« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月28日 (日)

Ⅱサムエル7章~10章 「神の真実とダビデの真実」

                                    2018128

聖書の物語をひとことで述べると「神の真実(ヘセド)」の歴史と呼ぶことができます。

聖書には、神の燃える怒りが何度も描かれますが、同時に神はご自分を裏切り続けるイスラエルの民に、「怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛(ヘセド)をもって、あなたをあわれむ(イザヤ54:8)と語っておられます。これこそが、神の怒りと真実の関係を現わす最高のみことばとも言えます。

 

使徒パウロはコリント教会に真実を尽くしましたが、偽使徒、献金泥棒かのような汚名を着せられ、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか・・・私はあなたがたに重荷を負わせませんでした。それでも私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったと言われます」(12:15,16)と、悲しみを切々と訴えています。これが聖書となったのはパウロの気持ちが最終的に通じたからでしょう。

裏切られ、罵られても、「真実の愛」を尽くすというのが、真の「神のかたち」として生き方です。どんな悪人の心にも、人の真実に、真実をもって答えるべきという思いが宿っています。真実は、最終的に報われます。しかも、人の不信実に傷つく所に、神の真実が迫って来るということこそ、信仰の神秘です。

 

1.「わたしが、あなたのために家を建てる」という神の真実への応答

7章は、「王が自分の家に住んでいたときのことである。主(ヤハウェ)は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」という記述から始まります。

ここでは、主のみわざによってダビデが、自分の家で安心していられたという面が強調されます。これは10章まで続く彼の成功物語の要約とも言えます。

 

そこでダビデは、「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている」(7:2)という現実を恐れ多いことと思い、神殿を建設したいと願います。それに対し主は、被造物に過ぎない者が創造主の家を建てるという発想の滑稽さを指摘するように、「あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか」と問いかけます。

そして、ダビデを「羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした」(7:8)のは、主ご自身のみわざであることを思い起こさせながら、さらにその後の歩みをまとめるように、「こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである」(7:11)ということばを繰り返します。つまり、ダビデに「安息を与え」ているのは、神のみわざに他ならないのです。

 

しかし、主はダビデの傲慢を責める代わりに、彼の純粋な思いを受け止め、「主(ヤハウェ)はあなたのために一つの家を造る・・・わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる・・・あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(7:11,12,16)という途方もない約束をされました。

そこにはダビデ王家を建てるのも、神殿を建てるのも主ご自身であるとの宣言があります。神殿を建てたのはダビデの子のソロモンですが、彼の後に王国は二つに分かれ、北王国はアッシリアに、南王国はバビロン帝国に滅ぼされます。ダビデへの約束は、神の御子イエス・キリストにおいて実現するのです。

 

それを聞いたダビデは、「アドナイ(主人)、ヤハウェよ」(新改訳では「、主よ」と訳される)という呼びかけを七回も繰り返します(7:18,19,20,22,25,28,29)。それはイスラエルの真の支配者、「王」は、「ヤハウェ」であられるという告白です。ダビデは、この途方もない約束を受ける資格など自分には一切ないことを謙遜に認めつつ、神のあわれみを賛美します。

そればかりか彼は続けて、「地上のどの国民があなたの民、イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き・・・異邦の民とその神々から贖いだされたのです」(7:23)と、イスラエルの尊厳も神の一方的なあわれみによると告白します。

 

そして彼は改めて、「イスラエルの神」「万軍の主(ヤハウェ)と呼びつつ(7:26,27)、神ご自身による「わたしが、あなたのために家を建てる」との畏れ多い約束を引用しながら、「あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください」と大胆に祈ります(7:27,29)

すべてが神のみわざであると、ダビデは心から理解し、主の前にへりくだりながら、同時に、主のことばが成就するようにと祈ります。

 

2. アブラハムへの約束の成就

そして8章冒頭には、「ダビデはペリシテ人を打って・・屈服させ・・メテグ・ハ・アンマをペリシテ人の手から奪い取った」と記されますが、この地がどこかは不明です。Ⅰ歴代誌18:1では、「ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させ、ガテとそれに属する町々をペリシテ人の手から奪い取った」と記されています。かつてダビデはガテの王アキシュの保護下にかろうじて生き延びたかのようでしたが(Ⅰサムエル27:2-7)、立場が完全に逆転しました。

実は、この後、約300年後のヒゼキヤの時代までペリシテ人との戦いは聖書に登場しません(Ⅱ列王記18:8)。まさに、士師記以来の最大の敵が、ダビデの前に屈服したのです。

 

また、ダビデはかつてモアブの王に両親を保護してもらったことがありましたが(Ⅰサムエル22:4)、このときは縄を使いながらモアブの三分の二の兵士を無作為に選び、殺したかのようです。新改訳では縄二本で測った大きな男を殺したと解釈しているようですが、解釈が分かれます。どちらにしても残酷極まりないことです。その理由を、モアブが両親を殺したからと説明されることもあるようですが、事実は分りません。

ただ、ペリシテもモアブもかつてダビデを助けたのは、彼がサウルにとっての敵となったからであり、ダビデがイスラエルを統一した後は、一転して攻撃を仕掛けてきました。ダビデは、恩を仇で返すような人間ではありません。ここで強調されているのは、ダビデが頼った相手が、彼に服従したという立場の逆転です。

 

その後、「ツォバの王・・ハダドエゼルがユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を打った」(8:3)と記されます。ツォバの中心都市はダマスコのさらに北にあるレボ・ハマテです。そこはかつてイスラエルがエジプトを出て間もなく、南からカナンに進入しようと、十二人の偵察隊を遣わして調べた約束の地の北の果てです(民数記13:21)

ここに記されていることは、ツォバの王がさらに北のユーフラテス川沿いのハマテを攻略するため、その前に、南のダビデ王国からの脅威を除くことによって挟み撃ちになることを避けたという意味だと思われます。この戦いの様子は10章に詳しく描かれることになります。

ここではダビデの騎兵1700、歩兵2万を捕獲しながら、戦車百台分の馬は残して、「すべての戦車の馬の足の筋を切った」と記されます(8:4)。「足の筋を切った」馬でも農耕には使うことができたようです。ダビデは軍事力の増強に慎重であったことのしるしとも解釈できます。それはすぐに敵の戦力に変わる可能性があるからです。

さらに、ツォバの南東のダマスコを中心としたアラム軍がハダドエゼルを助けに来ましたが、ダビデはその22,000人を打ったばかりか、「ダマスコのアラム(シリヤ)に守備隊を置いた」(8:6)とあるように北の大国を完全に支配しました

そしてこれらをまとめるように、(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(8:6)と記され、これらがすべて主の勝利であると強調されます。そればかりか、その北の強国ハマテの王トイは、ツォバからの攻撃に悩んでいたので、ダビデのこの勝利を祝い、貢物を携えてきたというのです(8:10)

ハマテは、大河ユーフラテスの南に広がる国ですから、何とも驚くべきことです。これによって、ダビデの影響力がユーフラテス川にまで届いたことになります。

 

その後、ダビデは死海の南東をも制圧し、「エドム全土に守備隊を置いた」(8:14)というのです。この際も、「主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」とまとめられます。

これによって、かつてのアブラハムへの約束「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテスまで(創世記15:18)ということばが成就し、この広大な地が南から北の果てまでイスラエルの支配に服することになったことを意味します。

かつて(ヤハウェ)、イスラエルの民に契約の箱を与え、彼らの真ん中に住み、彼らをまっすぐに南から約束の地に導き上ろうとされました。そのときモーセは、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、この地をあなたの手に渡してくださった。上れ。占領せよ・・恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記1:21と言いましたが、彼らは主の約束を信頼せず、偵察隊の報告を聞いておびえ、エジプトに帰りたいと叫びました。それ以来、神は、約三百年間もの間、彼らの不従順に耐えながら、ついにダビデを用いて約束の地を支配させ、アブラハムへの約束への真実を示されたのです。

 

アブラハム契約がダビデにおいて成就したということは、ダビデの家がこの後、転落するにも関わらず、ダビデ契約が守られ、ダビデの王家が続き、イエス・キリストにおいて成就するという話につながります。

 

3. ダビデの王としての統治と真実

「ダビデは全イスラエルを治めた」(8:15)とありますが、「治める」とは王」ということばの動詞形です。ダビデは「ヤハウェ」を真の王として仰ぐことによって、ユダ族ばかりか北の十部族をもまとめる「王」として機能できたのです。

その統治の特徴は、「その民のすべてにさばきと正義を行なった」ということでした。彼は、部族間の争いに公正なさばきを下し、すべての部族が「正しい」と認めるような政策を実行することで、イスラエルにモーセやヨシュアの時代のような神の民としての一致を生み出しました。

 

軍事的には甥のヨアブが軍団長として力を持っており、二人の間には緊張関係がありましたが、ダビデは彼の能力を生かすことができました。1617節の「史官」とは「記録官長」、「書記」は「秘書官長」とも訳される文官のトップです。それにはさまれるように二人の祭司の名が記され、その働きがいかに尊重されたかが分ります。

そしてエホヤダの子ベナヤは後に護衛長として描かれますが(23:23)、彼が指揮していたのは「ケレテ人とペレテ人」という外人傭兵部隊でした。つまり、ダビデは異民族を自分の護衛に用いたのです。

なお、「ダビデの息子たちは祭司であった」(8:18)と記されますが、彼はレビ人を神への奉仕に用いていましたから、これは「補佐役」的な働きでしょう。ただ、これはダビデの家が、主を礼拝することを常に第一にしていたことを示唆します。

それと同時に、他の部族を公平に扱い、異民族をも重用するという幅の広さが特徴でした。それは、神への愛と隣人愛を政治の中心に据えたということもできましょう。

 

9章ではダビデが亡くなった親友のヨナタンの家に「真実を尽くす」ようすが描かれます。その際、彼は、サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい・・・私はその人に神の恵みを施そう(9:1,3)と繰り返します。

確かにサウルの子ヨナタンはダビデの家と契約を結んだとき、「もし私がこれ以上生きるべきではないのなら・・・あなたの恵み(真実「ヘセド」)をとこしえに私の家から断たないでください(Ⅰサムエル20:14,15)とダビデに願いましたが、ここで彼がヨナタンではなく「サウルの家の者で・・」と言ったことは注目すべきです。これは、「私の命を不当に狙い続けた王の家に、憎しみの代わりに真実の愛を施したい」という願いです。

そして、彼はまずサウル家の有力なしもべだったツィバを召し出し、彼を通してヨナタンの子、足が不自由なメフィボシェテを探し出します。

 

メフィボシェテはダビデを恐れて「ひれ伏して礼をした」のですが、ダビデは「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そうと言います(9:6,7)。そして、「あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる(9:7)と言って、サウルの家の富と名誉を回復させます。

そればかりか、ダビデはサウルの家の財産の管理をサウルのしもべだったツィバに全面的に任せます(9:9,10)これは実質的なサウル家の復興です。メフィボシェテには「ミカ」という息子がいましたから、これは人間的に考えると、ダビデ家にとっての競争者サウル家を保護し、国の分裂の種を温存するような意味をもちました。事実、ミカには四人の息子が生まれ、四男の家系は特に栄え、ベニヤミンの子孫として増えてゆきます。しかし、ダビデはそのような打算を超えて行動しました。

 

その際の鍵のことばは、「真実を尽くす」(9:1)または「恵みを施す」(9:3,7)、ヘブル語では同じ表現です。これは101,2節では「真実を尽くす」とも訳され、ヘブル語で「ヘセド」と発音され、聖書の中心的なことばです。それは「契約を守り通す愛」という意味です。

ヨナタンは自分の父に逆らってまでダビデに真実を尽くしましたが、ダビデは今、彼が死んでも、その真実に応答しているのです。それは人間的には、ダビデの家を危険に陥れるように見えますが、ダビデの家を建てるのは、人間の力ではなく、神の真実でした。ダビデは、神が彼の家を永遠に建てると言われたことばの真実に信頼して行動したのです。

 

4.「王たちはみな・・・イスラエルに仕えるようになった」

10章以降には、死海北東部のアンモン人との戦いが描かれます。ダビデは、アンモン人の王ナハシュが死んだとき、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう、彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と言って(10:2)、家来たちを通して悔やみを言うために遣わします。

ただし、ナハシュがダビデにどのような「真実を尽くした」は不明です。ただⅠサムエル11章では、サウルが王として立てられたときの最初の戦いがアンモン人とのものでした。つまり、アンモン人とサウルは犬猿の仲であったため、アンモン人はサウルに追われているダビデと同盟関係にあったのかもしれません

どちらにしても、ここではダビデが「真実を尽くそう」としたのに、それが仇で返されて争いになったという面が強調されます(10:2-4)

 

アンモン人の首領たちは、主君ハヌンに向かって、ダビデはスパイを送ったに過ぎないと助言し、ハヌンはそれに従って、ダビデの家来たちの「ひげを半分剃り落とし、衣も半分に切って」送り返します(10:3,4)。ダビデは家来が恥を晒さないで済むように気遣います。

しかし、「アンモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見て(10:6)、ガリラヤ湖の北のベテ・レホブのアラム人、そのさらに北のツォバのアラム人を合わせて二万人、アンモン人のすぐ北に住むトブの兵士一万二千を雇い、ダビデを南と北から挟み撃ちにしようとします。

その際、ヨアブの冷静な判断と勇気ある行動によって戦いが勝利に導かれます(10:9-13)。彼は、「強くあれ、われわれの民のために、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主(ヤハウェ)が御目にかなうことをされるのだ」と兵士たちを励まします。彼は神を信じる将軍でした。

 

ただ、それによって北の異民族が8章にあったツォバの王ハダドエゼルのもとに団結します(10:15,16)。彼は「ユーフラテス川の向こうのアラム人」までも呼び寄せ(10:16)、ガリラヤ湖の約60kmも東にあるへラムに集結します。それに対し、「ダビデはイスラエル全軍を集結させ、ヨルダン川を渡って、ヘラムへ進んだ」(10:17)のでした。

そして、その戦いのようすが驚くほど簡潔に、「アラム人はダビデと戦う備えをし、彼と戦った。アラム人はイスラエル前から逃げた(10:17,18)と描かれます。そしてその勝利の大きさが、「ダビデはアラムの戦車兵七百と騎兵四万を殺し」とあるように84節に描かれた勝利をはるかに上回るものでした。

そしてその結果が、「ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになった(10:19)と描かれます。

 

この戦いはダビデがアンモン人の王「ハヌンに真実を尽くそう」としたことに対して、ハヌンが不信実な応答をしたことから始まりました。しかも、彼らはダビデに憎まれるようなことをした上、北の王たちとの連合を組んでダビデに戦いを挑み、それに負けると、さらに強力なハダドエゼルのもとに集結します。

ダビデの勝利が大きなものとなっていったのは、彼らが連合を組んでくれたからです。ダビデはもともとイスラエル人の居住地を守ろうとしていただけなのですが、北の民族が勝手に戦いを挑んでくれて、その結果、彼らがそろってダビデに服従するようになってくれました。

その後、8章にあったように、ハマテの王までもがダビデに服するようになり、アブラハムに約束された広大な支配地に神の平和がもたらされました。ダビデは、ウェをイスラエルの真の王として建てたたことによって、約束の地全体をも支配できたのです。

私たちが「真実を尽くし」ていても、それが仇で返されるというのは、よくあることです。しかし、「恵み(真実)は神のものです。神は、それぞれの人の行いに応じて、真実を報いてくださいます(詩篇62:12)

 

神はアブラハムへの約束に真実であられたというのが、旧約聖書の要約です。そして、ダビデの繁栄の基礎も、彼が主の愛と親友の愛に真実に応答したということにあります。神の真実と人の真実が共鳴しあった結果として、ダビデ王国が築かれたのです。

そして今日の箇所はその頂点で、その後、転落が始まります。Ⅱ讃美歌191 「主のまことは・・」は、リビングプレイズでは「父の神の真実は、とこしえまで変わらず、いつくしみとあわれみは尽きることがありません。すばらしい主、その真実は朝ごとに新しく・・」と訳されて歌われています。これこそ神のヘセド(真実の愛)を簡潔に歌ったものでしょう。

この曲は、哀歌3:22,23「私は待ち望む。主(ヤハウェ)の恵み(ヘセド)・・・私たちは滅び失せなかった・・あなたの真実は偉大です」をもとに作られました。それは、イスラエルが神に背き、当然の報いとして国を失ったにも関わらず、神はダビデ契約への真実のゆえに彼らの国を回復させてくださることを歌ったものです。

「私たちは真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)と言われる主の愛に従いましょう。そして、私たちも、この地においてダビデに習って、状況がいかに変わろうとも、友への真実を守り抜きたいものです。

|

2018年1月21日 (日)

エペソ2章1-16節 「私たちは神の作品(ポエム)です」

                             2018121

   多くの人の心の奥底に「変身願望」があると言われます。子供も「・・レンジャーに変身!」という物語に興味を惹かれます。それこそ、人が「信仰」に期待するものかもしれません。

私も「もっと心が安定した人間になりたい・・」と思っていましたが、そう願えば願うほど、自己嫌悪に苛まれ、争いを起こすことがありました。しかし、ありのままを受け入れてくださる信仰の先輩方との交わりの中で、自分が願っていた成長の方向の過ちに気づかされました。

ある人が先日、「僕は、聖書の神というよりも、自分の問題を解決してくれる神を求めていた。だから、問題がこじれたとき、自分の不信仰や人の対応を責めて空回りを起こし、かえって傷口を広げてしまった。高橋先生が慕う先生方にもっと早く出会っていたら、神の愛の眼差しの中で自分を優しく受け止め、家族にも迷惑をかけずに済んだかもしれない・・」という趣旨のことを言っておられました。

あなたが願っている人格的な成長は、イエスが願っている方向なのでしょうか?

 

1. 神がキリストにあって与えてくださった「救い」の偉大さ。

旧約での神の「救い」は、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)と描かれます。それは、エジプトでの奴隷状態からの「救い」です。

それに対応する新約の「救い」がこの21-6節に記されます。それはサタンの奴隷状態からの「救いです。

 

2章最初の文章は、あなたがたは自分のそむきと罪との中に(ゆえに)死んでいた者であり・・・(それらの中にあって)歩んでいました」と記されています。つまり、「死んでいた」ままで「歩んでいた」と記されているのです。

そむき(罪過)」とは「立っているべきところから落ちた状態」、また「罪」とは、「的外れな生き方」を指しています。誠実に生きているようでも、見当違いの確信に立ち、見当違いの方向に向かっている人、つまり、自分の創造主を知らずに生きている人々すべてが、「死んでいる」というのです。

 

   2節は、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と訳すことができます。まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)という生き方自身が、空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従ったものです。

サタンは天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めています。

この「働いている(エネルゴン)とは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

3節も、「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と訳すことができます。つまり、悪霊に従った歩みとは、皮肉にも、自分の生きたいように生きることだというのです。

最初の人間のアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は・・目に慕わしく・・・好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。それは、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方を指し、そのように生きる人が、「御怒りの子」と呼ばれます。

つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

 

そのように神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的なみわざが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:4-6)と記されます。

ここで再び、私たちが、「背きの中に死んでいた」状態にあったことが指摘されますが、「死んでいた」人は、自分の力で生き返ることができません。その「救い」は、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

 

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。その第一は、「私たちをキリストとともに生かしです。「救い」の本質とは、死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。それがさらに、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言われます。つまり、「救い」とは、目の前の問題解決以前に、このままの自分にキリストが寄り添ってくださるという「交わり」にあるのです。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。

これは天国への期待というより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していると見られるのです。

 

   この時間の観念を理解する鍵が7節で、「それは来たるべき時代(世々)においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

 

   興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。

しかも、それは個々人としてというよりは、「キリストのからだ(1:23)としての「教会」、つまり「信仰者の共同体」に与えられた「救い」です。キリストは既に、この世界を治める「」となっておられますが、私たちは「キリストのからだ」として、それぞれの賜物を生かし合い、この世界に神の愛を見えるように現わして行く責任があるのです。

 

2.「私たちは神の作品であって・・・キリストにあって造られたのです」

そして、この不思議な「救い」がどのように実現したかについて、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって(を通して)救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(2:8、9)と記されます。

ここでは、「行いによるのではない」ということの説明として、「だれも誇ることのないためです」と記されています。つまり、自分の「信仰」誇るような姿勢は、「行い」の一部に過ぎず、聖書が語る信仰ではありません。反対に、自分の信仰を卑下することも、優越感とコインの裏表の関係にある劣等感の表れです。

私は「信仰によって救われる」と聞いて、最初は、「信じるだけで良いんだ・・」と気が楽になりましたが、そのうち「こんな自分の信仰では救われない・・」と不安になりました。

しかし、「信仰」とは、救いを生み出す原動力ではなく、神の恵みを受け止める受信機のようなものです。ここでは「恵みのゆえに」という原因と、「信仰を通して(through)」という媒体の区別が明確にされています。

すべてが神の恵みであることを心の底から味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。自意識過剰な信仰ほど危険なものはありません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

 

その上でパウロは、私たちが怠惰に陥ることがないように決定的なことばを加えます。それが、「実に、私たちは神の作品であって、良い行い(複数)をするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。それ(良い行い)をも神はあらかじめ備えてくださいました。そのように(良い行いのうちに)私たちが歩むことができるために(2:10、後半私訳)との表現です。

原文では「良い行い」ということばは一度しか登場しません。それは私たちの目を自分の働きではなく、神のみわざに向けさせるためです。

しかもこの中心は「私たちは神の作品です」という宣言です。「作品」のギリシャ語は「ポイエマ」で、英語の「ポエム(詩)」の起源とも解釈できます。それは神の栄光を「イメージさせることば(擬音語)」とも訳せます。たとえば、「春の小川は さらさら行くよ」と歌う詩の「さらさら」が「擬音語」で小川の流れをイメージさせる詩的表現です。

同じように、私たちの存在自体が、神を何らかのかたちでイメージさせるというのです。あなたは、「がみがみ叱る神様」か、「さんさんと太陽の光が降り注ぐ」ように神の愛を現わすかが問われています。

 

パウロは先に、キリストを知らないときの「歩み」を、「死んでいた者としての歩み」、また「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」という「歩み」として描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行い(複数)のうちに歩む」者となることとして描いています。その前提として、「私たちは神の作品(ポエム)であって」と記されます。

あなたは自分の個性や感性を「神のポエム」という観点から見ているでしょうか。そこでは「みんなと同じ」ではないこと自体が何よりの魅力となります。

しかも、パウロはここで、「(様々な)良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・それをもあらかじめ備えてくださった」と記しますが、「良い行い」とは、人との比較からではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるというのです。

それは「キリストのうちにある創造」の原点に立ち返ることで、「一切のものが、キリスト・イエスにあって集められる(1:10)という目的にかなって考えられることです。それは個人的な評価ではなく、キリストにある共同体が築かれて行くという尺度から見直されるべきことと言えます。

 

たとえば私は、自分の神経症的な不安や生き難さの中から詩篇によって慰めを受け続けています。そこでの「良い行い」とは、自分の傷つきやすい心を正直に受け止め、それを神に祈るということであり、また、自分の個人的な葛藤を正直に表現するということに他なりません。

そして意外にも、極めて個人的なことは本当に多くの人々の心の内面に届くということです。その結果を、詩篇の本を二冊記し、またディボーション誌Mannaでも記させていただいています。先日奉仕させていただいた教会では、小グループの学びで以前の記事を使ってくださっていました。また、私の本を通して、「祈ることができなかった自分が、祈ることができるようになった」と言ってくださった人が何人かおられます。

私は自分の性格や感性が異常ではないかと悩んでいた時期が長くありました。しかし、私が神の「ポエム」であるなら、私が個人的に感じることは、神が感じさせてくださっていることであり、私が表現することばは、神が表現させたいと願っていることとも言えましょう。

この世は、働きの結果を数字で表すことが大好きです。しかし大切なのは、人と人との心が共鳴し合うことであり、ともにイエスの救いを喜ぶことができることなのです。

 

しかも、「私たちは」、信仰者の共同体として「神の作品(ポエム)」なのです。あなたが他の人と違っているからこそ、他の人の欠けを補い、また他の人に新たな気づきを与えることができます。

私たちが世界的な「キリストのからだ」の一部の共同体として、どのようなポエムを奏でているかが問われています。

 

3.「キリストは…ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し」

その上でパウロは、「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした(2:11、12)と、エペソの教会の人々がどのような状態から救い出されたかに目を向けさせます。

当時、イスラエルの民と異邦人との間には、超えられない深淵が横たわっていると思われていました。パウロは何よりも、そのことを「思い出してください」と強調しています。

 

イスラエル民族はアブラハムの子孫ですが、神は彼らをご自身の民として受け入れるしるしとして、男子の性器の包皮を切り取る割礼を行うことを命じられました。神が彼らを選ばれたのは、彼らを通してご自身のことを世界に知らせるためでした。しかし、彼らは自分たちの「肉において」の出生を誇り、異邦人たちを「無割礼の者」と軽蔑をこめて呼ぶようになります。

確かに、エゼキエル34章20-31節などに記される救い主は、イスラエルの真の牧者、新しいダビデとして描かれていました。事実、イエスがツロとシドンの地方に退かれ、そこでカナン人の女から、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと懇願されたとき、主はまず、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」とお答えになったほどです(マタイ15:24)

幸い、この女の即妙な応答で娘は癒されましたが、イエスの最初の答えは、旧約聖書から出てくる当然のことばと思われました。それほどに、異邦人は、「望みもなく、神もない者たち」と見られていたのです。

それでも当時の異邦人は、まず「割礼」を受け、食物律法などの様々な規定を守ってユダヤ人になるという過程を経るなら、そこで初めて、望みを持つ者となることが可能でした。

 

ところが、ここでは突然、「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあってキリストの血によって近い者となりました(2:13)という不思議な議論の展開が見られます。

この書のキー・ワードは「キリストにあって」です。キリストはイスラエルの理想の王ダビデをはるかに上回る、この世界を父なる神とともに創造された神の御子です。そして人となられたイエスは、異邦人の罪をもご自身の身に背負って十字架にかかってくださいました。

その一方的な愛による、「キリストの血によって(にあって)」、本来、「遠く離れていた」と思われていた異邦人も、神に「近い者とされた」というのです。

 

そして、「実に、キリストこそ私たちの平和です(2:14)とは、「心の平和」というより、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」たことを意味します(2:14、15下線部私訳)。

当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁があり、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえを献げる中庭に入ることは許されませんでした。その隔ての壁には、「いかなる外国人もこれより先に入るなら、死刑に処せられる」と記され、この場だけは治外法権がローマ帝国から許されていました。しかし、キリストの十字架がこの「隔ての壁」を「打ち壊し」たというのです。

 

初代教会の時代、ペテロがローマの百人隊長の家を訪ねたときに、「あなたは割礼のない者たちのところに行って、彼らといっしょに食事をした」と他の弟子たちから非難されました(使徒11:3)。それに対しペテロも事の次第を順序正しく話します。

彼も最初、異邦人の家に入ることを、律法に反することと思っていました。しかし、神は彼に、三回にも渡って、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と、夢の中で語ってくださいました(同11:9)。それで初めて、異邦人の家を訪ねることができ、ユダヤ人と異邦人がともに食事をすることが可能になったのでした。

確かに、レビ記には、ユダヤ人が食べることを許されないこと細かな動物のリストがありました。それは豚、らくだ、うさぎの肉、たこやえびです。これらはすべて、食用に禁じられているという以前に、神へのいけにえとして用いることが許されない生き物でした。つまり、ユダヤ人を神の民として受け入れるためのいけにえの規定が、汚れた動物を食べる異邦人に対する「敵意」となっていたのです。

しかし、イエスは「ご自分の肉において」、神の神殿を完成し、もはや神殿を事実上、不要なものにしてくださいました。そして、この神殿にかかわる「戒めの律法」が不要になったとき、異邦人とユダヤ人がともにイスラエルの神、主を礼拝できるようになりました。

 

そして、この和解をもたらす画期的な神秘が、「こうしてキリストは、この二つをご自身においてひとりの新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました。それは十字架を通してであり、ご自身にあって敵意を滅ぼされたのです(2:15、16私訳)と描かれています。

14節では「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し」とありましたが、ここではさらに、「敵意を滅ぼされた」と記されます。ですから15節での「律法の廃棄」とは、律法全体ではなく、神の民とされたユダヤ人を偶像礼拝の民の影響から守るための食物律法などの部分的「廃棄」を意味します。

十字架は、何よりも敵意」を廃棄し、葬り去るためのものと記されます。ここで何よりも強調されるのは、キリストがユダヤ人と異邦人を、「ひとりの新しい人間として創造」してくださったということです。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(Ⅱコリント5:17)と記されてことに通じます。

 

同時にここでは、個人が「新しい人間」になるというより、異なった背景を持つ者が組み合わされるという面が強調されています。それは多くの人の心の底にある「変身願望」の実現ではありません。

私たちは自分の個性や民族性をも優しく受け入れながら、自分を「キリストのうちにある者」として見るのです。それはたとえば、ユダヤ人は聖書への情熱を保ちながら、誤った選民意識を捨て異邦人と一つになれるということだと思われます。それは、日本人が誠実さや協調性という美徳を保ちつつ、個性を殺す村意識から自由になり、異なった人々の存在を喜び受け入れるということを意味するのではないでしょうか。

 

   多くの日本人は、クリスチャンとして生きることを、聖人君子を目指す生き方、誰からも尊敬される人になることかのように誤解しています。しかし、十字架の目的は、何よりも、「隔ての壁を打ち壊し」「敵意を滅ぼす」ことにあったと、ここには記されています。

しかも、「新しい人間」として「創造される」とは、ユダヤ人と異邦人が一つになることができることを何よりも意味していました。つまり、まったく異なった背景を持つ人々が、互いを「キリストのうちにある者」として喜び合えることこそが、「新しい創造」の何よりの意味なのです。

つまり、私たちが目指すべき成長とは、個人の人格的な成長以前に、神の民としての「愛の交わり」としての成長なのです。「救いの実」は、何よりも、人と人との和解に現わされるはずなのです。あまりにも聖い人と見られて、近づき難い感じを与える人は、決して「きよめられた人」とは言えません。

 

私たちはすべて、人と人とのチームワークを築きながら、社会に影響力を与えるように召されています。そして、一つの組織の力は、そこにどれだけ異なった能力や発想を保ちながら、しかも互いに協力し合えるということに現わされます。多様性の中にある一致こそが、共同体の魅力です。

私たちが、この教会で互いの存在を喜び、祈り合うことができることは、この世界を作り変える原動力になるのです。

|

2018年1月 7日 (日)

詩篇19篇「天は語り、みことばは生かす」

                                    201817日 

 「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と、ドイツの哲学者インマヌエル・カントは実践理性批判の結びにおいて記しています(私訳)。

しかし、私たちが街灯のない地で夜空を見上げることは何と少なく、自分のこころの内を見て失望することは何と多いことでしょう。

 

   それにしても、人の「こころ」は不思議なものです。自分を含め、現代の教会は、神の最高傑作ともいえる人間の「こころ」をあまりにも自虐的に見すぎるような気がしました。「こころ」は確かに、とんでもない罪深い傾向に流れるものでもあります。しかし、その罪を自覚することができるということ自体が、何とも不思議ではないでしょうか。しかも、美しいものに感動し、何とも言えない優しいことを考えたりもします。

「こころ」は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。その不思議を感じながら、その「こころ」が神のことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を改めて覚えさせられます。

 

この詩の美しさは比類ないものです。何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。

ここには、人間のことばでは言い表せない神からの語りかけと、私たちの日常のことばを用いた神の語りかけの二つが記され、私たちの「こころ」を創造主に向けさせてくれます。

 

1. 天は神の栄光を語り 大空は御手のわざを告げる

天は神の栄光を語り」とは、街灯のない地での夏の夜空に広がり輝く「天(あま)の川」を見て、驚異に身体が震えるような体験を指すと思われます。宇宙が無言のことばで「神の栄光」を語っているというのです。

「天の川」は私たちが銀河系の中心を見ているものですが、私たちの太陽系は、銀河の端の方にあり、この銀河の広さは1秒間に地球を7回半回る光の速度で85,000年もの時間がかかる直径があります。このような銀河が数多く集まって銀河団が作られますが、それも数億光年の広がりを持つ超銀河の一部に過ぎません。

最近は、この地球から何と50億光年も離れた260万光年の直径をもつ銀河団の暗黒物質を写した写真がテレビで公開されていました。それは50億年前の宇宙の姿を映していることになります。

 

この宇宙は広がり続けていると言われますが、それでは、原初のビックバンとも呼ばれる巨大なエネルギーはどのように生まれたのでしょう?その始まりを推測できたとしても、その発生を科学的に説明できる人がいるでしょうか?

「自然」とは本来「じねん」と呼ぶ仏教用語で、「おのずからしからしむ」という創造主の存在を否定する概念です。しかし、何の素材もエネルギーもない所に宇宙が自然に誕生するのでしょうか

聖書は大空に広がる世界を神の「御手のわざ」と呼び、「大空は御手のわざを告げる」と述べます。

 

 「昼は昼へと 話を取り次ぎ 夜は夜へと 知識を伝える」とは、今日の昼の世界も、夜の星空も、翌日にはその継続の状態が再び見られることに、「ことづて」が確実になされているかのような驚異の念を抱くものです。

この世界では、急にパソコンや車が動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったりなどが日常茶飯事とも言えます。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。

 

この継続性こそが、何よりの驚異ではないでしょうか。たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い、何とも不思議な感動に包まれました。

預言者エレミヤは、「(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる(エレミヤ33:20,21)と書き記しました。

つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神がノアとの契約を真実に守り通しておられることのしるしなのです(創世記8:22)。それを、「地球の自転によって起こっているだけ・・・」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。それは「自ら回転して」というより、創造主によって丁度良いスピードで「回転させられている」ということなのです。

かつて、いわゆる天動説を主張した人も、地動説を主張した人も、互いに矛盾しているようであっても、すべてが神の御手にあって起こっていると解釈した点では同じでした。私たちは、その原点に立ち返る必要があります。

 

その感動が続けて、「話もなく ことばもなく その声も聞かれないのに その響きは 全地を覆い そのことばは 世界の果てに及ぶ」と歌われます。神が大宇宙を通して私たちに語りかけることばは、人間の言語の枠を超えながらも、そこには明確なメッセージがあるというのです。

それを聞くことができなかったので神を知ることができなかったという言い訳が成り立たないという霊的な事実を、使徒パウロは、このみことばを引用しつつ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」と記しています(ローマ10:18)

 

なお当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み行くのを見て、夜の間、どこかで休んでいるかのように考えました。この太陽をエジプトでは神としてあがめていたその同じ時代に、この詩篇作者は、「太陽のため 彼()は そこに幕屋を張られた」と述べて、そこには創造者の配慮があると述べたのです。

しかも作者は、「神が」という主語を敢えて隠しながらも、それが自然ではないと説明します。そればかりか天空を巡る太陽の姿を、「それは花婿が住まいを出るように 勇士のように その道を喜び走る」と描きます。それは、「花嫁」を迎えに行く「花婿」の喜びにたとえたものです。

さらに、「その昇るところは天の果てから その軌道は 天の果てまでおよぶ その熱をこうむらないものはない」と、太陽が全地の上をくまなく行き廻り、その熱が何にも遮られることなく、全世界に及ぶという圧倒的な力が描かれます。

 

夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、敢えて「神が・・」という主語を省いて、ことばを超えた神秘を味わうようにと招いています。

世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。自分の知恵で世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならない「ことば」を味わって見るべきでしょう。

 

人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けていると、そこではあなたの存在価値が、「どんぐりのせいくらべ」のような空しい比較の中で計られていることに気づくことでしょう。私たちは人の働き以前に、神の御手のわざをただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。

私は自分の歩みを振り返りながら、「何であんな些細なことに心を苛立たせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、周りの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったことがあったのかも知れないと思います。

それは、自分の「こころ」の視野が、人間の働きばかりに向けられ、あまりにも狭くなっていたからです。

 

ある方のご主人は突如、若年性認知症を患い、それに気づかないまま、経営していた優良会社を倒産させてしまいました。彼女は、全財産を失います。同時に肺癌が再発し、それまでの生活が嘘のような団地暮らしに入り、その空き地で、夜、寂しさと不安に圧倒されていました。

しかし、夜空を眺めながら、ふとこの詩篇のことば、「天は神の栄光を語る」が心に浮かんできました。そのとたん、「この宇宙を支配しておられる神様が私を守ってくださる・・」という安心感に満たされ、涙が出てきました。そして、元気に朝を迎えたところ、「大空は御手のわざを告げる」とのみことばがまた浮かび、感謝の祈りができたとのことです。

その後、その体験をもとに、認知症家族の会というのを立ち上げ、その名を「大空」と命名しました。地上の富を失うことで、神の圧倒的な恵みに気が付き、他の人の苦しみに寄り添う働きを始めることができました。

 

2.主(ヤハウェ)の語りかけを聴く者の幸い

それにしても人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも人々は、山や太陽や月や星に向って祈りをささげ続けてきました。それで神はご自身のことを聖書を通して知らせてくださったのです。

7-9節では、「主のみことば」が、六種類の表現で、「(ヤハウェ)・・」と描かれます。

 

第一は「(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」と記され、新約はそれを「律法」と訳しますが、多くの場合はモーセ五書を指しました。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。

その核心は天地万物の創造主がこの私たちを「恋い慕ってくださった(申命記7:7)ということです。その内容はまさに、「完全で たましいを生き返らせ」と言える圧倒的な力の書です。

 

第二は「(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」を連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味するとも考えられます。それは「確かで 無知な者を賢くする」と記されるように、どれほど無知な人でさも理解できる神のみこころの中心だというのです。

 

第三は、「(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」を意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主のみことばは発想の転換を示し、私たちの心に感動を呼び起こすことができます。そのことが「主のさとしは正しくて こころを喜ばせ」と記され、「こころ」への影響力に目が向けられます。

 

第四は、「(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば、自分の身を守るために家臣を危険に追いやることがあります。しかし、主の命令は私利私欲の汚れから自由であり、真に「きよらか」なものなのでに、私たちの「目を明るくする」ことができるというのです。

 

第五は、「(ヤハウェ)の恐れ」で、前後関係からすると新改訳2017のように「主からの恐れ」と訳すこともできますが、意味的には、「主を恐れる道は純粋で いつまでも続き」とする方が分かりやすいと言えましょう。「主(ヤハウェ)を恐れることは知識の初め(箴言1:7)とあるように、それこそが永遠のいのちの原点です。

 

第六は「(ヤハウェ)のさばき」です。「さばき」はしばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいのが常でしたが、それは「まことであり ことごとく正しい」というのです。主はやもめみなし子の味方であると、繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、「主のさばき」こそは「救いだったのです。

 

金にまさり 多くの純金にまさって 慕わしく 蜜よりも 蜂の巣のしたたりよりも 甘い」(10)とは、これら六つの表現すべてのまとめで、聖書こそが最高の宝、こころの最高の栄養、活力なのです。ある牧師は、律法(トーラー)を長らくそのように見られずにいたけれども、小生の本で目覚めたと感謝くださいました。

 

そして作者は、自分を「あなたのしもべ(奴隷)(11)と呼びつつ、「これによって 教えられ これを守る中に 大きな報いがある」と告白します。人間の主人は自分のために奴隷を用いますが、創造主はこれによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられます。

 

私は神学校で学び始め、涙ながらの感動的な証を聞いたとき、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない・・」と悩みました。たとえば一年先輩の方は、証券会社の個人営業で迷惑をかけた顧客に、自分の貯金すべてを使って弁償し、無一文になって神学校に入って来られました。

一方の私は十分な貯えをもとに不自由なく神学書を買い集め、ブルジョア神学生と揶揄されながら学びを始めていました。その余りの違いに悩んでしまったのです。

そのときその神学校の創立者が優しく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが・・」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいました。

私のこころはどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができます。私たちは、「信仰」を人間的な意志の力かのようにとらえ、主のみことばにある創造の力を過少評価してはいないでしょうか。

 

3. すべての罪の始めは高慢である

だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう(12)とは、「無意識のうち」に犯してしまう神と人とに対する罪とを指しています。人は基本的に他人の過ちには敏感なのに、自分の「あやまち」に関しては驚くほど鈍感になり、「私は結構良い人間だ・・」と思い込みながら人を振り回し、傷つけたりしています。

作者はそのような「数々のあやまち」を思いながら、「その隠されているものから 私をきよめてください」と祈ります。

使徒パウロも「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です」(Ⅰコリ4:4)と告白し、自己正当化を避けました。

 

そして続けて、「このしもべの高慢を抑え 支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう(イザヤ14:3)と願って天から落ちた御使いです。また最初の人アダムは、「あなたがたは神のようになる(創世記3:5)という誘惑に負けて、食べてはならないという言われた木の実を取って食べました。

ですから、「人間における高慢の初めは神から離れることである」「すべての罪の始めは高慢である」(シラ書10:1213)とアウグスティヌスが外典を引用しつつ語ったこと(「自然と恩恵」29)はまさに真実でしょう。

 

それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに・・」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れた凧」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただくかぎりは、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。

ただ、そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。向上心が、人を見下し、神を忘れるような方向に向わないように、「高慢を抑え 支配させないでください」と祈る必要があるのではないでしょうか。

 

そして、私たちがこの根源的な「高慢」の罪から守られるなら、「それで私は完全にされる」というのです。

つまり、自分が、生まれながら、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられたいのちを真の意味で輝かせることができないことがほんとうに分かるなら、そのときこそ、神が願われる「完全」の基準に達したことになるというのではないでしょうか。

なお、その「完全」とは、「完璧」というより目的に合致するという意味です。

 

そればかりか、そのとき同時に「私は」、先の無意識の「あやまち」ばかりか、「大きなそむき」という意図的な罪からも「きよめられる」と述べられます。そむき」とは、「しもべ」としての生き方を捨てることを意味するからです。

私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。実は、心の奥底には、神のみこころにかなったことを敢えて望みたくはない自分がいるのです。

それゆえ、作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも「高慢」の問題であると断言しているのです。そして神は、私たちを適度な試練に合わせることによって、高慢な思いを砕き、謙遜にし、人生を変えてくださるのです。

 

そして最後に、「この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈られます。作者ダビデは詩篇5117節で、「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心」と述べています。

何か大きな働きを成し遂げることよりも、高慢を砕かれた「こころ」こそが、神の御前で喜ばれるものなのです。

私たちには、思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして・・」と思うことも多くあることでしょう。しかし、それらがなければこの私は自分の罪も神の恵みも知ることができなかったように思います。

 

最後に作者は、「(ヤハウェ)」という御名を七度目に呼びながら、その方こそが、「」が拠り頼むべき「」、人生の基盤であること、また「私の贖い主」であると告白します。

それは同時に、「空中の権威をもつ支配者」(エペソ2:2)であるサタンの支配から、また「罪と死の律法(ローマ8:2)からの解放を意味しています。

 

ところで、私は自分の頭上に広がる広大な宇宙を見上げながら、「この銀河系は六十億年後にはもっとも近いアンドロメダ銀河と衝突することになる・・・」などと、天体の法則を分ったようなつもりになって、なお高慢になることがあります。

また、モーセ五書を読んで感動する代わりに、愚かにも、「私はこの難解な書に関しての良い本を書けた・・」などと高慢になることがあります。それは天に目を向ける代わりに、それを見ている自分を意識し、また聖書に没頭する代わりに、それを読む自分に目が向っているからです。

 

今も、多くの人々から慕われ、尊敬されている約八百年前のアシジのフランシスコは、父親から受け継ぐことができる財産をすべて放棄して、粗末な毛皮一枚の裸に近い状態になったときに、神が創造された世界の美しさに心から感動して、喜びに踊りだしました。そればかりか、この世界全体が神への賛美を奏でているその声を聞くことができたといわれます。

私たちも、自分が持っているものではなく、神が一方的に日々与えてくださっている恵みにこそ目を向けたいものです。そのために、私たちは、これらの意味を頭で考えるよりは、空を見上げつつ、歩きながら、また野に臥せりながら、この詩を口ずさみ、歌うべきではないでしょうか。それこそが、自意識過剰への最大の処方箋と言えましょう。

神は御手のわざと御口のことばによって、あなたに今も語り続けておられます。それに「こころ」をゆだねることこそがすべての始まりです。

 

私たちは信仰生活における自意識過剰に目を見張る必要があります。そこから信仰の比較が生まれ、パリサイ人のように自分を誇る自己義認の傲慢か、反対に不信仰を卑下する自己嫌悪につながります。

神は不信仰なままのあなたを召して、その「こころ」に信仰を芽生えさせ、生きる意味と目的とを与えてくださったのです。

何よりも神の御手のわざに感動した「こころ」を、また、神のことばによって罪が示され、慰めや希望を与えられた原点を思い起こしましょう。信仰はすべて神の語りかけに対する応答なのですから。

|

2018年1月 1日 (月)

コロサイ1:9-20 「イエスの愛に包まれて歩む」

                                      201811

紅白歌合戦で「欅坂46」が歌い踊った曲が強く印象に残りました。何か、日本の固有の「同調圧力」の問題を的確に歌っている気がしました。秋元康さんの作詞ですが以下のような歌詞です。

 

僕はYesと言わない 首を縦に振らない まわりの誰もが頷いたとしても 

僕はYesと言わない 絶対沈黙しない 最後の最後まで抵抗し続ける 

叫びを押し殺す 見えない壁ができてた ここで同調しなきゃ裏切者か 

仲間からも撃たれると思わなかった   僕は嫌だ 

不協和音を 僕は恐れたりしない 嫌われたって 僕には僕の正義があるんだ

殴ればいいさ 一度妥協したら死んだも同然 支配したいなら 僕を倒してから行けよ!

ああ 調和だけじゃ危険だ ああまさか 自由はいけないことか
人はそれぞれバラバラだ 何か乱すことで気づく 新しい世界 
   僕は嫌だ 不協和音で 既成概念を壊せ 

みんな揃って 同じ意見だけではおかしいだろう 意志を貫け!

ここで主張を曲げたら生きている価値ない 欺きたいなら 僕を抹殺してから行け!

 

   ただ、同時に不思議に思ったのは、これを歌い踊っている46人がまさに、同調圧力の中で、同じ動作で踊り、シンクロすることを目指していることです。歌詞の内容とこの女性の集団の存在がそぐわないと思えましたが、これも日本の現実なのかとも思います。既成概念に抵抗するという人たち自身が自分たちの村社会で同調圧力の中に生きています。少なくともフランスでは、このような歌詞は何も新鮮に響きません。またこのような踊りも流行らないことでしょう。ここに日本の美しさと闇があるように思います

 

そして、そのような同調圧力のようなものは、日本の教会にもあるかもしれません。その中で、クリスチャンとして生きることに、息が詰まるような思いを味わっている人がいるかもしれません。

たとえば、信仰の成長を目指しながら、「自分の欠点を認めて、それを直していただく」という繰り返しの中で、成長しない自分に失望を味わってはいないでしょうか?しかも、変えるべきところは際限なく出てきます。あなたにとって神は、「将来を変えてくださる方」ということに留まってはいないでしょうか?

 

1. 「愛する御子の御支配の中に移された」ことを、感謝しながら歩む

   コロサイ教会は、エパフラスという無名の人の働きで生まれましたが、彼らはその福音では不充分なことのように感じて、ユダヤ人の伝統やギリシャ哲学の知恵を、さらに追い求めていたのだと思われます。しかし、パウロはそれに対し、届けられた福音を、まず感謝をもって受けとめ、それを、日々の「歩み」の中で体験できるようにと祈りました。

9-20節は、ひとつの文章で、すべては、パウロが「絶えず・・・祈り求めています(9)にかかります。ここからは、感謝に代わり、祈りの内容が述べられます。

それは第一に「神のみこころについての知識に満たされる」ことです。当時は、聖書といえば旧約だけでした。イスラエルの民に向けて書かれたことの中に、すべての民族の救いに関する神のみこころが明らかに啓示されていました。実は、旧約も極めて簡潔にまとめて理解することが可能なのです。

第二は、「主にふさわしく歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(10)という、「歩み方」に関する祈りです。

それは第一に「あらゆる良いわざのうちに実を結ぶ」こと、第二に「神を知ることにおいて成長する(10)こと、そして第三に「あらゆる力をもって強くされる(11)こと、そして第四に「御父に喜びをもって感謝をささげることができる」(12)ことです。

その四点目にこそパウロの強調点があります。つまり、キリスト者の歩みの核心は、自分の欠けを覚える前に、与えられた救いを「感謝」することなのです。

 

その感謝の根拠として、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出し・・」(13)とあります。アダム以来、自分が「神のようになる(創世記3:5)ことを願う全ての者は、前向きに生きているようでも、滅びに向かっています。

自分の弱さを克服し、競走に勝つことは、美徳とばかり言いきれるのでしょうか?一人の勝者の背後で99.9%の敗者が生まれ、その一人もやがて敗者になります。この競走原理こそ、まさに暗闇の圧制ではないでしょうか。

しかも、信仰に導かれてもなお、「一流のクリスチャンになりたい!」などと駆り立てられてはいないでしょうか?暗闇の支配者であるサタンは、エデンの園で、エバの目を「食べてはならない」という一つの木に釘付けにしました。サタンは今も、現状に不満を持つようにと誘惑し続けているのです。

 

私たちは、既に「(御父が)愛する()子のご支配の中に移」されています。そのことが改めて、「この御子にあってin、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています(14)と記されています。

ここでの「罪の赦し」とは「贖い」の言い換えですが、「贖い」の本来の意味は、代価を支払ってもらって、奴隷状態から解放されることを意味します。それはここでは、「暗闇の力の支配」から、「愛する御子のご支配の中に移された」ことを意味します。私たちはこの立場の変化を繰り返し味わう必要があります。

社会の矛盾を感じ、それに抵抗している人自身が、暗闇の支配下に置かれていることも多いからです。それは実際、革命運動に身をささげてきた人が、圧政を作り出してきたという現実に見られます

 

イエスがバプテスマを受けられたとき、天が開け、あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)という声が聞こえましたが、これは今、私たちへの語りかけとなりました。この声を聞く歩みこそ、御子のご支配にあることです。何よりも、イエスは御父が「愛する子」ですが、私たちも「御子にあってin、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得て(14)おり、神にとっての「愛する子」とされています。

 

確かに、自分の罪深さを認識することと、「こんな私が神の子とされた!」と感謝できることは切り離せない関係にありますが、自分の罪の自覚を深めることばかりに心を集中することは危険です。サタンも自分の罪深さは良く知っているのですから・・・。

ある人は、幼い頃から、道を踏み外さずに生きながらも、人生の意味を捜しあぐねて真の神に出会いました。しかし、その後、「私は自分の罪深さが実感できない・・」などと落ち込みました。しかし、その彼も、「救いのご計画の全体像が分かった時、初めて、この世の栄光を望む自分の罪深さに圧倒された」と言っています。

「救いが分かって、罪が分かる」という順番もあるのです。罪の本質は、神の愛の語りかけに応答しないことであれば、その方が望ましいとも言えます。感謝が伴わない歩みは、冷たい道徳主義です。それも、人を駆り立てる「暗闇の力」と言えるのかもしれません。

 

2. 「御子にあって、御子によって、御子のために」

  15-20節は「キリスト賛歌」とも呼ばれ、ひとつの詩のように整えられていますが、15節の始まりは、「彼は」という代名詞です。

つまり、この箇所は独立しているのではなく、「御父に、喜びをもって感謝をささげることができる」根拠として、御子のみわざが述べられています。御子が創造主であることを覚えることは、御父を忘れることではなく、賛美することになるのです。

 

  これは四部に分けられ、1516節と18b-20節が対応し、それにはさまれて、ふたつの短い文があり、前半で御子による創造が、後半で御子による世界の再創造が歌われています。このふたつの視点から、御子による「救い」をとらえなおすとき、私たちはより大きな自由を体験できることでしょう。

 

  世界は確かに罪に支配されていますが、目に見えるものを軽蔑することは御子による救いを誤解することです。「御子は、見えない神のかたちであり(15)とあるように、見えない神は、目に見える肉体を持つ御子を通してご自身を証しされたからです。

しかもこの方は被造物ではなく、世界が存在する前に父なる神から「生まれた方」であり、この目に見える世界ばかりか、目に見えない世界や御使いをも創造された方なのです。

ここでは、「御子にあって(in)」、「御子によって(through)」、「御子のために(into)」という見方が示されています(16)

王座も主権も支配も権威も」という中に、当時のローマ帝国による圧政も含まれています。確かに、ローマ帝国によって苦しめられた現実もありますが、少なくともヨーロッパから中東、アフリカ北部にいたる広大な地域から戦争がなくなり、自由な人々の往来が認められ、経済が発展し、多くの人々が豊かさを享受できたのです。それは、内戦状態や無政府状態よりははるかに望ましい社会でした。

私たちは、この地の制度や営みのすべてが、「御子にあって(うちにあって)成り立って(共に保たれて)いるという点をもっと感謝をもって見るべきではないでしょうか(17)

 

コロサイの信徒は、偶像礼拝に満ちた世界から救われたことの反動で、この世の仕事や知識、政治的な権威などの、見えるものをすべて否定したのだと思われます。それに対して、パウロは、罪に堕落した世界が、それでも滅ぼされずに保たれているのは、創造主である御子のみわざであることを思い起こさせたのです。

この異教社会の日本にも、イエスのみわざの影響を認めることができるのではないでしょうか。たとえば、一週間のリズム、結婚制度、基本的人権やいのちの尊重、平和主義、「愛」や「自由」ということば、その他、数え上げたらきりがないほど見られます。

この世界を批判ばかりして、そこにある美しさを見ることを忘れ、「赤ちゃんを汚れた水と一緒に捨てる」(英語のことわざ)ようなことをしてはなりません。

 

私は昔、証券業務に従事していた頃、自分が「御子にあって」その職場に置かれ、「御子によって」造られた仕事の中で、「御子のために」働くということの意味が分かるまでは、仕事が空しく思えました。先日は、スポーツジムで運動をしながら、「私は、御子にあって、御子によって、御子のために」踊っていると示され笑えてしまいました。

あなたも、この「万物」ということばの代わりに、「自然」「国」「家族」「会社」「仕事」「食物」「スポーツ」「趣味」「配偶者」「子ども」「友人」「東京都」「立川福音自由教会」等ということばを入れて読み替えてみてはいかがでしょうか。

 

イエスは今この時、生きて働いておられます。私たちは、どんな暗闇の中にも、やがて美しく咲く花のつぼみを認めることができます。そこに希望に満ちた喜びが生まれます。

 

3. 「死者の中から最初に生まれた方」のうちにある幸い

ただし同時に、この世界のゴールに関しては、「その日には、諸々の天は大きな響きをたてて過ぎ去りと描かれます(Ⅱペテロ3:10)。これは「消える」というより、現在の姿が過ぎ去って、新しい状態へと変えられるという意味が込められています。そして、「その構成要素は焼かれて(絆を)解かれ、地と地のいろいろなわざは明らかにされます(私訳)と記されています。この最後の部分は、新改訳脚注で、「暴かれます」と記されていますが、最近はその解釈の方が一般的になっており、ここは隠された罪が暴かれ、良い働きが評価されるという意味と理解することができます。

とにかく私たちはこの世界が「過ぎ去る」ということを忘れずに、目に見えるものに固執せず「地上では旅人であり、寄留者であることを告白する(ヘブル11:13)ことも大切です。

私たちは、この世のうちにではなく、その創造主である「御子のうち」に存在しています。それは、具体的には、キリストの「からだである教会(18)交わりのうちにあることを意味します。そして、この立川福音自由教会の「かしら」も御子であられます。

キリストのうちにある」ということは、「そのからだである教会」の交わりのうちにあるということと切り離すことができません。

 

  「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18)とあるのは、御子の復活が、私たちがやがて栄光の身体へと復活する「第一の者」、つまり、復活の「初穂だからです(Ⅰコリント15:20,23。御子は、私たちと同じ弱く惨めな肉体となられましたが、御父は「御子のうちにin,ご自身の満ち満ちた本質を御子のうちに宿らせ(19)ました。

その「神は、『アバ。父よ』と呼ぶ御子の御霊を(ガラテヤ4:6)あなたのうちにも宿らせてくださいました。あなたは今既に愛されている神の子どもであるとともに、やがては、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」(22)へと造り変えられるのです。

 

御父が・・御子のうちに ご自身の満ち満ちた本質を宿らせた」ということは、十字架で血を流された方が、父なる神と等しい方であることを意味します。十字架にかかられた方が、創造主なる神であられたからこそ、その血によって、御父と万物の和解が成り立ったのです。

マルティン・ルターは、あまりにも内省的になりすぎ、臆病に生きている友人に向かって、「罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死と世界との勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、かつ喜びたまえ。われわれがわれわれである限り、罪は犯されるにちがいなかろう」という逆説を述べました。

それは、自分の醜さに目を向けるよりも、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに目を止め、それに感謝することこそが信仰の核心であるということを教えるためでした。自分の罪深さばかりに目が向かうのは、キリストによって支払われた賠償額をあまりにも小さく見積もっていることに他ならないというのです。十字架にかかられた方は、あなたの創造主です。そのことを改めて心に留めるべきでしょう。

 

そして、御父が、御子によって「地にあるものも、天にあるものも」ご自身と和解させてくださったこと(20)は、愛と平和と喜びに満ちた「義の宿る新しい天と新しい地(Ⅱペテロ3:13)実現することの保証です。この地での労苦は、無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)

 

  八木重吉という大正末期の詩人は、信仰に導かれた後、恵まれた生活の中で、説明し難い寂しさと悲しみを感じます。英語を教えて家族を養うことを、生ぬるい信仰と思えたからです。しかし、やがて、家族を喜び愛し、学校の生徒や同僚に仕えることを、キリストにある、キリストに仕える生き方と受けとめ、現在を感謝できるようになりました。

30歳で死の病(結核)にかかりますが、夢の中で、自分が、天使よりもすぐれた顔になり、栄光の光に包まれていることを見て、不思議な平安に包まれました。

そして、小さな歩みしかできない自分を、イエスの眼差しで優しく見守られるようになりました。その心境がつぎの詩にあらわされています。

 

「 きりすと われにありとおもうはやすいが

  われみずから きりすとにありと 

ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ

  きりすとが わたしをだいてくれる  

 わたしのあしもとに わたしが ある  」     

|

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »