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2018年4月29日 (日)

エペソ4章17節~5章2節「聖霊を悲しませてはいけません」

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アルコールやギャンブルなど、様々な依存症を患っている方に、ありとあらゆる警告や脅しをかけることによって、その人の行動を改めさせようとすることがありますが、それが効果を発揮することは、まずあり得ません。かえって、その人の自己嫌悪感を増幅させ、酩酊状態やギャンブルの勝利で得られる全能感を求めさせるようになることでしょう。

エペソ書417節以降は、その意味で読み方を、気をつけなければなりません。文脈を飛び越えてある特定の聖句だけを教えて差し上げようとすると、その人は、「自分のような信仰の弱い人間は結局、変わりようがないのか・・・」という落ちこぼれ意識を増幅させることになりかねません。

 

しかし、パウロはこの書で繰り返し、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」に関して語ります(1:1920)。それは「キリストを死者の中からよみがえらせた」「神の大能の働き(エネルゲイヤ)」です。

今、私たちの想像を超えた偉大なことが私たちのうちに始まっています。それを知るのが「心の目」が開かれることです。

 

1.「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」

   パウロは「キリストのうちにある者」としての生き方に関して、「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません(4:17)と、敢えて特別に記しています。

この書では、キリストがユダヤ人と異邦人の間の「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し」てくださったと強調していましたが、同時に、両者ともキリストを知る前は、「この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って・・・歩んでいました(2:2)という失われた状態であったと描かれています。

これはたとえば、「あなたは日本人のままで救われているけれども、日本人の常識に従って生きてはなりません」というような意味になります。問題とされているのは「むなしい心で歩んでいる」ということですが、これは生きる方向を見失っている状態です。それは生かされている使命を忘れた歩みとも言えましょう。

 

そのことがさらに、「彼らは知性において暗くなり、神のいのちから遠く離れています。それは、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえにです」(4:18)と描かれます。つまり、「神のかたち」として既に与えられている「知性において暗く」なっているために、「神のいのち」から「引き離されている」状態だというのです

それは人間存在の核心にある「心」が「頑な」になって神の語りかけに反応しなくなっている状態とも言えましょう。そしてそれは特に性的な堕落に現わされることが、「無感覚となった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています」(4:19)と記されます。

これは感覚が麻痺し、倫理的な歯止めがなくなり、汚れた行いを「恋い慕う」ような状態を指します。ローマ人への手紙では「恥ずべき情欲」ということで同性愛のことが描かれますが(1:26-27)、それは神から与えられた秘儀からあらゆる聖さが失われた状態です。

 

  そして、パウロは彼らを信仰の原点に立ち返らせるように、「しかしあなたがたは、キリストをそのようには学びはしませんでした。もし、この方に聞き、この方にあって教えられているならば、です。真理はイエスのうちにあるからです」と訳すことができます。

これはエペソの信徒が確かにパウロから正確にキリストを学んできたはずなのに、どうしてこの世の異邦人の生き方に平気で戻ることができるのか、という問いかけです。

 

  その上でパウロは、「イエスのうちにある真理」に関して、「昔の生き方に従う古い人を脱ぎ捨てることです。それは人を欺く情欲によって腐敗して行くからです。またあなたがたが心の霊において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした」(4:22-24)と描いています。

ここでの中心は、「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」という、既に起こった立場の変化です。それは古いアダムの生き方を捨て、キリストをその身に着たということで、バプテスマはそれを象徴する儀式でした。その際、水から上がった直後に、新しい衣服を着させてもらうという習慣もあったようです。

またこれは、たとえば、奴隷の衣服を脱ぎ捨て、王家の衣服を身に着けるようなことです。外面的には、罪の奴隷から解放されて、神の子の名誉ある立場が与えられたとしても、心の底では奴隷根性から自由になることができません

そこで必要なのは、「おまえは自分の言動に責任を取る覚悟ができていない!」と非難することではなく、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とあるような決定的な立場の変化が既に起きたと励ますこすことです。

 

その変化のきっかけは、「心(思い)霊において新しくされ続ける」ということです。これは、先に、「むなしい心(思い)と言われた状態から変えられたことによります。

もともと人は、自分の肉の意思で、「新しい人」であるキリストを「着る」のではありません。創造主である御霊が、その変化を起こしてくださいました。

ところが私たちは、神が起こしてくださった変化を忘れ、古い生き方に逆戻りしそうになります。心がその変化について行かないからです。そこで必要なのは、私たちが既にバプテスマを受け、キリストをその身に着け、死の中からよみがえって、新しい歩みに入っているという霊的な変化の事実を繰り返し思い起こすことです。

 

   たとえば、私は野村證券札幌支店で働いていた三年間、激しい葛藤と重圧に耐えていました。神の憐みで、それなりの結果を出してドイツ留学への道が開かれ、仕事の内容が劇的に変えられはしましたが、それでも昔のストレスは簡単に消えることなく、十年余りも夢に現れ続けました。

しかも、その営業的発想が、牧師になってからも私の心を支配しました。証券営業ではそれなりの結果を出せたのに、牧師になったら、全然、結果が出てくれない・・・という焦りです。もちろん、理性では、教会の成長は数で測ることはできないし、牧師の働きは、目に見える結果などを求めてはならないということは知っているはずなのに、古い時代の発想は心の奥底に染み付いていました

そのとき示されたのは、自分で獲得した成果ではなく、キリストご自身が私のうちに起こしてくださった変化に目を向けるということでした。私は自分で信じたのではなく、キリストによって捕らえられ、信じさせていただけたのです。

古いアダムの生き方は根強く残っていますが、私はすでに奴隷の衣服を脱ぎ捨て、キリストをその身に着ているという立場の変化が起きています。実は既に、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造られた新しい人を」着させていただいているのです(4:24)。

 

   私の心を支配した感情は、アルコール依存やギャンブル依存と同じような自己嫌悪と全能感の繰り返しでした。何かあるたびに、「馬鹿にされてたまるか・・・」という意地が自分を駆り立て、うまく行くと、「そら、見たことか!」と自分を誇ります。私たちは自分の行動を動かす感情の力を謙虚に認める必要がありますが、多くの人々はそれを認めずに、「私の動機は正しい!」と自分を正当化します。

しかし、自分を弁護する必要を感じているということ自体が、その人の心が人の評価に左右されていることの最大のしるしです。そこで、大切なのは、自分のうちに沸きあがってくる昔ながらのアダムの感情を正直に認め、それがあることを神に告白しながら、神が私たちのうちに起こしてくださった変化に、感情がついて来るように待つことです。感情は、時と共に、意思と行動によって変えられてくるものです。

心が神の救いのみわざに向けられ、神と隣人を愛するという具体的な行動に自分の意思を向けて行くときに、必然的に、神の平安がついてきます

 

2. 「人の成長に役立つことばを語り・・恵みを与えなさい」

   そしてパウロは、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」(4:25)と勧めます。「真実を語る」とは、「何が真実であるかをことばにする」と記され、15節の「愛をもって真理を語る?」とは異なった表現です。

しかも、これはゼカリヤ8章16節からの引用で、そこでは「あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばき(政治)を行え」と記されていました。ただ、パウロはそこでその章全体の文脈を意識していたと思われます。

その3-5節では、「(ヤハウェ)」が「シオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは真実の都と呼ばれ・・・エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ」という新しい祝福の時代の幕開けが告げられていました。

つまり、神が一度は廃墟とされたエルサレムを新しく建て直し、そこに老人から子供までが溢れるようになるという時代の到来を前提として、互いを喜び合うことの勧めなのです。今、私たちの教会にこれが実現しています。なんと素晴らしいことでしょう。

それはエペソ書の文脈では、異邦人とユダヤ人が互いにキリストの「からだの一部分」とされているという意識から生まれます。ですから、この「真実」とは相手の欠点を指摘し、へこませるような真理ではなく、希望を与えるもの、つまり、神がキリストにあってなしてくださった救いのみわざの真実を語ることです。

しかも、「真実を語る」目的は、交わりの中に「平和(シャローム)をもたらす」(ゼカリヤ8:16)ことにあるのです。私たちの交わりの中で、自分を強がって見せることばや行いがなくなり、「キリストのうちにある」ことの喜びを語り合うことが大切なのです。

 

  4章26節は、「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりませんBe angry and do not sin)」と訳すことができます。怒ること自体は否定されていません。これは詩篇44節のギリシャ語七十人訳と同じで、そこを新改訳は「震えわななけ」と訳しますが、「be angry」という訳も多く見られます(ESV,NKJ)

そこでは「人の子たちよ いつまでも私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか」というダビデの「怒り」が描かれ、その上で、「知れ。主(ヤハウェ)ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 主(ヤハウェ)は聞いてくださる」と記されます。

私たちも彼に倣って怒るべき時があります。ただ彼は主の視線で「怒り」ながらも、それが人間関係を破壊する激しい憤りに向かいません。それは主が聞いてくださることを知っているからです。

 

続く文章は、「あなたがたが憤っている状態の上に、日を沈ませてはならないdo not let the sun go down on your anger)」とも訳すことができます。当時は現在のような照明がありませんから、日が沈むと気持ちも暗くなったのかもしれません。これは、パウロのジョークだと思われます。

しかも、その勧めの核心は、悪魔に機会を与えないようにしなさい」(27節)という部分にあります。人の怒りの感情の中に悪魔は巧妙に入り込み、人を堕落させます。それを劇的に描いたのが、映画スターウォーズでのルーク・スカイウォーカーの父アナキンが、悪の勢力の代表ダース・ベイダーになって行く過程です。

アナキンは母親思いの優しく優秀な子でしたが、母を殺された後から、恨みの感情が増幅され、あることを契機に、暗闇の力(ダークフォース)の誘惑で、自分の怒りの感情を爆発させてそれに身を任せ、すべての問題を暴力で解決するように堕落します。

これは、貧しい人を助けるために始まったはずの共産党政権が、民衆を暴力支配するようになっていった過程に似ています。憎しみや怒りが革命の原動力であることは、暗闇の力のまさに思うつぼです。

 

詩篇の祈りには、怒りの感情を神に向かって表現する知恵が満ちています。霊感されたみことばを用いて、自分の心の底に沈殿しそうな怒りの感情を表出することが許されます。

私たちが自分の怒りの感情を受け止めながら、主との交わりでそれに振り回されなくなったら、愛の交わりは確実に成長できます。

 

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」(28節)とは、初代教会の交わりの中には奴隷が多く、彼らには盗みをそれほど悪と思っていなかったのかもしれません。昔から、日本の石川五右衛門のように、豊かな人から金品を奪って、貧しい人々に分かち合う義賊のような人がいたのでしょうか。

それにしてもここで興味深いのは、「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」という盗みとはまったく逆の方向に生きるために、労働に励むように勧められていることです。

 

    「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(29節)も同じような行動の逆転を勧めるものです。

日本の昔からの体育会系の社会では、人を発奮させるために敢えて人格を貶めるような発言が許容されることがありました。最近はパワーハラスメントに分類されるようになりました。

しかしここでは、成長」、つまり、人を「建て上げる」ことに役立つことばを語るように命じられます。これは4章16節の、「愛のうちに建てられる」を思い起こさせます。口から出ることばが、交わりを壊すものか、建てあげるものか、それが問われています。

私たちは正義を主張することよりも、自分のことばが交わりを建てあげるものかどうかを、吟味し続ける必要があります。

 

3.「愛されている子どもらしく」

  パウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)という不思議な表現を用います。聖霊は、何かの力である前に、パーソン(人格)であられます。

イザヤ63章10節には、イスラエルの民が主の愛とあわれみを忘れたことに関して、「彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた」と記されていました。彼らは御霊を悲しませた結果、神の国と神殿を失いました。古いアダムのままに居直って、「神の聖霊を悲しませる」ことは恐ろしい結末を招きます。

ただここではその警告と同時に、私たちのうちに既に起こされた聖霊のみわざを思いながら、「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」と記されます。「贖いの日」とは、私たちの身体が復活し「新しいエルサレム」に入れられる日を指しています。

私たちはその保証(頭金)」としての聖霊を受けているのです(1:14参照)。私たちはやがて、キリストの栄光の姿にまで変えられるのですが、それはすべて聖霊のみわざです。

 

   そして、「聖霊を悲しまる」罪のリストが、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい(31節)として記されています。これはすべて交わりを破壊する罪です。

「憤り、怒り、怒号」は、「激怒、激高、わめき」とも訳せることばで、感情が制御できていない状態を指しています。

そして、それと反対に、「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(4:32)という行動は、聖霊に導かれた行動です。私たちの行動の原点は、常に、「神がキリストにおいて・・・赦してくださった」ということから始まる必要があります。

自分で自分の気持ちを変えようとするのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに立ち返ることこそすべての基本です。

 

   5章1節では「ですから、愛されている子どもらしく神に倣う者になりなさい」という言葉から始まります。しかし、多くの人の心の中には「神に愛される価値のある者になりなさい」という語りかけがないでしょうか?しかし、ここでは「あなたは神に愛されている」のだから、神に倣う者となるように命じられているのです。

その上で、「また、愛のうちに歩みなさい」と命じながら、キリストの模範をしまします。それは、「キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげもの、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださいました」というものです。

これは4章1節の「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」という言葉に通じます。私たちはみな、神のかたちに創造されています。しかし問題は、私たちが「神のかたち」としての生き方を忘れていることにあります。それに対して、イエスは「神のかたち」として生きることをご自身の生涯を通して示してくださったのです。

神のかたちとしての生き方は、キリストの生涯です。そして私たちはそれに「倣う」ことによって、真の意味で、自分に与えられた人格や賜物のすべてを生かすことができるのです。

 

   パウロはこの手紙で最初から最後まで、神の圧倒的な、人知をはるかに超えた救いのみわざに目を留めさせようとしています。それが、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・神の大能の力によって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(1:18,19)という祈りに現されています。

旧約聖書には、「イスラエルの民は、どれほどすばらしい神の教えを受けても、心を入れ替えても、いつも三日坊主だった・・・」という趣旨のことが記されています。それに対し、新約では、キリストと聖霊が私たちを内側から変えてくださるということが記されています。

あなたのうちに既に働いている神の力に目覚めましょう!それはしばしば自分の意志の力に絶望したところで体験されます。

 

私のメッセージを聞く人が、よく、「このままで良い・・・ということがわかり、安心しました」と言ってくれます。また反対に、「先生は、いつも、人は変わらないというけど、もっと励ましも必要なのでは・・・」とも言ってくれます。どちらにも誤解があるような気がします。

私が強調しているのは、「いつでも、そのままの姿でイエスを礼拝し、イエスについて行きましょう。そのとき、イエスがご自身の御霊によって私たちを造り変えてくださいます。それは、期待通りの変化ではないかもしれないけれど、そこでキリストにある愛の交わりが成長しているなら、神の望む変化が起きているのではないですか」という趣旨のことです。

私たちは、自分の愚かさを自覚し、それを主にあって受け入れる程度によって、人の愚かさを許容できるようになります。しかもそこでの「成長」は私たちの人格的な個人としてよりも、「キリストのからだ」という交わりで考えるべきでしょう。

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2018年4月22日 (日)

Ⅰ列王記1-3章 「主(ヤハウェ)のしもべとして生きる王」

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   昔から、「人生の最後に、もっとたくさん仕事がしたかったと思う人は誰もいない」と言われますが、「人々が愛を与え、また愛を受け取るのを助けるために、職場や製品に、もっと自分の時間、熱意、スキルを使いたかった」という人はいるのではないでしょうか。

ニューヨーク中心部にあるリディーマー教会のティモシー・ケラー牧師は、「無関心は、『それは、自分にとってどんな得があるのか』という費用対効果分析だけを基本に人生を生きることです・・・無関心とは、最も目立たない種類の偶像礼拝なのです。

それは、人生の中心に冷笑的な自分自身を置くことであり、あなたの仕事の主たるエネルギーの裏には、最もひどい悪徳や罪のすべてがあるのです」と言って、その自分の利益を第一とする「無関心」の思いの根本を古典的な七つの大罪の「怠惰」と呼び、それが他の「暴食、色欲、強欲、憤怒、傲慢、嫉妬」の罪に現れると分析しています。

 

私たちが自分に対する神の期待を忘れると、競争意識や不安に駆り立てられ、本当の意味で、自分に与えられた賜物を喜び、何かのために生かされているという人生の充実感を味わうことができません。

神が創造した世界に対する「」を忘れた、目的のない自己実現には、人生の空虚さが付きまといます。

 

1. アドニヤは、「私が王になる」と言って、野心を抱き・・・

 「ダビデ王は年を重ねて老人になって」(1:1)、「衣をいくら着せても温まらなかった」ので、家来たちは「王の懐に寝させて王が暖まるように」と、「国中に美しい娘を探し求め」ました(1:2,3)。そして、ガリラヤ湖南西部のイッサカル族の町のシュネムから「アビシャグを見つけて」、王に仕えさせました。

ただそこで、「王は彼女を知ることはなかった(1:4)と敢えて記されます。これは男性としての機能が衰えたことを意味します。

 

このとき、ハギテから生まれたアドニヤが、「私が王になる」と言って「野心を抱き、戦車や騎兵をそろえます(1:5)。彼は父ダビデの「心を痛める」ことがなかった息子で、「非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子」、ヘブロンで生まれた六人の息子の第四番目でした(Ⅱサムエル3:2-6)

このとき次男も死んでいたと思われ、彼が最年長の子として、王位を願うのは人間的には当然とも言えました。それにしてもアドニヤアブサロムには共通点があります。それはダビデの権力に陰りが見えたとき、自分の外面的な魅力や人間的な基準に頼り、神のみこころを尋ねようともせずに、自分の意志で王になれると思ってしまっている点です。

そしてアドニヤは、ダビデがソロモンに目を留めているのを知って、実力者の将軍ヨアブと、大祭司エブヤタルに頼りながら、エルサレムのすぐ東南のエン・ロゲル近辺で祝宴を開き、「王の家来であるユダのすべての人々を招いた(1:9)というのですが、そこにダビデの勇士たちも、他のイスラエルの人々も招かれてはいません

彼は自分の身近な人々から支持者を集めても、イスラエル王国全体への視点が欠けています。

 

一方、預言者ナタンは、ソロモンの誕生の際、「主(ヤハウェ)はその子を愛された」(Ⅱサムエル12:24)とのみこころをダビデに告げていたほどの人でした。それで、ソロモンの母バテ・シェバにアドニヤの動きを知らせ、ダビデ王のもとを尋ねてこれを告げるように助言します。

彼女は、寝室にいる王を訪ね、「あなたは・・主(ヤハウェ)にかけて・・・『ソロモンが・・・私の王座に着く』と・・・お誓いに」なったのに、「今、アドニヤが王となっています・・あなたはそれをご存じではないのです」と訴えました(1:17,18)

最後の部分は、「王よ、あなたはそれを知らないのです」と記され、4節の「王はアビシャグを知ることがなかった」に対応し、王としての能力の陰りを示唆している表現とも言えます。それは、王が自分の後継者を公に告げないと大変なことになるという警告です。

そして、そこに預言者ナタンが入ってきて、アドニヤが王座に就くのは王の意思かと尋ねました。そして、誰が王の後継者となるのかについて、預言者である自分にさえ告げていないと、問題を指摘します。

 

ダビデはバテ・シェバに、「あなたに誓ったとおり、きょう、必ずその通りにしよう」(1:30)と言います。つまり、ダビデは確かにバテ・シェバにはそのように誓っていたのです。その上で彼は、祭司ツァドク預言者ナタン護衛長ベナヤの三人を召します。彼らは王の命令に従って、ソロモンダビデの雌ろばに乗せて、王宮のすぐ東にあるギホンの泉のある場に下り、彼に油を注いでイスラエルの王に任じました。

この直後、民は大声で「ソロモン王。ばんざい」と叫びます。しかも「民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた」と記されるほど、ソロモン王の即位は公然の事実となってしまいました(1:38-40)

 

アドニヤとともにいたヨアブは、「なぜ、都で騒々しい音がするのか(1:41)と言います。そのとき祭司エブヤタルの子ヨナタンはアドニヤに、「われらの君、ダビデ王はソロモンを王とされました」と言ったばかりか、民がそれを喜んだので「都が騒々しくなった」と経緯を説明しました。またダビデ自身が寝台で家来たちの前で主を礼拝しながらソロモンの即位を喜んでいる様子を伝えます(1:47,48)

これを聞いた「アドニヤの客たちはみな身震いして」立ち去ります(1:49)。アドニヤは命乞いをするために主の祭壇に行き、そのを握りつつ、ソロモン王に自分を殺さないと誓って欲しいと訴えます(1:51)

それに対しソロモンは、誓うことを避けながら、「彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない(1:52)と言います。そして人を遣わしてアドニヤを祭壇から降ろさせ、兄である彼が「礼を」したことに、「家に帰りなさい」と冷たく答えます(1:53)

 

ソロモンは王に任ぜられるまでは沈黙を守りましたが、敵の陣営に属したはずの祭司エブヤタルの子ヨナタンが、「ソロモンはすでに王の座に就きました」(1:46)と告げた後の言動は、神によって立てられた王としての威厳に満ちていました。ソロモンは、兄であるアドニヤの卑屈な、王の権威に媚びている態度に惑わされることなく、冷徹なことばを発しました。

一方、アドニヤはイスラエルの王を立てるのは主(ヤハウェ)ご自身であることを忘れて人間的な動機で動きました。彼を支持した将軍ヨアブ祭司エブヤタルも、まるでダビデが王としての判断能力を失ったかのように勝手に判断し、王権の人間的な安定を望んだのだと思われます。

彼らは、主がご自身のみこころをダビデに特別に示し続けてきたという経緯を忘れているかのようです。

 

ソロモンに関してはⅠ歴代誌で、主ご自身がダビデに、「見よ。あなたにひとりの男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモン(平和を意味するシャロームの派生語)と呼ばれるのはそのためである」(22:9)と語っておられました。

つまり、ソロモンが王となるのは、生まれる前からの神のご計画だったのです。預言者ナタンが積極的に行動したのもそれを知っていたからです。

そして、そのご計画は私たちにも当てはまります。それは、「神は、世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを選び・・・ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ14,5)と記されているからです。

私たちはひとりひとり、目的をもって生かされ、神からの固有の使命を与えられて神の子どもとされました。その意味では私たちとソロモンは同じです。

アドニヤは何をするために王になろうとしたのでしょう。彼は単に、支配する側に立ちたいと思っていただけではないでしょうか。これは世の多くの人も同じかもしれません。敗北者になることを恐れているだけで、使命を忘れています。

 

2. 「こうして王国はソロモンによって確立した」

   ダビデは、死ぬ日が近づいたとき、息子のソロモンに遺言を残します。その第一は、「あなたの神、主(ヤハウェ)への務めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい・・・」(2:3)です。「務め」とは、原文で「守るべきもの」と記されます。

つまり、「守る」が三回も繰り返されているのですが、その中心的な意味は「注目する」です。それは、主がモーセの後継者ヨシュアに、「このみ教えの書(モーセ五書)を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ」(1:8)と言われたことと同じですつまり、みことばに心の目を向け続ける結果として、それを実行することが可能になり、「何をしても、どこへ向かっても、栄える」(2:3)ことができるのです。

残念ながら、みことばを味わうというプロセスを忘れて信仰の破船に会う人が多くいます。なお、ダビデはここでさらに、主が自分に、「もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、いのちを尽くして、誠実にわたしの前に歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない」(2:4)と言われた「約束」を忘れないようにとソロモンに念を押しています。

 

   次にダビデは、自分が果たせなかったさばきをソロモンに委ねます。その第一は将軍ヨアブです。ダビデはかつて前王サウルが自滅したとき彼の将軍アブネルと和解をし、また息子アブサロムの反乱を鎮めた際も、その将軍アマサと和解をしました。しかし、ヨアブは自分の立場を守るために、彼らを卑怯なだまし討ちにしました(Ⅱサムエル3:2720:10)

ダビデは彼を「私にとっては手ごわすぎる。(ヤハウェ)悪を行なう者に、その悪にしたがって報いてくださるように」(同3:39と言いながら時を待ちました。そして今、ヨアブはアドニヤに味方し、自滅への道を歩みだしています。それでダビデはソロモンに、「あなたは自分の知恵に従って行動しなさい。彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない」2:6と言い残しました。

ただし、ダビデは、主が「復讐と報復はわたしのもの」(申命記32:35)と言われる原則に従ってこれを語っていますから、このことばは、ソロモンに復讐報復を頼んだのではなく、主のさばきを冷静に執行するようにとの遺言です。

 

またダビデは、アブサロムの反乱で都を追われたときの恩人ギルアデ人バルジライの子らには、恵みを施す(ヘセッドを行なう)(2:7)ことを命じます。

その一方、自分を激しく呪ったベニヤミン人のシムイに関しては、「彼を咎のない者としてはならない」(2:9)と命じました。ダビデはアブサロムの反乱後、イスラエル全体の安定のためにベニヤミン族に影響力を持つシムイに関しては、「あなたを剣で殺さない」と、主にかけて誓わざるを得なくなったことを振り返りつつ、ソロモンには、「あなたは知恵ある人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかがわかるだろう」と不気味なことを言います。

ダビデはソロモンの知恵を評価しましたが、それは人間的な復讐心以前に、主のさばきを王として執行することへの期待でした。

 

  この後、ダビデは四十年間のイスラエル王としての働きを全うして、葬られ、「ソロモンは父ダビデの王座に着き、その王位は確立した」と記されます(2:11,12)

そして、この章の終わりにも「こうして、王国はソロモンによって確立した」(2:46)と記され、それにはさまれるように、ヨアブとシムイが自滅する様子が描かれます。

 

それに先立って、アドニヤあるときソロモンの母バテ・シェバにとりなしを頼んで、ダビデの最後の未亡人アビシャグを妻に欲しいと願います。なおその際、アドニヤがバテ・シェバに言ったことばが問題です。

彼はソロモンが王になったことに主(ヤハウェ)のみわざがあったことを認めているようでも、「ご存知のように、王位は私のものでしたし、イスラエルはみな私が王になることを期待していました。それなのに、王位は転じて、私の弟のものとなりました(2:15)と、まるで主が本来あるべき秩序をひっくり返したかのように言っています。

これは、主のみこころよりも、人間的な常識を重んじる発想であり、自分にはなお、「王位を願う(2:22)権利があると主張しているのと同じです。事実、当時の感覚では、前王の妻を自分の妻とすることは王位後継者のしるしともなりえたからです。

優しいバテ・シェバはアドニヤの真意を見抜けませんでしたが、ソロモンはすぐにそれを見抜きました。ソロモンは以前、アドニヤへのさばきを保留して、「彼のうちに悪が見つかれば・・・」(1:52)と言っていましたが、愚かなアドニヤは自分で心に隠した悪意を現わしてしまったのです。

 

その後、彼を支持した祭司エブヤタルに関しては、罷免するにとどめました。それは彼の父が、ダビデを助けてサウルから殺されたノブの祭司アヒメレクであり(Ⅰサムエル2122)、その家を滅ぼすことはダビデ家の信義に反すると思えたからでしょう。しかし、この祭司の家の没落は、かつて主がシロで祭司エリに語ったことの成就でもありました(2:2627,Ⅰサムエル2:31-33)

一方、この話を聞いたヨアブは、「主(ヤハウェ)の天幕に逃げ、祭壇の角をつかみ」ます(2:28)。祭壇は聖所の庭にあるいけにえを焼く所で、その角をつかむとは、主の保護を求めるしるしでした。

アドニヤのときは当面の逃げ場になりましたが、ヨアブの場合は「善良なふたりの者・・・を虐殺した」という罪があるので(2:32)、ソロモンはダビデの護衛長だったベナヤを遣わし、彼を討ち取ります。祭司エブヤタルの代わりにツァドクが立ち、ヨアブの代わりにベナヤが軍団長に任命されます。

 

その後、ソロモンはシムイを呼び寄せ、エルサレムに家を建てて住み、そこから出ないとの誓いを立てさせます(2:36)。それは彼が都の外に出てベニヤミン人を扇動する恐れがあったからです。彼はそれを了承しますが、三年後に自分の奴隷が逃げたのを追いかけてこの誓いを破り、死刑に処されます。

その際ソロモンはシムイに、「(ヤハウェ)はおまえの悪をおまえの頭に返される」(2:44)と、これが主のさばきであることを改めて強調します。このようにしてソロモンは、ヨアブとシムイに関するダビデの遺言を果たします。ここにはソロモンの機会を逃さない冷徹さを見ることができます。

しかし、彼はダビデの第一の遺言をどれだけ真剣に受け止めたでしょう。彼自身が「ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主(ヤハウェ)の前でとこしえまでも堅く立つ(2:45)と言っていますが、それはあくまでも、主がソロモンではなくダビデの誠実に報いた約束でした。

 

3.「あなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」

   3章の始まりには、「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れてきて・・・」(3:1)と不気味なことが記されます。これは、彼がエジプトと対等な力を持った象徴でもありますが、主のみこころよりも政略を優先し、異教徒を妻として堕落するきっかけでもあります。

また彼は、「高き所」(3:2-4)というカナン宗教の祭壇を利用した礼拝を続けていました。なお、ギブオンにはまだ契約の箱以外の「主(ヤハウェ)の幕屋と全焼のささげ物の祭壇」が残されていました(Ⅰ歴代誌16:39,21:29)

そこでソロモンは、「千匹の全焼のささげ物を献げた」というのです。それに応答するように、「ギブオンで主(ヤハウェ)は夜の夢のうちにソロモンに現われ」、不思議にも、「あなたに何を与えようか。願え」と言われます(3:5)

 

このときソロモンは、自分の王座は、主と父ダビデの関係から生まれていることをまず認めながら、自分に関しては、「私は小さな子どもで、出入りする術を知りません」(3:7)と指導力の不足を謙遜に告白します。

その上で、「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」(3:9)と願います。彼は、「私の民」と言わずあなたの民」と呼びながら、単なる知恵ではなく、神と人の声を「聞き分ける心」を求めています。それは自分の利害ではなく、主から委ねられた働きを全うするために必要なものであり、「これは主のみこころにかなった」ものでした(3:10)

それに続く主のことばは感動的で、私たちへの示唆に富みます。結果として主は「知恵と判断の心」ばかりか、「富と誉れ」までもお与えくださいました(3:1213)

ただ同時に、あなたの父ダビデが歩んだように・・・掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう」と警告を与えます(3:14)

その後、ソロモンはエルサレムにもどり、「主(ヤハウェ)の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物・・交わりのいけにえを献げ・・すべての家来たちのために祝宴を開いた」というのです(3:15)。それはソロモンが人々の前に、イスラエルの真の王はヤハウェご自身であることを証しすることでもありました。

主はソロモンの行動を細かく正すよりも、何よりも、主を恐れるという心を育もうとしています。

 

  その直後ソロモンの知恵が証明される裁判が記されます。二人の遊女が一緒の家に住み、同じ時期に生まれた乳飲み子を持っていました。一人の女は夜の間に、誤って子供の上に伏して殺してしまい、自分の死んだ子を別の女の生きている子と取り替えます。

もう一人の女が目覚めると、互いに生きている方が自分の子だと訴え合いました。そこで王は、を持ってこさせ、「生きている子を二つ切り分け」、分け合うように命じました(3:25)。そのとき、生きている子の母親は、死を見るよりは自分の子をあきらめると言ったので、どちらがその子の母かが分ったとのことです。

これは、彼がそれぞれの母親の気持ちを「聞き分ける心」与えられていたからこそできたことです。単なる知恵ではなく、「聞き分ける心」を私たちは求めるべきでしょう。

 

   ソロモンは主から与えられた自分の使命を自覚するところから、主に助けを求めました。私たちにもそれぞれ自分の能力の不足を悲しむことがあるでしょうが、それは多くの場合、人との比較で感じられているものではいないでしょうか。

何よりも大切なのは、主に召されたものとしての生き方主から与えられた使命を覚えることです。主は、私たちを人より偉大にするためにではなく、ご自身の働きを、私たちを通して実現するために、必要な賜物を与えてくださるのですから。しかも、主は必要な助け手をもお与えくださいます。

 

 アドニヤヨアブエブヤタルシムイも、自分の利害を優先し、神の召しを軽んじて自滅しました。ソロモンはこのとき、自分が神に忠実である限りにおいて王権が安定することを悟っていました。

そこには不純なものも既にありましたが、神は子どもを育てるように彼に接し、彼の良い願いを評価し、「知恵と判断の心」を授けました。神ご自身がソロモンを立て、彼がそれを自覚していたとき、イスラエルは繁栄しました。

 

ときに、「私は日々の生活に忙しく、使命など考える余裕がない」と思われる方もいるでしょう。しかし、それは日々、身近な隣人の声を「聞き分ける心」から必然的に生まれる「生き方」です。

ナチスの強制収容所を生き抜いたユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルは、「私は人生にまだ何かを期待できるか」と問う者に対し、「人生は私に何を期待しているか」と問い直すように勧めます。そして「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」、「人生の問い」に答える中から、「おのずと湧く」と言いました。

そして、社会的に尊敬される人々が、「人生を仕事と心得ている」ことに対し、「宗教的な人間は」、「仕事を課す」方がどのような方かを知ったうえで、「人生は神が課した使命だと知って生きている」と記しています。私たちに生きることの使命を課してくださる方は、私たちの創造主であり、私たちにとっての最善をご存知の方であられます。

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2018年4月15日 (日)

エペソ4章1-16節「あらゆる点において・・・成長する、とは?」

                                           2018415

信仰に導かれたばかりの頃、人々から尊敬されることが最高の伝道になると思っていました。しかし、より高いレベルの信仰に達したいと願えば願うほど、周りの信仰者や牧師たちを非難したくなってしまいました。

残念ながら、人は自分の成長を測りだしたとたん、争いを作り、人の評価が気になりだします。

 

星野富弘さんは、「れんぎょう」の花の絵とともに、「わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみてくる」という詩を描いています。それはキリストの福音が私たちを生かしてくれた原点を指し示しています。

私たちはときに「愛をもって真理を語る?」と言いながら、人間的な解決法を示してしまいがちです。しかし、それによって問題が解決するぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要はありませんでした。神がキリストにおいてなしてくださったことから真の成長が生まれるのです。

 

1.「その召しにふさわしく歩みなさい」

パウロはまずエペソの教会の信者に向かって、「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、御霊の一致を保つことに熱心でありなさい。それは平和のきずなにおいてなされることです」(4:1-3)と語ります。

これは多くの人々が期待する人格的成長の勧めではありません。

 

彼は自分をまず「主にある囚人」として紹介します。そこには、主のために苦しむことを選択する生き方を勧める思いが背後にあります。

その勧めの第一は、「召しにふさわしく歩みなさい」です。パウロが囚人としての苦難を耐えられた秘訣は、キリストによる「召し」がもたらす「望み」を常に目の当たりに見ていたからです。それは彼の祈りにおいて、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものかを・・・知ることができますように」(1:18,19)と表現されています。

「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった信仰生活の先にある「望み」が見えてきます。それは1章10節にあった「一切のものが、キリストにあってひとつに集められること」であり、それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。私たちはその祝福を目の当たりに見るからこそ、苦難に耐えられるのです。

 

しかも私たちはキリストともに王として、世界を治めるために召されています。心の奥底に自己不全感や劣等感を持った人は、他の人に対して自分を強く見せようとしますが、私たちは王者の余裕をもって、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」という、キリストに倣う生き方ができるのです。

しばしば、一神教が不寛容な教えと非難されるのは、この心を忘れるからです。ただこれは、人の積極的、主体的な活力を抑えることの勧めではありません。少なくとも自分を抑えてばかりいる人は、この世界を変える影響力を発揮することはできません。

イエスの生き方は当時の常識をひっくり返す創造的なものでした。主は神の正義を主張する代わりに、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい(マタイ5:39)と言われたばかりか、罪人の代表として十字架にかけられました。それは、神の平和をこの地に実現するためでした。

愛は、私たちの義務ではなく、目的地である」(Love is not our duty, but our destiny )とも言われるように、神が歴史を支配し、愛の完成へと導いてくださるからこそ、私たちは目の前の人に打ち勝とうとしたり、人の欠点を正そうとする代わりに、互いの欠けを「耐え忍ぶ」ことができるのです。

愛の欠けが見えるのは、理想的な愛のイメージが既に示されているからです。それは神から生まれています。そして、神は、そのような愛をご自身の御霊をとおして完成してくださる方です。

 

1-3節の中心的な命令は、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」です。これは、「一致を作りましょう!」という勧めではありません。これが日本ではしばしば、「誰が一致を乱しているのか」という悪者探しを正当化させ、互いを委縮させ、各人の主体性を抑圧する雰囲気の原因となります。

しかし、ここでの勧めの中心は、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」であることです。しかも、「御霊の一致」とは、「御霊」のみわざとしての「一致」です。それは先に、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)とあったように、異邦人とユダヤ人がキリストにおいてひとつとされたことを指します。

私たちいつも目の前の変化を生み出すことに忙しくなり、「謙遜と柔和の限りを尽くし」という大原則を忘れがちです。これはキリストと聖霊のみわざを忘れることがないように、主の恵みを覚え続けることに「熱心」であるようにという「勧め」と理解すべきでしょう。

 

しかもここでは、「平和の絆において」ということばが追加されています。原文には「結ばれ」という動詞はありませんから、これは、「平和の絆で結ばれましょう!」という勧めではありません。

平和の絆」とは、私たちの心がけのことではなく、キリストご自身のことです。多くの日本人は「」ということばに相矛盾する感情を抱きます。それは個性や個人の主体性を抑圧する強制力にもなるからです。これは先に、「実に、キリストこそ私たちの平和です。主は二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました(2:14、15)とあったように、求められているのは、「結ばれるように頑張る・・」ことではなく、キリストの十字架を仰ぎ見続けることです。

私たちはときに信仰の歩みをあまりにも人間的な尺度ではかりがちですが、キリストに従うように召された始まりはすべて創造主ご自身からの一方的な恵みであったという原点に立ち返る必要があります。神のみわざに目を向けると、それぞれにユニークに働く神のみわざが生み出す一致」が見えてきます。

 

2.「キリストのからだを建て上げるため」

パウロは続けて「御霊による一致」を、七回の「ひとつ」という表現で、「からだは一つ、御霊は一つです。それは、あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったことと同じです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。神はただひとりで、すべてのものの父です。その方はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられます(4:4-6)と描きます。

 

まず、「からだは一つ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会が実際に存在するという告白ですが、それは「一つの御霊」の働きであり、その根拠には、すべてのキリスト者の「望みが一つ」であるという希望の共有があります。

私たちはそれぞれ異なった言語や習慣を持つ者同士が、御霊によって集められ、みな既に「新しいエルサレム」の市民とされていることを覚え、愛の交わりの完成を待ち「望むことができています。そこでは異邦人とユダヤ人、韓国人と日本人などという区別はありません。

たとえば、ユダヤ人と異邦人、韓国人と日本人との間には、悲しい過去がありますが、神の民として召されたことによる「望みが一つ」という点では、共通の希望のうちに生かされていると喜び合えます。

 

続けて、「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と告白されます。全世界のキリスト者はそれぞれ様々な教会組織に繋がっていますが、それぞれの主はイエスのみであり、基本的な信仰告白も共有され、生涯一度かぎりしかバプテスマを受けません。もし私たちが入会希望者の他の教会で受けたバプテスマを受け入れないとしたら、その教会を異端と宣告することになりかねません。

そして、教会組織が違っても互いの存在や違いを尊重することができるのは、「神はただひとり」であり、その方は「すべてのものの父」であり、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ」るという原点があるからです。

私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。普遍的な教会を信じる原点は、まさに「すべてのものの父」から始まります。

 

残念ながら、人の集団は、他団体との違いを強調し、共通の敵を持つことによって初めて一致できるという傾向があります。しかし、私たちが告白する使徒信条は、古代カトリックの伝統から生まれていますし、三位一体論は、古代の東方正教会でまとめられたものであり、教会の祈りの中では、カトリックの聖人のフランシスコに基づく平和の祈りを用いています。

私は個人的には異言で祈るカリスマ派の人や、伝統的な英国国教会に属する方々からも多くのことを学ぶことができています。互いの相違を見るよりも、共有されていることの方に私たちは常に目を向けるべきでしょう。私たちのはひとりなのですから。

 

7節では、「ひとりひとり」例外なく「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられましたという事実が述べられます。

また、8節では詩篇6818節が引用されますが、今回の翻訳では、「人々に 頑迷な者どもにさえ 贈り物を与えられたと訳されていますが、以前の訳では、「人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも」と全く逆の意味になっており、実はその方が一般的です。

ただし、その全体の文脈においては、イスラエルの神がこの地の権力者たちを圧倒し、全世界の王としてあがめられる戦勝行列の様子が描かれています。パウロはそれをキリストの戦勝行列に置き換え、「あなたは捕虜を引き連れて いと高き所に上り 人々に贈り物を与えられた」と記しました。

これは戦いに勝った将軍が、捕虜を引き連れて戦勝パレードを行い、配下の兵士に分捕り物を分ち合う様子を描いたものです。同じようにイエスは、勝利の将軍として、ご自身に従う者たちに賜物を与えてくださるというのです。

 

そして、不思議にも、「上った」いう記述の前提に、「低い所、つまり地上に降られた」という前提があるというのです(4:9)。しかも、「この降られた方ご自身は、もろもろの天よりも高く上げられた方でもあります。それは、すべてのものを満たすためです(4:10)と描かれます。

ここには主の十字架と復活と昇天、と神の右の座で「一切のもの」を「一つに集める」こと(1:10)が示唆されますが、十字架は私たちの罪の身代わりとしての苦しみというより、この世の権力者たちに対する圧倒的な勝利として描かれています。

 

その上で11節では教会の専任の働き人のことが描かれますが、それは8節の「彼は・・人々に贈り物を与えられた」ということばを前提として、「キリストご自身がお与えくださった」ということばから始まっています。

ここに記された「使徒、預言者、伝道者、牧師または教師」という区分けに関しての解釈は様々な可能性があります。最初の二つの働きに関しては、パウロが220節で、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており(2:20)と記しているように、聖書が完結した今は必要なくなっていると考えるのが一般的です。

「伝道者」という働きは、使徒を補佐する者として選ばれた七人のひとりのピリポ(使徒20:28)や、パウロの代理として様々な教会に赴いたテモテ(Ⅱテモテ4:5)がそのように呼ばれています。これはたとえば日本に最初に福音を伝え、教会の基礎を築くような大きな責任を担っていた宣教師に相当するかもしれません。

「牧師また教師」というのは現代の地域教会の「牧師」に相当し、一方的に福音を宣言するよりも、神の「羊の群れ」としての信者の現実に寄り添った牧会的な「教え」が意図されています。それはパウロもエペソの長老たちへの遺言として、「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです」(使徒20:28)と言っている働きに相当します。

なお、「牧師また教師」とあるように、教師と牧師に間に、働きの明確な区別はなかったのかと思われます。

 

ただ、それらの区別よりも大切なのは、その働きには共通の目的、「聖徒たちを奉仕の働きのために整える」ことがあることです。日本の教会では、しばしば、牧師に余りにも多くの働きが期待されます。ときには引っ越しのお手伝いや一人住まいのご老人のお世話まで期待されます。

しかし、それらの働きは、信者どうしで助け合ってするべき奉仕です。牧師の責任は、一人ひとりが喜んで「キリストのからだを建て上げる」という目的のために「奉仕」に励むことができるように「整える」ことです。

しかも、新改訳では「働きをさせと牧師のリーダーシップが強調されている印象がありますが、原文では、「整える」ことが強調されています。それは、「聖書は・・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。神の人が、すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」とあるように、みことばを教えることを意味します(Ⅱテモテ3:16,17)

牧師の最大の働きは、みことばの正しい解き明かしです。とにかく現代的には、「牧師」の職務はキリストご自身が教会にお与えくださった最大の贈り物と考えるべきなのです。

 

3.「キリストによって‥・愛のうちに建てられる」

  そして、ここで「聖徒」を整えることの目的が、「神の御子に対する信仰と知識において一つになることに達することと、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することのため」(4:13)と記されています。

興味深いことに、先には、既に与えられている「御霊による一致を保つことが求められていましたが、この前半では、御子に対する信仰と知識において」の「一致に達する」という目標になっています。

残念ながら、今も昔も、様々な信仰のスタイルや聖書解釈があります。そのような中で、牧師または教師に求められているのは、何かの目新しいことを教えるのではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた信仰と教えに聖徒たちの目を向けることです。

つまり、パウロが先に、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(3:19)と祈ったように、「知る」ことに関して、「一致に達する」ための不断の努力が求められているのです。

 

それと同時に、「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」という目標に関して解説することばが、「こうして、私たちはもはや子どもではなく」なるためと描かれます。それは「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もて遊ばれることがない」状態を指します。

そしてその誤った「教え」は「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から」生まれています4:14。ヘブル人への手紙512-14節では、「神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要がある」状態に対し、大人になるとは「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」状態と記されます。

つまり、「成熟した大人になる」ということは、誤った教えを見分けられることと、その教えの背景にあるサタンの計略に気づくことなのです。パウロは別のところで、「考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども考え方においては大人になりなさい(Ⅰコリント14:20)と記しています。

 

続けて「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ということの解説が15節において、「愛において真実となり、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」と記されます。

多くの訳では「愛をもって真理を語り」と訳されますが、本来の意味は「真実とする」という意味です。それはこの文脈からは真理を語ることによって誤った教えを正すとも理解できますが、偽教師の弁舌はときに非常に巧みですから、ことばによって真理を明らかにするというよりも、「愛において」福音の真実を明らかにし、誤った教えを正すと理解すべきかと思われます。

残念ながら、「あなたのために真実を言ってあげているのよ・・・」となどと言いながら、人の人格を傷つけ、希望をくじくようなことがあるからです。

たとえば、「まじめに奉仕をしなければ神から裁かれる」とか、「神を第一とした生活をしていないと、のろわれる」などというのは、旧約を誤解した律法主義的な教えです。私たちはキリストにあって、死からいのちへ、のろいから祝福へと移し変えられました。それを保障するために御霊が与えられたのです。

ここで何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。

 

しかも、15節では、「キリストに向かって成長する」と言われながら、16節ではすぐに、「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされる」と言い換えられます。「成長を生み出すのは、キリストご自身であり、しかもひとりひとりが尊敬される人格者になるというより、キリストのからだとして「成長して、愛のうちに建てられる(16)ことが目標です。

ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。

しかもキリストのみわざは、人間的な組織作りや上からの指導によってではなく、「それぞれの部分」である各人が、主体的で自主的な、与えられた賜物にしたがった「その分に応じた働き(エネルゲイヤ)によって達成されます。それがこの世の組織と異なるところです。

私たちはひとりひとりがユニークな者として作られていますから、人が集まれば自然のうちに「分業」について考えます。それぞれの役割と責任が明らかになっているときにチームワークがうまく機能するからです。

 

また、「あらゆる節々を支えとして」という表現は、以前、「備えられたあらゆる結び目によって」と訳されていましたが、その方が意味を正しく伝えていると思われます。それは一人ひとりには、すでに「結び目」が備えられており、愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、一人ひとりのユニークさが生かされる形で、それぞれの主体性をもとに喜びのうちに生み出されるからです。

コロサイ人への手紙319節では、「からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長するのです」と記されています。

組織的には極めて未熟に見えながら、不思議に一人ひとりが、その教会の中での欠けたところに目が向かい、満たされるという共同体こそ、キリストのうちにある神秘でしょう。

 

ある程度の組織化は必要でしょうが、教会が機能しないのはシステムの問題だと考えることは、一人ひとりを主体的に動かしてくださる聖霊のみわざを軽んじることになりかねません。ひとりひとりの人との距離感、働き方、テンポなどが尊重されなければ、教会奉仕は息苦しいものになってしまうことでしょう。

それどころか、自分にとっての決定的な弱点と思える部分が、人との「結び目」としてもっとも良く機能するということがあります。だれでも皆、キリストと出会った時、自分の弱さを自覚しています。そこにおいて私たちは真剣に神との交わりを求め、また人との交わりを求めます。その原点が何よりも大切です。

 

  しばしば、教会が目に見える形で成長していないと思われるとき、キリストご自身が、私たちの愛の交わりを、見えないところで整えていて下さいます。問われているのは、一人ひとりが、キリストと真実に出会い続けているかということです。

しかも、人は、多くの場合、順境の時よりは、逆境を通して、キリストとの交わりを深めているのです。教会は「からだ」として「成長」してゆきます。

その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!

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2018年4月 8日 (日)

Ⅱサムエル21章~24章「天の王に従う地の王として生きる」

  

1961年のことですが、17歳の女の子が自殺企図のため閉鎖病棟に閉じ込められ、壁や床に自分の頭を打ち付けていました。それから6年後のある夜、ある教会堂の十字架の前でお祈りしているとき、不思議に目の前の十字架が輝き出し、神の愛が自分に迫って来る体験をしました。その直後に、自分の口からふと、「I love myself・・」という言葉が出てきました。自分自身を愛するという思いは、初めての体験でした。

彼女はその後、心理学を極めて医者になり、境界性パーソナリティ障害者の弁証法的行動療法を生み出します。彼女の名はワシントン大学教授マーシャ・リネハンです。2011623日のニューヨークタイムス誌インタビュー記事が話題になりました。

ただ彼女は、「私の宗教体験は自分を変革したが、同じことが起きるとは誰にも約束できない。ほとんどの人にとっての変革は、ゆっくりとしたもので、自分でも気づかないうちに起きる」とも語っています。そして私たちにとっても、自分のあるがままの姿を受け入れることと、自分の生まれながらの意思を超えた行動の変化は、私たちの信仰の歩みの鍵かと思います。

 

私たちは自分に対する神の愛を味わった結果として、他の人に仕える自由を持つことができます。マルティン・ルターは宗教改革の原動力となった伝道文書「キリスト者の自由」において、

「キリスト者はすべてのことの上に立つ自由な君主であり、誰の下にも置かれていない。

キリスト者はすべてのことに仕えることができるしもべであって、誰の下にも置かれている」(私訳)という不思議な対比が両立していると言いました。

つまり、キリスト者とは「王であると同時にしもべ」なのです。

その不思議を私たちはダビデの生涯に見ることができます。彼はサウル王から命を狙われて逃げ続け、息子アブサロムに追われているとき、神の助けを誰よりも身近に感じ、多くの詩篇を記し、その心は誰にもまさって高貴な王でした。しかし、この世的な意味での王として高ぶりの思いを持ったとき、誰よりも卑怯な人間に成り下がりました。

 

私たちもこの地を治める王としての責任が委ねられています。その際、ダビデは、この地に生きる私たちにとっての模範と限界を指し示します。

21章~24章には、彼の生涯をひとくくりにまとめるような構成が見られます。第一に主の刑罰とそれへの対処(21:1-14)、第二にダビデを助けた人々21:15-22、第三にダビデの賛美(22)、第四に再びダビデの賛美(23:1-7)、第五に再びダビデの勇士たち(23:8-39)、第六に再び主の刑罰とそれへの対処です(24)。これはヘブル詩に多くあるABCC’B’A’の形です。

 

そして最初と最後の物語の結論は、「神()はこの国の祈りに心を動かされた」(21:14,24:25)と記され、最後の祈りの場はエルサレム神殿につながります(Ⅰ歴代誌21:2622:1)

それぞれの記事がいつの時期かは分りませんが、このような構成を通して、著者が伝えようとした核心が浮き彫りにされます。

 

第一の記事は、前王サウルの失政の後始末です。あるとき三年間のききんが続きましたが、それは神の怒りの現われだと思われました(参照:申命記11:17)。ダビデは、「主(ヤハウェ)の御顔を求め」ますが、すると主は、サウルギブオン人との盟約を破って彼らを「殺戮した」ことが原因だと言われました(21:1,2)

これは数百年前にヨシュアが約束の地に入って間もなく、「彼らを生かしておく盟約を結んだ」(ヨシュア9:15)ことに反します。それは騙された結果ではありましたが、主の名によって結んだ契約を破ることは、「御怒り」を買うことでした(9:20)。しかしサウルは、誤った熱心さによって、この契約を軽蔑し、その結果がダビデの時代に現されたというのです。

それでダビデはギブオン人の怒りを「宥め」るために何をすべきかを彼らに尋ねます(21:3)。彼らはサウルの子供七人を引き渡させ、「主(ヤハウェ)のために・・さらし者にする」ことを要求します(21:6,9)。王は強大な特権を持つがゆえに、その子孫に驚くべき悲劇をもたらすことがあることの一例です。

ただし、人身御供はカナンの慣習で、神はそれを禁じておられました。つまり、ダビデが主の怒りではなく、ギブオン人の怒りを宥めようと動いたためにこのような悲劇が起きたのです。

 

ここでは特に、サウルの側女だったリツパのふたりの息子たちへの思いが印象的です。さらし者にされるというのがさばきでしたから、彼女には、死体の傍らに座って「昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないように」(21:10)することしかできませんでした。

その期間は「刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで」と記されていますが、彼らが殺されたのは「大麦の刈り入れの始まったころ」、つまり、過越しの祭りの前の時期で春の雨を待ち望む時期でした。リツパは、自分の息子たちの犠牲によって神の怒りが宥められて、雨が再び降ることを祈る思いでそこに留まり続けました。

 

その母の姿がダビデの心を動かしました。彼はこの時になって、サウルヨナタンの骨をヨルダン川の東ヤベシュ・ギルアデの人々から引き取りに行きます。二人ともかつてはペリシテ人によってさらし者にされていましたが、ヤベシュの人々はサウルの恩に報いるため、命がけで二人の遺骸を運び、自分たちの土地に葬りました。

そして、今回の王の姿勢を見た人々は、「さらし者にされた者たちの骨を集め」(21:13)、ともにベニヤミンの地のサウル家の墓に丁重に葬りました。

その結果、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」(21:14)と記されます。これは神が、人間のいけにえにではなく、リツパの母としての姿、またダビデとその家臣たちの謙遜な姿勢に心を動かされたという意味でしょう。神は「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない」(ホセア6:6、マタイ9:13)と言われるからです。

日本人は時に死者の祟りを恐れて丁重な葬儀をしますが、神は私たちの心の奥底にある「真実の愛」を見ておられます。

 

  第二の記事はペリシテ人との戦いに関することです。これがいつのことかは分りません。81節では、「ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させた」と記されていました。しかし、ここでは「ダビデは疲れていたと描かれ、「ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノムは、『ダビデを討つ』と言った」と敢えて記されます(21:15,16)ラファとは「巨人」とも訳される言葉で、彼の持っていた槍の穂先の重さは約3.5㎏でした(ゴリヤテの半分の重さ、1サム17:7)

「しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺し」ました(21:17)。そしてダビデは部下たちから、「もう・・戦いに出ないでください」と要請されます。その後も、フシャイ人シベカイの活躍が描かれます(21:18)

また「ベツレヘム人・・エルハナンは、ガテ人ゴリヤテを打ち殺した(21:19)と描かれますが、Ⅰ歴代20:5では「ゴリヤテの兄弟ラフミ」と記されています。また続けてダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが手足の指六本ずつを持つ巨人を倒したことが記されます(21:20,21)

つまり、ダビデはペリシテの巨人にまさる勇士たちに囲まれていたのです。私たちも様々な危険にさらされることがありますが、神は目に見える人を助け手として遣わしてくださいます。

 

   第三の記事の22章は、詩篇18篇と基本的に同じです。冒頭に記したリネハン教授が体験したことの原型がここに描かれていると言えます。それをダビデはまさにこのままを霊の目で見ることができ、その体験が彼の生涯を支えたのかもしれません。だからこそ二度も記されたのでしょう。

その中心テーマは、(ヤハウェ)を呼び求めると・・・主はその宮で私の声を聞かれ・・主は、天を押し曲げて降りて来られ・・・天から雷鳴を響かせ・矢を放って、彼ら(ダビデの敵)を散らし・・かき乱された‥高い所から御手を伸ばして私を捕らえ・・・広い所に連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです」というものです22:4,,10,14,15,17,20

ダビデは自分の叫びが天の神に届き、神が圧倒的な力をもって彼を救い出してくださるということを詩的に表現しています。その上で、彼は自分の側にはサウルから命を狙われる理由がなかったことを述べながら、神が公正なさばきを下してくださることへの信頼を告白しています。

 

そればかりか、彼は神に向かって、「あなたの謙遜は、私を大きくします・・・戦いのために私に力を帯びさせ・・・民の争いから私を助け出し、国々のかしらとして保たれました」(22:36,40,44)と、神の謙遜が自分を王にしてくださったと不思議な表現をします。

これは自分がイスラエルの王でありながら、真の王は、主(ヤハウェ)ご自身であることを心の底から告白したものです。私たちも様々な苦しみに会いますが、私たちの「叫び」は、天の神に届き、神がご自身の時に圧倒的な力をもって救い出してくださいます。それが神秘体験として現れることもありますが、日常生活に同じ原則を発見することが何より大切です。

 

第四の記事はもう一つの賛美で、「ダビデの最後のことば」(23:1)と記されます。彼は「主(ヤハウェ)の霊は、私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある」と、自分が神の道具として立てられていることを認めます。

また、国を治める原点は「神を恐れる」ことにあると告白し(23:2,3)そのように生きる者を「雲一つない朝の光のようだ(23:4)と描きます。それこそ、イエスが「ダビデの子」として現わした生き方でした。

 

そしてダビデは、自分の家が立ち続けるのは、人の力ではなく、「神が永遠の契約を私と立てられたからだ」(23:5)とすべてが神のみわざであると認めます。しかもこの契約は、ダビデの罪によっても反故にされませんでした。

それで彼は、「神は、私の救いと願いを、すべて育んでくださるではないか」(23:5)と神のみわざを要約しつつ、自分の家が主ご自身によって育てられ、立てられていることを謙遜に認めています。一方で、神に逆らう「よこしまな者たちはみな…火で焼き尽くされる(23:6,7)と宣言されます。

 

第五の記事は、再びダビデの勇士たちの紹介です。最初に三勇士が描かれますが、そのトップはヨシェブ・バシェベテで、「彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺した」と記されます(23:8)

第二はエルアザルで、「自分の手が疲れて、手が剣にくっつくまでにペリシテ人を討った」(23:10)と記されます。

また第三のシャンマは、「兵はペリシテ人の前から逃げた」という中で、「畑の真ん中に踏みとどまってこれを守り、ペリシテ人を討った」と記されます。

そしてこのふたつの場合とも、「主(ヤハウェ)は大勝利をもたらされた」(23:10,12)と強調されます。つまり、三勇士とも、ひとりでイスラエルの戦いの形勢を逆転させるほどのめざましい働きをしたのですが、その背後に神がおられ、それは神が与えた勝利だというのです。

 

その上で、三勇士とダビデとの心の結びつきが描かれます。時期は不明ですがダビデが「アドラムのほら穴」にいて、ペリシテ人の先陣は彼の故郷のベツレヘムにいましたが、ふと彼は、「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが(23:15)と言いました。

それは、ふとした独り言だったと思います。それを聞いた三勇士は、ペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの水を汲んできました。

それを受けたダビデは、「それを飲もうとはせず、それを主(ヤハウェ)の前に注いで」、そのを彼らの「いのちをかけて・・の血」と呼び、彼ら自身を自分ではなく主に結びつけます(23:1617)

 

そしてここにようやくツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイが登場しますが、彼は「三十人のかしら(23:18)と紹介されますが、原文には解釈の余地もあります。「彼は槍を振るって三百人を刺し殺した」と記されながらも、「あの三人には及ばなかった」と描かれます。

しかもその兄弟ヨアブの名が省かれています。人間の歴史の中ではヨアブは常に一番に出てくるダビデの大将軍なのですが、彼は、神からの名誉のリストから省かれているのです。神は人が見るようには人をはかりはしないことの証しでしょう。

 

エホヤダの子ベナヤは、クレタ人とペレテ人という外人部隊を指導し、ダビデの護衛長として活躍し、ソロモンの王権の確立にまで力を発揮します。

そして、31人に及ぶ名前が記されますが、ここには異邦人の名も出てくるばかりか、最後にヘテ人ウリヤの名も記され、ダビデが謀殺した者の名誉が守られています。

これらを通して、ダビデの支配権は人と人との交わりのうちに立てられたと描かれています。

 

第六の記事の書き出しは、「再び主(ヤハウェ)の怒りがイスラエルに対して燃え上がり」(24:1)です。そしてその原因は、主ご自身が「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデをそそのかし」からというのです。

歴代誌では、「サタンが・・・ダビデをそそのかした」(21:1)と描かれますが、ここではサタンも神の支配下にあるという意味で、ダビデが神の御手の中で罪を犯したと強調されているのだと思われます。

ただし、そこにはダビデの強い意思がありました。彼がこれを将軍ヨアブに命じたとき、ヨアブは王に思いとどまるように説得を試みますが(歴代誌参照)「ヨアブと軍の高官たちへの王のことばは激しかった」(23:4)と記されます。

彼らはイスラエルの占領地をヨルダン川東側から北の果てまで行き巡り、イスラエルには剣を使う兵士が八十万人、ユダには五十万人がいると報告します(24:9)。それはダビデの力の象徴でした。彼はかつて主ご自身が「天を押し曲げて降りて来られる」と告白した原点を忘れています。

 

確かに、民数記では神ご自身が民を数えるように命じられましたが、ここではダビデが神の民を私物化したことが問題にされているとも言えましょう。

そして、主が「ダビデをそそのかし」とは、神が彼の心が高ぶるのをそのままに放置され、その隠された思いを露わにされたという意味だと思われます。

 

私たちも、すべてが順調に行くとき心が高ぶり、それが行き過ぎて大きな失敗をすることがあります。それは自業自得ですが、それを神のさばきということもできます。

確かに、イエスは、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われましたが、すべてのできごとに神のご支配を認めることは、どんな失敗も益に変えられることを信じることでもあります。

 

その後、「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」(24:10)と記されます。彼は主に向って「大きな罪を犯しました。主(ヤハウェ)よ、今、このしもべの咎を取り去ってください」と嘆願します。しかし、主は預言者ガドを遣わして、三つのわざわいの中から選ぶように迫ります(24:10-13)

多くの翻訳は歴代誌の記述に習って、「七年間の飢饉」ではなく三年間の飢饉」と訳し、その後、三ヶ月の逃亡生活三日間疫病と、期間と悲惨さが反比例するパターンが強調されています。

彼は二番目の刑罰を選択すべきだったのかもしれませんが、「人の手には陥りたくない」(24:14)と答えます。そのため神は三日間に及ぶ疫病を下し、七万人が死にます。

民はダビデの身代わりにさばかれたかのようです。これは不条理ですが、人間の歴史の常でもあります。王の失政によって誰よりも先に傷つくのは弱い民だからです。

 

ただ、このときダビデは、エルサレムを滅ぼそうとする主の御使いが「エブス人アラウナの打ち場の傍らに立っている」のを見て、「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家にくだりますようにと訴えます(24:16,17)

神はこのことばを喜ばれ、ガドを通して、「主(ヤハウェ)のために祭壇を築く」ことを命じます。ダビデはこのエルサレムの先住民であるエブス人アラウナに、「あなたの打ち場を買って、主(ヤハウェ)のために祭壇を築きたい。そうすれば民への主の罰は終わるだろう」(24:21)と言います。

そして正当な代金を払って地所を買い、そこで「全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ」ます。すると、「主(ヤハウェ)が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった」と記されます(24:25)

 

そして、ダビデの悔い改めと民への責任の自覚の現われとしてのこの祭壇が、エルサレム神殿の基礎となります。その意味で、神はダビデの罪をさえ支配され、民全体のための益に用いられたと言えます。ダビデの罪は、民を自分の権力を行使する手段としたことでした。

そして、神のさばきは、民がダビデの身代わりとなることでした。しかし、それはダビデが自分の権力を行使したときに当然起こるはずだった民の犠牲でもありました。

彼はそのことに気づき、民を「この羊の群れ」と呼びました。それは羊の牧者として立てられた王としての責任を自覚したことです。そこに祈りの家としての神殿が生まれます。

 

   これら六つのエピソードを通して、ダビデの信仰と彼の限界が示されます。イスラエルの王は、真の王である天の父なる神に忠実であることが何より求められていましたが、ダビデは傲慢になりました。

しかしその罪の記念碑に神殿が建てられました。それはさばきを通して彼の「真実な愛(ヘセド)が生まれたからです。しかも、彼の祈りはイエスの祈りとなり、イエスは父なる神に忠実な王の姿を実現しました。

 

   そして、この原則は自分自身に対しても当てはめることができます。私は自分の歩みを振り返りながら、何としばしば自分の感情の奴隷になっていたことかと反省させられます。私は、自分の孤独感や不安感に振り回されてきました。

しかし、私は自分の心の声にやさしく耳を傾けながら、その気持ちを主に告白し、聖霊の導きに任せることで、天の王に従う地の王として、自分の感情を治める必要があったのです。

そんなとき、詩篇18篇の祈り(Ⅱサムエル22)が迫ってきました。主は、私のために、「天を押し曲げて降りて来られ・・天から雷鳴を響かせ・・・高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水の底から、私を引き上げ・・私を広い所(自由な空間)に連れ出し、助けてくださった。それは、主が私を喜びとされたから・・・」(Ⅱサムエル22:10,14,17,20)。そして、このみことばこそ本日のダビデの生涯の中心にあるものでした。

 

実は、私たちが主に向かって祈っているとき、そこに主の御霊の導きがあります。そして、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる(ヤコブ4:5)とあるように、祈っている私自身が創造主に捕らえられています。

そして、たといイエスの導きの中で、苦しく狭い道を通らされたと思えることがあったとしても、それは「広い所」またはより自由な空間にたどり着くためです。なぜなら、困難のただ中でこそ、神の愛が自分に迫って来るという霊的な体験ができるからです。

そのプロセスを経た者は、自己嫌悪から解放され、大胆に自分の賜物を他者のために生かすことができます。しかも、あなたの神は「雷鳴を響かせ」て、あなたの敵に立ち向かい、あなたの進む道を開いてくださる方なのです。

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2018年4月 1日 (日)

エペソ3章14-21節「御父の愛が内なる人を再生させる」

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 母にとってこの私のうちには不思議な力が働いているように見えるようです。聖書はほとんど読みませんが、「お前のうちに働く神の力は分かる」と言ってくれます。ただしそれはこの私を社会的な成功者と見ているという意味では決してありません。

母が私を出産する前の一年半余り、母は生死の境を彷徨っていました。僕を出産する力もないと見られていました。出産自体が命がけの奇跡でした。誕生した後も、一歳を過ぎた頃、高熱で扁桃腺が腫れ、医者は僕を逆さにして気道を開くため切開手術を行わざるを得ませんでした。すると何度か心臓の鼓動が止まったようですが、母の胸に抱かれるたびに心臓が動き出しました。

 

その神学的な意味が詩篇71篇6,7節で、「私は生まれたときから あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方・・・私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と描かれています。

それに続いて、キリストの十字架と復活の場面を示唆する描写が続き、それを要約するように「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と記されます(20節)

 

私たちの人生には、「産みの苦しみ」があります。しかし、それは新しい歩みへの転換点になります。母も僕を産み育てることで強くなりました。そして、イスラエルが新しくされるための「産みの苦しみ(マタイ24:8)こそ、その王であるイエスの十字架と復活でした。

預言書のテーマはイスラエルの死と再生(復活)であると言われます。残念ながら西洋化されたキリスト教が神秘的な力を軽視した道徳宗教化されるのは、この死と復活の物語が福音の核心から少しずつ離され、ギリシャ化された結果なのかもしれません。

 

1.「このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめます」

3章14節からパウロの有名な祈りが記されますが、それは今まで彼が語ってきたことを祈りとして表現するような意味があります。その始まりは、このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめますと記されています。

直前で彼は、「確信をもって大胆に神に近づく」(3:12)と告白しましたが、その表れとして、天地万物の創造主に向かって、「父よ」と親しく呼びかけながらひざまずくことができるというのです。

 

」という呼びかけは1章2節で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」という表現で用いられました。万物の源であられる創造主なる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されました。

私たちは「父なる神」「主イエス」のお二方から特別な「恩恵」を受け、お二方の愛の交わりの中に招かれ圧倒的な「平和(平安)をいただけるのです。

 

そして、その神秘が1章3~14節まで続くパウロの祈りと賛美に現わされ、神が改めて、「私たちの主イエスの・・・の父」と呼ばれます。その際、その方が「ほめたたえられ(祝福され)ますように」と祈られますが、その同じ「祝福」を用いて、「神はキリストにあって、諸々の天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われます。

神が祝福されることと私たちが祝福されることがつながっているのです。しかも、「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、それは、神が与えてくださるものが地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味します。

 

そしてその内容が1章4節で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と説明されます。

私たちは自分の出生を、神の不思議なご計画の中で選ばれていたと受け止めることができます。すると自分の故郷をいとおしく、美しく見ることができます。それは、自分をキリストのうちにある者として見ることができたからです。

 

なお、原文では、「愛をもって」ということばが4節の終わりに記され、「御前に聖なる、傷のない者とされる」ために、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」と記されています。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。しかも、私たちが「神の子」とされるのは信仰への報酬ではなく、すべて神のみわざです。

 

続けて、1章7節では、この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」と記されます。「贖い」とは代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。それは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷状態から解放されたことを意味し、その後は、バビロン捕囚からの解放であり、当時はローマ帝国の剣の支配からの解放を意味していました。

しかし、イエスは当時のユダヤ人に、この地に起こる様々な戦いや困難を、「産みの苦しみの始まり」(マタイ24:8)と再定義して、ただ目の前に課せられている務めに誠実に励むことを勧めました(24:45-51)

実は、この世の権力者の陰には、より恐ろしい悪が存在します。私たちはそのサタンの支配から「贖い出された」のです。そのことが、2章2節では、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と訳すことができます。

 

まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)という生き方自身が、空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従ったものでした。サタンは天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めています。

この「働いている(エネルゲオー)とは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

2章3節も、「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と訳すことができます。つまり、悪霊に従った歩みとは、皮肉にも、自分の生きたいように生きることだというのです。

最初の人間のアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は・・目に慕わしく・・・好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。それは、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方を指し、そのように生きる人が、「御怒りの子」と呼ばれます。

つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

 

とにかく、私たちは「御怒りの子」と呼ばれた状態から、イエスの貴い血によって救い出され、イエスの弟、妹としての立場を持つ「神の子」とされたのです。

そして3章15節では、その私たちの父となってくださった方に関して、「その方によって、諸々の天と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。ここにはギリシャ語での言葉遊びが見られます。御父」はパテラ、「家族」はパトリアと呼ばれますから、「家族(パトリア)という呼び名は「御父(パテラ)」に由来すると記されているのです。

なお「家族」とは「民族」とも訳すことができますから、ユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが意図されています。それは2章19節でエペソの異邦人クリスチャンにパウロが、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」と言ったことを改めて思い起こさせます。

 

ただ同時に、ここでは「諸々の天と地上のすべての家族」とも記されているように、そこには御使いたちさえも含まれるとも考えられます。つまり、私たちの天の「父」は、すべての被造物にとっての「父」でもあると呼ばれているのです。

当時は、父親の権威が絶対的でした。父親がすべての子供に名をつけましたが、それは子供に対する父の権威の現れでした。それは同時に、家族一人ひとりを、自分のいのちを賭けて守り通すという意思の表れでもありました。

同じように、天の父なる神は、天と地のすべての家族に対する支配権を主張すると同時に、すべての家族を守り通すという強い意志を持っておられます。

 

2.「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」

  ここでのパウロの祈りの第一の内容は、「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがってあなたがたに力を賜りますように。その聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように(3:16)というものです。

先に彼は、「神の恵みの賜物により、また神の力の働き(エネルゲイヤ)により、福音に仕える者になりました」(3:7)と告白しましたが、その同じ「神の力」によって、「あなたがたの内なる人が強くされるように」と祈ったのです。

しかも、そこに「聖霊を通して」とあるように、私たちの心の奥底の霊の領域に御霊の働きがなされ、私たちの人格を成り立たせている根本が神によって強くされるようにという祈りです。

 

この前提には、1章20、21節の「大能の力を神は、キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて・・・すべての名の上に置かれました」という記述があります。つまりイエスを復活させた神の「大能の力」が私たちのうちにも働くということです。

そのことが2章4-6節では、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました・・・神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました」と記されていました。

神のみわざの第一は、死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。しかもこれが第二、第三のみわざとして、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。

これは天国への期待というより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していると見られるのです。

 

そして3章17節では、「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16)ということばが、(御父が)キリストをあなたがたの心のうちに、信仰によって、住まわせてくださいますように」と言い換えられます。御霊が住んでくださるということは、キリストご自身が住んでくださることに他ならないからです。

また、ここで「信仰によって」というのも、何事にも動じない自分の内側から沸き起こる確信のようなものではなく、キリストのみわざにこころを開くという柔らかな心を指すといえましょう。信仰は神のみわざです。

 

それがさらに展開されるように、「また、愛のうちに根ざし、基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するほど強くされますように。そして、人知をはるかに超えたキリストの愛を知るほど強くされますように。そのようにして、あなたがたが満たされますように、神の満ち溢れる豊かさにまで」 (3:17-19)と祈られます。

「愛のうちに根ざし、基礎を置いている」とは明らかに、キリストの愛に浸され支えられ守られているということを意味します。

続く祈りは、「御父が、その栄光の豊かさによって‥力を賜りますように」(3:16)以降の神の愛のみわざすべてを指しながら、「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるように」という願いだと思われます。

そして、そのことが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」として言い換えられます。

 

そして、このように神の愛の広さ、深さ、高さ、深さを理解し、キリストの愛を心の底から確信することによって、「神の満ち溢れる豊かさにまで・・・満たされる」というのです。最初のアダムは神の競争者になろうとしてエデンの園から追い出されました。しかし、私たちはキリストの愛を心の底から知る結果として、愛と哀れみに満ちた神のご性質に似た者にさせていただけるのです。

ただし、この成長とは何よりも共同体としての真の神の宮が建てられることに現わされます。そのことが2章20,21節では、「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされ、そして主にある聖なる宮へと成長しますこの方にあって、あなたがたもまた、ともに築き上げられ、御霊にあって、神の御住まいとなります」と記されていました。

多くの人々は、クリスチャンとしての信仰の成長を、あまりにも個人的な次元で考えがちかもしれません。しかし、目に見える成長とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに築き上げられる」ことです。それは時間のかかるプロセスです。家族関係の中で深い心の傷を負ってきたという人も多いからです。

 

この少し前に、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿の拡張工事をしていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれていましたが、パウロは全世界のキリスト者の交わり自体を指して「神の御住まいと呼んだのです。それは一つひとつの独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会を指した表現です。

使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれ、本来、普遍性を意味します。

しかも、当時のユダヤ人にとっての「神の満ち溢れる豊かさ」とは、モーセのときに建てられた宮が、またはソロモンの時代に建てられた宮が、「栄光の雲」に満たされたような状態を指します。私たちはそのような「栄光」を全世界的なキリストの身体である教会を通して味わうことができるのです。

 

3.「私たちのうちに働く御力によって」

そして祈りの最後は、「どうか、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて行うことができる方に、それは私たちのうちに働く(エネルゲオー)御力によってですが、この方に栄光がありますように、教会のうちにあって、すべての世代に、とこしえからとこしえまでありますように。アーメン」(3:20、21)という頌栄でまとめられます。

ここでは、御父が、「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えた」大きな働きをしてくださる方と呼ばれながら、その神のみわざに、「私たちのうちに働く力によって」という説明が加わっています。これは超自然的というよりも、神が私たちの内側に働くことによって、私たちが自分に可能だと思うことをはるかに超えた大きな働きをすることができるのです。

パウロはそのことをピリピ4章13節で、「私を強くしてくださることによって、私はどんなことでもできるのです」と告白しています。

 

パウロは3章3節で、「実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです」と記していましたが、「キリストの奥義」(3:4)には、自己保身に向かわせる恐れ」から人を解放する力があります。

その「奥義」に関しては1章10,11節で、「それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画(オイコノミヤ)が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」と記されていました。

これは「キリストにある再統合(recapitulation)」とも訳すことができる、東方教会神学の核心です。

 

なお、目に見えるキリストの支配とは、弱く無知な者の集まりに見える「教会(エクレシア)を通して現わされるものです。なぜならキリスト者の交わりである「エクレシア」とは、「キリストのからだ」そのものであるからです。

その不思議な力は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「ひとりの新しい人間として創造」されたことから生まれます(2:15)

それは核融合にも似た爆発的な力を生み出す原因となりました。まさに「多様性を保った一致」こそ力の源泉でした。

 

パウロにとって、「キリストの奥義(3:4)に動かされた働きというのは極めて具体的なことでした。彼はエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるために、ギリシャの諸教会から献金を集めて、自らエルサレムに戻ることが神のみこころであることを「御霊によって示され」ました(使徒19:21)

それは、ユダヤ人に憎まれている彼にとっては、いのちの危険が伴うことであり、回りの人々からは、無謀なこととして反対されました。そればかりか、彼が献金の訴えをあまりにも大胆にしたためか、コリントの教会の人々からは、「悪賢く・・だましとった」(Ⅱ12:16)などという侮辱を受けました。

彼はしかし、それでも、「異邦人は霊的なことでは、エルサレムの人々からもらいものをしたのですから、物質的なことで奉仕すべきです」(ローマ15:27)と、この行為が、異邦人とユダヤ人の一致を生み出すために何よりも大切なことと信じ、エルサレムで殺されることを覚悟で行きました。

 

この世的な効率性の観点からは、これほど愚かな行為はありませんが、主イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の一致という「奥義」を、パウロに示すとともに、彼を動かして、目に見える形での一致を作り上げてくださいました。

このような行為をいのちがけで行うことができたのは、彼自身がキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」に圧倒され、御霊によって、彼の「内なる人が強く」されていたからです。

 

私たちの肉の誕生も、神の子としての霊的な新生も、すべての「家族(パトリア)」の源である「御父(パテラ)から始まっています。

そして、聖霊の働きは、私たちの「内なる人を強める」ことに他なりません。それは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」ということから生まれるものです。

そして現代の神の力とは、「天からパンを降らす」という奇跡以前に、この矛盾に満ちた世で、神と人とのために働くことを可能にする「私たちのうちに働く御力」として現わされます。

キリストを死者の中からよみがえらせた方の御力は今、私たちのうちに働いているのです。キリストの復活は、あなたの「産みの苦しみ」を導く力です。

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