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2017年4月14日 (金)

「新しい創造」の始まりとしての十字架

イエスの十字架に向かう歩みは、悲劇としては描かれていません。主はご自分の弟子たちのことを気遣いながら、雄々しく十字架に向かって行かれました。

しかも、イエスが十字架で息が絶えたとき、荘厳なエルサレム神殿の至聖所を仕切る「幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。そして、大きな地震が起き、岩が裂けました。そればかりか、「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った」というのです。そして、ローマの百人隊長が、十字架で死んだ犯罪人を見て、「この方はまことに神の子であった」と言います。ローマ軍の兵士にとって「神の子」とは、ローマ皇帝に他ならないのに、十字架で死んだイエスを、「神の子」と呼ぶというのは何とも不思議です。まさに、最初の聖金曜日は、「世界の革命が始まった日」と呼ぶことができます。

昨年、わざわざ英国まで行って、世界的に尊敬されている神学者N.T.ライト教授にお会いしてきました。先生は、英国国教会の代表の上院議員として、2003年から七年間、国政に関わったこともある方で、それに先立つ紀元二千年には、ヨベルの年運動として、開発途上国の債務免除のための先進国の協調への動きのためにも陰ながら力を発揮しました。そこで、先生の新刊「The Day the Revolution Began-(革命が始まった日―イエスの十字架の意味の再考)という本を個人的にいただいてきました。

 

  ライト氏はその本で、「十字架において、イエスはまさに、人々を隷属させている力を滅ぼされた。初代のクリスチャンにとって、革命は最初の聖金曜日に起こったのだ。支配者や権力者たちは確かに死の一撃を受けた。それは、『それで私たちはこの世から逃げて天国に行ける』という意味ではなく、『今やイエスはこの世界の王であられる。それで私たちは主のご支配のもとで生き、主の王国を宣言しなければならない』という意味である。革命は始まった。それは続かなければならない。イエスに従う者は単にその恩恵を受けられるというばかりでなく、王国の代理人(agents)とされたのだ」と記しておられます(pp391,392)

 

イエスの十字架は、世界を変える革命であったというのです。たとえば、近代国家では、その人の出生や能力に関わらず、すべての人の基本的人権が認められており、それは犯罪者にまでも及んでいます。それは、イエスが罪人の救いのためにご自身の身を犠牲とされたことを原点としています。

また、当時のローマ帝国では皇帝を「神の子」として崇めない者は、死刑にされることがありましたが、クリスチャンは新しい王国の代理人(agents)として、その死の脅しに屈することなく、社会的弱者を受け入れる愛の交わりを築き広げました。そして、ついにはローマ皇帝さえもイエスを「神の子」として礼拝するようになりました。

旧約聖書に描かれていた「救い」とは、イスラエルの民を、エジプトの奴隷状態から解放することであり、また、バビロン帝国の捕囚状態、また外国の異教徒の圧政状態から解放することでした。

同じように、イエスがもたらした「救い」は、私たちをお金や権力の奴隷とするサタンの力からの解放として描くことができます。「救い」は、何よりもお金の使い方や権力との関わり方に現されるのです。

なおライト氏は個人的な会話の最後に、福音宣教で何よりも「New Creation(新しい創造)」を強調することを勧めてくださいました。それに対し、それは私たちの教会のヴィジョンとして、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」として言語化されていると申し上げると、心から喜んでくださいました。

 

現代の多くの信仰者にとって、何よりも大切なのは、自分の日々の生活を「新しい創造」の観点から見られるようになることではないでしょうか。それはコリント第二の手紙51617節で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません・・・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されているとおりです。「新しく作られた者」ということばは厳密には、「New Creation(新しい創造)」と記されています。

つまり、イエスを自分の人生の主と告白して、「キリストのうちにある」者は、すでに創造主なる御霊を受けており、それによって、神の国の代理人(agents)になっています。この「agent」ということばを聞くと、 “Mission Impossible” を思い起します。そこでは銃や格闘能力で敵を圧倒して行きますが、キリストのAgentは、「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」という無抵抗の勇気で人々の心を変えて行きます。

実際、マルティン・ルーサー・キング牧師は無抵抗のデモ行進によって黒人の人権を回復する運動を広げました。彼の影響力が強くなった結果、メンフィスで暗殺されますが、それからたった四十年後にアメリカで黒人の大統領が誕生するまでになりました。またネルソン・マンデラも南アフリカの人種差別に無抵抗の運動で戦い、南アフリカに黒人と白人から構成される画期的な和解の政権を生み出しました。

実は、二千年来、イエスはいろんな形で世界の価値観を変えています。たとえば一人の男性と一人の女性が決して浮気をしないと約束し合って家庭を築くというのも驚きです。僭越ながら、日本の天皇家は血筋が何よりも大切なはずですが、キリスト教文化が流入して以来、天皇ですら複数の妻を持つことができなくなりました。それは歴史的には、首をかしげたくなるほどの大変化です。実際、それがどれほど大きなことかは、イスラム教の国を見たら納得できます。とにかく、イエスは新しい神の国の価値観を創造し、それが世界の常識を、時間をかけて変え続けています。「新しい創造」は、既に始まっているのです。

 

まもなく、お金に関しての二冊目の拙著が出版される予定で、作業が進んでいます。そこに書いたことですが、たとえば、会社はお金で計られる利潤を求めて動きます。しかし、それはお金に動かされているというわけではありません。適正な利潤が確保されるのは、何よりも、その会社の製品やサービスが、多くの消費者から必要とされていることの証しとも言えます。

そして、市場経済は、消費者の必要と生産者の働きを結びつける精巧なシステムです。しかも、それは、今から三千年以上も前の貨幣(お金)の発明から始まっています。市場経済もお金も、システムや道具に過ぎません。問われているのはそれを扱う人間の責任です。そして市場は何よりも人々が何を望んでいるかをストレートに反映し、お金はその望みをかなえてくれる人のもとに流れて行きます。

確かに、かつては英国のような国でさえ、麻薬や奴隷売買を堂々と行い、アヘン戦争では軍事力さえ用いたことがあります。

しかし、キリストの福音が時間をかけて人々の意識を変えて行きました。ごく普通の人々が聖書を自分への神からのメッセージとして読むようになったのは、ごく最近のことです。それとともに人々の価値観が変わってきています。ごく普通の若者が、「イエス様だったら、これをどう見るだろう」と問いかけるようになりました。今や、普通の人が、麻薬や人身売買に自分のお金が使われてはならないと主張します。

 

創造主を求めない人々の間でさえ、理念やヴィジョンが人々の心を動かし、お金の流れが変えられます。そして、すべて人の存在価値を無条件に認めるという価値観や、軍事力や権力によって自分の願いを実現しようとしてはいけないという価値観など、現代の社会の良心として認められている様々な価値観は、すべてイエスご自身から始まっているとさえ言っても良いでしょう。

多くの信仰者は、「神の国」がこの地に広げられることを願っています。まず、そのために私たちの福音理解が、矛盾に満ちた社会からの逃避を目標とするような天国志向から、この世界が神の平和(シャローム)に満たされる「新しい天と新しい地」を待ち望むという、実生活に生かされるものへと変えられる必要があります。そして、ヴィジョンを実現するために、「お金」は大切な道具です。

 

ところで、この世界の変革を願う際に、注意すべきことがあります。この世界は、人類の父祖アダムが自分を神のようにした結果、「のろい」のもとにあるということです。そこでは常に、神々となった人と人との利害の対立があり、理想と理想がぶつかる戦いが、国家間の戦争から家庭にまで及んでいます。

サタンは、その背後で、「お金と権力」こそが、問題解決の鍵だとささやき、人を「お金と権力の礼拝者」へと変えようと画策し続けています。そして、そこには、社会の動きに従わない人を社会から排除しようとする「死の脅し」が伴って来ます。それに対し、神の御子は、ご自身の力を捨て、私たちと同じひ弱な人間になることによってサタンの力を砕かれました。

それは、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖の奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした(ヘブル2・14,15)と記されている通りです。

 

ただ、サタンはイエスの十字架と復活以来、自分の敗北を悟り、必死に断末魔の抵抗を続けています。ですから、この社会では、福音によって世の人々の価値観がきよめられて行くという進歩と共に、黙示録に記されているような終わりの時代の苦難、背教が激しくなって行きます。

たとえば17章では、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン(5)という政治権力と結託した富の支配の横暴が記されています。それは当時のローマ帝国の広大な単一通貨の経済圏を背景として既にあったものですが、現在のグーロバル市場経済にも重ねてその問題を見ることができます。

そして、その中で中間層が没落するという形で、社会の矛盾が現れると、それが民族主義の台頭、強権的な問題解決へと向かったりします。サタンはその背後で、神々となった人と人との対立をあおり、神のご支配を見えなくさせて行きます。

そのような、権力による問題解決の動きに対して、イエスは、隣人との愛の交わりを広げるという地道な「神の国」の拡大を求め続けておられます。

 

私たちはキリストに結びつくことによって、力による問題解決ではなく、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・実に十字架の死にまで従われた(ピリピ2・7,8)というキリストの姿に倣う道に、人生の美しさを見出すことができるようになりました。それはこの社会におけるすべての仕事や市場経済下の働きの中に現すことができます。ある特定の仕事を聖なるものと見たり、またある働きを過度に汚れたものと見ることは、今ここに生きて働いておられる神のご支配を軽視することに他なりません。かつては私自身も、証券業務を過度に悪く見過ぎていたと反省していますが・・・・。

キリストの再臨が実現するまで、サタンの働きは止むことが無く、この世の矛盾は続きます。ですから、どんな仕事の中にもサタンの支配の現実が現されています。しかし、そのような絶対的な聖さの視点からばかり自分の仕事を見ると、社会の中に生きることすらできなくなります。

この世から、「お金」がもたらす矛盾が消えることはありません。しかし、私たちはそこで、お金や権力の奴隷になることなく、キリストに倣った「新しい創造」の中にある者としてのユニークな生き方を探り求めて行く必要があります。それはそれぞれの分野でまったく違った形で現されることでしょう。

そして、「新しい創造」の中に生きる者にとって、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている(Ⅰコリント1558)という告白こそ、揺るがない確信です。それはイエスが、死者の中からの「初穂」としてよみがえってくださったからです。

市場経済やお金の暴走を批判することは誰にでもできます。聖書はそれ自体を罪悪視し、それから離れることを勧める代わりに、富と権力の奴隷にならずに、死に至るまでキリストに忠実に従うことだけを命じます。しかも、その際、天地万物の創造主ご自身である聖霊が、私たちのうちに生き、私たちをこの世の矛盾の中に遣わし、神のかたち、小さなキリストとして用いてくださいます。

その際、新約聖書のタラントやミナのたとえにあるように、神は私たちに与えられた賜物やお金を、「神の国」のヴィジョンのために豊かに用いることを期待しておられます。それは音楽家、芸術家が、「神の国」の美しさをシンフォニーや芸術作品を通して現わすために日々、訓練を積むことに似ています。お金に使われずに、お金を賢く使うことができるための訓練も、現実の教会には求められています。そして、創造主なる聖霊が、あなたに創造的なお金の管理の仕方、創造的な働き方を導いてくださいます。

 

宗教改革者マルティン・ルターはキリストの十字架の意味を、死の力を持つサタンとの戦いとして描き、それをChrist lag in Todesbanden(キリストは死につながれたり)という讃美歌にしました。古いメロディーで歌いにくい面がありますが、これをもとに数えきれないほどのオルガン曲が作られています。私たちは十字架と復活を区別して理解しようとしますが、聖書ではそれは一体のこととして描かれています。

中世カトリック以来の神学では、キリストの十字架は、神が全人類の罪を激しく憎んだため、すべての罪をイエスに負わせ、厳しい刑罰をイエスに科することでご自身の怒りを鎮められ、人はイエスに結びつくことで、罪人であるにも関わらず地獄に落ちずに、天国に行けるようになったと説明されてきました。それに対しルターはここでキリストの十字架を何よりも「新しい過越のいけにえ」、「まことの過越」と描きました。私たちはイエスの救いを、「新しい出エジプト」「バビロン捕囚からの解放」として見るべきでしょう。

 

Christ lag in Todesbanden(キリストは死につながれたり)
                                    
 曲 Ⅱ讃美歌100 歌詞は私訳

 

   キリスト死にたもう われらの罪負い 
 主はよみがえりて いのちをたまいぬ

           喜びあふれ、御神をたたえ 
              声上ぐわれらも ハレルヤ

 

   いまだに死のとげ たれも折るを得じ  
  われらの罪こそ 死の支配招く

         脅(おど)しの力 襲(おそ)いかかりぬ  
               とらわれ人
(びと)らよ ハレルヤ

 

   神の子キリスト 死のさばきを受く  
死の力 もはや われらに及ばず

         残るは すでに、力なき影  
               とげ今 折れたり ハレルヤ

 

  くすしき戦い 死といのちにあり  
いのちは勝ちを得 死を呑み尽くしぬ

    罪なき死こそ 死の力砕く 
      死は死を呑みたり ハレルヤ

 

  まことの過越し 御神の小羊  
燃え立つ愛もて 十字架にほふらる

   気高きその血 頼れるわれらを 
       さばきは過越す ハレルヤ

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