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2017年11月26日 (日)

エペソ1:15-2:7「私たちに与えられた救いとは」

                                         2017年11月26日

   会社勤めをしていた時、ついつい被害者意識で一杯になり、目の前の最低限の課題を果たすことしか見えなくなりがちでした。そんなとき上司から、「社長になったつもりで、もっと高い視点から自分の仕事を見なければならない」と言われました。実は、キリスト者として生きるとは、「イエス様だったら、どうされるでしょう(What would Jesus do?)」と問いかけながら生きることとも言えます。

私たちが「キリストのうちにある者」とされたのは、楽に生きられるためというよりも、矛盾に満ちた世界に遣わされるために他なりません。ダビデの生涯を見ると、サムエルから王としての油注ぎを受けた結果として、サウルから命を狙われることになり、散々苦しみました。しかし、ダビデはその試練を通して神との交わりを深め、イスラエルの王として整えられたのです。

そして聖書によると、私たちもイエスとともに新しい世界を治める王とされます。私たちがこの世で試練に遭うのは、帝王学の一環とも言えましょう。そして、私たちに与えられた「救い」とは、この世でイエスの大使とされた誇りを持ちつつ、イエスに倣って人に仕えるためなのです。

 

1.「神の大能の働き」が「キリストを死者の中からよみがえらせ・・・」

1章15,16節で、パウロはエペソ教会の人々の中に、「イエスに対する信仰と、兄弟姉妹への愛」を聞いているので、「私は・・・あなたがたのために感謝をささげることと、祈りにおいて覚えることを、やめることはありませんと言います(私訳)

そして私たちが人のことを大切に思うことは、その人に関しての「感謝」「祈りの中で覚え続ける」ということを「やめない」ということに現されるのではないでしょうか。

 

そして祈りの課題は、「神を知るための知恵と啓示の御霊を・・・与えてくださいますように」(1:17)というものです。

信仰の成長とは、何よりも真実の意味で「神を知る」ことですが、それは探求心の結果である以前に、神からの恵みとして与えられる「知恵と啓示の御霊」の働きによります。それこそが、新約の時代の恵みです。神の霊が「神を知る」ことができるにしてくださったのです(エレミヤ31:31、33,34参照)

 

 その上で、もっと具体的に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・知ることができますように」(1:18、19)と祈られます。

先の「神を知る」とは自分の側から理解するという面が強調されているのに対して、ここでの「知る」とは、「人と知り合う」というようなときに使われることばで、「自ずと明らかになってくる」という面が強調されていると思われます。それが三つの霊的な事実から記されます。

 

第一は、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」です。「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった生活が、人をどのような世界に導くかという「望み」が明らかにされます。

そして、その「望み」の内容が、第二に「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」が明らかにされるということで表現されます。これは10節にあった「一切のものが、キリストにあってひとつに集められること」であり、それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。

私たちは今、様々な芸術活動を通して、与えられた「望み」の豊かさを「心の目」に見せることができます。

 

第三は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」「知る」ことです(1:19)。そしてその「働く力」の源泉が、「神の大能の力の働き(エネルゲイヤ)によって」と説明されます。私たちは神を知性によって把握する以上に、自分のうちに「働く」神の力を体験的に知ることができるのです。

私たちが神のみわざに自分を開きさえするなら、肉の限界を超えたような働きをすることができます。それはマザー・テレサが大胆にも、「本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです」と語っているとおりです。

 

原文では先の「大能の力」を受けて、「それを神は、キリストのうちに働かせ(エネルゲン)て、彼を死者の中からよみがえらせ」(1:20)と描かれます。つまり、神の大能の力の働きは、何よりもキリストの復活の中に現されており、その力が信じる者にも働いているというのです。

そればかりか神は、復活のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(1:21)とも記されています。

 

この背景にダニエル7章の記述があります。イエスがユダヤの最高議会で死刑判決を受けたもっとも直接的な理由は、大祭司からの「おまえは神の子キリストなのか。答えよ」という問いに対して、「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来るのを見ることになります」と答えたことにありました(マタイ26:63,64)。

これはご自分をダニエル7章13,14節に記された救い主であることを証ししたのです。

 

そこでは、「見よ。人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は、『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と記されています。

ここでパウロも同じような表現を用いながら、キリストこそが父なる神から全世界の支配権をゆだねられていると言ったのです。それはイエスのダニエル書引用に基づきます。

 

なおイエスの裁判で、大祭司はそのようにイエスがご自身の権威を主張されたことを聞いて、自分の衣を引き裂きながら、「この男は神を冒涜した・・・あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ」と言いました。

キリストの発言は、まさに神への冒涜か、それとも真実であるかのどちらかでしかありません。私たちの信仰とは、私たちのためにご自身のいのちまで捨ててくださった方が、いまや、「王の王、主の主」として、全世界の支配権を父なる神からゆだねられていることを信じることにあります。

多くの人々にとってイエスは、愛の模範、また忍耐の模範であるかもしれません。しかし、イエスこそが今すでに、全世界を支配しておられるということは忘れがちではないでしょうか。イエスは、無力な捕らわれ人の姿をしながら、ご自身こそが父なる神からこの世界の支配を委ねられた「王」であると証ししたのです。

 

私はあるとき、「何で、こんな嫌なことばかりが続くのか・・・」と嘆きつつ、ヘンデル作「メサイヤ」を聞きに行きました。そこでハレルヤ・コーラスを聴きながら、一見、この地に暗闇が支配しているように思えても、すでに、天においては、イエスを「王の王、主の主」と賛美する声が響いているという霊的な事実が迫ってきて、身体が感動で震えたことがあります。

イエスはすでに全宇宙の支配者であられるのです。

 

2.神はすべてのものを、キリストのからだである教会に従わせた

ところで先のダニエル書の続きでは、しばらくの患難の後に実現する世界のことが、「聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た・・・国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(7:22,27)と描かれます。

つまり、キリストが全世界の王となることの延長に、クリスチャンたちも世界を治めることになると描かれるのです。

 

それを前提にパウロは、「神は、すべてのものをキリストの足の下に従わせ、この方をすべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はこの方のからだです」(1:22、23私訳)と記します。それは、「教会はキリストのからだであり、その方は、天上から地の上のすべて、今の世ばかりか次の世までのすべてを足の下に従わせておられる」という意味です。

つまり、「教会がキリストのからだであるなら、キリストが従えるありとあらゆるものが教会の下に従うことになる」のです。そして教会とはすべてのキリスト者の集まりですから、それはダニエルが預言したように、聖徒が世界を治めることを意味します。

 

パウロがコリント人への手紙第一で、聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか・・・私たちは御使いをもさばくようになります(6:2,3)と記しているのはこのためです。

そのことがヨハネの黙示録では、キリストにあって殉教した者たちが「生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」(20:4)と描かれ、新しいエルサレムですべての神のしもべが、永遠に王である(22:5)と記されます。

神がキリストを死者の中からよみがえらせ、ご自分の右に引き上げ、すべてのものを支配する権威を与えたという全能の力は、私たちの内側にも働いて、私たちを王とすることができるのです。

 

続けて、全世界を足の下に従わせる「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」と記されます(1:23)。これは、キリストご自身が、すべてのものの支配者としてご自身のからだに起こった問題や欠けを、ご自身の身体の一部を持って満たすということです。

これはたとえば、私たちの身体の中に何らかの問題や欠けが生じたとき、身体全体がそれをカバーするために動くというような作用を指します。それは私たちの集まりのただ中にキリストが満ち満ちておられるという意味です。

それは私たちの小さな共同体の中でも体験できますが、歴史的な視点から見ることもできます。たとえば今年は宗教改革500周年ですが、当時のプロテスタントはカトリックを全否定してしまったようでも、結果的には一時的な悲しみを通してカトリックに深い反省を促しました。今やカトリックとルター派の和解も進んでいます。

私たちは自分たちの教会の枠を超えた全世界的なキリストの教会が世界の歴史にどのような貢献をしてきたかも見るべきです。一人ひとりが「神のかたち」としてかけがのない存在であり、生まれ育ちによって人を区別せず、強い人が弱い人を虐げず、すべての人に医療や教育の機会を保証する必要があるなどという価値観はすべてクリスチャンから始まっています。それこそが、キリストにある「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」という当教会のヴィジョンです。

 

しかも、日本語の「教会」には「教えを受ける場」というニュアンスがありますが、ギリシャ語は「エクレシア」で、当時は、「市民権を持った者たちの会合」を意味しました。そこではひとりひとりが平等な議決権を行使し、自由都市(ポリス)の方針が決められました。

同じように聖書的な意味での「教会(エクレシア)では、すべての人が、神ご自身によって招かれ、かけがえのない、主体的な意思を持つ存在として集められています

自分をお客さんの立場に置くと、一時的には楽なようでも、それをいつまでも続けると、生けるキリストの力を身近に体験できなくなります。私たちは自分のからだの不思議さや精巧さを、特に、病気になったときに何よりも体験できます。同じように、地上の教会も、様々な困難を通して、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の全能の力の働き(エネルゲイヤ)を体験できるのです。

とにかく、「教会はキリストのからだ」なのです。神のみわざは、その身体の中に身を置いてこそ体験できます。

 

3.「神は、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ・・・」

   2章最初の文章の中心は、あなたがたは自分のそむきと罪との中に死んでいた者であり・・・(それらの中にあって)歩んでいました」にあり、これは、「死んでいたのに・・歩んでいた」ということ、つまり、「生ける屍だった」という意味になります。

その際、「そむきと罪の中に(を通して)死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、「罪とは何だろう・・、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか・・・」と疑問に思いました。ただそこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。

またその類語の「そむき(罪過)」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。つまり、「背きと罪の中に死んでいる」とは、見当違いの方向で必死に生きている人々、また見当違いの確信に立っている人々を指しているのです。

それは創造主を知らずに生きている人々、「神の救いを求めなければならないほどに自分は落ちぶれてはいない・・・」と強がっているすべての人が、神の目には生ける屍なのです。

 

   23節の原文では、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです。その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と記されています。

2節は異教徒の現実、3節はユダヤ人の現実と区別することもできますが、まとめて見た方が、意味が分かります。

まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っているというのです。「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味です。つまり、サタンは今、神と人との間に入り込んで、その関係を壊すために働き、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めているのです。

ここで「働いている(エネルゴン)ということばは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されて用いられます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

ところで、サタンに従って歩むとは、「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」とあるように、自分の生きたいように自由に生きるということに他なりません。

最初の人間であるアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は・・目に慕わしく・・・好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。つまりそれは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方に他なりません。

そして、神を忘れ自分の狭い正義感に従って生きることが、「御怒りの子」と呼ばれます。つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

 

そのように神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的なみわざが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:4-6)と記されます。

ここで再び、私たちが、「背きの中に死んでいた」状態にあったことが指摘されますが、それは自分の力で生き返ることができない人ですから、その救いは、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

 

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。

第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。「救い」の本質とは、死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。そのことが、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。多くの信仰者は「救い」を、問題がなくなるとか、苦しみから解放されることとはとらえても、「キリストとともに生きた者になる」こととしては捉えてはいないことがあります。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。これは遠い天国で初めて実現することのようでありながら、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していることかのように見ることができるのです。

私たちはときに、「救われた」と言われても、「何も変わっていないではないか・・・」という気持ちになることがあります。そのとき、この目に見える現実を超えた視点から「救い」の不思議を見るべきでしょう。

 

  なお7節は、この時間の観念を理解する鍵で、「それは来たるべき時代においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

 

   興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。

それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。それこそ救いの本質です。

 

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは「モーセの十戒」とも言われることばで最も大切な前文です。そしてこのエペソ書では、私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた」状態、「空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいた」状態から救い出されたこととして描かれます。

多くの人々は、心のおもむくままに自由に生きているようでサタンの奴隷状態にあると描かれているのです。そして、それからの「救い」とは、キリストがこの世界を治める王であるのに倣って、キリストとともに王になっているという自覚のもとにこの世界の様々な問題に立ち向かうことを意味します。

 

日本のサラリーマンもときに、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似て、ときに会社の奴隷のような状態に置かれているかもしれません。しかし、私たちには想像を絶する輝かしい栄光が保証されています。

それにも関わらず、それを深く味わうことを忘れ、「この世の時代に合せる」ことで、安心を得ようとしていないでしょうか。自分の願望のままに、また目の前の不安に駆り立てられて生きることこそ不信仰です。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です

そうならないために、日々、主(ヤハウェ)の前に静まり、主が私たちに約束してくださった壮大な救いのご計画に思いを馳せることが何よりも大切です。

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2017年11月19日 (日)

エペソ1:1-14 「三位一体の神の愛に包まれたいのち」

                                                 20171119

  私たちは父、御子、御霊の三位一体の神の愛に包まれて生きています。それを、「キリストのうちにある生活」と呼ぶことができます。

私たちは今、イエス・キリストの弟、妹として、その傍らに置いていただき、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることが許されています。しかも、そのような祈りを起こしてくださるのは、私たちのうちに住んでくださっている「聖霊」ご自身です。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と告白することはできません(Ⅰコリント12:3)と記されているからです。

信仰は徹頭徹尾、神から始まっているのです。

 

今年は宗教改革500周年ですがN.T.ライトは、「もしルターが、宗教改革の基本教理をガラテヤ書やローマ書からではなくエペソ書から語っていたらその後の世界が変わっていたかもしれない・・」とまで述べます。

当時の改革者は、カトリックの煉獄の教えを否定することに忙しすぎて、私たちの救いのゴールに関しての当時の人々の誤解を正すことまではできませんでしたが、エペソ書は個人の救いよりも宇宙的な救いの物語を語っています。

 

1.「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」

パウロはまず自分を、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」(1:1)と位置づけます。これは自分の使命が自分の意思からではなく、神の「意思(みこころ)によって与えられたものであるとの宣言でもあります。

そして、この手紙の受取人を、「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と描きます。「聖徒」とは、幕屋礼拝における祭司の務めに相当する立場で、その人が高潔な人格者であるなどというのではなく、神に近づくことを許されている者、聖なる神の領域に招かれた者という意味があります。「忠実(真実)」というのも、キリスト・イエスを信じている者という意味です。

もしパウロが私たちに手紙を書いたとしたら、「キリスト・イエスにある忠実な東京の聖徒たちへ」と書いたことでしょう。キリスト者はみな、聖徒であり忠実な者と、神の目から見ていただけるのです。

 

また、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(1:2)ということばに三位一体の神秘が隠されています。

まず、万物の源であられる創造主であられる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されています。神の御名を呼ぶとき、「父なる神」「主イエス」のお二方を思い浮かべ、その方から特別な「恩恵」を施していただいていること、また、御父と御子との愛の交わりの中に招かれているという圧倒的な「平和(平安)をいただけるということを受け止めるべきでしょう。

 

   その神秘が14節まで続くパウロの祈りと賛美の冒頭のことばに現わされ、神が「私たちの主イエスの・・・の父」と呼ばれます(3節)

そしてその方が「ほめたたえられ(祝福され)ますように」と祈られますが、その同じ「祝福」ということばで、「神はキリストにあって、天上(複数)にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われます。神が祝福されることと私たちが祝福されることがつながっているのです。

しかも、「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、「天上にあるすべての霊的祝福をもって祝福する」とは、神が与えてくださるものが地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味し、その内容が続いて説明されます。

 

 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(1:4)というのは途方もない宣言です。残念ながら人はときに、「こんな親のもとに生まれたせいで・・」とか、「こんな、ど田舎に生まれたせいで・・」などと自分の出生を恨んだり恥じたりして生きています。

大雪山のふもとで育った僕にとって、小学生の頃は、「東京の人」というだけで、何かまぶしい存在に思えたものです。しかし今は、自分は神の不思議なご計画の中で、あのど田舎の貧しい農家の長男として誕生するように選ばれていたのだと思うことができます。すると田舎がとってもいとおしく、美しく見えてきました。また父親を受け入れるに連れ、父に似た自分の性格や体形や歩き方まで受け入れることができるようになりました。

しかも、そのように自分を受け入れられたすべての基本は、自分をキリストのうちにある者として見ることができたということにあります。

 

そして原文では続けて新改訳5節の終わりの「愛をもって」ということばが4節の終わりに記されます。つまり原文の流れでは、「御前に聖なる、傷のない者とされる」ために、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」と記されているのです。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。それは同時に、「聖なる、傷のない者とされる」ことをも意味しています。何と神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。

 

ある牧師家庭で三人の実子の後に、ひとりの養子を受け入れていますが、養子と実子に本当に何の違いも感じないとごく自然に言っておられました。

しかも「子の立場に置く」ことは、「イエス・キリストを通して」なされると記されます。それは人の敬虔さや努力を越えた神の一方的なみわざによって、神が「ご自身のために」、「みこころの良しとするところにしたがって」行われるというのです。

しかも、これらはすべて「キリストにあって(3節)、「この方にあって(4節)、「イエス・キリストを通して(5節)行われるのです。すべてのことが、神「ご自身のために」行われ、私たちひとりひとりの出生以前から死後のいのちまでのすべてが、「キリストのうちにある」というのです。

たとえば、「小さないのちを守る会」における養子縁組の推薦や受け入れにおいては、その子がどんな親の遺伝子を受け継いでいるかなどの評価は一切行われません。すべてはただ養子を迎えたいという意志に基づきます。イスラエルの選びがその資質によらなかったように、私たちが選ばれるのも能力や資質の判定によるものではありません。

 

キリストのうちにある生活」とは、自分の罪を嘆く以前に、天地万物の創造主のかけがえのない子とされたという自覚と誇りをもって生きるということです。その順番が逆になると内省と自己吟味ばかりが先行する神経症的な信仰になってしまいます。

罪の自覚は、本来、その神の愛に応答できていないという反省から生まれます。それは私たちがときに、世の人々の歓心を得ようと卑屈になったり、世の流れに巻き込まれてしまうという自覚を持つことです。

しかも、神の子の立場は、自分の努力で勝ち取ったものありませんので、決して失う心配もありません

 

パウロが、神が「ご自身のために」「世界の基の置かれる前から・・・」と言うとき、そこには、「お前の運命は、何億年も昔から定められていた」という冷たい雰囲気は一切ありません。

このことばは、私たちの人生が、海に浮かぶ小船のように、そのときそのときの、まわりの環境によって徹底的に左右されるもののように感じられる現実の中で、それ超えた霊的な現実を示すものです。

既に与えられた「永遠のいのち」は、時間も空間も越えた神の御手の中に包まれ守られています。この世のいかなる力も、このいのちを奪うことはできません(ローマ8:38,39)。

 

2.「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」

そして、私たちの救いが、永遠の中で予定されていたことの意味が、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」(1:6)と説明されます。そこにこそ世界の存在の意味、また私たちの人生の目的があります。

17世紀の英国の改革派諸教会の合意としてまとめられたウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」との問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように導かれています。

 

なお、6節では3節にあった「キリストにあって」という表現が、「その愛する方にあって」と言いなおされています。そこには御父と御子との永遠の愛の交わりが示唆されています。それを前提に、この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(1:7)と記されます。イエスの血は、神との永遠の愛の交わりのうちにある方の貴い「」なのです。

しかも、「贖い」とは何よりも代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。それは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷状態から解放されたことを意味し、その後は、バビロン捕囚からの解放であり、当時はローマ帝国の剣の支配からの解放を意味していました。

それが、「背きの罪の赦し」と言われるのは、バビロン捕囚以降のイスラエルの隷属状態が、彼らの罪の結果だったからです。そして、全世界的にはすべての人間が死の力の支配下に置かれているのは、エデンの園におけるアダムの罪の結果だからです。

 

なお7節にあった「背きの罪の赦し」は、私たちの生活の中に具体的にどのような変化をもたらしているのでしょう。そのことが7節bから10節に記されますが、これは非常に複雑な文章で次のように訳すことができます。

 

「これは神の豊かな恵みによることです。それを、神は私たちにあふれさせてくださいました。まさに、あらゆる知恵と思慮とをもって、ご意志の奥義を知らせてくださったことです。

それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画が実行されるものです。

それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです。」

 

多くの人は、「罪の赦し」というと、死んでも天国に行けることと考えがちですが、ここでは何よりも、今まで明らかにされてこなかった「奥義mystery」が、今、気前よく私たちに知らされたことであると記されます。それは人間的な「知恵と思慮」を越えたことで、旧約聖書にさえ明確には記されていなかったことです。

新約の福音は、一見、単純に説明できる面もありますが、そこに今、圧倒的な恵みとして啓示された「奥義」は、人知をはるかに超えた、これまで隠されていた、神のご「計画」なのです。

そして神のご意志による「奥義」の内容とは、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」であるというのです。「キリストにあって」という真理こそが奥義と言えます。

 

申命記28章~30章に記されているように、神はモーセを通してイスラエル民に「祝福とのろい」の選択を迫りましたが、愚かにも彼らは「のろい」を選び取り、国を失ってしまいます。しかし、彼らが捕囚とされ、散らされた国々で神に立ち返るとき、神は彼らをあわれみ、彼らを再び「(ひとつに)集め」、約束の地での祝福を回復してくださると約束されていました(申命記30:1-6)

それがここではキリストにあって「ひとつに集められる」というのです。それがこの新約の時代には、ユダヤ人ばかりか、異邦人を含むより大きな枠で実現するということで、神に逆らってエデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫であるすべての人間に適用できることでもあるというのです。

私たちも自業自得の罪で、放蕩息子のような苦しみを味わい、そこでまことの神に立ち返るということがあります。神はそのような放蕩息子や娘たちをあわれみによって集め、「新しいエルサレム」に招き入れてくださいます。

 

ただし、「新しいエルサレム」というと、天国のイメージが抱かれがちですが、ここでは「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」として、救いのゴールが示されています。

それは私たちがこの矛盾に満ちた世界から解放されて、魂が天国に憩うということではなく、この地の様々な矛盾ばかりか、天と地の間にいて人を神から引き離そうとするサタンの働きという霊的な世界を含めたすべての矛盾や問題が、「キリストにあって」解決されることを意味します。

 

それは、イエスが主の祈りで教えられたように、「神のご支配(国)がこの地に実現すること」、つまり、「神の国」の完成のことです。それは神が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する(イザヤ65:17)と言われた世界が実現し、神の平和(シャローム)がこの地に満ちることです。

それは、この地がサタンに惑わされた人々の自己中心的な権力機構によって歪められている状態が正されることです。当時のユダヤ人はローマ帝国の支配から独立したダビデ王国の実現を待ち望んでいましたが、そうではなくキリストの支配が天と地のすべてに及ぶことです。

またすべての権力が、「王たちの王、主たちの主(黙示録17:14、19:16)であるキリストに従う世界が実現することです。それこそ旧約で隠されていた「奥義」なのです。

 

なお、3-14節は原文では長い一つの文章になっており、そこには「キリスト(のうち)にあって」と明確に記されている文節が三回登場します(3,10,12節)。また、「この方にあって」ということばは6回です。この二つを合わせると9回、さらに6節では「愛する方にあって」という表現もそれに加えてあります。

つまり、私たちの「救い」とは、「キリストのうちにある者」とされたこととして描かれており、それがさらにこの目に見える全世界が、「キリストのうちにひとつに集められる」こととして描かれているのです。

私たちは自分に与えられた「救い」を、民族的、文化的、社会的な束縛の枠を超えた、「キリストのうちにある生活」として再定義する必要があるのではないでしょうか。

 

3.「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」

そして11節と14節では、「御国を受け継ぐ」と訳されていることばがありますが、原文では「御国」という目的語なしに「受け継ぐ」とのみ記されています。なぜなら、「神の国を受け継ぐ」と明確に記すと、一人一人の「神の国」のイメージが先行するからではないでしょうか。

救い」は、地上のダビデ王国の実現や、肉体が死んで魂が天国に憩うことなどに留まらないからです。それは10節の「キリストにあって、一つに集められる」世界のことを指します。そして、11-14節も以下のように訳すことができます。この訳によって、原文の強調点が明らかになります。

 

この方にあって、私たちは受け継がせていただくことになったのです。それはあらかじめ定められていたことで、すべてをご意志の計画のままに働かせる目的に従っているのです。

それは前からキリストにあって望みを抱いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者とされるためです。

この方にあってあなたがたも真理のことばを聞きました。それはあなたがたの救いの福音であり、また、この方にあって、信じることによる約束の霊によって証印を押されました。その方は聖なる方です。

その方は、私たちが受け継ぐことの保証(頭金)です。それは私たちが神の所有として贖われ(解放される)までのことです。それは神の栄光がほめたたえられるためです。」

 

ここでの中心は、私たちが未だ最終的な「贖い」または「解放」を見てはいないけれども、すでにそれを「保証」する頭金が支払われているということです。

それはまだ家のローンが残っているにも関わらず、「保証金」(頭金)を支払ったので、その家での生活を自分の所有物として満喫できるようなものです。または頭金を支払ったので、まだローンの残っている高級車を走らせて喜ぶことができるようなことです。

そして、「聖霊」こそがその頭金のようなもので、私たちはその約束の御霊によって、来るべき世のいのちを今から味わい、喜ぶことができます。

 

なお当時は、ユダヤ人でもない異邦人に、律法の行いを越えて神の選びが広げられるということは、奇想天外なことでした。しかし、彼らにも聖霊のみわざが示されたとき、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人に対する神の選びの計画を認めざるを得なくなりました。

ここで、「約束の聖霊によって証印を押された」と記されていることは、婚約指輪を授けられたこととも言えます。聖霊ご自身が、将来の小羊との婚宴を私たちに保証してくださいました。

また、「約束の聖霊」とあるのは、預言者イザヤもエレミヤもエゼキエルも、イスラエルの民に聖霊が与えられ、彼らが真心から神の教えを喜び、唯一の神だけを礼拝するようになるという日の到来を約束していたからです。「聖霊」は、「神の国」の完成に招き入れられる身分証明書のようなものです。

そして、私たちが自分の罪を認め、十字架にかけられた方を、自分の人生の主であると告白している中に、神の民とされたことの証明がみられるのです。

 

11節の「受け継ぐ」に続くことばは、5節の冒頭と同じように「あらかじめ定められていた」ですが、ここではさらに、「すべてをみこころ(ご意志)による計画のままに行う方の目的にしたがっている」と記されています。

強調点は、神の意志は必ず実現するということです。ここで「行う」と訳されていることばの原語は「働かせる」とも訳すことができる「エネルゴン」というギリシャ語で英語のエネルギーの語源となったことばです。

義人ヨブは、途方もない苦難に会いながら、その意味を神に尋ねました。そのとき神は、ヨブに災いの理由を説明する代わりに、ご自身の全能性を示されました。ヨブは、その後、災いのただ中に置かれながら、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました(ヨブ42:2)と告白します。そして何と、ヨブに目に見える救いが与えられるのは、その直後のことです。

 

そして、このエペソ書でも、聖霊による保証が与えられた理由は、最終的な「贖い」が実現していないという現実があるからと説明されます。そのことが14節では「それは私たちが神の所有として贖われ(解放される)までのことです」と記されています。

ただ、ヨブが災いの中に置かれながら、神のご意志、ご計画は必ず実現すると告白したことからすべてが変えられたように、私たちも旧約の預言者によって約束された聖霊を受けたものとして、神の救いのご計画、この世界の平和の実現がすでに確かなものとされていると信じて、神を喜ぶことができるのです。

「救い」は、「すでに」という部分と「まだ」という面の両方があるからです。

 

私たちの身体はまだ完全には神のものとされていないように見えます。ちょうど車のローンが残っているように、私たちはこの世の様々なしがらみになお縛られています。また、私たちの身体は自分の欲望に駆り立てられて様々な罪を犯します。

しかし、すでに、「聖霊」が「保証(頭金)」となっているので、私たちはこの世に属しながら、同時に既に、私たちの人生は神が自由に使ってくださるものとされています。ですから、聖霊を受けている私たちは、「新しい天と新しい地」のいのちが既に今から始まっているかのように、生きることができます。

そして、「永遠のいのち」とは、この世のいのちが永遠に続くことではなく、将来のいのちが今から始まっていることです。

 

しかもこれはすべて、「神の栄光がほめたたえられる」という目的のためです。このことばは、6節、12節、14節と三回も登場します。神はご自身の栄光のために、すべてのみこころを実現してくださるのです。

 

   私たちは矛盾に満ちたこの地にあって、すでに「キリストのうちにある生活」の自由と喜びを味わうことができています。それは私たちの意志によって始まったことではなく、私たちの思いをはるかに超えた神の「選び」から始まったことです。

信仰生活の中心とは、神に対して何かをする以前に、神が私たちにためにしてくださったことを繰り返し味わい、それを感謝することです。私たちは生まれる前から三位一体の神の愛に包まれていました。

そして、このいのちを誰も奪うことができません。それと同時に、私たちは神が目的を持って私たちを選ばれたことを知る必要があります。

この世界は平和(シャローム)の完成に向かってはいますが、神は私たちのために働きの場を残していてくださいます。その働きは、ある意味で、すべて成功が保証された働きです。

私たちは自由に自分自身を神のご計画に差し出すことができます。この世の中は、自分の身を守ることに戦々恐々としている人々で満ちています。その中で、私たちは「永遠のいのち」をすでに与えられていることの自由を証しすることができます。

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2017年11月12日 (日)

Ⅰサムエル27章~31章「あなたの明日を支配する主」

 20171112

   目の前の問題にどう対処して良いか分からず、不安に圧倒される人がいます。また、自分の過去の誤った選択を後悔し続ける人がいます。しかし、「キリストのうちにある生活」にあっては、誤った選択というのはないのかとも思います。

私は自分が就職の際に、「みこころを読み間違えた」と長らく後悔していましたが、振り返ってみると、祈りながら決めたという事実、また、主に祈りながら仕事をしていたという事実自体が、何よりも主のみこころに添っていたと分かりました。

主はあなたが自分の選択に責任を持つこと自体を喜んでくださいます。そのことが箴言36節では、「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」と保証されています。過去は変えられませんが、あなたが今ここで、繰り返し主に立ち返るなら、あなたの将来は、希望に満ちたものへと繰り返し変えられるのです。

 

一方、「占いや霊媒」に頼ることは、人が「神のかたち」に創造され、選択能力、責任能力が与えられていること自体を否定することです。

本日の箇所では、イスラエルの初代の王サウルが最後には霊媒に頼り、自滅したことが記されています。その行為自体が、主の最後の怒りを買い、息子ヨナタンまで道連れにされました。あなたの明日を支配する主に信頼して困難に向かうこと自体が主のみこころです。

 

1.ペリシテ人の地に身を寄せたダビデ

 サウルダビデを殺そうとした自分の行為を反省しましたが、残念ながら、簡単に反省する人は、愚かな行動を何度でも繰り返す人でもあります。ダビデはそれが改めて良くわかったので、イスラエルの敵であるペリシテの地に逃れようと考えました(27:1)。これは単に、「敵の敵は味方」と言われる常識に従ったものです。

ダビデは以前、一人でガテの王アキシュのもとに隠れようとして、その家来たちに気づかれ、気が狂ったふりをして命からがら逃げたことがありました(21:10-25)。しかし、今度は六百人の家来とその家族を引き連れ、正々堂々と助けを求めました(27:2,3)

それはアキシュに雇われて彼のために戦う傭兵となるという意味です。そして、サウルもそれを知ると、二度とダビデを追おうとしなかったのでした(27:4)

 

アキシュにとってもサウルこそが当面の敵でしたから、ダビデを保護することは敵を分断する上で役に立つと思ったことでしょう。ダビデは自分の部下とその家族が地方の町に住まわせてほしいと願い出、アキシュはダビデに南部のユダとの国境地帯の町ツィケラグを与えます。そこは南のアマレクを中心とした異民族の攻撃にさらされている町でした。

そこでダビデはその周辺の異教徒の集落を襲い男も女も皆殺しにしたというのです(27:9)。神はかつて約束の地のカナン人の聖絶を命じておられ(申命記2:34,7:2)、特にアマレクに関しては、神が「燃える御怒りをもって・・罰する」(28:18)ように命じられていました。サウルはそれに従わず、ダビデはそれに従ったとも解釈できます。

ただ、それにしても、ダビデはアキシュに対して自分がユダ及びその同盟関係にある町々を襲ったと嘘の報告をしたばかりか、それを隠蔽するためにその住民を皆殺しにしたと記されていることには心が痛みます。ただ、三千年前のことを現代の常識で判断はできません。これは、キリストが罪人のために死んでくださる前のことだったからです。

 

ダビデの問題は別のところにあります。彼はペリシテ人のために戦わざるを得ない立場に自分を置いてしまったのです。アキシュはダビデを信用して、「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている(27:12)と思った結果、ペリシテ人がイスラエルと戦おうと軍隊を召集したとき、彼はアキシュの「護衛」として共に出陣するはめになってしまいました(28:1,2)

彼はサウルを恐れるあまり、神の民の敵となってしまう危険に身をさらしています。彼の行動は人間的な計算が先走り過ぎています。

 

2.不安のあまり霊媒師を訪ねたサウロ

  このときペリシテ軍はガリラヤ湖の西南約30kmにあるイスラエルの肥沃な戦略拠点イズレエル近郊の北方のシュネムに陣を敷き、決戦を挑んできました(28:4,29:1参照)

一方、サウルは全イスラエルを召集してその南のギルボア山に陣を敷きながら、「ペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた(28:5)と描かれています。それは、主のさばきによって「恐れ」の霊に囚われていたからとも言えましょう。

 

そこで、「それで、サウルは主(ヤハウェ)に伺ったが、(ヤハウェ)は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった(28:6)と記されますが、それはまさに自業自得です。かつてサウルに忠実だった祭司アヒメレクは、サウルがダビデの命を狙っていることを知らずに、逃亡中のダビデにパンと剣を与えましたが、それを聞いたサウルは、アヒメレクの弁明を無視して彼を殺したばかりか、同じ町の祭司85人をも虐殺したからです(22:14-19)

彼は、自分の思い通りにならないと、自分の助けとなった人々を次々と排除しました。それが、サムエルでありダビデでもあり、主(ヤハウェ)の祭司たちでした。

 

   不安に圧倒されたサウルは家来に「霊媒をする女を探して来い」と奇妙なことを言います。そしてペリシテの陣営シュネムの北東の地「エン・ドル」に霊媒師を発見し、サウルは変装してふたりの部下を連れて彼女を訪ね、助けを得ようとします。しかし、サウルは以前に、主への信仰の証しとして「霊媒や口寄せを断ち切った」のですから、大きな自己矛盾です。

彼女は命の保証を得て、すでに死んでいる「サムエルを呼び出し」ます(28:11)。このときになって彼女は、依頼人がサウルであることに気づき怯えます。

 

サウルが、以前自分が殺害しようとした霊媒師に助けを求めるというのは、彼の絶望感がどれほどかを現わしています。これは、人が不安に負けると、絶対と思われた善悪の基準さえも超えてしまうことの一例とも言えましょう。レビ記によれば、神の民でありながら霊媒師に頼る者自身も、またイスラエル内に住む霊媒師自体も、「必ず殺されなければならない」と厳しく命じられていました(20:627)

その問題がイザヤ819節で、「人々があなたがたに、『霊媒や、ささやきや、うめく口寄せに尋ねよ』と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか」と記されます。

サウルにしてみたら、主がお答えくださらないので、霊媒に尋ねたという理屈かと思われますが、「主は・・・お答えにならなかった」ということ自体が「主からの答え」であることを知るべきでした。サウルに対して神のみこころは、十分に知らされていました。もちろん明日のことは隠されていますが、それは神が人に、今ここで主に仕え、また人に仕えることに専念することを命じておられるからです。 

 

3.霊媒師に呼び出されたサムエルが告げたことば

不思議にも、この霊媒師の女の呼び出しに応じて、死んでいるはずのサムエルが彼女の目に見えるように現れます。サウルはその様子を聞いて、「その人がサムエルであることが分かって、地にひれ伏し、拝した」というのです(28:13-15)

そればかりか、「サムエルがサウルに」、「なぜ、私を呼び出して、私をわずらわすのか」と語りかけ、サウルも、「私は困りきっています・・・どうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました」と応じています(28:15)

この現象は、何とも不思議で、様々な解釈が成り立つのでしょうが、この女は本物の霊媒師と言えます。世には多く偽霊媒師がいますが、麻薬と同じように、本物こそ恐ろしい災いをもたらします。それよりも彼女を通して何が示されたかに注目すべきでしょう。

 

呼び出されたサムエルがサウルに語ったことは、これまでの繰り返しに過ぎませんが、唯一新しいことは、「(ヤハウェ)は今日、このことをあなたにされたのだ」とのことばです28:16-18。ただしこれは単に、主がサウルにお答えにならなかった理由を述べているもので、主がサウルを退けたということを改めて示したに過ぎません。

そして、さらに神のさばきが、「(ヤハウェ)は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう」と告げられます。これはサウルとその息子たちが、サムエルが死んでいるのと同じように、死ぬという意味に他なりません(28:19)

 

これは、未来のことが霊媒によって明らかにされたとも理解できますが、それ以上に、サウルが霊媒に頼ったということに対するさばきが下ったと考えることができないでしょうか。サウルはまさに墓穴を掘ってしまったのです。

事実、Ⅰ歴代誌1013,14節では、「サウルは主(ヤハウェ)の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主(ヤハウェ)のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主(ヤハウェ)に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された」と記されています。

サウルからしたら、「主に伺った」にも関わらず、主がお答えくださらなかったので霊媒に頼らざるを得なかったという気持ちでしょうが、実際には、サウルにはそれ以前から十分に主のみこころは知らされていました

彼が聞きたかったのは、目の前のペリシテとの戦い方でしたが、彼がそれ以前から真剣に尋ね求めるべきだったのは、主ご自身との関係をどのように回復できるかということだったのです。それは私たちの場合も同じです。そして、真に必要なみこころは昔から十分に知らされているのです。

 

それにしても、呼び出されたサムエルから、サウルの息子でダビデの親友であったヨナタンの死までもが示唆されることは大きな衝撃です。

それは、主(ヤハウェ)ご自身が「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト20:5)と警告されていたことが成就することとも言えます。つまり、サウルが霊媒に頼らなかったとしたら、ヨナタンが翌日死ぬ必要はなかったのかもしれません。

 

サウルはサムエルのことばを聞いて、「地面に倒れて棒のようになり」ます(28:20)。それは、「おびえた」たからであるとともに、「一昼夜、何も食べていなかったので、力は失せていた」からです。それを見た女は、肥えた子牛をほふり、パンをすぐに焼いてサウルに強いて食べさせます。

皮肉にも、サウルは霊媒師のもてなしを受け、自分の死が待っている戦いに向って最後の力を受けたのでした(28:25)

 

4.絶望的な状況下で、主にあって奮い立ったダビデ

一方、アキシュの保護を受けていたダビデは、ペリシテの軍隊とともに、はるか北のイズレエルに向かわざるを得なくなりました(29:1,2)。そのままでは神の民イスラエルを敵に回して戦うはめになります。

しかし、幸いにも、そのときペリシテ人の首長たちはアキシュに対し、ダビデを同行させることに強く反対しました。それはダビデが戦いの最中に裏切る可能性と、彼の影響力の強さを警戒したからでした。

そこで、イスラエルの女たちがかつて、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたことがペリシテ人たちによって引用されるが不思議です(29:5)。このことばが登場するのは三回目です。これがサウルとダビデの物語の背景の歌として流れています。ダビデが人々から期待されていたしるしとも言えます。

 

それでアキシュはダビデに自分の領地に帰るように命じますが、その際、異教徒である彼が、「主(ヤハウェ)は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ」(29:6)と言っているのが印象的です。彼はダビデの忠誠を信じているという意味で言ったのですが、ダビデにはアキシュが主の御名を持ち出してそう語ったことは、まさに主からの招きと聞こえたことでしょう。

ダビデはそこで、(ヤハウェ)ご自身がペリシテ人の領主たちを動かして、彼が参陣せずに済むようにしてくださったと思えたことでしょう。彼は表面的には、アキシュに向ってわが主である王(原文)の敵と戦うために私が出陣できないとは」(29:8)と言いますが、内心では、ふたりの主に仕える矛盾から主によって解放していただけたことを感謝していたことでしょう。

 

   30章では、ダビデが三日目に自分の根拠地であるツィケラグに帰ったときの悲惨に直面する記事から始まります。そこは、アマレクの襲撃によってダビデの妻のアビガイルも、他の女たちも子どもたちも連れ去られたあとでした。ダビデも部下たちも、「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった」(30:4)ほどの絶望感に襲われました。

そればかりか兵たちすらも、「自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出し」てしまい、「ダビデは大変な苦境に立たされ」ます(30:6)。今までダビデに信頼して従っていた者たちも、最近のダビデの一連の行動に疑問を感じていたのでしょう。

ところが、ダビデは、その深い悩みの中で、「自分の神、主(ヤハウェ)によって奮い立ったというのです。彼は、悩みの中で、主(ヤハウェ)と出会っているからです。それは使徒パウロが「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白した通りです(Ⅱコリント12:10)。これは、サウルが霊媒師によって力づけられたのと対照的です。

 

   そしてダビデは、サウルが殺そうとした「アヒメレクの子、祭司エブヤタル」が持っていたエポデによって(30;7)、略奪隊を追うべきかに関して、主(ヤハウェ)伺いを立てます。そして主から、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」という、力強い、明確な答えを受けることができました(30:8)

ダビデがこのタイミングでペリシテ軍の陣地から帰還することができていなかったとしたら、「追いつく」ことは不可能になっていたはずですから、これらの悲惨のただ中にも、主の愛の配慮が見出されます。

 

ダビデとその部下600人が南に向かって追撃を展開しますが、アマレクとの境のペソン川では200人もの兵士が「疲れ切って」、そこに留まらざるを得ないほどの強行軍でした(30:9,10)。しかし、そこでアマレク軍から置き去りにされたエジプト人奴隷を見出し、道案内をしてもらうことができました(30:11-15)

それでダビデ軍はアマレク人の集団に追いつくことができましたが、彼らはおびただしい分捕り物に喜び、「お祭り騒ぎをしていた」最中でした(30:16)

そのためダビデはアマレク軍を簡単に討ち果たして退散させ、奪われたもの「すべてを取り戻した」ばかりか、新たに多くの羊と牛をも獲得できました(30:18-20)

 

ダビデの一行は、勝利の帰還の途中、疲れてベソル川のほとりに留まって戦いに参加できなかった200名の者たちに迎えられます。戦いに参加した人々の中の「意地の悪い、よこしまな者(ベリヤアルの者)たち」は、「取り戻した分捕り物」の分配を拒絶します(30:22)

しかしそこでダビデは、「(ヤハウェ)が・・・私たちを守り・・略奪隊を私たちの手に渡されたのだ」と説き伏せ、戦いに参加しなかった者たちにも同じ分け前を保証しました30:23,24。そしてそれが「イスラエルの掟」となったというのです(30:25)。それは、イスラエルの戦いの勝利の栄光は、戦った人たち以前に、主に帰されるべきであるという告白です。

 

そればかりか「ダビデはツィケラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って」、主が与えてくださった勝利を共に喜び合うことができました(30:26)。その送り先は、「ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった」と記されます(30:27-31)

彼は自分が受けた恩に報いることができたのです。つまり、神ご自身がサウル後のダビデの立場を固めてくださったのです。 

 

5.サウルの悲劇的な死

 31章の記事は29章に続くもので、30章のダビデの出来事と並行しています。そこでイスラエルはペリシテに大敗北を喫し、サウルの息子ヨナタンたちも打ち殺されました(31:2)。サウルは「ひどい傷を負った」とき、自分がペリシテ人たちに「なぶり者」にされることを恐れ(31:34)、道具持ちの者に自分を刺し殺してくれるように願いますが、「道具持ちは、非常に恐れ」、躊躇します。

その後のサウルの自害の様子が、「それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ」と簡潔に描かれます(31:4)彼は、惨めな死に方を避けたかったのでしょうが、神の目から見て、これほど惨めな死に方があるでしょうか。

彼は最後まで、主を恐れる代わりに人を恐れ、結局、主のみこころに反する自殺で自滅しました。彼は、どんなに苦しくとも、最後の瞬間まで、神に向かって悔い改めの祈りをささげることができたはずだったのです。

 

そして、道具持ちの者も、サウルの遺体を葬る間がなかったからなのか、彼のそばで自害します。そしてペリシテ人は、サウルの遺体を見つけると、その首を切り、その武具を偶像の宮に陳列し、「死体をベテ・シャンの城壁にさらした」(31:10)というのです。その町はイズレエルの東十数㎞西のヨルダン川沿いの大きな要塞都市で、これはイスラエルの敗北の象徴となりました。

サウルは自分がこのようなさらしものにされることを恐れたからこそ、自害したはずなのに、かえってそうされることを自分で選び取ってしまったのでした。残念ながら、自分で自分を滅びに追いやるというのがサウルの生き方の中心でした。

 

ただ、そこで「ヤベシュ・ギルアデの住民は」その「仕打ち」を聞くと、「勇士たちは立ち上がり、夜通し歩いて・・・サウルの死体と息子たちの死体を・・・城壁から取り下ろし」、遺体を持ち帰って手厚く葬ったというのです。ヤベシュはヨルダン川の東ですが、ベテ・シャンまでは二十数㎞の地にあります。

なおこの町はベニヤミン族に女がいなくなった時、四百人の娘たちを嫁に差し出した町で、サウルの王としての最初の働きもこの町をアンモン人ナハシュの攻撃から救い出すことでした。人々の愚かな争いの背後に愛の神の摂理を見ることができます。

伝道者の書に、「人が百人の子どもを持ち・・彼の年が多くなっても・・・墓にも葬られなかったなら・・死産の子の方が彼よりはましだ」(6:3)とあるように、神の民の中でも葬儀は非常に大切にされていたからです。

サウルを王として立ててくださった主(ヤハウェ)は、サウルを死に追いやっても、ご自身が選び、油注いだ者が辱められたままに置くようなことはなさいませんでした。

 

ダビデがサウルから逃れるためにペリシテ人の王に頼ったことは、決して、正しい選択であったとは言えません。しかし、主はペリシテの地においてのダビデの裏表のある生き方を叱責することなく、不思議な導きで、ダビデをペリシテ軍から引き離し、ユダ族との関係を深める方向へと導いてくださいました。それはダビデが「行く道すべて」において、「主を知る」という生き方を保っていたからです。

一方、サウルは目の前の出来事にいつも心が一杯になり、そこにも主のご支配があることを忘れて、心を揺らし続け、遂には霊媒にまで頼り、惨めな最期を遂げました。

私たちも目の前のことに心を煩わせがちですが、今ここですべてのことを支配し、すべてを益に変えることができる主に繰り返し立ち返ることが大切です。

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2017年11月 5日 (日)

Ⅰサムエル25、26章 「神の怒りにゆだねなさい」

  2017115

   人から不当なことばをかけられ、怒りのあまりひどい言葉を返したことがないでしょうか。人の悪には驚くほどの伝染力があります。ひどい仕打ちを受けた方が、「神様の目は節穴ではないから・・・」と言って、争いから身を引きました。やがて神はその立場を逆転させてくださいました。

「新改訳2017」では、主の救いのみわざが、「公義をもたらす」のかわりに「さばきを執り行う」、「地に公義を打ち立てる」の代わりに、「地にさばきを確立する」と訳されています(イザヤ42:3,4)。多くの人は「神のさばき」を恐れますが、不当な苦しみを負っている人にとっては「主のさばき」こそが「救い」となるのです。それはこの世の不条理が正されることを意味するからです。

確かに、「主のさばき」が自分に向かうなら、それは恐怖でしかありませんが、主イエスは私たちが受けるさばきを引き受けてくださいました。それこそが十字架の恵みです。そして、私たちはその「驚くべき恵み」(amazing grace)のゆえに、隣人を赦すことができるのです。

 

1.「あの男は善に代えて悪を返した」

  24章では、ダビデの謙遜と勇気によってサウルの心がやわらかくされ、彼はダビデを殺す計画を一時的にせよ止めることにしました。そのような中でサムエルの死と葬儀のことが報じられます(25:1)

もしサウルの心がダビデを殺すことに夢中になっているときであれば、イスラエル人がそろってサムエルの死を悲しむことはできなかったでしょう。人々はサムエルがダビデの側についているのを知っていたからです(19:18)

主は、サムエルのたましいをちょうど良いときにご自身のもとに引き上げてくださいました。

 

   その後、ダビデはユダの南部に広がるパランの荒野に下ります。ヘブロンの南10数キロの地のマオン「非常に裕福」な人がいましたが、その人は「羊三千匹・・持っていた(25:2)とありますが、ヨブの場合は「羊七千匹・・を所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった(ヨブ1:3)と描かれていることの対比でみても、その豊かさが特別であったことが分かります。

そして、「彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた」と描かれます。カルメルはマオンのすぐ北の地で、これは羊飼いたちにとっての大きな祝いの時でした。

そして「その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルと言った。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった」という不思議な対比が描かれます(25:3)「ナバル」とは「愚か者」という意味(25:25)、「アビガイル」とは「私の父は喜ぶ」という意味で、この夫婦はすべてにおいて対照的でした。

ナバルが裕福であり得たのは「彼はカレブ人であった」と描かれるように、ユダ族の英雄カレブの子孫であったからでしょう。ナバルという名が親から与えられた名だとは思えませんが、人々からそのように呼ばれるということの中に、彼が人々から疎まれていた様子がうかがえます。

 

ナバルが羊飼いの祝いの最中であることを聞いたダビデは、若者十人をカルメルに遣わし、羊飼いを敵の攻撃から守り続けてきたことへの報酬として、荒野に住む自分たちにも祝いの食べ物を分けて欲しいと頼みました。そこには同じユダ族として同盟関係を確認するという意味もありました。

そこでダビデは、「あなたの若者たちに尋ねて見てください(25:8)と言いながら、ナバルに自分の羊飼いたちがダビデの部下たちに守られていた様子を確かめさせようとしました。

ところがナバルはそれを知ろうともせずに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている」(25:10)と言って、ダビデをサウルという主人から脱走した奴隷かのように嘲りました。

そればかりか、俺のパンと俺の水、俺の・・者たちのために俺が屠った俺の肉を、どこの誰とも俺が知らない者どもに俺がやるというのか(25:11私訳)と乱暴に言い放ちます。そこにあるのは、徹底的な自己中心、自分の見たいようにしか現実を見ようとしない頑迷さです。

それを聞いたダビデは、四百人を引き連れてナバルを襲おうとします。なぜなら、これはナバルがサウルと手を組んで、ダビデの敵となるという意思を明確にしたことと受け止めるのが当然であり、放置すれば同胞の間のどこにも住めなくなるからです。

 

   この一部始終を聞いた「若者の一人」「ナバルの妻アビガイルに」、「ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれた・・・羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは・・防壁となってくれました・・・ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません(25:14-17))と訴えました。

よこしまな方」とは、「ベリヤアルの子」と原文で記されています。それは「サタンの子」とも言いかえることができます。箴言1627節には、「よこしまな者は悪を企む。その唇の上にあるものは焼き尽くす火のようだ」と記されていますが、ナバルがダビデの立場を皮肉ったように、彼らは人を非難する能力が長けています。それで周りの人は怖くて、当然言うべきことが言えなくなります。

ナバルとサウルは似ています。ヨナタンが父サウルに対しダビデを弁護すると、「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえが・・母親の裸の恥をさらしているのを・・」(20:30)と罵りました。これでは誰も何も言えなくなります。

 

詩篇1094節でダビデは、「私の愛に代えて 彼らは告発で応じます。私は祈るばかりです。彼らは善に代えて悪を 愛に代えて憎しみを 私に返しました」と記しますが、それこそ彼がナバルに抱いた気持ちです。

告発する」を名詞形にすると「サタン」です。私たちはサタンというと人の心や体を狂わせる存在と考えますが、サタンに動かされる人は、人間的な正論で相手を追い詰めるとも言えます。

ですからペテロがイエスの十字架預言を聞いて、「主よ・・そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌めたとき、主はペテロを、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱責されました(マタイ16:23)。ペテロのことばは人間的に考えると正論で、主の人間としての弱さを刺激して、「つまずかせる」ほどの力を持っていたからです。

 

 ナバルの妻アビガイルは、このままでは一族全員が滅びる危険にあることをすぐに理解し、六百人を養うに足るほどのパンとぶどう酒、料理した羊などを用意してダビデのもとを訪ねます(25:18-20)。彼女が夫に事前にそれを相談しなかったのは、彼に聞く耳がなく、時間的な余裕もなかったからでしょう。

 

ダビデはこのときナバル一族を絶滅することこそ神のみこころであると確信して攻撃に向かおうとしていましたが(25:22)、実際はただ怒りの感情に身を任せていただけだと思われます。

彼は、「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それはまったく無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した」と言って、ナバルの一族を子供に至るまで皆殺しにするのが神のみこころであるという趣旨のことを述べています(25:21,22)

善に代えて悪を返した」ということばは先の詩篇109篇にもありますが、そこでは、その家族と子孫すべてに対する神のさばきを訴えています。それこそこのときのダビデの気持ちだったと思われます。

ただ、このときのダビデの問題は、それを神に向かって祈る間もなく、それを神のみこころと自分で確信して、復讐を正当化していることにあります。

 

2.「主(ヤハウェ)はこのしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。」

アビガイルはダビデを見るやいないや、その激しい怒りを察し、ひれ伏して、「この私の上にだけ、わが主よ、とがを置いてください」(25:24私訳)と懇願します。これは、家族や奴隷全員の代表者として自分の命を差し出すという捨て身の姿勢です。ダビデもこの美しい女性の気迫に圧倒されたことでしょう。

しかも、彼女は夫を「愚か者」と蔑んでいるようでありながら、「はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません」(25:25)と言いながら、自分こそ家の責任者としてさばかれるに価する存在だと訴えているのです。

その上で、「ご主人様。今、主(ヤハウェ)は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。(ヤハウェ)、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました(25:26)と、(ヤハウェ)が自分をダビデのもとに遣わしたと大胆に迫っています。

 

その上で初めて、贈り物を差し出しつつ、自分の「背きをお赦しください」と懇願します(25:28)。そして、彼女は「怒り」に満ちた彼の心をやわらげ、余裕を回復させる宝石のようなことばを述べます。

それが、「ご主人様は主(ヤハウェ)の戦いを戦っておられる・・・ご主人様のいのちは、あなたの神、主(ヤハウェ)によって、いのちの袋にしまわれています・・・主(ヤハウェ)が・・あなたをイスラエルの君主に任じられたとき・・・理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様のこころの妨げになりませんように」(25:28-31)という表現です。

これほど、神のご計画と救いの確かさ、また神の前での責任を明らかにしたことばを見たことがあるでしょうか。このことばは、キリストとともに王とされる私たちすべてに適用できるものです。まさに聖霊ご自身がアビガイルを用いられたことの証でしょう。

 

そしてダビデも、主がアビガイルを自分のために遣わしてくださったと、主を賛美しました(25:32)。そして、彼女に、「あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神は生きておられる。主は私を引きとめて・・・」(25:3334)と彼女と神に感謝しました。

 

一方、ナバルは何も知らずに「王のような宴会を開いて」(25:36)いました。アビガイルは翌朝、「ナバルの酔いがさめたとき」になって初めて経緯を知らせます。すると、彼は気を失って石のようになった・・・十日ほどたって、主(ヤハウェ)はナバルを打たれ、彼は死んだ」(25:37,38)というのです。

ダビデはそれを聞いて、「主(ヤハウェ)は・・このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。(ヤハウェ)はナバルの悪の報いを、その頭上に返された」(25:39)と賛美します。ダビデが復讐しなくても、彼は自滅したからです。

 

ダビデは「ナバル」(愚か者)という単語を用いて詩篇14篇ばかりか53篇でも、「愚か者(ナバル)は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている、忌まわしい不正を行っている」(53:19)と歌ったのかもしれません。

そこでは続けて、「見よ。彼らは恐れのないところで、大いに恐れた。神が あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ(53:5)と歌われています。ナバルは問題が解決した後の、「恐れのないところで、大いに恐れた」からこそ、「気を失って石のようになった」のでした。

それはレビ記2636節で神のさばきとして、「彼らの心の中に臆病を送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ・・・追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。

また、その詩で「あなたは彼らを辱めた」とあるのは、ダビデが自分で復讐することをやめたことで、かえってナバルの心を恐怖と恥で圧倒し、自滅させたことを意味します。

 

パウロはこのことを受けて「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい・・敵が飢えているなら食べさせ、渇いていたなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」(ローマ12:1920と私たちに勧めています。

復讐の代わりに、善を行なうことが、相手をかえって慌てさせることになるのです。それが、先の詩篇では「彼らを辱めた」ということにつながります。ダビデがアビガイルの助言に耳を傾け、彼女の行動をたたえたことが、ナバルへのさばきとなりました。

 

ダビデはアビガイルの知恵に感心し、三番目の妻に迎えます。それは当時としてはあわれみと見られました。

またそれによってナバルに属していた膨大な財産がダビデのものとなったと思われます。これらすべてが、(ヤハウェ)がダビデを名実ともに王とするために格別な恵みを注いでいるしるしでした。

 

3.「主(ヤハウェ)は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます・・」

   261節では再びユダ族のジフ人がダビデの居場所をサウルに告げたことが記されます。ジフ人は先に2319節以降の記事においても同じことをしています。そのときダビデは「仕切りの岩山(23:28)まで追い詰められましたが、ペリシテ人がイスラエル攻撃をしているとの知らせで、サウルはその防衛に向かわざるを得なくなり、彼のいのちは守られました。

「ジフの荒野(26:2)はナバルの家のすぐ北の地ですから、ダビデがアビガイルを妻に迎えナバルの財産を手にしたことは、ジフ人にとって脅威となりました。彼らは同族のダビデをサウルに売り渡した裏切り者としてダビデ軍の攻撃を受けても当然だったからです。サウルも一度ダビデと和解をしたものの、ダビデの軍事力の成長を看過することはできません。

 

サウルは三千人の精鋭からなるダビデ討伐軍を率いて来ます。サウルは「ハキラの丘」というところに野営しました(26:3)。そこでダビデはサウルの寝ている場所を見つけます(26:5)。そこでダビデは大胆にも、ヨアブの弟のアビシャイだけをともなって、サウルが寝ている野営地の真ん中に忍び込みます

サウルの枕もとの槍を見たアビシャイは、「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました」(26:8)と言いつつ、刺し殺す許可を求めました。しかしダビデは、「殺してはならない。主(ヤハウェ)に油そそがれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(26:9)と言って彼を差し止めます。

このやり取りは244-7節のエン・ゲディの洞窟でのこととほとんど同じです。ただそのときダビデは洞穴の奥にひっそりと隠れていたのに、今回は大胆にも、たったひとりのアビシャイだけを伴って敵の野営地の真ん中に立っています。

 

そこでダビデがアビシャイに言った言葉は前回よりもさらに信仰の要点を現わしています。そこで彼は、「主(ヤハウェ)は生きておられる。(ヤハウェ)は必ず彼を打たれる。彼の時が来て死ぬか戦いに下ったときに滅びるかだ26:1011と言います。

時が来て死ぬ」とは、ナバルのような突然死を指し、「戦い」で死ぬとはペリシテ人などの外国との戦いで落命することですが、ダビデは主のさばきがサウルに下ることを確信しています。

それはサウルがほんの少し前に、ダビデが王になることを前提に、サウルの子孫を守ることをダビデが「(ヤハウェ)にかけて誓う」ことを求めたばかりだったからです(24:20,21)。彼はあまりにも軽々しく主の御名を持ち出しながら、平気で主に背く行いをしており、弁明の余地もありません。

 

ダビデが直接サウルに手を下すことは、神の代わりに自分をさばき主とするという越権行為になります。ローマ人への手紙1219節にある「神の怒りにゆだねなさい」とは、厳密には「御怒りに場所を空けなさい」と記されています。

それは申命記3235節で、主ご自身が「復讐と報復はわたしのもの」と言っておられるからです。自分で報復することは、その主のご支配を邪魔することになります。

ですから詩篇94篇では、主のさばきが遅いと思われる中で、「復讐の神よ 光を放ってください。地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に報復してください・・・いつまでですか 悪しき者が 勝ち誇るのは」と祈られています(23)

このように祈ることと、自分で報復することは天と地の差があることなのです。

 

しかもダビデは、サウルの枕もとの槍と水差しを取って無事に立ち去りますが、それは、「主(ヤハウェ)が彼らを深い眠りに陥れられた(26:12)からであると記されます。

そして彼は以前と同じようにサウルを真っ向から責める代わりに、まずアブネルの怠慢を責め、「槍と水差しが、どこにあるかを見てみよ」と迫ります(26:16)

このときになってサウルは気づき、以前のように(24:16)、「わが子ダビデよ」と呼びかけますが、ダビデは先のように「わが父よ(24:11)と言う代わりに、「わが君、王様」と距離を置く答え方をします。

そして、「もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主(ヤハウェ)であれば、主がささげものを受け入れますように(26:19)とまず言います。これは自分が主へのささげ物として殺されても構わないという意味です。

同時に「しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように」と言います(26:19)。それは彼らが自分を主(ヤハウェ)のゆずりの地から締め出し、他の神々に仕えさせようとすることだと説明します。

そして、「どうか今、私の血が主(ヤハウェ)の御顔から離れた地に流されることがありませんように」(26:20)と祈りますが、そこには死んでもこの地に留まりたいという思いが込められています。

  

そして、このときもサウルは「私が間違っていた。わが子ダビデよ。帰って来なさい」と言いますが(26:21)、そこにはダビデの手によって王国が確立するという以前のようなことば(24:20)はありません。ですからダビデもサウルの誘いには乗らずに、使いをよこさせて王の槍を返します。

そしてダビデは、「主(ヤハウェ)は、一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます」(26:23)と言います。彼は自分がサウルの手から救われるようにとは願わずに、主のさばきにゆだねています。

そして続けて、「あなたのいのちが私の目に大切であったように、私のいのちは(ヤハウェ)の目に大切にされます(26:24私訳)と述べます。この意味は、自分の善意にサウルが応じてくれるようにと願う代わりに、主が答えてくださるという確信です。

そこには、暗に、サウルが今後も心変わりをしてダビデを追い詰めることがあっても、主が守ってくださると宣言することでした。ここに人にではなく、主に期待するダビデの姿勢が見られます。

 

サウルもどこかでこれが最後の別れとなることを予期したのか、「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する」と述べます(26:25)

そして、最後に「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところに帰って行った」と方向の違いが記されます。

 

   私たちも善意が悪で報いられるようなときに、怒りの感情を制御できなくなりがちです。それは私たち自身の心と身体を害しますが、人の気まぐれがあなたを傷つけるのを許してはなりません

ただし自分で自分の気持ちを抑えようと頑張る代わりに、神に向かってその気持ちを正直に打ち明けることが大切です。先の詩篇109篇で、ダビデは熱くなって主のさばきを求めていましたがその最後は、「彼らは呪いましょう。しかし、あなたは、祝福してくださいます。

彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。

私を告発する者たちは侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ることになります・・・

主は乏しい者の右に立ち、そのたましいをさばく者たちから、救ってくださるからです」(28-31私訳)との告白で終わります。

そこに描かれるのは主にある心の余裕です。私たちが怒りに駆り立てられるのは、主のさばきが見えなくなって、心の余裕が失われているからです。その原点を主は変えてくださいます。

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