人どもが私の肉を食らおうと襲いかかるとき、

私の仇、私の敵、彼らこそがつまずき。倒れる」 と記されていました(私訳)

 

そこでは、ヤハウェとの親密な交わりに生きる者の平安(シャローム)が描かれています。

 

イエスは、会計係であった弟子のユダに裏切られ、その者に先導された役人たちや兵隊たちに捉えられたとも言えますが、ここではイエスこそが「わたしはある」と言いながら、すべてのことを支配しておられる様子が描かれています。

ユダの先導が必要だったのは、群集の反応を恐れて秘密に捕えるためですが、ユダヤ人指導者たちはローマの兵隊の助けを必要とするほどにイエスを恐れていたのです。

 

  イエスは再び「それはわたしだ(エゴー・エイミー)と言われた後、「もし、わたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい8節)と、弟子たちに危害が及ばないようにと権威をもって命じます。それはご自身が1712節で祈っておられたことを実現するためです。

9節ではそれが簡略化され、「それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりも失いませんでした』とイエスが言われたことばが実現するためであった」と引用されます。

イエスことば」が状況を支配しているのです。

 

ところが、ペテロは、イエスのことばの意味をまったく理解することなく、剣を抜いて、大祭司のしもべに打ちかかります。ここでは「そのしもべの名はマルコスであった」とまで記されています。

ペテロが、彼の「右の耳を切り落とした」とあるのは、意識的に耳を狙ったというよりは、脳天を剣で割ろうとして外れたためだと思われます。

それに対し、イエスは、「剣をさやに収めなさい」と言われます。マタイでは、「剣をもとに収めなさい。剣を取るものはみな剣で滅びます(マタイ26:52)とイエスが言われたと描かれています。

あるアメリカの俳優が、「弾を込めた銃を持っていると安心できる」と言ったとのことですが、そのような人は、過剰防衛で銃を使用する可能性があります。人生は不安に満ちていますが、力に頼るなら、力の奴隷になります。

ペテロは、イエスの「エゴー・エイミー」という神の御子としてのことばを聞いていながら、愚かにも、主を剣で守ろうとしました。しかも、そこには最低二百人のローマ帝国の兵隊がいたのです。

彼は、剣を持つことで、最も大切な真理を見失いました。肉の力に頼る者は、神を忘れるのです。

 

2. 「父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられよう」

   イエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言われた直後に、「父がわたしに下さったを、どうして飲まずにいられよう(11)と言われました。

イエスは、ゲッセマネの祈りでも、「わが父よ。どうしても飲まずにはすまされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください(マタイ26:42)と祈っておられました。これは、本来、イスラエルが受けるべき神のさばきを意味しました。

イザヤは、神を忘れたエルサレムへのさばきを、「あなたは、主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」と表現し、反対に「救い」を、「ご自分の民を弁護するあなたの神、主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたは憤りの大杯をもう二度と飲むことはない』」と表現しました(51:17,22)

つまり、杯を飲む」とは、神のさばきを受けることを意味したのです。私たちも、本来、神の憤りの杯を飲まなければならない罪人です。

しかし、イエスは私たちに代わってご自分から神の「憤りの杯」を飲み干されました。それが十字架でした。それで私たちは救われたのです。

 

2001911日のテロ直後、米国のテロ撲滅作戦は「無限の正義」と一時的に名づけられましたが、それは神の導きによって、すぐ正されました。なぜなら、イエスに見られる神の正義とは、罪人をさばく代わりに、その罪を身代わりに負って、私たちを罪の束縛から解放することを意味しているからです。ですから、自分の正義を主張して戦ってはなりません

国の戦争は正当防衛から、人と人との争いも自己弁護から始まります。私たちに与えられた永遠のいのちは、決して剣で奪われません。しかも、イエスがここで、ご自身が盾となって弟子たちを守られたのと同じように、神があなたを守ってくださいます。

 

なお、これを国際政治に直接結びつけることには注意深くあるべきでしょう。あなたは、死んでもすぐに天国に行けますが、家族や友、また未信者の方々が危険にさらされている時、無抵抗を続けるのは身勝手かもしれません。残念ながら、こちらの弱腰を見透かして、力で攻めてくる国があるからです。

たとえば、クリスチャンの自衛隊員がどのような気持ちで任務についているのかを思い計る必要もありましょう。イエスは、十字架で無抵抗の模範を示されたのではなく、自分の身を犠牲にしてサタンと戦い、死の力を砕かれたのです。

ヘブル語のシャロームは、心の平安、家庭の平和、国の平和すべてを指します。これらは切り離せない関係にあります。世界平和を訴えながら、伴侶や友を憎むのは自己矛盾です。真の平和は、あなたの心から、隣人との関係から始まります。

歴史を見る限り、人は、恐れに捕われる余り、平和を実現する手段として、戦争をして来たと言えます。真の敵は、人ではなく、恐れの感情を駆りたて、過剰防衛に走らせるサタンです。平和は心の平安から始まり、その基礎はイエスの十字架です。

 

ペテロは剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、その右の耳を切り落としましたが、その剣が脳天を砕いていたら、また、もし、イエスがその耳を直さなかったとしたら(ルカ22:51)、ペテロの命はありませんでした。ローマの軍隊は自分たちに向かって剣を振り上げるものを容赦はしないからです。

ペテロは、かつてイエスに「あなたのためにはいのちも捨てます(13:37)と豪語しました。確かにペテロは、蛮勇を発揮し、自分のいのちを捨ててイエスを守ろうとしました。しかし、実際は、いのちを救われたのはペテロのほうでした。

そして、イエスは、ご自分から身を差し出して捕えられ、縛られました(12)。その間に弟子たちはみな逃げることができました。

その後、イエスは、その年の大祭司であるカヤパの前での裁判の前に、彼の舅であり実力者であったアンナスのところに連れて行かれました(13節、ヨハネ特有の記録)

 

そして14節では、「カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である」と記されます。これは1147-53節を振り返った表現です。

そこでは、イエスが「多くのしるしを行なっている」ことを「このまま放っておくなら」、ユダヤ人の独立運動を刺激して、ローマ帝国の介入を招くことになるので、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが…得策だ」と、カヤパが人々を説得したことが記されていました。

そして、そこでは、「イエスが国民のために死のうとしておられること、また…散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言したのである(11:5152)と解説されていました。

つまり、イエスが不当な判決を受けることによって、まずご自身の弟子たちのいのちが守られるばかりか、当時のユダヤ国民ばかりか、すべての「散らされている神の子たち」の救いのためであったというのです。それこそイエスが飲もうとされた「杯」でした。

 

3.目に見えない神の法廷を見ているイエスと、神を忘れたペテロ

ユダヤ人たちは非公式な裁判でまず結論を出そうとしていました。一方、ペテロともうひとりの弟子(ヨハネ)は、隠れて、ついてきました。ヨハネは、大祭司の知り合いなので、すぐに中庭に入り、門の前に取り残されたペテロをも招き入れました。

その際、門番のはしためが、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と、念を押しました。ペテロは軽い気持ちで、「そんな者ではない」と答えたのだと思われます(17)

そこでは、しもべたちや役人たちが炭火を起こして暖まっていたので、ペテロは目立つのを避けるためにもその輪の中に加わりました。彼はそこで、身体を暖めながら、心はどんどん冷えて行きました。そして、心の底に押し込めていた恐れの気持ちにしだいに圧倒されたのではないでしょうか。

 

他の福音書はペテロの三回の否認を連続して描きますが、ヨハネは一度目と二度目の否認の間に、アンナスのところでの非公式な裁判を入れます。これで、イエスの勇気とペテロの臆病さが対比されます。

なお、ルカは二度目と三度目の否認の間にも一時間もの時間があったことを記録しています(22:59)。つまり、ペテロは、われを忘れたのではなく、自分が語ったことの意味を反芻する時間が十分にある中で、イエスの弟子であることを三度否認したのです。

イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません・・・人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います(マタイ10:33)と言われました。ペテロは、かつて、「それは私の問題ではない!」と思ったでしょうが、それが今、深刻な自分の問題になっているのです。

 

大祭司(これがアンナスかカヤパかは不明)はイエスに、第一に「弟子たちのこと」について尋問します19節)。しかし、主は弟子を守るため、巧みに注意をそらし、反対に大祭司たちの不当性をあぶりだします。

ユダヤの裁判は公平でした。有罪に宣告するためには、自白ではなく、複数の人々の一致した証言が必要でしたが、彼らは群集の反応を恐れてできませんでした。しかも、彼らは、闇裁判で結論を出そうと急いでいました。

20,21節で主が、「わたしは世に向かって公然と話しました・・・わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい」と言われた言葉は、彼らを反対に追い詰めました。なぜなら、そのように複数の証言を求めることこそ、当然あるべき裁判の形だったからです。

 

それで、ひとりの役人が暴力に訴え、イエスを平手打ちにします。主はその不当性をも指摘しました。主はかつて、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい(マタイ5:39)と言われましたが、それは、無抵抗の勧めではなく、侮辱を加える者に向かって自分を弁護する必要のないこと、不当な攻撃に対し不当な反撃で答えてはならないことを教えるものでした。

ここで、イエスは、ご自身を弁護しようとしたのではなく、ご自分をさばく者を、目に見えない神の法廷の前に引き出したのです。彼らはイエスの威厳に圧倒されて、何の結論を出すこともできないまま、公の裁判の場に臨まざるを得なくなりました(24)

イエスは、縛られながらも、父なる神のご支配のもとで、自由であられたのです。私たちの問題は、神の公正なさばきを忘れて、恐れに捕われ、自分で自分の身を守ろうと必死になることにあります。

 

この後、25節で、ペテロは二度目にイエスの弟子であることを否認します。これは、間を置いた後の、複数の人々への答えでしたから、一度目よりずっと深刻です。

三度目の問いかけは、右の耳を切り落とされた人の親類からの目撃証言で、「私が見なかったとでもいうのですか・・(26)という厳しいものでした。ヨハネは、「それでペテロはもう一度否定した」と簡潔に記述することで、この否認の強さを想像させます。

マタイは、ペテロが「のろいをかけて誓い始めた」(26:74)と記しますが、これは「私のことばが嘘なら、神にのろわれても構わない」と宣言することです。彼は、イエスばかりか、父なる神をも否認したのです。

ペテロはこの時になって、無節操に大祭司のしもべに切りかかったことを後悔していたことでしょう。ペテロの心の奥底には、救い難いほどの臆病さと不信仰が隠されていたのです。何という絶望でしょう!

 

そしてここでは、「するとすぐ鶏が鳴いた」と描かれるだけで、ペテロが泣き崩れた様子は省かれています。それは、イエスの「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(13:38)という預言に焦点を当てるためでした。

私たちは、ペテロが赦されたのは、真剣に悔い改めた結果であるかのように誤解しがちです。しかし、私たちは、自分の悔い改めとか信仰を見る前に、私たちの信仰を守ってくださるイエスの真実にこそ、常に目を向ける必要があります

 

ペテロは情熱的な人でした。弟子の多くがイエスを離れた時にも、「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます(6:68)と答え、イエスのために命を賭ける覚悟を持っていました。

しかし、イエスは、その裏に隠されたもろさを見抜いておられました。ヨハネは、ペテロが弟子となった経緯を「(アンデレ)はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ《岩》)と呼ぶことにします)』」(1:42)と簡潔に記しています。

ペテロは、後に、神は、私たちを、苦しみを通して、岩のように「不動の者としてくださいます(Ⅰペテロ5:10)と断言しました。イエスは復活後、炭火の前で三度イエスを知らないといったペテロに対し、炭火を起こして朝食を与え、「あなたは、わたしを愛しますか」と三度尋ねます(21:9-17)それは、彼を、名実ともにペテロ()にし、弟子のリーダーとするためでした。

 

与えられた才能を感謝し、同時に、その裏に隠された心の闇の部分でイエスに出会うなら、人格が統合され、輝きが生まれます。イエスは、感情の起伏の激しい者を「(ペテロ)と変えてくださいました。

ペテロに最初に語られたように、イエスは、今も「あなたは・・です」と生まれながらの価値を認め、その上で、「わたしはあなたを・・・と呼びます」と言って、新しい名と使命を与えてくださいます。

心の闇に絶望する必要はありません。そこは、主ご自身が、忍耐をもって、ご自身の愛を豊かに注いで造り直してくださる部分です。その時、致命的な弱さが、まわりの人に、神の愛の豊かさを証しする恵みとされます。

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2017年4月 2日 (日)

ヨシュア記23,24章 「私と私の家とは主(ヤハウェ)に仕える」

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   林竹治郎が描いた「朝の祈り」という絵があります。1905年第一回文部省美術展に入選し、今も多くのクリスチャンホームの朝の祈りの生活に励ましを与え続けています。お母さんと三人の子供たちが、真剣に神の御前に静まってお祈りしています(聖書に手を置いているのは下宿していた学生で、常に何人かいました)。竹治郎自身はこのときは家族の祈りの風景をスケッチしていたのでしょう。

彼はこのとき現在の札幌南高校の前身の札幌一中で美術教師をし、日基北一条教会の長老として教会に仕えていました。お母さんのひざに手を置いて祈っている三歳ぐらいの子は林文雄で、後に北大医学部を卒業したと思ったら、1927年、親の反対を押し切って東村山の救ライ施設に行って、生涯をハンセン病の治療のために献げます。後に父母の竹治郎夫妻は文雄を積極的に応援します。

文雄は47歳の若さで、肺結核で亡くなりますが、最後は筆談で、「こんな幸福な者はいない」と書いたそうです。神と人とに誠実に仕え続けた家族は、病んでいる人に寄り添い、様々な葛藤を引き受けながら、神にある平安(シャローム)に満たされて生涯を全うしました。そしてその原点は、「私と私の家とは、主(ヤハウェ)に仕える」でまとめられます。

 

1.イスラエルに安住を許されて後・・・

231節に、「主(ヤハウェ)が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた」と記されますが、214344節に記されていた安住」はヨシュアのもとで「多くの日」にわたって守られていました。それは主の一方的な恵みの賜物ですが、民が一致して主に仕えることでそれが長続きしました。

ただ、ヨシュアの死後のことが心配です。彼らは全体としてはカナン人を圧倒していましたが、それぞれの部族に「割り当てられた相続地」の実情を見ると、まだ実際には占領しきれていないと土地が多く、カナン人の勢力はなお非常に強かったからです。

それでヨシュアは全イスラエルの長老たちを集めて、最後のメッセージを語ります。

 

彼らは、部族ごとに分割された約束の地から先住民を追い払って、その地を占領する責任がありました(23:45)。その際改めて、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)ご自身が、あなたがたの前から、彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う」という約束を確認し、それを前提に、「彼らの地を占領しなければならない」と命じられます(5)

そこで問われているのは彼らの軍事力ではなく、「モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない(6)ということでした。その核心は難しくも、堅苦しいことでもありません。その基本は真心から、創造主である神を愛することと、隣人を愛することであり、何よりも神が嫌われるのは、他の神々に浮気をすることでした。

 

そのことが7節に記されます。これは、カナン人との交流自体を禁止するかのように受け止められますが、厳密には、「あなたがたの中に残っているこれらの国民の中に入り込まないためである」と記された後、四つの禁止命令として「彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならないと続きます。

私たちも偶像礼拝者と交わらずに生きることはできませんが、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とあるように、彼らの礼拝習慣に同調しないことだけはできます。

そして、その肯定命令が、「今日までしてきたように、あなたがたの神、(ヤハウェ)にすがらなければならない(8)です。そのように全能の主に「すがり」続けたことで、「主(ヤハウェ)が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、あなたがたに関する限り、今日までだれもその前に立ちはだかる者はいなかった(9)と今までの歩みが振り返られます。

そして、これからも、逃亡奴隷の集団であるイスラエルが強力なカナンの国々に対し、ひとりだけで千人を追うことができる」(10)というのです。それは「主(ヤハウェ)ご自身が・・あなたがたのために戦われる」からです。

 

その上でヨシュアは、11節の原文では、「たましい(精神)を、力を尽くして見張りながら、あなたがたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」と不思議な表現をします。これは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)の言い換えだと思われます。

 

そして改めて、「もし、もう一度堕落して(立ち返って)、これらの国民の生き残っている者・・たちと親しく交わる(すがる)・・なら」(23:12)と警告されます。これは、主に立ち返り、主にすがることとの対比として表現されています。現地の偶像礼者たちは非常に豊かで強いので、彼らと妥協して生きるほうが現実的に思えるからです。

しかし、そうすると「彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり・・わきばらにとなり・・目にとげとなり・・・あなたがたはついに・・滅び失せる(23:13)というのです。

それが単なる脅しでないことを、「主が約束したすべての良いこと・・がひとつもたがわず、みな・・実現した」のと同じように、「主はまたすべての悪いことをあなたがたにもたらし(実現し)・・」と断言されます(23:14,15)

 

後に、ダビデは家来の妻バテシェバを奪ってその夫ウリヤを死に至らしめたことがありましたが(Ⅱサムエル11)、その直前に、「王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき」(7:1)という記述があります。

同じように私たちは、「もう大丈夫・・」という平安が「わな」となります。この世の文化は、力と富という偶像で私たちの心を誘惑します。その危険を侮ってはなりません。

 

2.  私と私の家とは主に仕える

  241節では、「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め」と記されますが、そこには神の幕屋がありましたので、「彼らが神の前に立ったとき・・」と記されます。そして、彼はイスラエルの歩みに関しての主のことばを伝えます。

まず興味深いのは、「あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた(2)という記述です。聖書中、テラの信仰が描かれるのはここだけです。かつて、アブラハムが父テラとともにカルデア人のウルから出てハランに向かった時、主導権を持ったのはアブラハムである可能性があり、弟のナホルも同じ神を信じるようになったのだと思われます。そうでなければ、アブラハムはイサクの嫁をナホルの娘から娶ろうとは思わなかったことでしょう。

しかし、ナホルの息子でリベカの兄ラバンは、神々の偶像である「テラフィム」を大切にしていました(創世記31:19)。ラバンがヤコブに向かって、「アブラハムの神、ナホルの神彼らの父祖の神がー、われわれの間をさばかれますように(31:53)と言った時、その神と呼ばれる方が唯一の同じ方であるとは限りませんでした。

とにかく、創造主ご自身がアブラハムを一方的に偶像礼拝者の中から選び出され、この方のみに「すがり」、この方のみを礼拝するように導かれたのです。

 

3節から13節まで、主がご自身の一方的なみわざを十二の観点から、「わたしは・・アブラハムを・・連れてきて、カナンの全土を歩ませ(3)・・・子孫を増やし・・イサクを与えた(3)・・・

わたしはイサクにヤコブ・・を与え、ヤコブと彼の子らはエジプトにくだった(4)・・・わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した(5)・・・わたしがあなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき(6)・・・、(ヤハウェ)はあなたがたとエジプトの間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた(7)・・・

わたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地にあなたがたを導き入れた(8)・・・わたしは彼らをあなたがたの手に渡し・・・彼らを根絶やしにした(8)・・・わたしはバラムに聞こうとしなかった・・・わたしは・・彼の手から救い出した(910)・・・

わたしは彼ら(エリコの者たち・・・)をあなたがたの手に渡した(11)・・・わたしは・・くまばちを送った・・エモリ人のふたりの王を追い払った(12)・・・

わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地・・建てなかった町々を・・与えたので、・・そこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている(13)」と繰り返します。

 

そして、この中で唯一、民の信仰が描かれているのが、「あなたがたが主(ヤハウェ)に叫び求めたので」(7)という点だけです。つまり、彼らが今、約束の地に安住し、満腹できるのは、すべて神の一方的な恵みなのです。

私たちの場合も、先祖はすべて他の神々に仕えていた人たちでした。主は一方的に私たちを選び、様々なご自身のみわざを示してくださいました。そして、私たちがなした最高の信仰の応答といえば、苦しみの中で必死に、「主に叫び求めた」ということだけではないでしょうか。

 

その上でヨシュアは14,15節で彼らに選択を迫ります。かつてモーセが、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と迫ったことと同じです。

ここでは七回に渡って「仕える」ということばが用いられます。まず彼は、「今、あなたがたは主(ウェ)を恐れ、誠実と真実とをもって主に仕えなさい・・先祖たちが・・仕えた神々を除き去り、(ウェ)に仕えなさい」(24:14)と断固として命じます。それは主の一方的な愛への当然のなすべき応答です。

 

その上で、彼ら自身の意思を確かめるように、「もし(ウェ)に仕えることが・・気に入らないなら・・・先祖たちが仕えた神々でも…エモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶが良い」と言います。

人は、無意識に、お仕えする対象を選ぶからです。それはこの世の組織であったり、名誉や富であったりします。ヨシュアは彼らが自分たちの仕えたいもの勝手に選ぶようになる可能性を見越したうえで、私自身(強調形)と私の家とは、(ウェ)に仕える(24:15)と敢えて告白します。

 

私たちも主の一方的な豊かな恵みを受けた結果として今ここに生かされ、主を礼拝するようになりました。一方、私たちの回りの人々は、それぞれ無自覚にしても、この世の名誉やお金、権力などを神々として仕えています。

日本では伝統的に、それぞれの人が仕えるべき「イエ」のようなものがありました。「お家を守るために」自分の身を犠牲にすることが美談とされてきました。それは、今も、拡大された「イエ」としての会社や自分の属する共同体であったりします。

しかし、その「イエ」はどなたに仕え、どこに向かっているのでしょう。「イエ」自体も偶像になり得ます。「イエ」は確かに人に居場所を提供する大切なものです。しかし、「イエ」は人々の集合に過ぎず、「イエ」は滅びることもあれば、また人は「イエ」から排除されることだってあるのです。それは決して安心の源にはなり得ません。

そのような中で、私たちは他の人の考え方を批判する代わりに、ただ単純に、「私自身と、私の家とは、主(ヤハウェ)に仕える」と告白するのです。

 

アブラハムの生まれ育った家は、偶像礼拝をしていました。しかし、まずアブラハム一人が、主(ヤハウェ)の召しを受け、主に仕える者となりました。その結果、父を含むすべての家族が神の民となったのでしょう。

そこにはまだ偶像を捨て切れない弱さがありましたが、少なくともアブラハムの弟ナホルの家から、リベカとその娘レアとラケルが生まれ、そこからイスラエルの十二部族が始まります。

実は、日本の「イエ」自体も常に仕える対象を求めているのです。個人の信仰が、家全体の信仰になるとき驚くべき力を発揮することができます。信仰はひとりの決断から始まりますが、信仰生活は家族単位で培われるものだからです。

 

3. イスラエルはヨシュアが生きている間・・・主に仕えていた

   これに応じて、民は、「私たちが主(ヤハウェ)を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません(24:16)と断言します。

そしてその理由を、先に繰り返されていた主のみわざを簡潔に要約するようにしながら、主が「私たちの行くすべての道で・・・私たちを守られた」とまとめます(24:17)。そして、「私たち自身も(強調形)また、主(ヤハウェ)に仕えます。主が私たちの神だからです」と告白します(24:18)

 

これは彼らの心からの思いだったでしょうが、ヨシュアは、なおも彼らを挑発するかのように、あなたがたは(ヤハウェ)に仕えることはできないであろう・・」(24:19)と語ります。

ただ、その際、「もし、あなたがたが主(ヤハウェ)を捨てて、外国の神々に仕えるなら・・・主はあなたがたを滅ぼし尽くすという「のろい」を加えます。それに対し彼らは再び、いいえ。私たちは主(ヤハウェ)に仕えます(24:21)と断言します。

 

それを聞いたヨシュアは、「あなたがたは・・自分自身の証人である・・・」(24:22)と言い、彼らもそれを認めます。そして彼は、「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主(ヤハウェ)心を傾けなさい」(24:23)と命じます。

それに対し、彼らは、「私たちは私たちの神、主(ヤハウェ)に仕え、御声に聞きます」(24:24)と、三度目の応答を繰り返します。その上でヨシュアは、「その日、民と契約を結び」(24:25)ました。

そして、彼は「これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主(ヤハウェ)の聖所にある樫の木の下に、それを立てた」というのです。「神の律法の書」とは今まではモーセ五書を指していましたが、これはヨシュアがこのヨシュア記としての書を書いたという意味とも理解できます。

 

ただここではその書よりも、「この石は、私たちの証拠となる・・あなたがたは自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる」(24:27)と、石の存在を繰り返し強調します。それはシェケムに残されたはずです(24:25)

その後ヨシュアは、「民をそれぞれの相続地に送り出し」(24:28)ます。そして、「これらのことの後、主(ヤハウェ)のしもべ、ヌンの子ヨシュアは110歳で死んだ(24:29)と記されます。

 

   ただ、「イスラエルは、ヨシュアが生きている間、また・・主がイスラエルに行なわれたわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた(24:31)と暗い影が示唆され、これから間もなく、「彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主(ウェ)を捨てて、ほかの神々・・に従い、それらを拝み、主(ヤハウェ)を怒らせた」(士師2:12)ということになります。

ヨシュアはそれを恐れた故、三度に渡って彼らの信仰告白を引き出し契約を結ばせたのです。そこには、それを破る者への「のろい」が伴っていました

しかし、彼らが自分で選び取った「のろい」を除くため、新しいヨシュアとして現れたイエスは、「のろわれたものとなって・・律法ののろいから贖い出してくださった」(ガラテヤ3:13)というのが神の救いです。

 

  最後に、エジプトから携え上った「ヨセフの骨」がシェケムの地に葬られたことが記されます。それは創世記の終わりで、ヨセフがエジプトで死ぬに当たって、イスラエルの子らに自分の遺体を約束の地に携え上るように命じたことが実現することを意味しました。そして、葬られた場は、ヤコブがかつて逃亡の地から豊かになって立ち返ってきたときに買い取って、祭壇を築いた場所でした(創世記33:19,20)

南のヘブロンにはヤコブが葬られたアブラハムの墓がありましたが、約束の地に戻ったイスラエルの民は、自分たちの歴史の記念の地を次々に増やして行くことになります。これは何よりも、ここにイスラエルの苦難の旅がついに終わったという象徴でした。

神は、ご自身の民をアブラハムへの約束通り守ってくださいました。主はご自身のときにご自身のご計画を成し遂げられます。一方、私たちの日々の生活の中では、主が沈黙しておられるように思えることがあります。そのときに大切なのは、主のみわざを記念するということです。

 

   イスラエルが自分たちの救い主を捨ててしまうことなど、信じられないことですが、生まれながらの人間は、自分の欲望を満たしてくれるものに心が惹かれ、目に見えない創造主にだけ仕え続けることはできません

イエスの一番弟子のペテロは、三度イエスを否みました。しかし、イエスはペテロがそのような罪を犯すことをご存知の上で、彼の悔い改めへの道を備え、復活の後、彼に「あなたはわたしを愛しますか」三度尋ねられました(ヨハネ21:15-17)

後に、主は、主の名のために迫害に耐えているエペソの教会に向けて、「あなたは初めの愛から離れてしまった・・・悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示2:4,5)と命じました。「初めの愛」は、神から始まった「」です。そして、神は、愛せない者に愛する心を与えてくださいました。それこそがキリストの十字架であり、復活の後に遣わされた聖霊のみわざです。

 

   なお、私たちはそれぞれ比較もできないほどに異なった環境の中から、主に召し出されました。アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を育てたのは主ご自身です。ヤコブの家など、十人の兄たちがそろって弟のヨセフを奴隷に売るようなことまでしました。それから見たら、私たちの家庭はずっとずっと健全だと見えることでしょう。

大切なのは常に、私たちの信仰は、神ご自身から始まっているという原点に立ち返り続けることです。信仰が努力目標になってしまうことほど愚かなことはありません。しかし、同時に、私たちにはそれぞれ自分の肉の欲望を律する責任があります。家庭礼拝を初めとする基本をないがしろにしてはいけません。

それは果たすべき義務であるより、神にある幸いを体験するためのごく簡単なステップです。時が来たらその祝福の意味がわかります。神の恵みを日々数え、神にあるシャロームを味わうための一ステップです。だれも、「天のお父様!」と呼びながら、不満や悪態ばかりを言える人はいないのですから。

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