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2018年1月 1日 (月)

コロサイ1:9-20 「イエスの愛に包まれて歩む」

                                      201811

紅白歌合戦で「欅坂46」が歌い踊った曲が強く印象に残りました。何か、日本の固有の「同調圧力」の問題を的確に歌っている気がしました。秋元康さんの作詞ですが以下のような歌詞です。

 

僕はYesと言わない 首を縦に振らない まわりの誰もが頷いたとしても 

僕はYesと言わない 絶対沈黙しない 最後の最後まで抵抗し続ける 

叫びを押し殺す 見えない壁ができてた ここで同調しなきゃ裏切者か 

仲間からも撃たれると思わなかった   僕は嫌だ 

不協和音を 僕は恐れたりしない 嫌われたって 僕には僕の正義があるんだ

殴ればいいさ 一度妥協したら死んだも同然 支配したいなら 僕を倒してから行けよ!

ああ 調和だけじゃ危険だ ああまさか 自由はいけないことか
人はそれぞれバラバラだ 何か乱すことで気づく 新しい世界 
   僕は嫌だ 不協和音で 既成概念を壊せ 

みんな揃って 同じ意見だけではおかしいだろう 意志を貫け!

ここで主張を曲げたら生きている価値ない 欺きたいなら 僕を抹殺してから行け!

 

   ただ、同時に不思議に思ったのは、これを歌い踊っている46人がまさに、同調圧力の中で、同じ動作で踊り、シンクロすることを目指していることです。歌詞の内容とこの女性の集団の存在がそぐわないと思えましたが、これも日本の現実なのかとも思います。既成概念に抵抗するという人たち自身が自分たちの村社会で同調圧力の中に生きています。少なくともフランスでは、このような歌詞は何も新鮮に響きません。またこのような踊りも流行らないことでしょう。ここに日本の美しさと闇があるように思います

 

そして、そのような同調圧力のようなものは、日本の教会にもあるかもしれません。その中で、クリスチャンとして生きることに、息が詰まるような思いを味わっている人がいるかもしれません。

たとえば、信仰の成長を目指しながら、「自分の欠点を認めて、それを直していただく」という繰り返しの中で、成長しない自分に失望を味わってはいないでしょうか?しかも、変えるべきところは際限なく出てきます。あなたにとって神は、「将来を変えてくださる方」ということに留まってはいないでしょうか?

 

1. 「愛する御子の御支配の中に移された」ことを、感謝しながら歩む

   コロサイ教会は、エパフラスという無名の人の働きで生まれましたが、彼らはその福音では不充分なことのように感じて、ユダヤ人の伝統やギリシャ哲学の知恵を、さらに追い求めていたのだと思われます。しかし、パウロはそれに対し、届けられた福音を、まず感謝をもって受けとめ、それを、日々の「歩み」の中で体験できるようにと祈りました。

9-20節は、ひとつの文章で、すべては、パウロが「絶えず・・・祈り求めています(9)にかかります。ここからは、感謝に代わり、祈りの内容が述べられます。

それは第一に「神のみこころについての知識に満たされる」ことです。当時は、聖書といえば旧約だけでした。イスラエルの民に向けて書かれたことの中に、すべての民族の救いに関する神のみこころが明らかに啓示されていました。実は、旧約も極めて簡潔にまとめて理解することが可能なのです。

第二は、「主にふさわしく歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(10)という、「歩み方」に関する祈りです。

それは第一に「あらゆる良いわざのうちに実を結ぶ」こと、第二に「神を知ることにおいて成長する(10)こと、そして第三に「あらゆる力をもって強くされる(11)こと、そして第四に「御父に喜びをもって感謝をささげることができる」(12)ことです。

その四点目にこそパウロの強調点があります。つまり、キリスト者の歩みの核心は、自分の欠けを覚える前に、与えられた救いを「感謝」することなのです。

 

その感謝の根拠として、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出し・・」(13)とあります。アダム以来、自分が「神のようになる(創世記3:5)ことを願う全ての者は、前向きに生きているようでも、滅びに向かっています。

自分の弱さを克服し、競走に勝つことは、美徳とばかり言いきれるのでしょうか?一人の勝者の背後で99.9%の敗者が生まれ、その一人もやがて敗者になります。この競走原理こそ、まさに暗闇の圧制ではないでしょうか。

しかも、信仰に導かれてもなお、「一流のクリスチャンになりたい!」などと駆り立てられてはいないでしょうか?暗闇の支配者であるサタンは、エデンの園で、エバの目を「食べてはならない」という一つの木に釘付けにしました。サタンは今も、現状に不満を持つようにと誘惑し続けているのです。

 

私たちは、既に「(御父が)愛する()子のご支配の中に移」されています。そのことが改めて、「この御子にあってin、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています(14)と記されています。

ここでの「罪の赦し」とは「贖い」の言い換えですが、「贖い」の本来の意味は、代価を支払ってもらって、奴隷状態から解放されることを意味します。それはここでは、「暗闇の力の支配」から、「愛する御子のご支配の中に移された」ことを意味します。私たちはこの立場の変化を繰り返し味わう必要があります。

社会の矛盾を感じ、それに抵抗している人自身が、暗闇の支配下に置かれていることも多いからです。それは実際、革命運動に身をささげてきた人が、圧政を作り出してきたという現実に見られます

 

イエスがバプテスマを受けられたとき、天が開け、あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)という声が聞こえましたが、これは今、私たちへの語りかけとなりました。この声を聞く歩みこそ、御子のご支配にあることです。何よりも、イエスは御父が「愛する子」ですが、私たちも「御子にあってin、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得て(14)おり、神にとっての「愛する子」とされています。

 

確かに、自分の罪深さを認識することと、「こんな私が神の子とされた!」と感謝できることは切り離せない関係にありますが、自分の罪の自覚を深めることばかりに心を集中することは危険です。サタンも自分の罪深さは良く知っているのですから・・・。

ある人は、幼い頃から、道を踏み外さずに生きながらも、人生の意味を捜しあぐねて真の神に出会いました。しかし、その後、「私は自分の罪深さが実感できない・・」などと落ち込みました。しかし、その彼も、「救いのご計画の全体像が分かった時、初めて、この世の栄光を望む自分の罪深さに圧倒された」と言っています。

「救いが分かって、罪が分かる」という順番もあるのです。罪の本質は、神の愛の語りかけに応答しないことであれば、その方が望ましいとも言えます。感謝が伴わない歩みは、冷たい道徳主義です。それも、人を駆り立てる「暗闇の力」と言えるのかもしれません。

 

2. 「御子にあって、御子によって、御子のために」

  15-20節は「キリスト賛歌」とも呼ばれ、ひとつの詩のように整えられていますが、15節の始まりは、「彼は」という代名詞です。

つまり、この箇所は独立しているのではなく、「御父に、喜びをもって感謝をささげることができる」根拠として、御子のみわざが述べられています。御子が創造主であることを覚えることは、御父を忘れることではなく、賛美することになるのです。

 

  これは四部に分けられ、1516節と18b-20節が対応し、それにはさまれて、ふたつの短い文があり、前半で御子による創造が、後半で御子による世界の再創造が歌われています。このふたつの視点から、御子による「救い」をとらえなおすとき、私たちはより大きな自由を体験できることでしょう。

 

  世界は確かに罪に支配されていますが、目に見えるものを軽蔑することは御子による救いを誤解することです。「御子は、見えない神のかたちであり(15)とあるように、見えない神は、目に見える肉体を持つ御子を通してご自身を証しされたからです。

しかもこの方は被造物ではなく、世界が存在する前に父なる神から「生まれた方」であり、この目に見える世界ばかりか、目に見えない世界や御使いをも創造された方なのです。

ここでは、「御子にあって(in)」、「御子によって(through)」、「御子のために(into)」という見方が示されています(16)

王座も主権も支配も権威も」という中に、当時のローマ帝国による圧政も含まれています。確かに、ローマ帝国によって苦しめられた現実もありますが、少なくともヨーロッパから中東、アフリカ北部にいたる広大な地域から戦争がなくなり、自由な人々の往来が認められ、経済が発展し、多くの人々が豊かさを享受できたのです。それは、内戦状態や無政府状態よりははるかに望ましい社会でした。

私たちは、この地の制度や営みのすべてが、「御子にあって(うちにあって)成り立って(共に保たれて)いるという点をもっと感謝をもって見るべきではないでしょうか(17)

 

コロサイの信徒は、偶像礼拝に満ちた世界から救われたことの反動で、この世の仕事や知識、政治的な権威などの、見えるものをすべて否定したのだと思われます。それに対して、パウロは、罪に堕落した世界が、それでも滅ぼされずに保たれているのは、創造主である御子のみわざであることを思い起こさせたのです。

この異教社会の日本にも、イエスのみわざの影響を認めることができるのではないでしょうか。たとえば、一週間のリズム、結婚制度、基本的人権やいのちの尊重、平和主義、「愛」や「自由」ということば、その他、数え上げたらきりがないほど見られます。

この世界を批判ばかりして、そこにある美しさを見ることを忘れ、「赤ちゃんを汚れた水と一緒に捨てる」(英語のことわざ)ようなことをしてはなりません。

 

私は昔、証券業務に従事していた頃、自分が「御子にあって」その職場に置かれ、「御子によって」造られた仕事の中で、「御子のために」働くということの意味が分かるまでは、仕事が空しく思えました。先日は、スポーツジムで運動をしながら、「私は、御子にあって、御子によって、御子のために」踊っていると示され笑えてしまいました。

あなたも、この「万物」ということばの代わりに、「自然」「国」「家族」「会社」「仕事」「食物」「スポーツ」「趣味」「配偶者」「子ども」「友人」「東京都」「立川福音自由教会」等ということばを入れて読み替えてみてはいかがでしょうか。

 

イエスは今この時、生きて働いておられます。私たちは、どんな暗闇の中にも、やがて美しく咲く花のつぼみを認めることができます。そこに希望に満ちた喜びが生まれます。

 

3. 「死者の中から最初に生まれた方」のうちにある幸い

ただし同時に、この世界のゴールに関しては、「その日には、諸々の天は大きな響きをたてて過ぎ去りと描かれます(Ⅱペテロ3:10)。これは「消える」というより、現在の姿が過ぎ去って、新しい状態へと変えられるという意味が込められています。そして、「その構成要素は焼かれて(絆を)解かれ、地と地のいろいろなわざは明らかにされます(私訳)と記されています。この最後の部分は、新改訳脚注で、「暴かれます」と記されていますが、最近はその解釈の方が一般的になっており、ここは隠された罪が暴かれ、良い働きが評価されるという意味と理解することができます。

とにかく私たちはこの世界が「過ぎ去る」ということを忘れずに、目に見えるものに固執せず「地上では旅人であり、寄留者であることを告白する(ヘブル11:13)ことも大切です。

私たちは、この世のうちにではなく、その創造主である「御子のうち」に存在しています。それは、具体的には、キリストの「からだである教会(18)交わりのうちにあることを意味します。そして、この立川福音自由教会の「かしら」も御子であられます。

キリストのうちにある」ということは、「そのからだである教会」の交わりのうちにあるということと切り離すことができません。

 

  「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18)とあるのは、御子の復活が、私たちがやがて栄光の身体へと復活する「第一の者」、つまり、復活の「初穂だからです(Ⅰコリント15:20,23。御子は、私たちと同じ弱く惨めな肉体となられましたが、御父は「御子のうちにin,ご自身の満ち満ちた本質を御子のうちに宿らせ(19)ました。

その「神は、『アバ。父よ』と呼ぶ御子の御霊を(ガラテヤ4:6)あなたのうちにも宿らせてくださいました。あなたは今既に愛されている神の子どもであるとともに、やがては、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」(22)へと造り変えられるのです。

 

御父が・・御子のうちに ご自身の満ち満ちた本質を宿らせた」ということは、十字架で血を流された方が、父なる神と等しい方であることを意味します。十字架にかかられた方が、創造主なる神であられたからこそ、その血によって、御父と万物の和解が成り立ったのです。

マルティン・ルターは、あまりにも内省的になりすぎ、臆病に生きている友人に向かって、「罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死と世界との勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、かつ喜びたまえ。われわれがわれわれである限り、罪は犯されるにちがいなかろう」という逆説を述べました。

それは、自分の醜さに目を向けるよりも、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに目を止め、それに感謝することこそが信仰の核心であるということを教えるためでした。自分の罪深さばかりに目が向かうのは、キリストによって支払われた賠償額をあまりにも小さく見積もっていることに他ならないというのです。十字架にかかられた方は、あなたの創造主です。そのことを改めて心に留めるべきでしょう。

 

そして、御父が、御子によって「地にあるものも、天にあるものも」ご自身と和解させてくださったこと(20)は、愛と平和と喜びに満ちた「義の宿る新しい天と新しい地(Ⅱペテロ3:13)実現することの保証です。この地での労苦は、無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)

 

  八木重吉という大正末期の詩人は、信仰に導かれた後、恵まれた生活の中で、説明し難い寂しさと悲しみを感じます。英語を教えて家族を養うことを、生ぬるい信仰と思えたからです。しかし、やがて、家族を喜び愛し、学校の生徒や同僚に仕えることを、キリストにある、キリストに仕える生き方と受けとめ、現在を感謝できるようになりました。

30歳で死の病(結核)にかかりますが、夢の中で、自分が、天使よりもすぐれた顔になり、栄光の光に包まれていることを見て、不思議な平安に包まれました。

そして、小さな歩みしかできない自分を、イエスの眼差しで優しく見守られるようになりました。その心境がつぎの詩にあらわされています。

 

「 きりすと われにありとおもうはやすいが

  われみずから きりすとにありと 

ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ

  きりすとが わたしをだいてくれる  

 わたしのあしもとに わたしが ある  」     

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