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2017年6月18日 (日)

詩篇139篇 「神の最高傑作として生かされる」

                        2017618

人は今、小川のせせらぎや森の木々、青空ばかりか太陽の光さえなくても過ごせるような人工的な世界に住んでいます。「世界って、何て美しいんだろう!」という感動を最近味わったことがあるでしょうか?

 

世界の創造主を忘れ、人間の能力が達成したものばかりを見ていると、いつも何かに駆り立てられるような気持ちになるのかもしれません。

神が創造された世界を感謝することと、自分に対する神のみわざを感謝することには切り離せない関係があります。すべては主(ヤウェ)から始まっているからです。

 

1.「主よ。あなたは私を知っておられます。」

 この詩は、「ウェよ」という神の御名への呼びかけから始まります。神はご自身を、「わたしは、『わたしはある。』という者である」(出エジ3:14)と紹介されました。それは、この方がすべてに先立って存在しすべてのものを生み出す方であるということを示しています。

多くの人々は、自分の必要から始まって神を求め、「私が神を認識する」いう考え方をします。しかし、「わたしはある」または「わたしはあらしめる(生み出す)と宣言される神がおられるので、私がここに生き、また、考え、語っていると認識すること、つまり、全能の神のご支配を前提としてこの世界を見るというのが聖書の発想ではないでしょうか。

 

それは恐ろしくもあり、慰めでもあります。実際、「あなたは私を調べ、知っておられます(1節)というのも、自分の醜さがすべて顕にされるという意味では、恐怖でしょう。エデンの園で、「食べてはならない」と言われた木の実を取って食べたアダムは、神から「あなたは、どこにいるのか」と問われ、「私は・・恐れて、隠れました」と答えました(創世記3:9、10)

アダムの子孫として私たちは、自分の罪、弱さ、醜さが顕にされることを恐れます。しかし、キリストが既に私たちのすべての罪を赦してくださったことが分かるとき、「神様は私を助けようとして、私の弱さを調べてくださる」という気持ちになることができるのではないでしょうか。

 

私たちは、自分のことを分かっているようで肝心なことが分かっていません。ところが聖書の神は、「私」以上に、私の行動やことばが分かるというのです(2-4)

「私の思い(意図)を・・読み取り」とは、私が座るのか立つのかさえも、行動に移す前から、神は私の意図を知っておられるという意味です。同じように、神は、私がいつ、どうして活動するのか、休んでいるのかを、すべてに精通しておられ、また、私が何を話そうとするのかもご存じだというのです。

「私は、自分で自分のことが信じられないんです・・・」という不安に襲われるようなとき、「あなたこそ・・・私の・・・生き方すべてに通じておられます(2,3)と言うことができます。そこでは、自分が知られていることは「恐れ」ではなく、はかり知れない「安心感」の源とされています。

 

 「後ろからも前からも私を囲み(5節)という表現も、「逃げ道がない・・」という恐怖ではなく、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(Ⅱコリント5:14)という視点からは、後ろに目がついていない私たちに代わって、主が背後を守ってくださるという慰めと思うことができます。

また、明日のことが心配で、元気を失うときにも、私以上に私のことを知っておられる方が、「私を囲み、御手を私の上に置いてくださいます」と信じられるなら、明日のことが分からないことが、かえって、「神様。明日は何が起こるのか楽しみです!」という喜びの源になるのではないでしょうか。

そして、「そのような知識は(6節)は、私たちにとっては想像を超えた神秘ではありますが、それは「恐怖」というよりは、感動を呼び起こす「不思議」ではないでしょうか。

 

  しかし、人にはしばしば、神のご支配を嫌って、神から離れて生きたいという思いが湧き起こりますが(7)イエスの十字架の愛を知るとき、7-12節は、私たちが自分の失敗でいかに道を踏み外し、迷路に迷い込んでも、神はどこまでも私を見守り、救い出してくださるという保証とも思えます。

 

 「よみに床を設けたとしても(8節)とは、使徒信条の「主は・・・よみに下り」という表現との関係で考えられます。キリストを知る者にとっては、真っ暗な死の世界さえ、栄光に輝く天の御国への入り口となります。

 

 11,12節は、「私の人生は今まさに、真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、「神にとって闇は問題ではなく、いつでも私を見守っていてくださる」という慰めとして理解することができます。

 

 「あなたが、私の奥深い部分を造り・・・(13節)は、前節の「あなたには、闇も暗くなく」を前提として記されています。「奥深い部分」は、原文で「腎臓」と記され、いけにえの動物を屠(ほふ)るとき、最後に出てくる器官で、体の最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。

つまり、神は真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られた方なので、どんな時でも私たちの人生のすべてを理解しておられるというのです。当時は、「心」が心臓にあるように、「感情」の座は「腎臓」にあると理解されていました。それでここは、「神は、私たちが自分で制御できないような感情さえ造られた方なので、何も隠す必要はない」という趣旨として理解すべきでしょう。

人は心の内に沸き上がる気持ちを正直に受けとめ、神に訴えることができます。 

 

2.「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました。」

 「恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」(14節)とは不思議な感動に満ちた自己認識です。人はしばしば、本来の自分を否定して、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがあります。しかし、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます。

そして、私たちは自分のあるがままの姿を、それまでと違った目で見られたとき、「みわざがどれほど不思議かを、このたましいはよく知っています」と心から告白することができます。

 

レーナ・マリヤさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇139篇の英語訳をそのまま歌にし、神に向かって、「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」とみことばを繰り返しながら、まごころから歌っています。

私はそれを聞きながら不思議な感動に包まれ、身体が震えました。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。

 

彼女のお母様は最初、「神よ。どうして・・・」と思ったこともあったとのことですが、やがてそのいのちが、神ご自身の作品であることを感動するようになりました。その感動をお母様はレーナ・マリヤに伝え続けました。その結果もあるのでしょうが、それ以上に、彼女には生まれながら、その障害を補う好奇心や冒険心が与えられ、育まれ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。

彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として豊かに用いられています。

私たちは、障害や欠点と美しい賜物を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたものとして神の作品なのです。

 

私たちの多くの場合、肉体よりも心の不自由さが問題になります。これは見え難いと共に、矯正が可能と思われるからこそ問題が複雑になります。

私は中学校時代の担任に「神経質すぎる」と通知表に書かれたことがあります。その後、精神科医の斉藤茂太氏が記した「神経質を喜べ」という本に深く感動しました。それは、自分の気質を変えるべきものとしてよりは、積極的に受け入れるという道を示してくれました。

 

 昔から性格の三分類が一般的ですが、それは神から与えられた特徴として受け入れるべきものではないでしょうか。イエスの三人の重要な弟子の気質を次のように分類することも可能かもしれません。

 

第一は分裂気質(内面が分りにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼は、自分を「主の愛された弟子」と紹介しながら、自分のことをほとんど明かしません。

このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人をよく観察する目があることで交わりを保つことができます。彼による他の弟子の描写は見事です。

 

第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いの良いことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。

爽快と悲哀の感情の起伏が激しい性格ですが、自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友に支えてもらえます。

 

第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前はパリサイ人として迫害に熱心で、回心後は地の果てまで伝道し、使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。

一見、沈着冷静でありながら、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります(使徒15:36-39、マルコを巡ってバルナバと反目)。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。

 

それぞれ、感受性での敏感と鈍感、気分での爽快と悲愁、精神的テンポの速さと遅さという矛盾が共存し、対人関係の弱さを補う「観察」、精神的な落ち込みを補う「交わり」、感情的な失敗を補う「忍耐心」が与えられています。つまり、それぞれの気質に、神は絶妙なバランスをお与えになっているのです。

 

これとは別に、ユングは、心の構えが自分の外の客体に向かう外向型と、自分という主体に向かう内向型の発想の違いが、ルター対ツゥイングリ、フロイト対アドラーのような対立関係を生んだと分析しました。

使徒の中で外向の代表はアンデレでしょう。人と人とを結びつける働きをしているからです。内向の代表はトマスかもしれません。イエスの復活に関して皆の目撃証言を客観的現実と受け止める代わりに、自分自身で心の底から納得できることを求めました。「内向」は決してネクラという意味ではありません。

 

また、それぞれでの意識機能が合理性的機能としての思考と感情非合理的機能としての感覚と直感に区別されます。それぞれに、マタイ、ルカ、ピリポ、ナタナエルを当てることができるかもしれません。

マタイの福音書は驚くほどの論理的な構成で成り立っており、イエスの説教を秩序立てて記録しています。ルカの福音書は、私たちの感情に寄り添う表現が豊かで、読むだけで心が動かされる例話が豊富です。

ピリポは、現実感覚に優れ、男だけで五千人の群集にどれだけのパンが必要かを見分けましたが、イエスに向って父なる神を見せて欲しいなどと感覚を重視する傾向が見られます。ナタナエルは黙想の生活を大切にし、イエスとの対話ですぐにイエスがどのような方かを直感的に把握できました。

なおその中では、思考と感情が互いに排除し合い、感覚と直感が排除し合う関係が見られる可能性があるとも言われます。

 

これに加えて、マイヤーズ・ブリッグス性格指標検査では、上記の「心の構え」に関して、判断型と柔軟型という区別をつけます。たとえばイエスの兄弟ヤコブは「行いのない信仰は死んでいる」とはっきり語りました。一方、バルナバは、パウロとの第一回目の伝道旅行の際に途中で逃げ出したマルコを最後まで弁護し、福音記者にまで育てました。

これら二つの心の構え、四つの意識機能、また追加の二つの組み合わせから、16のパターンが区分けされます。ただし、各人の中に外向、内向などそれぞれ矛盾する傾向が共存していますから、安易に人にレッテルを貼るためにこれを用いてはなりません。

しかし、これらの違いを理解すると、人と人とがなぜ互いを理解し合えないかを優しく受け止められるようになります。キリスト教会では、これらの異なった発想を持つ人が豊かに組み合わされることで、交わりが広がるのです。

 

神は人を創造した際、「人が、ひとりでいるのは良くない(創世記2:18)と言われましたが、新約時代には信者の中に聖霊を与え、互いに排除する傾向の間に交わりを創造してくださいます。

一人ひとりは不完全でも、交わりを通して完全になるように召されているのです。交わりの中に神のみわざを認めましょう。

 

3.「あなたの御思い(意図)は、何と貴いことでしょう」

   そして、「私がひそかに造られ(15節)た様子が、「織りあげられ」と言いかえられますが、これは「模様を作る」とも訳せます。神は、私たちの思いをはるかに越えた形で、それぞれをユニークな個性を持つ者として造ってくださっているからです。

その意味で一人ひとりがかけがいのない存在であり、人が何と言おうとも、私たちはそれぞれ、神のはかりしれないご計画のために生かされている尊い存在なのです。

 

  聖書が語る罪の問題とは、「どなたに向かって、誰のために生きているのか?」という人生の方向性にあります。

アウグスチヌスが、神に向かって、「あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまでやすらぎを得ることができないのです」と告白したように、私たちの心が神に向けられている時、身体も心もすべての部分が生き生きとした調和を発揮できるのです。

 

「あなたの目は胎児の私を見られ・・」(16節)とは、神ご自身が、母の胎のうちで、私を組み立て、織りあげられた時、この「」をご自身の最高傑作として喜んで見ておられる様子を描いたものです。ですから、「あなたの書にすべてが書き記されました・・・」とは、寿命や運命がすでに決まっているという冷たい響きではなく、「あなたの御思い(意図)は、何と貴いことでしょう!(17節)という感動を生み出すものです。

「御思い(意図)」は、2節と同じことばですが、私が自分に対して抱く計画ではなく、神が用意してくださったご計画を意味します。しかも、それは、私がひ弱で、何の価値もなかったと見られていた時から備えられたものです。

また、「貴い」は、イザヤ書43章4節の「わたしの目にはあなたは高価で」の「高価」と同じで、神のご計画の貴重さの告白です。私がまだ姿も能力も現していない段階で、神は、私の人生に数え切れないほどの可能性を見ておられました。その御思いの「貴さ」こそが、私たちの人生を豊かにする源泉です。

 

神は一人ひとりをかけがえのない存在と見て、その一日一日を通して、ご自身の栄光を現そうとしてしておられます。それは「砂の数」(18節)に勝って多様なものだというのです。あなたは、「どうせ自分なんか、この程度しか期待されていなし、できもしない・・・」などと、神が備えてくださった可能性を自分で狭くしてはいないでしょうか。

そして、「目覚めのとき(18節)は、終わりの日の復活を指すとも思われますが、日常生活にも適用できます。毎朝の「目覚めのとき」、「私は・・あなたとともにいます」と喜びながら、「あなたは今日、私を通して何をしてくださるのですか?」と喜びの期待をもって、神に祈ることができるからです。

 

私たちはどんな状況のなかでも、自分を卑下したり、自己憐愍(れんびん)に陥ったりすることなく、「神よ。どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべて恵みの呼吸なのだから。・・・神よ。あなたが置いてくださったその場所で、咲かせてください」(著者不明、渡辺和子引用)と祈ることができます。

 

   一方、19ー22節は、この詩篇で極めて唐突な感じを与えます。しかし、私たちは神の御思いの貴さを知れば知るほど、それを妨害しようとするサタンとそれに従う者への憎しみが湧いてきて、「神よ。あなたが悪者を滅ぼしてくださったら良いのに(19節)と心から願わざるを得なくなるのではないでしょうか。

それは、「悪者を殺してください」という直接的な願いというより、悪者がのさばっている現実の中で、悪者がいなかったらこの世界は調和に満ちていたはずという憧れと理解できます。ですからイエスは、この世に悪が常にあるという前提のもとに、主の祈りで、「悪い者(サタン)から救ってください」と祈るように命じておらます。

 

 最後に、「私を調べ、私の心を知ってください。私を試し、その思い煩いを知ってください(23節)とは、1節を祈りにしたものです。それは、アダムが神から身を隠したのに対して、自分の心と思いを神に向って開こうとする姿勢です。

また、「私を試し・・」は、神の御思いの貴さを疑う不信仰な「思い煩い」をも、神に試し、正していただきたいという思いです。

続けて、「悲しみへの道」(24節)が、「とこしへの道」と対比されます。私たちは、神に敵対する者への憎しみを表現した後で、自分自身が神の貴い御思いに逆らう者であることに気づかされます。そこで私たちは、自分の罪を隠そうとしたアダムとは反対に、自分の罪、醜い思いを神の前に完全にオープンにして、神に取り扱っていただけるように願うことができるのです。

 

あなたの創造主は、あなたの生き方すべてに親しんでおられ、そのままの姿で輝くことができるように造って下さいました。しかも、私たちは自分の罪深さに失望しても、神は失望されません。

それは、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と記されている通りです。

そして、神は御霊によって私たちを再創造してくださいます。私たちは恥じなくて良い自分の性格を恥じたり、自分の能力の不足を「罪」と混同しがちです。実際、多くの人は、人の期待に添うことができないこと自体を罪と感じがちであり、劣等感と罪意識を混同していると言われます。

しかし、聖書の語る「罪」とは、神と人、また世界に対する関係の持ち方の問題です。自分の都合に目を向ける前に、神を、人を、世界を愛することがみこころです。

 

私たちは、もともと、人の助けなしには生きられない弱い存在に創造されています。しかし、神と人の助けが不可欠と認めるとき、反対に、あなたを通して神がご自身の栄光を表わされ、人に生きがいを与えられることができるのではないでしょうか。

 「あなたは罪の自覚が足りないから、神の赦しも分らない。もっと自分の罪深さを意識しなさい・・・」という勧めを聞きながら、神に向かって大胆に生きる前に、いのちの力を自分で抑圧する人がいるかもしれません。それでは、せっかく福音を信じていながら、いのちの喜びを味わう前に、生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主であり続けるということが起きかねません。

 

健全な罪意識は、創造のみわざへの感動と感謝から生まれるものです。「私は神の最高傑作として生かされている!」と真に自覚するとき、「私はもっと、神と人とに仕える生き方をしなければならないのに・・・」と示されるはずです。

そのとき人は、与えられたすべての賜物を積極的に生かしながら、いのちの喜びを感じつつ、神の創造された世界と人に向って愛をもって関わって行くことができるのではないでしょうか。

 

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2017年6月 4日 (日)

士師記13~16章「孤独なナジル人サムソン」 

  2017年6月4

サムソンの身体は驚くほど強いのに、心はどうしてこうも弱いのかと思われます。しかし、それにまさって不思議なのは、彼がイスラエルの民から完全に浮いていたことです。神の御霊に動かされながら、これほど孤独だった人がいるでしょうか。彼がこれほど女性の誘惑に弱い原因は、孤独かもしれません。

孤独はアダムの原罪の結果です。しかし神は、ヤコブの孤独の中に現れ、彼をイスラエルとされました。サムソンの物語の中に、神の民の物語を、そして、キリストの苦悩を読むことができないでしょうか。

 

1. 「主(ヤハウェ)の霊は・・彼を揺り動かし始めた」

サムソンはダン族の出身です。彼らに本来、割当てられた地は、現在のエルサレムからテルアビブに下る方面でしたが、地中海沿岸に侵入してきたペリシテ人が勢力を広げたため、彼らの多くは、カナンの地の最北部に移住しました。サムソンは、その不遇な部族の、しかもその残された氏族の中に生まれたのです。

ただ、その誕生のプロセスは、イサクやヤコブの場合のように奇跡的なものでした(参照:創世記171825章)。ただし、イサクの誕生は信仰の父アブラハムの、ヤコブの誕生は父イサクの必死の願いに応じてのことでした。ところがサムソンの誕生は、「マノアの妻、不妊の女」としか記されていない一人の女に、主の御使いが突然現れて告げられたことでした。そこにはマノアとその妻が信仰を持って願ったというようなことは一切記されていません。

(ヤハウェ)の使い」はただ一方的に、マノアの妻に向かって、「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」(13:5)と言われました。そして、これは夫のマノアに対しても告げられます(13:13,14)

 

不妊の女」が、自分や夫の期待を越えて、御使いの御告げを受けて男子を生むというのは、救い主の到来を告げたバプテスマのヨハネの誕生に似ています。ヨハネの誕生に際し、御使いは祭司ザカリヤに、「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます(ルカ1:15,16)と語ったことは、本来、ナジル人であるサムソンにもそのまま期待されていたことのはずです。

そしてヨハネの母エリサベツは聖霊に満たされて、訪ねてきたイエスの母マリアを「私の主の母」と呼びました(ルカ1:43)

つまり、サムソンの奇跡的な誕生には、神が新しい時代を開くという意味が込められていました。そしてペリシテ人との戦いを描いたサムソンの記事は、イスラエル全体に平和をもたらしたサムエルの誕生につながります。サムエルの誕生は、その母ハンナの必死の願いに基づくものでしたが、「不妊の女」からの誕生という点では同じです。

 

「ナジル」の語源は「分離」で、一般の民が一定期間、自主的に主への奉仕に身を献げる誓願をすることです。その間は、ぶどう酒を飲まない、死体に近づかないことと合わせて、髪の毛を伸ばすままにする必要がありました。

ただサムソンは、母の胎内から死ぬまでナジル人であり続けることが定められており、彼の不思議な力は、神の一方的な選びに由来します。神に選ばれ、愛されながら、その愛を忘れ、自分の肉の衝動のままに生き、誘惑に負け、ナジル人のおきての全てを破り、苦しみを受けるという彼の姿は、イスラエルの民の歴史の要約とも言えます。彼の歩みは、神の民のサンプルのようなものです。

 

不思議なのは、神の幕屋もレビ記の規定もあるこの時代に、祭司でもないマノアが自分の畑で、「全焼のいけにえを・・主(ウェ)にささげる」(13:16)ことが許されたことです。これはイスラエルの信仰共同体としての機能が麻痺しヤコブの時代の原点からやり直す必要があったことを示します。

その後、生まれた子は大きくなり、主は彼を祝福され・・(ヤハウェ)の霊は・・彼を揺り動かし始めた」(13:2425)と記されます。これらすべては、主がイスラエルをあわれまれた故ですが、彼らはそれにまったく気づきません。

 

なお、ギデオンの場合は、「(ヤハウェ)の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まってきて彼に従った(6:34)とギデオンの戦いの始まりが告げられていました。

エフタの場合も、「(ヤハウェ)の霊がエフタの上に下った時・・・ギルアデのミツパからアモン人のところに進んで行った」(11:29)という戦いの始まりが告げられます。ただ、エフタはその直後に、愚かな誓願を主に立てたことが記されますから、主の霊が下ることと、主のみこころに添った生き方をすることとは、意外にも密接な関係がないことが分かります。

ギデオンの場合もエフタの場合も聖霊が臨んだという記事は一度しか記されません。しかし、サムソンの場合はここを含め、146節、19節、1514節と四回続きます。まさにサムソン、士師記において、「(ヤハウェ)の霊」に動かされた人の代表であったとも言えましょう。

 

サムソンナジル人でありながら、ペリシテ人の妻を娶ろうとします。それはモーセもヨシュアもイスラエルの民全体に厳しく諌めていた恐ろしい罪です。それを奇跡的に誕生し、神に選ばれたナジル人が行なおうというのです。サムソンの父も母もそれに真っ向から反対しながら、ついには彼に同行してペリシテの町「ティムナに下って行き」ます(14:5)

ところが、主はそれを、「ペリシテ人と事を起こす機会」とされたというのです(14:4)。これは、主の霊が、私たちの信仰と無関係に働くことのしるしとも言えます。

 

そしてこのペリシテ人の支配地で、一頭の若い獅子が彼を襲ったとき、(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下って(14:6)、彼は素手のままそれを打ち殺します。これは、主(ヤハウェ)の民が、主以外の誰をも恐れる必要がないことを象徴的に現した記事です。

ただし、その後しばらくして、彼はナジル人でありながらその死体に近づき、その中に「蜜蜂の群れと蜜」を見つけ、死体で汚れた物を食べます(14:8,9)

 

その後、ナジル人でありながら、ペリシテ人の習慣に合わせた婚礼の祝宴を催し、ぶどう酒をたくさん飲んだことでしょう。

彼に付き添った30人はペリシテ人ばかりでした(14:10)。これは本来、「花婿に付き添う友だち(マタイ9:15)であるはずですが、サムソンに付き添うイスラエルの民はいませんでした。そこにいたのは、たぶんペリシテ人が乱暴なサムソンを抑えるために付き添わせた屈強な男たちでしょう。

 

サムソンは彼らが自分に敵対する者たちだからこそ、敢えて戦いのきっかけになりそうな「一つのなぞをかけ(14:12)それで賭けをます。それは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た(14:14)というもので、サムソンがライオンの死体から蜂蜜を集めたことを歌った詩でした。

当時の婚礼の祝いは七日間続きましたが、ペリシテ人たちはなぞを解き明かすことができず、サムソンに晴れ着30着などを与えざるを得なくなくなるのではないかと焦り出しました。彼らはサムソンの妻に「あなたの父の家を焼き払う(14:15)と脅しながら、彼女を通して解き明かしを知ろうとします。

彼女は泣いてサムソンに懇願し、彼は妻の懇願に負けて秘密をあかします。その結果彼らへの支払いが必要になります。

 

ところがここで再び、「主(ヤハウェ)の霊が激しくサムソンの上に下った」(14:19)と記されます。彼に主の霊が下ったことによって、別のペリシテの地のアシュケロンの住民30人から力ずくで晴れ着30着などを奪い取って、この賭けの支払いを済ませたと記されます。

彼の行為は、ナジル人の掟に反しますが、主はそれをも用いて、「最強の野の獣も、ペリシテ人も、恐れる必要はない!」と語っておられるようです。

 

神は、恐れに囚われて自滅に向っているご自身の民を救おうとされました。主の霊は、敬虔な人に授けられるという以前に、野蛮で不敬虔な人をも生かして用いる、神の御手の現われなのです。

 

2.「ひとりだけで千人を追う」という預言の成就と、主の前に静まること

その後サムソンは、「怒りを燃やして、父の家に帰った(14:19)と記されますが、サムソンの妻の父は、彼女がサムソンから捨てられたものと思って、彼女をサムソンの婚礼に付き添った30人のペリシテ人うちのひとりの妻にしてしまいました。しかし、サムソンはなおも彼女への愛情を保っており、子やぎをおみやげに再び彼女の家を尋ねて来ました。

そこで彼は、自分の妻が別のペリシテ人に嫁がされたことを知ります。彼にしてみたら、自分の妻はペリシテ人に脅されてサムソンのなぞかけの解き明かしを伝えたことで、彼はペリシテ人に晴れ着などを贈らざるを得なくなったばかりか、今度は自分の妻まで奪われてしまったと思えたでしょうから、怒り心頭に発しました。

それで彼は、ジャッカル(きつね」と訳す場合が多い)三百匹を捕らえ、尾と尾を結んで、その真ん中に松明を取り付け、それに火をつけて、ペリシテ人の麦畑に放ち、麦の刈り束の山から立ち穂ぶどう畑からオリーブの木に至るまでを焼きました(15:5)

 

それに対し、ペリシテ人はサムソンの妻だった女とその父を焼き殺します(15:6)。またそれに対し、サムソンはペリシテ人に徹底的に報復し、彼らを殺し、敵から自分の身を守りやすいエタムの岩の裂け目に住みます。その地が何処かは定かではありませんが、父の家の近くだったと思われます。

それに対し、ペリシテは復讐としてユダ族に対して陣を敷き、レヒを攻撃します(15:9)。そこはエルサレムの西20㎞余りにある村だったと思われますが、「レヒ」とは「あご骨」という意味ですから、この後のサムソンの戦いにちなんであとで命名されたのだと思われます。

ペリシテ人がユダの町を攻撃したのは、サムソンが属するダン族がほとんどいなくなっていたためだと思われます。その際、ユダ族は。自分たちが攻撃を受けているのはサムソンのせいだと分かると、ユダは三千人でひとりのサムソンをとらえ、ペリシテ人に引き渡そうとします

そのときユダの人々はサムソンに向かって、「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか・・」(15:11)と言いますが、これこそ神の民の堕落の象徴的なことばです。しかしサムソンは、同じ神の民との争いは避けて、縛られるままになります。彼の心の激しい痛みが察せられます。

 

しかし、サムソンレヒに縛られて来たときに、「主(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕を縛っていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から落ちた」(15:14)と四度目の聖霊の働きが描かれます。

その結果、彼は「ろばのあご骨で、千人を打ち殺した」というのです。これは、主がともに戦ってくださるなら「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」(ヨシュア23:10)預言されていたとおりのことでした。

一方、その反対に預言者イザヤは、イスラエルが敗北して行く姿を、「ひとりのおどしによって千人が逃げ」(30:17)と描いています。神の民にはこの地を治めるという使命が与えられています。この世の力に決して屈してはならない時があるのです。

イザヤではその直前に、「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかったと描かれます(30:15)

 

ここでサムソンは、「ひどく渇きを覚え、主(ヤハウェ)に呼び求め」あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました」と告白しつつ、「今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています」と訴えます(15:18)

人は、しばしば、大きな勝利の後、疲れを覚え、急に弱気になることがありますが、それは主との個人的な出会いの機会になります。そしてこの直後に、すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返ったと描かれます(15:19)

サムソンは、まさに、「主に立ち返る」ことによって、「生き返った」のでした。

 

しかし、他のイスラエル人は、「これを望まなかった」のでした。そんな中で、「こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。」(15:20)という記事が空しく響きます。

彼は士師として立てられながら、イスラエルを治めることはなかったからです。彼は孤独な戦いを続けただけでした。

 

3.愛するデリラによって売り渡されたサムソン

サムソンはペリシテ人の南の町ガザを訪ね、「ひとりの遊女」と一夜を共にします。ペリシテ人はこの機会にサムソンを捕えようと潜んでいましたが、彼は真夜中に目覚めて、町の門の扉と二本の門柱を引き抜いて、「ヘブロンに面する山の頂に運んで行った(16:3)と描かれます。ヘブロンはガザから東に約70㎞も離れた場所ですからそんな遠くまで運ぶ理由は分かりません。これはヘブロンの近くの山というよりも、ヘブロンに面する、ガザに近い山とも理解することができます。

とにかく、ここにはサムソンが女性の性的な魅力に驚くほど弱いことと、その不思議なほどの怪力の対比が象徴的に描かれています。

 

サムソンはその後、デリラという「ひとりの女」を愛します。彼女はペリシテの女です。ペリシテ人の領主たちは五人いたはずですが、彼らはそれぞれが銀1,100枚を支払うと約束しながら、彼女を通してサムソンの力の秘密を探り出そうとします。これは各30ポンド、総計150ポンド(67.5)で現代の銀価格からすれば約500万円に相当します。

サムソンは、三度に渡って嘘の情報を教えながら、彼女が自分を縛るのに身を任せてしまいます。何とも不思議です。普通ならこの女の悪意に気づくはずですが、「恋は盲目」ということばのとおりになります。しかも彼は、過去の成功によって、自分の力を過信していました。

 

デリラは彼に、あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう」と言いながら、愛の証を求めます(16:15)本来、これは主(ヤハウェ)ご自身が彼に言いたい言葉でしょう・・

孤独なサムソン「死ぬほどつらく」(16:16)なって、彼女を自分の神として、秘密を明かします。それは、髪の毛がそり落とされたらナジル人ではなくなり不思議な力を失うということでした(16:17)

 

デリラは、ペリシテ人の領主たちを呼びますが、そこで「彼らはその手に銀を持って上ってきた」と敢えて記されます(16:18)。それは、彼女が愛したのは、サムソンではなくお金であったことを示すためです。デリラという名には「礼拝者」という意味がありますが、彼女こそはお金の礼拝者で、平気でサムソンに偽りの愛を告白して、彼の心を惑わしました。今や、デリラという名は妖婦(誘惑女)の代名詞です。

そして、「彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ・・・彼の髪の毛七ふさをそり落とさせます(16:19)。何という不気味な表現でしょう。私たちもサタンの誘惑の中で安眠を貪り、自分の身を滅ぼす恐れがあります。

それにしても、サムソンは、かつて同胞によって、今度は最愛の人によって、売り渡されました。彼の孤独は、まさに後にイエスが味わうものと同じではないでしょうか。サムソンも孤独の中で、主との出会いを体験しましたが、それを生かすことができませんでした。彼には、さらなる孤独と挫折が必要でした。

 

力を失ったサムソンはペリシテ人にとらえられ、「目をえぐり出され」、青銅の足かせをつけられ、牢の中で臼を引く者にまで落ちぶれます(16:21)。しかし、次第に彼の頭の毛は伸びだします。不思議にもここに彼の心理描写は何もありません。ただ、髪が伸び始めるときが、神との交わりの回復のときとなったことは確かだと思われます。

彼は、やがて、ダゴンの祭りで見世物にされ、その神殿に連れ出されますが、そこで自分から願って、宮を支える柱のもとに立たせてもらいます。そこで彼は、再び、「主(ヤハウェ)に呼ばわり」ます(16:28)。彼は三種の御名を用いて、「主(アドナイ)、ヤハウェよ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神(エロヒム)よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください」(16:28)と祈ります。

そしてここでは、「主の霊が激しくくだり・・」という表現なしに、彼が宮を支える柱を動かした様子が描かれます。これは、主の霊が彼を動かしたというより、主が、彼の切なる祈り耳を傾けられたことを強調するためです。

 

その宮には、屋上だけでも三千人がいましたが、このとき「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった」(16:30)のでした。

そして、このときになって初めて、「彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下ってきて、彼を引き取り・・・父の墓に葬った」と、彼の仲間が登場します。

彼は、自分の命を死に明け渡すことで、神の民の敵に決定的に勝利し、交わりを回復しました。不思議に、イエスとは似ても似つかない野蛮人サムソンに、イエスの十字架と埋葬が示唆されています。

 

新約でも、パウロはナジル人としての誓願を立ててそれを全うしたことが示唆されています(使徒18:1821:24)。そして、彼は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:2)と命じました。

私たちは無力でも、神は偉大な方です。しかも、神は罪人の頭のようなサムソンさえご自身のみわざのために用い、最後には信仰の勇士の仲間入りをさせてくださいました(ヘブル11:32)

できるなら、彼のように、孤独のゆえに誘惑に負けて、死ぬときになって初めて目覚めるような生き方ではなく、今、このときから、孤独の中で、主との交わりを深める者とさせていただきましょう。

 

讃美歌333番の原歌詞は、Make me a captive Lord,(私を捕われ人としてください)という逆説的な祈りから始まり、「そのとき初めて、私は、自由になることでしょう」と応答されます。

続けて、「私が剣を捨てるように強いてください」と願いが歌われ、「すると私は、勝利者になることでしょう」と応答されます。

さらに、「私は、自分ひとりで立っているときに、人生の危機の中に沈んでしまいます。私をあなたの御腕の中に捕えていてください。すると私の手は強くなっていることでしょう」と閉じられて行きます。

 

  当時のイスラエルの不信仰のゆえにサムソンは孤独に追いやられ、誘惑に負けました。しかし彼は捕らわれ人とされた中で、主の御名を真剣に呼び求め、イスラエルに希望を残すことができました。それは私たちにも起きることです。

サムソンの強さの秘訣は、主の霊の働きにあります。それはギデオンやエフタに勝ります。しかし、サムソンほど不信仰でふしだらな人もいませんでした。主の霊は敬虔な人に働くというよりも、主が選んだ人に内に働くものです。

そしてサムソンは決定的な挫折を通して、主に祈る者とされました。私たちも御霊の働きでイエスを知り、そして砕かれることを通して祈りの人とされて行きます。

 

  旧約と新約の違いは、何よりも聖霊の働きにあります。今は、サムソンの上に働いた聖霊が、すべての信仰者の上に働いています。それはサムソンの場合と同じように神の選びから始まります。

彼は様々な弱さを抱えていましたが、御霊の働きによってこの世の富と力には屈することがありませんでした。

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