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2018年5月20日 (日)

エペソ5章3-20節 「新しい創造の喜びを生きる」

 2018520日ペンテコステ

先日、イスラエル建国七十周年記念ツアーの一環で、ユダヤ人クリスチャンとともにアウシュビッツ強制収容所を訪れた方が、戦争末期にユダヤ人たちをドイツ中心部の収容所へと強制移住させた悪名高い「死の行進」の道をたどった体験を語ってくださいました。日本人の感覚からしたら、死者の犠牲を思いながら沈痛な雰囲気で行進すると思いますが、ユダヤ人は高らかに歌い踊っていたとのことです。

そこで歌われた中心には、ヘヴェヌ・シャローム・アレッヒェム(私たちはあなたがたに平安《平和》を携えて来ました)という有名な御使いの歌がありました。そこには、神のご支配の中で起きた「のろい」に代えて、神がご自身の「祝福」をもたらしてくださるという聖書の中心テーマ、「新しい創造」の意味があります。

第二次大戦の時代のユダヤ人の貴い犠牲のゆえに、二千年ぶりにイスラエルの国が誕生したことは確かだからです。

 

私たちはパレスチナ難民の痛みに共感を覚えるべきではありますが、だからと言って、歴史に現わされた神のみわざを見失ってはなりません。私たちはどんな暗黒の中にも、十字架のキリストのうちにある希望を語ることができます。

米国で囚人への福音を伝えている方が、刑務所における闇の力の強大さを実感したとのことです。その時、彼が示されたのは、神の救いのみわざを歌うことでした。キリストにある「新しい創造の歌を囚人の方々に分かち合うことでした。

私たちの教会にもゴスペルクワイヤーがありますが、未信者の方々も歌詞の意味を十分に理解しながら歌えるように導かせていただいています。残念ながらときに、日本の教会では内省的に罪の自覚を深めるということに力点が置かれすぎる傾向があるのかもしれません。

私たちはこの世の様々な闇の影響を受け、また様々な誘惑にさらされています。それに真剣に向き合うことは大切でしょうが、「いのちの喜び」を抑圧するような謹厳さは、かえってサタンの思うつぼになるのかもしれません。

キリストにある「新しい創造」を歌うことこそが、暗闇の力への最高の対抗手段となります。そこにいのちの喜びがなければ、人は、心の奥底で、この世的な快楽への憧れを抱くことになるのです。

 

1.「だれにも空しいことばでだまされてはいけません」

   パウロは5章1節で、「神に倣う者となりなさい」と、不可能と思えることを命じます。ただ、それは人がすべて「神のかたち」に創造されていることを前提としています。それはキリストに倣う生き方でもあります。

 

それと対極にある生き方が、淫らな行い、あらゆる汚れ貪りで、原文の語順ではそれが最初に来て、「あなたがたの間では、口にすることさえしてはいけません。聖徒にふさわしく」と記されています(5:3)

続けて、「また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。これらのことを良く知っていなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません(5:4,5)と記されています。

ここで繰り返される「淫ら(ポルノ)「汚れ(不浄)も、基本的に性的に無軌道な生き方を指します。「貪り(貪欲)とは、人の持っているものを持ちたいと切望することです。私たちはときに、キリストに倣う生き方を目指すことよりも、自分の身体の欲望を優先する生き方をしてはいないでしょうか。

 

私たちはキリストのうちにある圧倒的な「赦し」を強調したいところですが、ガラテヤ5章19-21節では様々な罪の行いが列挙されながら「このようなことをしている者たちは、神の国を相続できませんと厳しく記されています。

またⅠコリント6章9,10節では「正しくない者は神の国を相続できません」と記されながら、具体的な罪が列挙されます。しかも、その直前の5章11節では、「兄弟と呼ばれる者で」そのような悪い生き方に居直っている者とは「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」とさえ記されています。

 

私もそのような箇所を読みながら、「僕も神の国を相続できないのか・・・」と落ち込むことがよくありました。しかし、そんなときイエスは私に、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と語りかけてくださいました。

また、ルカ18章9節以降のパリサイ人と取税人のたとえが慰めになりました。そこでイエスは、「自分は正しいと確信」しているパリサイを非難した上で、「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『罪人の私をあわれんでください』と言った」取税人が、神の前に義と認められたと言われました。

そこでは、みことばを読みながら、自分は御国を相続できないかもしれないと不安に思う人は大丈夫で、「私は絶対大丈夫!」と自負している人は危ないという逆説が描かれているのです。

 

それにしても、この手紙の前半では、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです・・・キリストは・・ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し、様々な規定のうちにある戒めの律法を廃棄されました」と十字架による「新しい創造」のことが強調されていました(2:5,14,15)

ただそれが、キリストの尊い犠牲の上に起きたことを忘れる人には、霊的な怠惰の理由になり得ます。それはちょうど、国の社会保障制度が充実してくると、生活保護制度を食い物にする輩が必ず生まれることに似ています。

 

そのことをパウロは、だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(5:6)と記しています。それは、たとえば、「もう自分は天国人となっている。どんな罪もすでに許されている。この肉体においてどんなことをしても、それが自分の霊を汚すことはできない」というグノーシス主義的な解釈だと思われます。

しかし、救い」とは、何よりもキリストとともに生きる者とされたという意味ですから、それまでの汚れた生き方から離れるべきなのは当然のことなのです。

 

私たちはここでもう一度、救いの原点、「既に」と「まだ」に立ち返る必要があります。私たちは既に、「見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)という祝福の中に招き入れられています。

しかし、キリストに似た者となるという意味での「救い」は完成していません。今も繰り返し、肉的な生き方をしてしまいます。その意味で私たちは「まだ」救われてはいません。

しかし、既に決定的な変化は起こっています。私たちは「御国を受け継ぐことの保障」としての「聖霊」を受けています(1:14)。そして、聖霊は私たちのうちに罪を指摘しながら、私たちを内側から作り変えていてくださいます。みことばを読んで、自分の足りなさを自覚し、聖霊の働きに頼ろうとする者は、既に救いの完成への確実な道を歩んでいるという意味で、「既に救われている」のです。

なぜなら、聖霊は全能の神であられるからです。しかし、自堕落さに安住し、成長をあきらめている者は、聖霊の働きを自分で拒否しています。神の怒りがそのような人間に下るのは当然です。

私たちは、神の救いを、平面的ではなく立体的に、また三次元的ではなく四次元的に考える必要があるのかもしれません。私たちは今、「不信仰な者に信仰を与え、完成に導くことができる神」を信じています。

 

イエスご自身も、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい(マタイ5:48)と言われました。それは、「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(同5:45)という神の包容力にならうことの勧めでした。

私たちは、常に、そのような「完全」を目指すように教えられています。人は、成長をあきらめたとたん、神のかたちとしての人の美しさを失ってしまいます。いつも最高を目指して生きているスポーツ選手や芸術家が輝いているのと同じように、私たちは「完全」を目指して生きるのです。

そのことをパウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。そしてそれを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私はすでに捕らえたなどと考えてはいけません。ただ一つのこと、すなわちうしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし(エペクタシス)(ピリピ3:12,13)という目標に生きる状態を自分で述べています。完全を目指すこと自体の中に真の「聖め」があるというのです。

 

2.「眠っている人よ。起きよ・・・キリストがあなたを照らされる」

  そして、パウロは罪に居直る人を指して、「ですから、彼らの仲間になってはいけません」(5:7)と言いながら、それをもっと積極的に、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」(5:8)と勧めます。

ここでは、先に、「愛されている子供らしく・・・愛のうちに歩みなさい」と言われたことが、「光の子どもとして歩みなさい」と命じられています。そしてその前提として、キリスト者は、「キリストにあって」すでに「闇」から「光」になっていると言っています。イエスは、「わたしは、世の光です」(ヨハネ8:12)と言われましたが、私たちはキリストのうちにあるとき、同時に、すでに、「光となりました」と言うことができるのです。

「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。その上で、「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです」(5:9)と言いながら、光としての実を結ぶ生き方をするように命じられています。

 

その上で、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)とは、一人ひとりが誰かに命じられのではなく、主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにという勧めです。

その上で、「実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい」(5:11)とは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)という勧めと同じ趣旨だと思われます。

なお、「明るみに出す」とは、隠されている悪を明らかにする、また、悪に同意していないことを明らかにするという意味があります。それは、積極的に、自分の属する組織の悪を密告するとか、次から次と人の過ちを指摘してあげるというようなことではなく、自分が同意できないということを、自分の身が危険にさらされることを厭うことなく明確にすることです。

子供の世界では、「ある子がいじめにあっているとき、いじめる側に仲間入りをしなければ、自分がいじめの対象にされてしまう」という恐れの中でいじめが加速されることがあります。同じようなことが大人の世界にもあります。悪いと分かっていながら、それに同調しないと村八分にされるという恐怖があります。

 

「彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべて明るみに出すべきものは、光によって見られるようになります。見られるものはみな、光だからです」(5:12-14下線部私訳)とは、私たちが「世の光」として生きることが世界の変革につながるという希望です。

私たちがまわりの人々の悪に同意せずに、その問題に直面し、見られるようにすることは、そのような恥ずべきことを行っている人々を軽蔑し、さばくためではなく、私たちがともに、世界に救いをもたらして下さる方を必要とするということを明らかにするということです。

それはたとえば、恥ずべき行為を行っている人に向かって、「私の中にも、あなたと同じ弱さや葛藤があります。でも、それをそのままにしておくと、滅びに至るということがわかりました。でも、自分で自分の問題を解決する力は私にはありません。それで、イエス様にすがっているのです・・・」と、同じ目線に立って、救い主を指し示すことです。

福音の初めとは、何よりも、私たちすべてが何らかの意味で病んでおり、救い主を必要とすると認めることにあります。世の人々は、「弱みを見せたら付け込まれる・・・」という恐れの中に生きていますから、キリストのうちにある者こそが自分の弱さや愚かさを、「明るみに出し、光によって見られるようにする」ということを始めなければなりません。

私たちが互いに、神の一方的な救いを必要としているということを明らかにすることこそ、「世の光」としての生き方です。

 

その上でパウロが、「それで、こう言われています(5:14)と引用したことばは、初代教会で洗礼を授けるときに使われていた讃美歌ではないかと思われます。そこで、「眠っている人よ。起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」と歌われています。

この背後にはイザヤ26章19節の「あなたの死人は生き返り、あなたの屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ」という復活預言、また、60章1節の「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝く」という救い主預言があると思われます。

これは、自分が死に向かっているアダムの子孫であることに認め、目を覚まして、救いを求め始めるとき、神の救いの光が自分を照らすという意味です。キリストがあなたを照らすとき、あなたはキリストにあって「光」となっています。それは、傷ついた癒し人として、自分の傷を明らかにしながら、同じ傷を持つ人に救い主がもたらす癒しの希望を分かち合うことです。

 

3.「ぶどう酒に酔いしれてはいけません・・・御霊に満たされなさい」

  15節は、原文では、「そういうわけですから、よくよく注意しなさい、どのように歩んでいるかを。賢くない人にようにではなく、賢い人のようにしているかを」と記されています。つまり、「キリストにあって光となっている」という自覚のもとに、「賢い人として歩みなさい」と励ましているのです。

そして、そのように生きることの具体的な意味は、「時」をどのように見るかにあります。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです(5:16)とは、「時を贖いなさい。この日々は悪いから」と訳すこともできます。

「時を贖う」とは、時間を無駄にしないというような意味ではなく、一日一日の時間を神の贈り物として受け止めるということです。私たちはどのように時間を使うかの責任を、時間の創造主である神から問われています。

そのことが、「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」(5:17)と記されています。伝道者の書には、「時と機会はすべての人に巡ってくる(9:11)と記されていますが、ビクトール・フランクルは、「私の生きる使命が分かりさえしたら・・」と疑問を感じる人に、「使命があなたを探している」と言いました。

私たちは、「今ここで」、自分に問われていることを誠実に成し遂げることの連続から、生かされている目的を知ることができるようになります。それは、一瞬一瞬、一日一日の積み重ねの中で問われ続けていることです。

 

「また、ぶどう酒に酔いしれてはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」(5:18)とは、飲酒の禁止であるよりは、酩酊してはならないという警告です。

伝道者の書9章7節には、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、しあわせな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから」と記されています。しかも、不思議にも、酩酊することと御霊に満たされることに共通点が示唆されています。

初代教会のペンテコステの日、御霊に満たされた弟子たちの様子を見た人々は、「彼らは新しいぶどう酒に酔っている」と嘲ったと記されています(使徒2:13)。酩酊は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされる時にも、私たちはこの世の人の評価や、様々な無意味なしきたりから自由に生きることができます。

両方とも人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。ところで、「御霊に満たされる」ことの意味には様々な側面があり、ある人にとっては恍惚状態を味わうことかもしれませんが、ここでは御霊に満たされることの四つの側面が記されています。

 

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合う」(5:19)ことです。賛美の基本は、歌うこと以前に、「互いに語り、教え合う」ことです。「詩・・をもって」とは詩篇の交読でしょう。「賛美」とは信仰告白としての賛美歌のようなもの、「霊の歌」とは、パーソナルな証しの歌を指すのかもしれません。これは、公の礼拝のすべての部分に関わってくることでしょう。個人の証とは、まさに、賛美であり霊の歌でもあります。

 

第二に、「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」とは「歌う」ことや楽器で主を賛美することを含めます。これは礼拝音楽すべてにかかわることだと思われます。

第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(5:20)です。御霊に満たされるとは、自己満足に浸ることではなく、神がキリストにおいてなしてくださったすべてのことに対しての「感謝」が生まれることなのです。

そして最後の第四は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。それが具体的には、続けて、夫婦関係として表されます。そこにこそ、御霊の働きが現わされます。

 

   エペソ書に描かれた「救い」とは、「神は・・背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし・・・キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました」(2:5,6)と描かれます。

私たちはキリストとともに復活のいのちを生き、「王である祭司(Ⅰペテロ2:9)としての名誉ある歩みを始めました。ですから罪の奴隷としての生き方を卒業する必要があります。ただし、それは禁欲主義ではなく、キリストのうちにある新しい創造」を喜び祝う生き方です。

そのためにあらゆる種類の教会音楽が用いられます。ドイツで生まれた心に沁みる音楽も、米国の黒人中心の教会で発展してきたリズミカルなゴスペルも、「新しい創造」を喜ぶという点では同じです。

その時々の私たち気持ちによってふさわしい音楽も変わることでしょう。しかし、何よりも大切なことは私たちが歌う内容であり、それらが聖霊に満たされる」という目的のために用いられることです。主にある喜びこそが、暗闇の力に打ち勝つ力となるのですから。

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2018年5月13日 (日)

Ⅰ列王記4~6章「神の御住まいが建てられるために」

 2018513

 ソロモンは栄光に満ちた神の神殿を建てることができました。しかし、それは主がダビデに、「あなたの身から出る世継ぎの子・・・はわたしの名のためにひとつの家を建てる」(Ⅱサムエル7:13)と言われたことの成就でした。

しかも、ソロモンは、ダビデが忠実な家来のヒッタイト人ウリヤから奪い取ったバテ・シェバから生まれた第二番目の子です。ソロモンは神がダビデの罪を赦してくださったことの証しとも言えます。

 

しかも、神殿は、ダビデが全イスラエルの人口調査をした罪の罰からイスラエルを贖うためにエブス人アラウナから買い取った祭壇の場に建てられたものです。

つまり、神殿建設の物語の背後には、ダビデの功績ではなく、彼の罪の赦しが隠されているのです。神殿の基本は、徹頭徹尾、神の憐みにあります。

 

そして、新約は真の意味でのダビデ子はキリストであり、「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」(エペソ2:22)と語っています。

そしてパウロは、教会という信仰者の共同体を指して、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と言いました。

キリストの教会も、イエスの貴い犠牲の上に建てられています。私たちは目に見える王国の偉大さや神殿の豪華さに目を向けがちですが、聖書が描く神殿建設の物語では、人の功績や働きではなく、神の圧倒的な愛と憐みが基本になっています。

 

1.「神は、ソロモンに・・・海辺の砂浜のように広い心を与えられた」

「こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となった」(4:1)と敢えて記されているのは、神ご自身が、ソロモンをダビデの後継者として立て「神の知恵」(3:28)を特別に与えてくださったという過程を思い起こさせるためです。

これに続いて、ソロモンの高官の名が記されます。その第一は祭司アザルヤですが、彼はソロモンに王の任職の油を注いだツァドク(1:39)の子です。書記のエリホレフアヒヤは、ダビデの書記だったシシャ(Ⅱサムエル20:5「シェワ」と同一人物)の子たちであり、史官(参議)ヨシャファテ軍団長ベナヤはダビデの高官であった者たちであり、またダビデを導いた預言者ナタンの子たちも政務長官王の友として仕えました。つまり、これらの名には先代からの政治の継続性が描かれています。

 

そして、「ソロモンはイスラエル全土に十二人の守護をおいた。彼らは王とその一族に食料を納めた。一年に一か月分の食料を各自が納めることになっていたのである」(4:7)と記されます。

守護のリストは、原文で、領地の名以前に、「エフライムの山地にはフルの子」などと、人名が優先され、多くの場合、子の名前さえも記されないまま、ダビデ王家との結びつきが強調されます。また領地の分割も、部族の枠を超えている部分があり、ソロモンが属するユダは含まれていません

つまり、これは彼が、ダビデでさえ苦労した北の十部族をまとめたばかりか、地中海岸のペリシテの地やヨルダン川東岸までを含むカナン全土を直轄統治したことを意味します。これはイスラエルが部族連合の共同体から絶対王政に移行したことを示すと思われます。

残念ながら、一年に一か月分の食料を納めさせるという絶対王政の強制力から、王制以前に定められていたシステムが壊されます。たとえば民数記1821-24節では、各部族が自分たちの収入の十分の一をレビ人たちに分け与えるように命じられ、また申命記142223節、28,29節には収穫の十分の一を主の宮の前で家族と食べること、また三年に一度は貧しい人の分かち合うことが命じられ、また七年に一度は同族の奴隷が解放され、借金が棒引きにされ、50年に一度はそれまでの土地の売買が帳消しにされ、もとの相続地に戻るという貧富の格差の是正策が命じられていました。

しかし、このように多額の貢物を王家に収めることを強制されることにより、そのような所得の再分配を実施することは困難になります。

 

しかし、当時の世界では、民族どうしの争いで国力が消耗し、民衆が苦しむのが常でしたから、ソロモン王のもとで国がまとまり近隣との戦争の危険もなくなっていたことは、一般民衆にとって何よりの幸いとなりました。

そのことが420節で、「ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた」と描かれます。これは神がイサクをささげたアブラハムに「あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えよう(創世記22:17)と言われたことが成就したことを意味します。

しかも、アブラハムの子孫が星のように増え広がるという約束は、彼が約束の地に来てしばらくしても子供が与えられないときに既に創世記15章で約束されていたことでした。実はその約束こそ神の契約の基本です。

 

そして、「ソロモンは、あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間、貢ぎ物を持ってきて彼に仕えた」(4:21)とは、創世記1518節で、神がアブラハムの子孫に約束された土地、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」を占領できたことを意味します。

ただしそれは、「主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(Ⅱサムエル8:6,14)とあるように、ソロモンの功績ではありませんが、彼はその勝利の報酬を受け継ぐことが許され、彼の国は空前の繁栄を享受することができました。

そして、繁栄の理由が、「これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分の・・・木の下で安心して暮らした」(4:24,25)と記されます。

 

また続けて、「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた・・・彼の名声は周辺のすべての国々に広がった」(4:2931)と記されます。「広い」はカナンの地の「広さ」を表わすために用いられることばで(創世記26:22)、神はソロモンに、海辺の砂のように多い人々と土地とを支配するための「広い心」を与えられたというのです。

ダビデの時代には、多くの血を流しながら約束の地の占領を進める必要がありましたが、ソロモンは、神から与えられた知恵によって、委ねられた地を、その名の由来のごとく「平和」のうちに治めることができました。

なお、そればかりか、「彼は三千の箴言を語り・・歌は一千五首もあった」(4:32)とありますが、その一部が箴言や雅歌として残され、また、彼は動植物全般に渡る知恵が驚くほど豊かでしたが、それはすべて神から与えられた知恵でした。

ソロモンは後に堕落しますが、彼が聖書の中に残した文書は、神に由来するということを忘れてはなりません。

 

2.「ツロの王ヒラムは・・・大いに喜んで言った。『今日、主(ヤハウェ)がほめたたえられますように』」

ツロ(ティルス)は現在のレバノン南部にあった繁栄を極めた貿易都市国家で、その王ヒラムは、ダビデがエルサレムを征服し王宮を建てたとき、「杉材、大工、石工を送っ」て工事を支援しました(Ⅱサムエル5:11)

そして、ダビデは主(ヤハウェ)の契約の箱を喜び祝いつつ市内に運び入れますが、そのとき彼は、「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています」(7:2)と言って、神殿を建てることを願います。

それに対し、主はⅡサムエル711-13節で、主ご自身がダビデ王家を永遠に建てるというダビデ契約を明確にするとともに、ダビデの世継ぎの子が神の名のために一つの家を建てると言われました。それはダビデの子のソロモンが神殿を建てることを意味しました。

そしてダビデは晩年にイスラエルの軍務につくことができる人を数えるという罪を犯しましたが、その罪の贖いのために全焼のささげ物を祭壇に置くと、天からの火でそれが焼き尽くされるという不思議が起きました。

ダビデはその場所に神殿を建てることを決めて、まだ若いソロモンが神殿を建てることができるようにあらゆる備えをしました。そしてダビデはソロモンに神殿建設を命じるとともに、神殿建設の材料を大量にツロから輸入していました(Ⅰ歴代誌22:2-5)

 

 ヒラムはこの関係を続けようと使節を送りました。その際、ソロモンも丁重に応答し、「私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため・・・私の父の神、主(ヤハウェ)の御名のために神殿を建てることができませんでした。しかし今や、私の神、主(ヤハウェ)は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり・・・今、私は、私の神、主(ヤハウェ)の御名のために神殿を建てようと思っています。

(ヤハウェ)が私の父ダビデに、『わたしが・王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです」(5:3-5)と伝えます。

ここでソロモンは、「私の父の神」が「私の神」となった述べ、また、主の御許しの中で、息子ソロモンが父ダビデに与えられた神殿建設のビジョンを実行に移すという点が強調されています。

 

つまり、神の目からは、ダビデとソロモンはふたりで一つの働きをしているのであり、すべてが神の主権のもとになされるというのです。ソロモンはこのようなことを敢えてヒラムに説明することで、イスラエルが全能の主のご支配の中で安定していることを印象付けます。

 

ソロモンはその上で、ヒラムにレバノンから杉の木を切り出すために便宜を図って欲しいと願います。これを聞いたヒラムは「きょう、主(ヤハウェ)がほめたたらえれますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった」(5:7)と言って、ソロモンではなく、知恵ある子をダビデに授けられた(ヤハウェ)をほめたたえます。

そしてヒラムはソロモンに木材と引き換えに食料の供給を依頼し、交渉が成立します。そしてここでも、(ヤハウェ)約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ」(5:12)と、すべてが主(ヤハウェ)のみわざであることが記されます。

 

その上で、「ソロモン王は全イスラエルから役務者を徴用した(5:13)と、三万人が木を切り出すために、また、七万人が荷を運ぶため、また八万人が山で石を切り出すために徴用されたと記されます。これらの人々は、基本的に、イスラエル人ではなく彼らの中に住む在留異国人でした9:21、Ⅱ歴代誌2:18

そして、神殿建設には、「ソロモンの建築者」ばかりか、「ヒラムの建築者」、およびツロとシドンのさらに北にある貿易都市ゲバル人の石切熟練工が協力した様子が描かれます。まさに、主(ヤハウェ)の宮は、主がこの地に平和を実現してくださり、外国人もイスラエルの神、主(ヤハウェ)に仕えるようになったということの象徴でした。

このときの多くの外国人は強制労働や賃金で働きましたが、終わりの日には、世界中の人々が、ささげ物を携えて主の宮に集まると預言されています(イザヤ66:18-23)

私たちも教会堂建設に際しては、主のみわざを未信者を含む多くの方々にも証ししつつ、神の知恵によって彼らとの平和を保ち、彼らと協力関係を築くことができました。主の宮は、この会堂に集う主の民だけによって建てられたものではありませんでした。

 

3.「これによって歩むなら・・・、わたしはイスラエルの子らのただ中に住み・・・」

ソロモンが「主(ヤハウェ)の家」の建設に取りかかった時が、「イスラエル人がエジプトの地を出て四百八十年目」と記されます6:1。この年代から出エジプトの年代を計算して紀元前1446年とする場合もありますが、それは様々な歴史文書と不調和をもたらすという見解も多くあり、1270年ごろと考える学者が多数派です。

この数字には象徴的な意味を読み取ることもできます。イスラエルの十二部族はその不従順のために、エジプトを出て約束の地に入るまで四十年もかかりました。その十二倍が四百八十年です。彼らがヨシュア以来ずっと神に忠実だったとしたら、ずっと前にこの地に神の平和と繁栄が実現していたことでしょう。

 

神殿の大きさは、本体部分が長さ60キュビト(26.4)、幅20キュビト(8.8)、高さ30キュビト(13.2)と記され(6:2)長さ幅とも幕屋の二倍です(出エジプト26章参照)。これに三階建ての脇屋をつけて、神殿の壁を梁で支えないで済むように補強しました(6:5-6)

また、神殿を建てるときは、石切り場で完全に仕上げられた石で建てたので鉄の道具の音は神殿の中では聞かれませんでした(6:7)。これらはかつてダビデが主の御霊に示されて記した仕様書によるもので(Ⅰ歴代誌28:12)、この神殿自体が神の作品と言えます。

 

なお、現代はこれよりはるかに大きな教会堂があるかもしれませんが、これは決して集会所ではなく、祭司が奉仕のためだけに入ることが許される場所です。

そして、実際、ソロモンが神殿の奉献式の際に立ったのは、この神殿の外に設けられた祭壇の前です。それはいけにえを焼くために設けられた巨大なもので、幅と長さが二十キュビト(8.8)と神の幕屋のときの四倍、高さも十キュビト(4.4m)と、もとの3キュビト(1.3m)の三倍あまりもありました。

そのとき民の長老たちは神殿の前の内庭に入ったはずですが、それがどれだけの広さだったかは記されませ(6:36)。幕屋のときの庭は、長さ44m、幅22mの広さでしたが、祭壇の大きさから見てもソロモン神殿の内庭は驚くほどの広さだったと思われます。

 

   ただ、この建設の際、主(ヤハウェ)のことばがソロモンにあります。それは、「もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない」(6:12,13)というものです。

つまり、人が律法を守ることこそが、神が民のただ中に住み続けてくださるための条件であり続けるということで、神殿はその保証にはならないのです。

(ヤハウェ)は、幕屋もいけにえもないところで、ダビデと共にいてくださったということを決して忘れてはなりません。神殿はソロモンの功績ではなく、神がダビデの願いを聞き届けてくださったことの結果なのです。

 

   なお、神殿の内部は当時の最高級の杉の板で覆われ、模様が記されていました。そして、主の契約の箱が置かれる至聖所は長さ20キュビト(8.8)の立方体になっており、その内側はすべて純金を着せました。

そして、その中には、ふたつの巨大なケルビム(人の顔と理性、ライオンの手足と大きな鷲の翼を持つ天的な生き物で契約の箱を守る存在)を作り、その翼は端から端まで10キュビト4.4m)にも及びました(ふたつで20キュビト)。そして、これも金で覆われました。

その他、神殿の内部は金がふんだんに用いられています。これは神ご自身の住まいであって、人に見られません。至聖所などは大祭司が年に一度だけ、命がけで入る場所でした(レビ記16)

たとえば、イエスの時代のヘロデ大王の手によるエルサレム神殿は、異邦人の庭、婦人の庭、内庭が三重に大きな建物で仕切られ、その外側の豪華さに関して多くの記録が残っていますが、神殿内部には契約の箱すらありませんでした。

またソロモンの神殿の中には十個の燭台がありましたが(7:49)、ヘロデ神殿にはひとつしかありませんでした。つまり、ソロモンの神殿の最も豪華な部分は隠されていたのですが、イエスの時代の神殿は、皮肉にも、外見に何よりも多くの手がかかっていたのです。

 

ソロモンはこれらを七年半で完成しましたが(7:37,38、ジプの月とは第二の月)、それはダビデがすでにあらゆる準備をしていたことの上にあり、神がダビデの罪を赦されたことの証しでもありました。

私たちも、神にしか見えない心の内側隠れた生活をこそ聖く美しく保つべきでしょう。神は神殿建設途中のソロモンに、何よりも大切なのは、神のみことばに注目しそれを守ることだと言われたことを忘れてはなりません。

 

  ダビデは主のために神殿を建てたいと願いましたが、主から、「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた・・・わたしの前に多くの血を地に流してきたからである」(Ⅰ歴代22:8)と言われ、許されませんでした。しかし、その戦いなしにはソロモン時代の平和と繁栄もありませんでした。

現代の平和も先人たちの血の犠牲の上に、また私たちの信仰も初代教会以来の信仰の戦いの上に立っています。そして、現代の教会も、ソロモンの神殿建設と同様に、この世の人々との協力なしには立ち行きませんが、その中心は、見えない部分を美しく飾るということです。

もちろん、私たちの心の内側には様々な醜い思いが満ちています。しかも、それを自分の力で美しくしようとしてもかえって空回りを起こすだけです。自分の無力さを認め、イエスの御霊に心を明け渡し、イエスの血によってこのこころを内側からきよめていただきましょう。

 

   使徒ペテロは、「みことばに従わない夫」に対しての妻の振舞い方を、「神を恐れる純粋な生き方を貫くように勧め、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りつけを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです(Ⅰペテロ3:3,4)と命じています。

多くの人が、自分の母への感謝を表すとき、外面的な美しさを言うことはほとんどありません。そこに出てくるのは、母のまっすぐな愛情であり、損得勘定を超えた誠実な生き方です。それは社会的には評価されにくいものです。しかし、そのようなまっすぐで純粋な愛こそが、この社会の基本になっています。

私たちも、キリストの霊を受けて、神を恐れる純粋な生き方、柔和で穏やかな霊とは何かを常に覚えて行きたいものです。

 

   ソロモンが建てた神殿に主の契約の箱が運び入れられたとき、「(ヤハウェ)の栄光が主(ヤハウェ)の宮に満ち」、「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった」ほどでした(Ⅰ列王8:11)

ヘロデの神殿はそのような栄光で包まれることはありませんでした。イエスはその神殿を指して、「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれをよみがえらせる(ヨハネ2:19)と言われました。

そしてイエスは今、ご自身が新しい神殿の「要の石」となられ、私たちがこのキリストにあって、建物を構成する部分として「組み合わされて成長し・・・ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです(エペソ2:20-22)。私たちは何かの部品のようにではなく、母のようなパーソナルな人格的な出会いによって結び合わされているのです。

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