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2018年2月18日 (日)

Ⅱサムエル13章20節~15章18節「ダビデの沈黙が生んだ悲劇」

                                         2018218日          

   あなたの父親、またあなたの夫が、肝心のときに黙り込んでしまって、責任を果たそうとしないということがないでしょうか。そんなとき人は、「男らしくない!」と非難しますが、実は、それは、「ああ、彼は男なんだな。アダムの子孫なんだな・・」と言うことができるかもしれません。

食べてはならないと言われた木の実を最初に取って食べたのは女でした。しかし、そのときいっしょにいたはずのアダムは、沈黙したままでした。もし問われたとしたら必死に答えようとしたことでしょうが、介入すべき時に傍観者となってしまうという性質があります。それは「アダムの沈黙」と呼ばれます。

そして、女の勧めにしたがって自分も食べたあげく、後で、「この女が・・」と責任を回避しました。その同じ姿をダビデも危機の中で繰り返します。

 

   ダビデは権力の絶頂期に、忠実な家来の妻を奪ったあげく、彼を計略にかけて死に至らしめ、自分は家臣思いの敬虔な王のふりをしていました。それに対する神のさばきは、「見よ。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす(12:11)でした。それは、神が直接に罰の災いを引き起こすというのではなく、ダビデの家の問題を放置し助けの御手を伸ばさないということだと思われます。

それはパウロも、「神の怒り」の現われを、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・恥ずべき情欲に引き渡され・・・無価値な思いに引き渡され(ローマ1:24,26,28)と表現したのと同じです。「神の怒り」が「神の沈黙」として現れ、人が互いに傷つけ合い、自滅に向かうままに放置することが、「引き渡され」と表現されます。

本日の箇所にはダビデの三男アブサロムの謀反に至る11年間のことが記されています。そこには何の神のみわざも記されていません。これらすべての災いの原因は、神ではなく、人にあることが明らかです。しかも、ダビデ自身の対応のまずさが問題を拡大させています。

 

1.子供同士の殺し合いの原因を作ったダビデの沈黙

   ダビデの長子アムノンは腹違いの妹のタマルに「恋をし」「苦しんで病気になるほど」でしたが(13:12)、従兄弟のヨナダブの策略に従い、ダビデを巻き込んでタマルがひとりで自分の世話をしてくれる状況を作り出しました。アムノンは彼女を強姦したあげく、すぐ憎しみに駆られて家の外に追い出してしまいした。それは彼女の全人格を否定し、生きながら葬り去るという蛮行でした。

それを聞いた彼女の実の兄のアブサロムは、「今は、黙っていなさい。彼はおまえの兄なのだ。このことで心配しなくてもよい(13:20)と言いました。そこには、「これは家族全体の恥であり、王家の信頼を揺るがす一大事だ。父ダビデの対処に期待しよう・・・」という思いが込められていたのかもしれません。どちらにしても、アブサロムタマルの苦しみを自分のものとして受け止めるので「心配しなくてもよい」という意味だと思われます。

 

ところが、「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った(13:21)とは記されていますが、具体的には何のさばきも下しはしませんでした。死海文書やギリシャ語七十人訳には、「彼は自分の息子アムノンを罰しなかった。ダビデは彼を愛していたからである。彼に最初に生まれた子だったから」という付加があります。これはダビデの心理を適確に言い表したものと言えましょう。

彼は類稀な豊かな感性を持ち、母親的な情の厚さがありました。そればかりか、自分の忌まわしい罪を思うと、息子を厳しくさばく勇気を持つことができなかったのでしょう。

確かに彼は、戦いに直面した際は極めて男らしく振舞いましたが、あまりに想定外のことが起こる中で、男の典型的な弱さも表わしたと言えないでしょうか。それは、理解できない事に直面する代わりに、逃げようとする心理的な構えです。これはあなたの父親やあなたの夫だけの問題ではありません。

多くの男性は、自分が置かれた環境を把握しているということに安心を得ようとします。そのため、自分が理解できないことが起こると沈黙してしまいます。それが次の問題を生みます。これは「アダムの沈黙」と呼ばれ、自分の弱さを隠すひとつの逃避行動です。

多くの女性はそれに唖然とし、非難しますが、アダムもダビデも同じだったことを思うなら少しは優しくなれるでしょうか。

 

   1322節は、「アブサロムはアムノンに何も語ろうとしなかった。その悪に関しても、まして、良いなどとも・・」と訳すことができます。心の底から怒っていると、それを言語化することはできなくなるのではないでしょうか。

しかも、アブサロムは父ダビデが沈黙を守っているのを見て、妹のために自分でアムノンに復讐することを思い巡らしていたのでしょう。彼の沈黙は、怒りを隠す手段でもありました。

 

そして、それから「満二年たって(13:23)、アブサロムは復讐を実行に移します。彼は父ダビデの心から、この事件に対する怒りが和らぐことを苦々しく思いながら、それを利用しました。

彼は「羊の毛の刈り取りの祝い」という羊飼いにとっての最大の祭りにかこつけて、父を祝宴に招きたいと熱心に誘います。彼は王が来ることはないと分かっていたことでしょう。それは長男アムノンが父の代理として来るという名目を作るためで、「それがかなわないなら、アムノンを・・」と大胆に願います(13:26私訳)。それに対し、ダビデが「なぜ、彼が・・」と尋ねたのは、アブサロムの復讐の可能性を見たからでしょう。

しかし、「アブサロムがしきりに勧めたので、王は・・・息子たち全員を・・行かせた」というのです(13:27)。それはアムノンの安全を守るための配慮だったかもしれませんが、それはアブサロムが最初から願っていたとおりのことでもありました(13:23)

ここで残念なのは、かつてアムノンタマルを自分のところに来させるのにダビデを用いたように、アブサロムも父を用いてアムノンを自分のところに来させたことです。ダビデが安易にタマルアムノンのもとに送ったことが事件の契機になりましたが、アブサロムがアムノンへの復讐を果たすことに父ダビデを巻き込んだということに、父に対する怒りの思いが込められていたのかもしれません。

それにしても、ダビデの息子たちへの愛情が、騙され易さに通じるというのも何とも悲しいことです。

 

アムノンは他の兄弟たちも一緒であることに安心し、祝宴で酔って上機嫌になりましたが、そのすきにアブサロムの家臣たちが一斉にアムノンに打ってかかり、彼を殺しました。他の王子たちは逃げましたが、王のもとには王子たち全員が殺されたとの知らせがありました。

その際、事の経緯を把握していたのは、かつてアムノンに悪知恵を授けたヨナダブでした(13:30-33)。彼はこの期に及んで、アブサロムの気持ちを、「アムノンが妹のタマルを辱めた日から、胸に抱いていたことです(13:32)と言いますが、それは自分が最初にアムノンをそそのかしたという罪に、王の目が向かうことを避けるためであったのかもしれません。

しかし、それ以上にこのことばを通して、父ダビデがタマルの痛みもアブサロムの憎しみも残念ながらまったく理解していないという、「父親失格!」の現実が露わにされています。そしてダビデができたことは、長子の死の知らせを聞いて「非常に激しく泣いた」ということだけでした(13:36)

 

2. アブサロムへの思いを表現できなかったダビデの沈黙

  アブサロムは殺人者として母の実家に逃げます。母はガリラヤ湖の東に広がるゲシュルという同盟国の王女でした(3:3)。アブサロムは当時の人々の応援を得やすい最高の血筋を持っていました。

そして、彼は「三年の間そこにいた(13:38)というのです。その間、ダビデの気持ちが徐々に変化します。

 

1339節と141節は、様々な翻訳の可能性がありますが、「ダビデ王はアブサロムに立ち向かうことをやめた。アムノンの死に関し、自分の心を慰めたからである。ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムの上にあるのを知った」と訳すこともできます(以前の新改訳は「ヨアブは、王がアブシャロムに敵意を抱いているのに気づいた」と訳したが、2017版では「心が・・向いている」と訳している)。

要するに、ダビデの心は三年の歳月を経て、アブサロムに対するあわれみで一杯になったのです。そうでなければ、ヨアブのように現実的な人間がアブサロムを呼び寄せることに尽力するわけがありません。王が敵意を抱く王子に肩入れすることは危険極まりないからです。

同時にアブサロムがゲシュルという国にいて、ダビデから疎まれていると感じることが、ゲシュルとの同盟関係を危うくする可能性があると見たのかもしれません。なぜなら、すぐその向こうの大国シリア(アラム)はいつ敵対的になるか分からないからです。

 

   それにしてもヨアブは、直言することを避け、自分のふるさとの近くのテコアの女を呼んで、真に迫った芝居をさせます。それは、自分にふたりの息子があったが、「だれもふたりを仲裁する者がなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまい」(14:6)、親族全体が、残された息子の命を求めるというものでした。

ダビデは、即座に、その兄弟殺しの息子の命を守る命令を下すと約束しました。この原則はすぐにアブサロムにも適用できるもので、王は、意図せずに、彼の命を守ると宣言したことになります。

彼女は、一歩進んで、「神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます(14:14)と大胆に詰め寄ります。それは自分の息子を追放の地から呼び寄せるために王命が発せられることと、アブサロムの帰還を許す王命が発せられることを重ねることです。

このときに至ってダビデは、これがみな「ヨアブの指図による」ものと悟ります(14:19)。王はヨアブから直接言われれば、「殺人者を安易に赦すことはできない・・・」と返答せざるを得なかったと思われますから、彼がとった方法を苦々しく思いながらも、アブサロムを呼び戻す口実が成り立ったことを心から喜んだことでしょう。

 

ただ、ここでダビデは不思議にも、エルサレムに戻ったアブサロムに、「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ(14:24)と、法を司る王としての立場からのみ語ります。それは殺人という罪へのけじめのつもりだったのでしょうが、それと父親としての喜びを素直に伝えることとは矛盾しないはずです。

彼は息子への愛を示しながら、同時に自分の葛藤を表現することだってできたはずです。しかし、アダムの子孫である男は自分の悩んでいる姿を見せることを躊躇する傾向があります。

確かにダビデはかつて王としての威厳など忘れて、神を人々の前で喜び歌っていました。ところが、家族の危機の中では突然、心の自由を失ったかのようです。それはダビデ自身、これが自分の身から出たさびであると自覚しているからこそ、ますます無能な頑固親父(おやじ)になってしまったとも言えましょう。

 

3.イスラエルの各部族の信頼を失ったダビデの沈黙

   ここで、「さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった(14:25)と記されます。かつてサウルも、「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった(Ⅰサムエル9:2)と言われており、そこに共通する危険が示唆されているとも言えましょう。

確かにダビデも、「目が美しく、姿も立派だった(16:12)と描かれており、見栄えは当時の王としての大切な資質と見られていました。ただ同時にダビデはエッサイの八番目の息子で、「羊の番をしている」中から呼び寄せられたと記されているように、社会的な注目を集める者ではありませんでした。

人の評価を受けすぎる人は、それを気にしすぎる誘惑にさらされる傾向があります。そして、人の評価を求める思いと、人と人との親密さへの渇きは切り離せない関係があります。

 

それに続いて1428節では、「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった」と記されます。彼はヨアブの仲介を望みますが、無視されます。ついにヨアブの畑に火をつけてまで、彼を自分のもとに呼び寄せ、こんな不安な状況に耐えられないことを伝えます。

その際、アブサロムは、「今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されても構わない(14:32)とまで訴えます。それは、「無視されるよりは、怒りを買って殺される方がまだ耐えられる・・」という思いです。それは、アブサロムの心に強くあった「親密さへの渇き」から生まれる葛藤であったとも言えましょう。

 

ここに至って初めて、王は彼を呼び寄せ、「口づけした」と記されます(14:33)。それは公に彼を赦すと宣言することでしたが、アブサロムが切に求めていた心の交流はまったくありませんでした。

ダビデは父親としての熱い情を隠し続けています。アブサロムもダビデの心の葛藤を理解できません。彼は、「私は、父から疎んじられ、憎まれている・・・」としか思えなかったことでしょう。

ダビデは詩篇の祈りの中では、驚くほど豊かな感情表現を記録しています。しかし、息子の前では自分の心の葛藤を表現することはできませんでした。これもアダムの沈黙の延長線上にあります。男性心理の複雑さを思わされます。

 

   アブサロムは、これを契機にエルサレムで目立った動きをします。「自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた(15:1)とは、戦いへの備えではなく、王位継承者としての威厳をアピールするためです。それは彼の見栄えの良さと合わさって効果がありました。

しかも、朝早く、門に通じる道のそばに立って、王に訴えに来たひとりひとりを呼び、「王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない(15:3)と言います。これは彼の素直な気持ちでしょう。「息子をここまで無視する王が、イスラエルの小さな部族に気を配ることなどできはしない」と確信していたことでしょう。

なお、彼はさらに大胆に、「だれか私をこの国のさばき人に立ててくれないだろうか(15:4)と言いますが、彼は、「王」ということばを避けながら、自分の野心をあらわにします。しかし、これは、彼が公にダビデの後継者として立てられるなら、できることでもありますから、まだ反乱罪の対象にはなりません。たぶん、ダビデの目からは、彼が王位継承者レースを勝手に先走っている程度にしか見えなかったのかも知れません。

それらの行動をまとめるように、「アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ(15:6)と描かれます。これは驚くべき表現です。「親密さへの渇き」を抱えた人は、時にこのような行動をとってしまいます。

他人の不安や孤独感に寄り添うように振舞いながら、その人の周りの人の無関心を批判し、「私はあなたの気持ちが分かる」と言うのは「心を盗む」行為と言えます。それは人と人との関係を分断して、人の心を自分に引き寄せようとすることだからです。そのような「心泥棒」の誘惑が自分や人の中にあることを忘れてはなりません。

 

それにしても、アブサロムは「四年」の歳月をかけて「イスラエル人の心を盗み」続けました(15:6,7)。そして、イスラエルの全部族にひそかに使いを送りながら、かつてダビデが王として立てられたヘブロンでの即位劇を準備します。

彼はダビデを欺き、招いた二百人にさえも何をするかを隠したままでした。ただ、「アブサロムがヘブロンで王になった(15:10)という知らせがイスラエルの全部族にいっせいに駆け巡るように工作したのです。

人々は、予期しないことが起きると、冷静な判断能力を失います。しかも、アブサロムはいけにえを献げている間に、「ダビデの助言者(議官、顧問)ギロ人アヒトフェル(15:12)までをも呼び寄せます。彼はエリアムの父(23:34)エリアムはウリヤの妻だったバテ・シェバの父でした(11:3)から、バテ・シェバの祖父、ソロモンの曽祖父がアブサロムを応援することになったということになります。

人々は、そこに流れの変化を見たことでしょう。事情の知らない二百人に関しては、周りの目からはこのクーデターの賛同者としか見られません。たぶん、皆が列車に乗り遅れたら大変というような気持ちでアブサロムの側に付いて行ったことでしょう。

ダビデは、この事情を聞くや否や、神の「都」を戦場にしないためにエルサレムから逃げ出すことを決意します(15:14)。彼はサウル時代から逃げ上手でした。

 

不思議なのは、アブサロムは自分の手勢の軍事力もほとんど持たないまま、人々の支持を集めることができたということです。それは、ダビデが人々の信頼を失っていたことのしるしとも言えましょう。

彼は最も信頼していたはずの助言者アヒトフェルからも見限られていました。これは、ダビデがアブサロムに対するのと同じような煮え切らない態度を人々にも取っていたことを示唆します。国中が、彼の王としての統治能力、判断力を疑うようになっていたのでしょう。

まるでこの反乱に至る11年間、ダビデはうつ状態に陥って、家の中に引きこもっていたかのようです。それらすべてが、ウリヤの妻バテ・シェバへの欲情から始まりました。彼は、確かに詩篇51編のような模範的な祈りをささげながらも、その心は神の赦しを信じる気持ちと、信じられない気持ちの間を揺れていたのではないでしょうか。

アムノンの強姦、アブサロムによる殺人、そしてついには彼の謀反、これら一連の悲劇の中で、ダビデは、神の沈黙に苦しみ続けていたのだと思われます。

その期間は、ダビデがエルサレムで王となっていた33年間の三分の一もの長期に及びました。これはすべての信仰者にとっての避けがたい現実なのかもしれません。

 

詩篇38篇では、ダビデがこの時期に自分が味わった葛藤を赤裸々に、何の言い訳もなしに以下のように記しているのだと思われます。

私の咎が・・・重過ぎる重荷のようになっています・・それは私の愚かさのせいです‥・私は衰え果て、ひどく砕かれ、心の乱れによって、うめいています・・

愛する者や友も 私の災難から目を背けて立ち、私の近親者も 遠く離れて立っています。私のいのちを狙う者は 罠をしかけ、わざわいを求める者は私の破滅を告げ、裏切りを一日中思い巡らしています・・・

しかし、この私は・・・聞くことができない者、口で抗議できない者のようになりました(4,58,11,12,14節私訳)

 

ただそこでは、自分の沈黙の理由を「それは、主(ヤハウェ)よ。あなたを私は待ち望んでいるからです・・あなたは答えてくださいます(15)と記しています。ダビデが肝心の場で沈黙していたのは、神への期待の表れであったというのです。

それが正しい行動だったかはわかりません。もっと彼がアブサロムに正直に賢く振舞っていたら、彼の謀反を招くこともなかったように思えます。しかし、多くの人は、「こうしたほうが良い・・・」と分かっていても、そのようにはできない弱さを抱えているのではないでしょうか。

 

ダビデの弱さは反面教師であると同時に、自己嫌悪に陥る人にとっての慰めともなります。史上最高の王として尊敬される人にもこれほどの陰があったのですから。それは、彼が神の一方的なあわれみなしには生きられなかったという証しです。

そして、神は彼をこのどん底から引き上げてくださいました。それはあなたにも起きています。自業自得の苦しみの中で、神の救いを待ち望むことこそが信仰です。

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