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2018年6月17日 (日)

エペソ6章1-9節 「キリストを恐れ、創造的に仕え合う」

                                            2018617

創造主に向かって私たちは、「変えられないことを受け入れる平静な心を、変えられることは変えて行く勇気をお与えください」とお祈りします。不条理と映ることも、全能の主の御手の中で起きています。それを忘れると、忍耐心のない刹那的な刺激を求める自己中心的な生き方が正当化されてしまいます。

信仰生活は、平安で喜びに満ちた生き方を得るための「手段」ではありません。無意識のうちに、イエスに祈ることを、アラジンの魔法のランプにすがることや、のび太にとってのドラえもんかのように誤解してはいないでしょうか。

しかし、信仰の核心とは、「神を恐れる」ことです。平安と喜びは、神の権威に従う者に与えられる神からの賜物です。それら自体を目的とする者は皮肉にも、不安と不満に襲われます

 

この書には人の常識を超えた神の奥義が記されています。その第一は1910節にあるように、「その奥義とは・・一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」ということです。

この書に記された神の創造とキリストにある再創造という大きな視点から、すべての人間関係を見直すことの具体例が家族と職場の関係に現わされます。

 

私たちが受けるストレスの大半は人間関係から生まれるとも言えますが、信仰者は、物分りの悪い伴侶も、親も、上司も、神からの訓練の機会と受け止めることができます。私たちは既に「神の国」の民とされた誇りを持って、「賢い人のように歩んでいるかをよくよく注意しなさい」(5:15)と命じられています。それは主体的で創造的な生き方です。

その上で、「御霊に満たされなさい」と言いつつ、その具体的な方法として四つのことを語りました。その最後が、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」という勧めです。つまり、人と人との関係の中に、キリストを置くということが人間関係の秘訣なのです。

マザーテレサは、道端で死に行く人の中にキリストを見たことから、あのような偉大な働きができました。その中心は、相手への嫌悪感に振り回されずに、「仕える」ことです。それを身近な人に適用してみましょう。

 

1.「あなたの父と母を敬え・・そうすれば、あなたは幸せになり・・・」

   パウロはここで、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことなのです。『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。『そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く』という約束です(エペソ6:1-3)と分かり易く語っています。

なお、ここでの「子どもたち」ということばは、「幼い」という意味ではなく、子としての立場を意味し、大人への命令でもあります。また、「従いなさい」という命令は、厳密には、「謙遜に聴きなさい」とも訳すことができることばです。

先の「互いに従い合いなさい」では、自分を目の前の人の下に置くという立場が強調されていましたが、ここでは、「両親」の心の奥底の声を謙遜に聴くという姿勢が強調されています。親の命令に盲従するのではなく、自分の心で納得できるように謙遜に聴き、その結果、その命令に心から従うという姿勢です。

 

なお、この引用先である申命記516節における、「あなたの父と母を敬え」という命令には、「あなたの神、主(ヤハウェ)が命じられたとおりに」という補足のことばと、それを守る者への約束が、「それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである」と記されています。

この際の「敬え」ということばは、「栄光」の動詞形で、神に栄光を帰すように、両親を心から尊重し、そのことばを重んじるという意味が込められています。

 

   ビクトール・フランクルは私の心の教師のような精神科医です。彼はヒトラーがウィーンに進軍してきた時、既に社会的な尊敬を得ていました。ただ、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では働きを続けることができないことが明らかで、米国行きのビザを申請していました。

数年かかってビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっており、強制収容所への抑留が間違いない状況になっていました。しかし、彼には年老いた両親がいました。その両親のビザはありません。彼は迷いました。彼がウィーンに残ったところで両親を救うことはできません。しかし、両親を置き去りにして自分だけが渡米することに後ろめたさを感じていました。

迷いながら家に帰ってみると、父親が破壊されたユダヤの会堂の瓦礫から拾ってきた大理石がテーブルの上に置いてありました。そこにはヘブル語のカフというアルファベットが刻まれていました。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)の最初の文字でした。

彼は、この文字を見たとき、自分の使命は、両親とともにウィーンに残ることにあると決断しました。しかし、それは彼も強制収容所に抑留されることを意味しました。彼は自分の医療技術を用いて、秘密警察の方の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができましたが、まもなく両親とともに強制収容所に抑留されました。

父は、そこで肺水腫を患って死の床につきます。彼は医師として、父に最後の痛み止めの注射を打つことができましたが、そのときのことを、「私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった」と書き残しています。

母はその後、アウシュビッツのガス室送りになりましたが、移送される直前に、彼は母に祝福の祈りを請い、心の底からの祝福のことばを母から最後に受けることができました。彼はその後の収容所生活の中で、母への感謝の思いで心が満たされていました。

 

   フランクルは奇跡的に強制収容所の苦しみに耐えて生き残ることができて、そこでの体験を「夜と霧」という本で証ししました。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることが可能だという証しでした。

彼は、「何のために生きるのか・・・」という問いに答えを持っている人間は、最後の瞬間まで、真の意味で生きることができると言っています。彼自身、あらゆる損得勘定や現実的な計算を捨てて、両親とともに強制収容所に入るということ決めたことは、一瞬一瞬、人生の問いに答えながら歩むことを、身をもって証することになりました。

その後、彼は、「生きる意味の心理学」によって、多くの人に希望を与えながら、平安のうちに92歳の長寿を全うしました。まさに、父母を敬うなら、あなたはしあわせになり、地上で長生きするという約束のとおりでした。

 

   私たちはそれぞれ、まったく異なった環境で育ってきました。ですから、「父母を敬う」ということが具体的に何を意味するかは、その人その人によって異なります。人の模範に習うことも、画一的な答えを求めることも、無意味である場合が多いと思われます。

それにしても、「父母を敬う」とは、神から人間に与えられた教えの根本であることは間違いありません。そこではあらゆる現実的な計算が意味を失います。どれほど、社会に役に立っていると思われる人でも、父や母を重んじることなく、軽く扱っているなら、神の前においても、その人は軽い存在としか見られません

神は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる」(Ⅰサムエル2:30)と言われましたが、それは、親との関係においても当てはまります。ここで、「重んじる」ということばは、「父母を敬え」というときと同じことばが用いられています。

 

2.墓守娘の生き方からの解放者イエス

   しかし、「父と母を敬え」という命令は、しばしば、「あなたは、自分の人生を歩んではならない」というメッセージに聞こえることがあります。10年前に、「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」という本がベストセラーになりました。その副題には、「進学、就職、結婚、介護・・・どこまでもついてくる母から、どう逃げおおせるか。Noと言えないあなたに贈る、究極の傾向と対策」と書いてありました。

ある女性が、田舎の母親の呪縛から逃れるように東京の出版社に就職し、それなりの仕事を任され、外国人の恋人もでき、母親の様々な介入もうまくかわせるようになった33歳のとき、祖父の法事で久しぶりに実家に帰りました。穏やかに法要を終えて東京に帰ろうとしたそのとき、母が耳元でささやきます。

もう何も言わないからね、ただ、私たちが死んだら墓守りは頼んだよ」と。多くの日本人は、どんなに親から自由に生きていても、このことばには勝つことができないようです。そこから、「墓守娘の嘆き」というタイトルが生まれています。

 

   ある人は、「父と母を敬え」ということばを聞くと、どうしても、「お母さんは私のしあわせだけを望んでいる」と善意に解釈しなければと思い、「辛くなっていた」と言っていました。

子供が親を深く愛しながら、同時に、憎しみを抱くという矛盾を、心理学用語でアンビバレンスと言いますが、親だって子供にアンビバレントな気持ちを持つものです。

子供には自分の人生を生きてもらいたいと思いながら、同時に、自分のもとからは決して離れてほしくないと願っています。親は、無意識に自分の価値観を押し付けて、子供をコントロールします。簡単に言うと、「親はだれも、めちゃくちゃ身勝手」という部分があるものです。

 

しかし、イエスは私たちに、親に「No!」という権利を保障してくださいました。主は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはなりません・・・わたしは平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです・・・わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありませんわたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタイ10:34-37)と、耳を疑うようなことを言われました。

 

   しかし、私たちは、このことばの背後に、イエスの深い愛情を感じることができます。これは、墓守娘に向かって、「親の期待や、親の価値観から、自由になって、神ご自身があなた自身に期待しておられる人生を大胆に生きて良いのだよ・・・」という励ましのことばになるからです。

また、親に対してアンビバレントな気持ちを抱き、真心から親を尊敬することができない人に向かって、「おまえが最初から、自分の父と母を敬うことができるぐらいなら、わたしが十字架にかかる必要はなかった。まず、わたしを信頼しなさい・・」と語っておられるように思われます。

ただし、イエスはその前に、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われました。つまり、イエスが、あなたと親との関係を引き裂くのは、親との関係を永遠に回復させるための、一時的な外科手術だということを決して忘れてはなりません。

親切の押し売りとも思われる親の身勝手なことばを聴き、いやいや親に従うような生き方を離れるためです。親の人生を本当の意味で真心から重く受け止め、親を愛することができるために、イエスはあなたと親の関係に一時的な剣をもたらしてくださったと受け止めるのです。

父母を敬う」とは、親を美化することではなく、親の中にある矛盾した思いや身勝手さや不安を、優しく見られるようになることとも言えましょう。それは、親の罪深さを認め、なおも親を愛することです。そのために助けになるのは、親の人生の歩みを、熱心に聞くことです。

 

しばしば、親が味わってきた葛藤が理解できるなら、親の様々な問題を優しく見ることができます。親のせいで幼児期に様々な痛みがあったとしても、それとセットに神はそれを乗り越える力を与えていてくださいました。それはあなた固有のいのちの輝き方です。

私たちは自分が思う以上に親に似ています。そのような自分を愛することができるようになるとき、自分自身の身体も性格も気質も、神によってユニークに創造された存在として受け入れることができるようになります。そのとき、あなたはあなたらしい方法で神に喜ばれる生き方ができることでしょう。

あなたの創造主との交わりを喜ぶ生き方、それこそが、「幸せになる」ということに他なりません。誰も自分の親を軽蔑して心の幸せを味わうことはできません。

 

3.「子供たちを怒らせてはなりません」

   「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはなりません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(6:4)とありますが、「怒らせる」とは、426節では「憤る」と訳され、「苛立たせる」とも訳せる言葉です。これは、親が子供の事情や気持ち、葛藤などを無視して、権威を振りかざして従わせようとするときに起きる反応です。

子育ての核心にも、「キリストを恐れて」という心の姿勢がなければなりません。「怒らせる」代わりにすべきことが「主の教育と訓戒」です。これは、「主の訓練training,懲らしめ)と警告」とも訳すことができます。本来、「訓練」「警告」も、怒りを引き起こすことが多いものです。つまり、親の責任は、子供の怒りを引き起こしても不思議ではないような「教育と訓戒」をもって、子供を育てることなのです。

 

欧米の親たちが日本の子育てを見て、「子供を王様扱いしている」と驚くことがあります。子供の怒りを宥めることばかりを考え、振り回されている親が何と多いことでしょう。それは、子供の気持ちに寄り添うことと、わがままを聞くこととの混同から生まれているのではないでしょうか。

子供を「苛立たせる」のは、何よりも、親の関心が子供に向けられていないことから生まれます。子供の気持ちを理解しながら、しかも、恐れや悲しみ、無力感のようなマイナスの感情に振り回されることがないように指導するということが「主の教育と訓練」です。子供には、大人を振り回す天才的な罪人の才能が備わっているのですから。

 

   子供は主から親に一時的にあずけられている「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在です。子供を親の所有物と見ることも、反対に、子供に振り回されることも回避しなければなりません。

「主の教育と訓戒」というときの、「主の」ということばに注目しましょう。自分と子供との間に、主キリスト・イエスを置くことが何よりも大切なのです。

なお、「箴言」では、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24)と記されているように、子供に対する主にある厳しさも大切です。

 

4.「恐れおののいて真心から地上()の主人に従い(謙遜に聴き)なさい」

   当時の奴隷と主人の関係は、現代の日本の会社の上司と部下の関係に似ています。人徳のある上司には自然に従えることもあるでしょうが、現実は、何と多くの上司が、自分の身を守ることばかりを考えていることでしょう。それでいて口では、「僕は君の将来のためを思って・・」などと言います。そればかりか、部下の功績を自分の功績として宣伝する上司さえいます。

しかし、御霊に満たされるとは、そのような偽善的な上司に対し、「恐れおののいて真心から地上()の主人に従い(謙遜に聴き)なさい、キリストに対するように」との姿勢で臨むことです。上司は、あなたに仕事や課題を与える権威を持つ存在だからです。

パウロはネロがローマ皇帝であったとき(在位54-68)にローマ人への手紙を書き(57)、「人はみな、上に立つ権威に従う(服従す)べきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです(13:1)と命じています。

またペテロも、「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従い(服従し)なさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも(Ⅰペテロ2:18)と記しています。

 

私は野村證券フランクフルト支店で働いてきたとき、主の召しによって退職を決意しましたが、会社から留学をさせてもらっていたときの契約で、その後、三年半は働き続ける必要がありました。しかし、辞める覚悟ができると上司に堂々と意見を言えるようになりました。自分の仕事を、主から与えられたものと受け止めなおしながら、私はこのような仕事をしてみたいと、図々しい提案をしました。

すると支店長は、この私の働きがその支店内において、どのような重要な意味を持ち、何が期待されているかをやさしく説明しながら、私の提案を断固として退けてくれました。そのとき、私は反対に、心からこの支店長の判断に敬服できるようになりました。別に、この支店長の人格を尊敬できるようになったわけではありませんが、この人は自分よりもっと大きな視点から仕事を見ているということが良くわかったからです。

私たちは、自分に課せられた仕事を、より高い視点から見直す必要があります。そのとき、自分がどれほどまじめに仕事をしても、あの嫌な上司の功績になるだけだ、などという考え方から自由になることができるでしょう。

 

   最近は、転職が比較的、容易ですが、昔は、職業選択の自由はありませんでした。私たちは、自分が職場を選ぶことができると思うからこそ悩みが深くなるという面もあるのかもしれません。しかし、目の前の仕事を、まず、主から与えられたものとして見るという生き方ができなければ、どのような仕事についても、同じような不満を持ってしまうことでしょう。

パウロは続けて、「地上の主人」に対する姿勢を、「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に対するように、喜んで仕えなさい(6,7)と命じています。

ここでは、地上の「主人」も、天の「主」も、キュリオスという同じことばが用いられています。私たちは地上の主人の背後に、天の主を見るように召されています。それは、俗物の塊のような上司の背後に、慈愛に満ちた主の訓練を見ることです。

その根拠は、何よりも、8節に記されています。それは、あなたがたは知っています。良いことを行えば、それぞれ主から報いを受けることを」ということばです。これこそ信仰の核心です。キリスト者とは、主が、私たちの労苦を正当に評価し、それを報いてくださる方であるという確信のうちに生きるからです。

 

5.「主は人を差別することがないことを知っている」

   奴隷の主人に対する勧めは、上司が部下をどのように指導するかに関しての勧めとして適用することができます。その際、何よりも、「脅すことはやめなさい」(9)と記されています。これは、自分の権威を振りかざして、恐怖心を起こさせて仕事をさせるというやり方です。

これは最近の某大学のアメフト部のことでも問題になりました。脅しは、短期的には確かに効果がありますが、長期的な目で見ると仕事に対する部下の意欲を殺ぐばかりか、何よりもそれでは部下の能力や創造性を引き出すことはできません。

 

ここでも、「主人たち」ということばも、「彼らの主、またあなたがたの主が天におられというときの「主」も、同じキュリオスです。地上の主人たちは、常に、天の「主」のまなざしを意識して部下を指導することが求められているのです。

上司は部下を、「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在として見る必要があります。そして、ここでも、あなたがたは知っている・・・主は人を差別することがないことを・・・」と記されています。これもキリスト者が持っているはずの確信、または常識です。

主は一人ひとりに目を留めておられます。ですから、目の前の人を自分の奴隷のように扱い、「脅し」によってその人格を否定するような対応は、そのしもべの真の主人であられる主の主権を犯すことになると言えるのです。

 

   御霊に満たされる生き方とは、すべての人間関係に、「キリストを恐れて、互いに従いなさい」という心の姿勢を適用することです。

主のまなざしを意識して、自分の家族や職場の人間関係を見直しましょう。すべての人の背後に、主を見るということは、目の前の人を理想化するという意味では決してありません。親も上司も、罪人の頭(かしら)です。それにも関わらず、神から立てられた「権威者」として尊敬することが求められています。

また、子供も部下も、驚くほどに、ずる賢いかもしれません。しかし、あなたも彼らも、神の前には同じような罪人です。そして、私たちの主キリストご自身が罪人に仕える生き方を全うし、ご自身のいのちをささげてくださいました。

私たちのうちには何とそのキリストの御霊が宿っているのです。そこには、すべての人に謙遜になりながらも、主体的で創造的な自由な生き方が開かれるのです。

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2018年6月10日 (日)

Ⅰ列王記9~11章 「私たちの憧れが実現する中にある罠」

                                           2018610

ある神社に掲げられていた多くの絵馬の一つに、7歳の子が「お金持ちになれますように」と祈願しているものがありました。そのダイレクトな表現を見て、とっても心が痛みました。貧しくて、とっても苦しんでいる子なのかもしれないし、お金の意味を理解していない子なのかもしれません。

お金はとっても大切で便利なものですが、「お金」を偶像のようにして、それを第一に求める者が、幸福になれるはずはないからです。

 

イエスも「栄華を極めたソロモン」と言われましたが、ソロモンは富と権力ばかりか、人々を感服させる知恵の他、美女たちに囲まれることなど、人が憧れるすべてを手にしました。私たちもそれぞれ憧れるものがあるでしょう。

しかし、ソロモンの最後を見るとき、イエスが教えられた「幸いの教え」(ルカ6:20-26)の重みを改めて感じさせられます。彼は黄金に囲まれて、国の没落への道を開きました。「奢れるもの久しからず・・・」と言われますが、ソロモンはあらゆる知恵に満たされながらも、神の怒りを買う行動を取りました。

一方、彼の父ダビデの生涯は苦しみに満ちていましたが、その悩みの中で、何と多くの慰めを残していることでしょう。

 

1. 主のことばとソロモンの事業

   ソロモンは神殿の奉献において、聖霊に導かれた最高の祈りをささげました。そこには、彼がイスラエルの歴史全体を貫く神のご計画を知らされていることが明らかにされています。そして、その祈りを主ご自身も喜んでくださり、「ソロモンに再び現れ」てくださいました(9:2)

以前に現れてくださったのは、彼がエルサレムの北10kmの町ギブオン(ここに神の幕屋があった)千匹の全焼のささげ物を献げたときです。主は彼が願った「正しい訴えを聞き分ける判断力」ばかりか、「富と誉れ」までも与えてくださいました(3:10-13)

そして、この二回目のときも、主は「わたしは・・この宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある」(9:3)と語ってくださいました。ただそこには約束とともに、厳しい警告がありました。

主は、あなたの父ダビデが歩んだように全き心と正直さをもってわたしの前に歩み・・・掟と定めを守るなら・・・あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう」と約束しながら、同時に、「ほかの神々に仕え、それを拝むなら・・・地の表からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てると警告されました(9:4-7)

そして、ここでも後に実現するバビロン捕囚の辱めが警告的に述べられます(9:8,9)

 

   その後、「ソロモンが主(ヤハウェ)の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき(9:10)と、彼の大建築工事が振り返られます。

このとき彼はツロの王ヒラムに木材と金への返礼として、「ガリラヤ地方の二十の町」を与えます。しかし、それにヒラムが不満を述べます。ヒラムが送っていた金の量は何と120タラント(約4トン、現在の金価格14600円で換算すると184億円)にも上っていたからです。

不思議なのは、神がイスラエルに割り当てた地を金と引き換えに与えているということです。4章ではソロモンの豊かさは食料で表現され(27)、またヒラムが求めていたのも食料でした(5:9,11)。それからするとソロモンは町を与える代わりにそこから収穫できる食料を与え、金との交換などは必要なかったとも言えます。

しかし、ソロモンにはそれほど金が魅力的に思えたのかもしれません。残念ながら、910章での豊かさは「」で表現されています。

 

なお、少し飛んで926節からは死海のはるか南、現在のアカバ湾の入り口に、ソロモンが「船団を設けた」ことが記されますが、それを助けたのはヒラムでした。ツロは地中海の海上交易で栄えた町ですが、ソロモンはヒラムの助けを得て、アラビア半島とエジプト、エチオピアに至る紅海での交易を展開しました。

シナイ半島を挟むため、地中海と紅海の船の行き来は不可能ですが、これによってイスラエルの陸地の通商路を経て、地中海の果てのスペインとインド洋に至る交易路が結びつくことになりました。

このヒラムが助けた船団はオフィル位置不明、エチオピアの東岸、イエメンの対岸あたりと思われるがインドのボンベイという説まである)というところから420タラント(14トン、現在の価格で644億円)もの金を得てきたと報告されます。ヒラムは対等の同盟者として「兄弟」と呼び合いながらも、あらゆる面でソロモンの意向に従っていたと推察できます。

 

   ソロモンは町の再建にも力を尽くしました。ガリラヤ湖の北20kmにあるハツォル、またガリラヤ湖南西40kmあたりに広がる肥沃なイズレエル平原の中心都市メギド(9:15)、またエジプトのファラオの娘の結婚の贈り物として譲り受けたペリシテ支配の拠点ゲゼル(9:16)、死海の南40kmぐらいにある南の棒得拠点タデモルなどです(9:18)

また多くの軍事拠点を建てると共に、「ソロモンが・・彼の全領地に建てたいと切に願っていたものを建てた」(9:19)とあるように彼の建設意欲は驚くほど旺盛でした。そして、それを成し遂げるために、「イスラエル人が聖絶できなかった人々の子孫を、ソロモンは強制労働に徴用した」(9:21)と、敢えて描かれます。つまり、聖絶されるべきカナン人が、なくてはならない労働力になってしまったのです。

 

そして、ソロモンは先にファラオの娘のために豪邸を建てていましたが(7:8)、そこに昔のダビデの町から移り住まわせたことがされます(9:24,7:8参照)

なおそこに「ソロモンはミロを建てた」と記されますが、ミロとは堤またはテラスとも訳し得ることばで、急な坂に土を盛って平面を作り、場合によってはそこに家を建てる構造ですが、それは古いダビデの町の北端の部分の地名とも理解できます(Ⅱサムエル5:9)。これはソロモンがファラオの娘の家に隣接する部分を強固にしたという意味かもしれません(不明なので「ミロ」のまま記す)

 

ここには、ソロモンが防衛拠点を建て、エジプトとの友好をはかりながら、頼ってはならない力にたよる過程が示唆されます。

特に申命記71-6章には、神がイスラエルに与えた支配地に住む住民をことごとく聖絶し「何の契約を結んでもならない」こと、また「彼らと婚姻関係に入ってはならない…彼らは・・他の神々に仕えさせ」ることになると警告されていたからです。

ただし、このときソロモンは、律法に沿った形でいけにえをささげながら主を礼拝していました。彼の心はふたつに分かれ始めています。彼はまだ偶像礼拝には至ってはいませんが、主を礼拝しながら、主に背いてまで人間的な力に頼ろうとしているからです。

 

2.「あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています」

  そのような中でシェバの女王がソロモンを訪ねます。シェバはアラビア半島の南西端、現在のイエメンあたりに位置したと思われ、砂漠に覆われた半島の中でも例外的に土地が肥沃で、海峡を隔てたエチオピアとの通商によっても栄えていました。

女王は「非常に多くの従者を率い、バルサム油(香油)多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た」のですが(10:1)、その動機は「主(ヤハウェ)の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうと」という思いでした。しかし、「ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた」というのです。

そればかりか彼女は宮殿の様子や主(ヤハウェ)の宮での全焼のささげ物を見て、「息も止まるばかり」(10:5)になり、「あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています」(10:7)と言います。

なおここで彼女の感動のことばは、ソロモンの家臣たちが彼の知恵を聞くことができること自体「なんとしあわせでしょう」と記され(10:8)、また「あなたの神、主(ヤハウェ)がほめたたえられますように」と言ったと記されます。

イエスはこの南の女王が「ソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た」彼女の信仰を評価し、彼女は終わりの日にパリサイ人や律法学者を罪に定めると言われました(マタイ12:42)

 

   彼女の贈り物で特に際立っていたのは、「百二十タラントの金」(ヒラムの場合と同じ量で約4トン)と「バルサム油」でした。これは木から採取される香油で、非常に高価なものでした(10:10)

また「オフィルから金を積んできたヒラムの船団」(10:11)も、香木である「白檀(びゃくだん)を大量に運び込んだことが記されます。このように香油や香木が珍重されるのは、生活必需品が十分に満たされていることの象徴とも言えましょう。

 

そして、「ソロモン王は・・・シェバの女王が・・求めた物は何でもその望むままに与えた」(10:13)と、彼の豊かさが強調されます。しかも、一年間に入ってきた金の重さは666タラントであったと記されますが(10:14)、これは何と、21.6トンに相当します(1,000億円)

それに加えて、「アラビアのすべての王たち」(10:15)からの貢ぎ物があったと描かれているのを見ると、シェバの女王との交流は氷山の一角のようなものでした。

 

そして、1017-21節の最初と最後では、「レバノンの森の宮殿」が金で満ちていたことが描かれます。またそこではソロモンの「王座」が象牙の上に純金をかぶせた巨大なもので、「どこの王国でも作られたことがなかった」途方もない豪華なものであること、また飲み物の器までもがであることが描かれています。

 

なお、1022節では、「王が海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団を持っていて」と描かれていますが、「タルシュシュの船団」に関しては、スペイン南部の地名と思われる地との貿易専用の船団なのか、遠隔地との貿易が可能な大きな船の船団という意味なのかという異なった解釈があります(9:26-28参照)

どちらにしても、中心的な意味はソロモンが地中海貿易で繁栄していたツロの王ヒラムに海上貿易を依存する代わりに、独自の大船団を所有し、往復に三年かかるような遠方との交易を独自に行っていたことが強調されていることでした。

伝道者の書の111節の「あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから(私訳)ということばはこの海上貿易を前提としたことばかと思われます。ソロモンは主にあって大胆にリスクを引き受け、それによって前人未到の富を築き上げたのです。

 

その上で、「ソロモン王は、富と知恵において、地上のどの王にもまさっていた。全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた」(10:23,24)と、神から与えられた知恵自体が、何よりの富の源となったことが記されます。

つまり、知恵と繁栄自体は、神の栄光を現すものとも言えましょう。世界中の人々が、イスラエルに贈り物をもってやってくる、また平和のうちに海の果てとの交流が盛んになることは、すべて神の民にとっての憧れであり、神の祝福のシンボルでした。

「お金は寂しがり屋で、仲間のいるところに集まってくる。あなたのところにお金が来ないのは、寂しいところだから」などと言われますが、ソロモンには不思議に、世界の富を引き寄せる魅力がありました。それがソロモンの知恵かもしれません。それは、お金はお金を呼ぶという現実の現れと言えましょう。しかし、彼はそれを何のために使ったのでしょう?

 

3.「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国の女・・・を愛した」

「ソロモンは戦車と騎兵を集め」(10:26)以降の記述は、ソロモンの危なさを描くものです。「王は銀をエルサレムで石のように用い」(10:27)とありますが、当時の貨幣は銀でしたから、これは彼の際限のない贅沢を表します。

そして、「王の商人たち」と呼ばれる人々は、エジプトから戦車や馬を輸入して、それをヒッタイト人の王やアラムの王たちに輸出するという、武器の仲介を大がかりに行なっていました(10:28,29)

 

そして、最後に、「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。この女たちは、主(ヤハウェ)がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる』と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった」(11:1,2)と記されます。

これはみなイスラエルの周辺諸国ですから、そこには政治的な友好関係を結ぶという意味があったと思われます。

なお、最初の三つの民はイスラエルの親戚であり、2節で引用されている出エジプト記3412-16節、申命記72-5節に登場する「七つの異邦の民」でここに重なるのはヒッタイト人だけで、これらのほとんどはイスラエルに聖絶を命じられている民ではないので、この引用は不思議とも言えます。

しかし、これらの記述の最後に、「彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた」と記されています。

 

これは、かつて神がモーセを通して、将来の王制に移行することを予測しつつ、「王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない・・・自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない」(申命記17:16:17)と、権力の乱用を戒めていましたが、ソロモンの行動はそれにことごとく反しています。

 

   その中でも、最も悪いのは、異教の神々を信じる者たちを妻とすることでした。そして、「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうに向けたので・・・シドン人の神アシュタロテと、あのアンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った」(11:4,5)と記されます。これは途方もないスキャンダルです。

アシュタロテは愛と豊穣の女神で彼を助けたツロでも拝まれていた神です。ツロと仲良くしたあまり、その神々にまで好意を持ってしまいました。またミルコム7節のモレクと同じで「子どもに火の中をくぐらせる」ような「忌むべき神」です(Ⅱ列王記16:4参照)

ソロモンはこれらの神々のために「高きところ」、つまり、礼拝の場を築いたというのです。しかも、彼は、「外国人のすべての妻」それぞれが信じる異なった神々への礼拝施設までも作ったというのです。彼は妻を愛するあまり、妻の神々まで愛してしまいました。

 

   ここでのソロモンの問題が、先の文章の真ん中で、「彼の心は、父ダビデの心と違って、彼の神、主(ヤハウェ)と一つにはなっていなかった(11:4)と記されていました。これは「神と平和(シャローム)ではなかった」とも訳すことができます。彼の名が「平和」(シャローム)に由来することを思うとき、なんとも皮肉です。

彼の行為が、いかに神を悲しませたかが伝わってきます。彼は妻たちとの平和を優先して、神との平和を軽んじてしまったのです。私たちの場合も身近な人との関係を優先し、神との関係をないがしろにしてはいけません。

 

そのような中で、主がソロモンに二度も現れ(11:9,12,13)「あなたがこのようにふるまい・・わたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える」と途方もないことを言われます。

ただ同時に、「あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く」と言われます。これは、猶予期間を与え、悔い改めを促しているとも解釈できます。

ただ、そこで同時に、「王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える」と言われます(11:13)。ここには、主がダビデ王家を永遠に立てると言われた約束が、子孫たちの不従順にも関わらず守られる希望が見られます。

 

そして、主(ヤハウェ)は、ソロモンに敵対する者三人を起こされます。

第一はエドム人のハダテです。彼はダビデの時代にエジプトに亡命した者ですが、パロの娘をめとり、強い指導者となってエドムに帰ってきます(11:14-22)

第二は、エリヤダの子レゾンで、彼はダビデに敗北したツォバ(Ⅱサムエル8:3)の出身者ですがアラムの首都ダマスコに拠点を置いてソロモンに敵対する勢力となっていました(11:23-25)

 

第三はイスラエルの名門エフライム人ヤロブアムです(11:26)。彼はソロモンに能力を認められていましたが。そのことが「ソロモンはミロを建て、彼の父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。ヤロブアムは手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた(11:28)と描かれます。

皮肉にも、ヤロブアムは「ダビデの町の破れ口をふさぐ」ことに貢献した指導者でしたが、主は預言者アヒヤを彼に遣わし、「ソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える」(11:31)と言われ、主ご自身が主導権をもって国を分けられると記されます。悲劇の背後に、主がおられたというのです。

 

ただその際、主はヤロブアムに、「わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える(11:38)と言われました。

ある意味で、ヤロブアムはダビデの家の破れ口をふさぐために神によって選ばれたとも言うことができます。神が、ダビデ、ソロモンの王国を分裂させた首謀者であるヤロブアムにこれほどの期待をかけていたというのは不思議です。

 

イスラエル王国のソロモンはヤロブアムを殺そうとしますが、彼はエジプトに亡命します。そして、ソロモンの死が11章終わりで報じられます。そして彼は40年間イスラエルを支配したと描かれます(11:42)

 

かつて、「ソロモンは(ヤハウェ)を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた」3:3と描かれていた王は、外国人の女を愛し、彼女たちの偶像礼拝に巻き込まれました。まさに後のパウロが、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と警告している通りです。

不思議なのは、ソロモンは神の救いのご計画を知り、また神の警告を明確に聴き、この世の富や権力のむなしさを良く分かっていたはずなのに、どうして・・・という点です。それは、彼の権力が強くなりすぎて、また、その知恵によって人々から尊敬を集めているうち恐いものがなくなったからではないでしょうか。

「恐れ」は人を謙遜にします。主を恐れることと、わざわいを恐れることは、人の心の奥底では分離できません。恐いものがなくなってしまうことは悲劇かもしれません。

繁栄と栄誉自体は決して悪ではありません。ただそれは神を忘れさせる危険があります。そして、自分の創造主を忘れた者は、すべてを手にしているように見えても、すべてを失っているのです。

 

ソロモンは驚くべき大量の金を手にしましたが、それが驚くほど多くの美女たちに注がれて行きました。本来そのお金は、イスラエルの民全体を潤すために用いられるべきでした。貧しさのあまり土地を売ってしまったような人に先祖伝来の土地を回復させことが、七年毎の安息年や50年毎のヨベルの年の教えの核心でした。それを外国の女たちに注ぎ、偶像礼拝に巻き込まれるなど言語道断です。

富と権力がソロモンを惑わせました。私たちにとっての最大の誘惑は、お金かもしれません。お金の使い方に賢くなることは豊かになる秘訣ですが、お金を何に使うかというビジョンがない人は、お金で身を滅ぼし、周りを破滅させます。

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2018年6月 3日 (日)

エペソ5章21節―33節 「新しい創造としての夫婦関係」

                                          201863

    以前、結婚前カウンセリングで、「うまくゆかなかったら離婚もあり得るなどと決して考えてはいけない」と申し上げたところ、反対に、「そのような言い方が、かえって結婚関係を壊すことにもなり得る」と言われてしまいました。その方は米国人の精神科医で、「離婚は罪だ!」という呪縛の中で多くの夫婦が苦しんでいるのを目の当たりに見てきたからです。

それぞれユニークな組み合わせの結婚関係を杓子定規な道徳感覚で機能させようとするほど危ない教えはありません。また、神の恵みでたまたまうまく機能している夫婦が、独身の方に、結婚の祝福を語りすぎるのも問題かもしれません。それはどこかの大臣が「女性は早く結婚して何人の子を産むべき」と言ったことに似ています。

そのような人には、パウロが当時の信仰者に敢えて独身を勧めているかのように思える箇所を開くべきです。彼はコリント人への手紙第一77節で、「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります」と、当時のユダヤ人の常識に反することを記しています。

 

この箇所は、家庭に関しての部分ですが、一人ひとりに対して、イエスからのユニークな召しがあることを何よりも心に留めていただきたいと思います。この箇所にはある意味で、途方もない理想が描かれています。それは決して人間的な努力で達成できるものではありません。自分が生まれ育った家庭や互いの関係をこの基準で評価すると、人も自分も追い詰めるだけです。

この書に記された神の創造とキリストにある再創造という大きな視点から、すべての人間関係を見直す一つの題材として家庭が描かれていると考えるべきでしょう。家庭は神のみわざの舞台です。

この書には人の常識を超えた神の奥義が記されています。その第一は1910節にあるように、「その奥義とは・・一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」ということです。

そして2章14-16節では、キリストは「ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし・・・(ユダヤ人と異邦人という)二つをご自身においてひとりの新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました」と、キリストにある「新しい創造」として異邦人とユダヤ人が一つにされたことが描かれます。

そして4章16節では「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ」と記されています。

 

つまり、キリストにある再創造とは、異なった者同士が組み合わされることなのです。そして、創造の秩序において、すべての生き物が基本的に、雄と雌それぞれの異なった遺伝子の組み合わせによって新しい命を誕生させるという不思議があります。

その創造の神秘の中に、神のかたちに創造された男と女が、キリストにあって再統合されるという前提があるのです。

 

1. 御霊に満たされなさい・・・キリストを恐れて互いに従い合いながら 

エペソ書522節以降は、しばしば、結婚式の聖句として読まれますが、この文脈では、夫婦の関係は、「どのように歩んでいるかを、よくよく注意し・・」という日常の信仰生活の中での、「御霊に満たされなさい」という命令の具体例として捉えられるものです。

創世記2章にはエデンの園の調和が描かれ、そのシンボル的な表現が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいと思わなかった」(2:25)という記述です。ところが、彼らが食べてはならないと言われた木の実を取って食べたとき、互いに裸を恥じるようになり、被害者意識に満たされ、互いを非難しあう関係になりました

そのふたりの間から最初に生まれた子供は、カイン、つまり、弟殺しです。それは互いに自分を神とする生き方の必然的な結末でした。カインの末裔から、ありとあらゆる悪が広がっていきました。簡単にいうと、人間のすべての不幸は、一組の夫婦関係から始まっているのです。

 

結婚には、この不幸の再生産をするという可能性が極めて高いのです。そして、事実、幸せになりたいと思って結婚したカップルが、互いばかりか、周りの世界を不幸のどん底に陥れるということが後を絶ちません。結婚ほど、恐ろしい冒険はありません。

しかも、私たちはみな男女が一体となるという営みによって、この世に生を受けています。今回の教えと無関係に生きられる人は誰もいません。

 

しかも、この教えは、18節の「御霊に満たされなさい」という主動詞を修飾する四つの分詞節の最後として登場します。

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語る」(5:19)こと、第二は、「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」です。

第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(5:20)で、最後の第四が、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。

つまり、「御霊に満たされる」というキリストにある再創造のみわざは、互いを尊敬し、従い合うという人間関係の中に現され、何よりも、夫と妻の関係に表されるというのです。

 

2.妻たちよ。主に対するように自分の夫に・・教会がキリストに従うのと同じように

「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(5:22)と訳されていることばは、厳密には、「妻たちよ。主に対するように自分の夫に」と記され、この節の原文には「従いなさい」という動詞はありません分かりやすい翻訳のために「従う」という動詞を入れざるを得ないにしても、原文にはない命令形を二回も入れてしまっては、妻への一方的な服従命令が強調されていると誤解されます。

これはあくまでも、すべての信仰者に命じられている「互いに従いなさい」という枠の中で、妻に率先してその命令を夫との関係の中で実践するようにと勧めるものです。これは歴史的、社会的に服従を強いられている女性に向かって、被害者意識から自由になって、「従う」ということをキリストの視点から見直すという発想の転換を迫るものです。

 

しかも、互いに従う」は分詞であり、主動詞は「御霊に満たされなさい」です。つまり、妻は、主を心から礼拝し、賛美し、感謝をささげるという信仰生活の中で、心から夫に仕えるという創造的な生活が勧められているのです。

現実には、女性の方の信仰がしっかりしている場合が多いのですが、これは妻の側が、不信仰な夫に気遣い、自分の主体的な信仰を押し殺し、夫に盲従するという勧めでは決してありません。

 

続けて原文の順番では、「なぜなら、夫は妻のかしらだからです。それはキリストが教会のかしらであるのと同じです。主ご自身がそのからだの救い主なのです」(5:23)と記されます。

先に、「教会はキリストのからだ」(1:23)と描かれていましたが、それを基に夫と妻の関係が「かしら」「からだ」で描かれています。つまり、それは上下関係の記述というより、妻を真に生かすことができるのは夫であるという意味です。

 

神は創造の初めに、土から男性を創造し、彼に土地を耕させ、すべての生き物に名前をつけさせるという創造的な責任を全うさせた上で、彼に深い眠りを与え、彼のあばら骨から女を作り上げました。

つまり、夫の目の前には初めから、土地を耕し、獣を治めるという仕事があったのに対し、妻が目覚めたときには夫がおり、夫の主導の語りかけによって女が妻とされたという経緯があります。

以来、夫は、仕事に生きがいを感じる傾向が強いのに対し、妻は何よりも夫の愛情を求める傾向があります。どこの家庭でも夫と妻の不満には同じような傾向が見られます。

たいてい、夫は、「妻は僕がどれだけ仕事で苦労しているかわかろうともしない・・・ただでさえ疲れているときに、結論の見えない話をだらだらとしたがる・・・」というものであり、妻の不満は、「夫は、私に関心を向けてくれない。私の話を聞いてくれない。利用することばかり考えて、私の人格を無視している・・」というものです。

まして、この手紙が記された二千年前は、徹底的な男尊女卑の社会でした。妻は、夫の財産の一部かのように見られ、家の中に閉じこもり、家事と子育てに専念することが求められていました。残念ながら、夫が妻の心理状態に責任を負うという考えはありませんでした。

 

そのような中で、創造主は、妻に向かって、夫が創造された後で、妻が創造されたという創造の秩序に立ち返り、すべてにおいて夫を立てるという生き方を全うするように求めたのです。なぜなら、最初の人間が、善悪の知識の木の実を食べて以来、夫も妻も、自分を基準に人をはかるようになっているからです。

夫には夫の理屈があり、妻には妻の理屈があります。そして、愚かなプライドに囚われている男性に限って、妻の意見に従うことに強い抵抗を感じます。妻がことばで相手を屈服させようとすると、言語能力に劣っている男性は、暴力で相手を屈服させようとします。

それに対し、神は女性に、キリストの生き方に習うことにおいて主導権を持つように命じたのです。キリストの生き方とは、徹底的に人の気持ちに寄り添い、仕えるという生き方です。当時の宗教指導者が、ことばだけで人を動かそうとしたときに、イエスは無言で弟子の足を洗うという行動で、弟子の心を変えようとされました。

つまり、妻は、夫との権力闘争に打ち勝って主導権を取ろうとするのではなく、キリストに従って夫に徹底的に仕えるという生き方で、夫の心を変えることを勧めたのです。そして、それでこそ、キリストが教会を生かすように、夫が妻を生かすことができるのです。

 

なお、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」(24節)と訳されていることばも、厳密には、「教会がキリストに従うのと同じように、妻は夫に対しなさい、すべてにおいて」と記され、妻に関して「従う」という動詞はありません。

ここでも、「教会がキリストに従う」という姿に、妻が率先して倣うようにという勧めで、「互いに従い合う」という意味での模範を示すことが期待されていると言えます。

 

そして、実際、コリント第一の手紙七章においては、当時においては天地をひっくり返すほどに画期的な形で、「信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません(15節)などと、夫婦関係における信仰上の男女同権を語っています。当時の妻が夫の信仰に従う義務があると見られていたのと正反対です。

神は、決して、すべての妻に、家の中に閉じこもって家事と育児に専念するように命じているわけではありません。実際、女性の社会進出が際立っているのは、基本的にすべてキリスト教国ではないでしょうか。妻と夫の役割分担が逆転したってよいのです。

ただし、妻には、夫の存在が家庭の基礎であるということをまず認め、権利を主張する前に、尊敬の心をもって互いに仕え合うということでの主導権を発揮するように命じられたのです。

 

女性によっては、横暴な男性に仕えなければならないこともあるかもしれませんが、しばしば、キリストに出会うことができた後で、「こんな最低の男に仕えなければならないなんて・・・と苦々しい思いで一杯だったけれども、私は愛するイエス様にお仕えすることの一環として、キリストへの礼拝の一部として、夫に仕えるのだ・・・と言い聞かせることができるようになりました。

キリストに仕えるということを思い浮かべると、夫に仕えることがさほど苦痛ではなくなりました。それどころか、そのような気持ちで夫に接していると、夫の表情も変わってきました。顔も見るのも嫌だったのに、夫の良いところがわかるようになりました・・・」と言われます。

これは、どこかの特別な証しではなく、ほんとうに、クリスチャン女性によくある証しなのです。

 

3.キリストが教会を愛したように、妻を愛する・・・とは

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(5:25)とありますが、原文でも、妻の場合にはとは対照的に、「愛する」という動詞が二度も登場します。夫に対しては、「妻を愛しなさい」という絶対的な有無を言わせない命令形が記されているのです。

そればかりか、キリストが教会を愛し、そのためにご自身のいのちを犠牲にされ、それによって栄光の教会をご自身の前に立たせてくださるという途方もない救いのみわざを示しながら、「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(5:28)と命じられています。これは厳密には、「だから夫には、妻を愛するという負債、または責任がある」と記されています。

つまり、夫が妻を真心から愛そうと努めないということは、キリストへの何よりの不従順になるという断固とした迫りが記されているのです。

 

そして、パウロは夫が自分の妻を愛すべき理由を、「主の救い」のみわざに結び付け、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」(5:26、27)と描きます。

キリストは教会をご自身の花嫁として御前に立たせることを最大の喜びとしていますが、同じように夫は妻を自分自身の身体として美しく成長させることに喜びを感じるべきだというのです。

ここで「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」ということばは、女性の美を意識させる表現です。多くの男性は女性の美しさを喜びますが、キリストが罪人の集まりを、「聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会」へと導くように、夫は妻の心身の状態を徹底的に気遣うべきなのです。

もし、夫がそうするなら、妻は、年を経るにしたがって、内側から湧き上がるような美しさに満たされることでしょう。つまり、妻の美しさにかげりが出てくるのは、夫に責任があるとも言えるのかもしれません。

 

その上で、パウロは、「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです」(5:28、29)と言います。つまり、「キリストが教会を愛されたように・・自分の妻を愛しなさい」という絶対命令は、自分自身を大切にすることと同じだというのです。

妻を奴隷のように扱っている男性は、自分の身を憎んでいるのと同じです。女性には、一般的に、子育ての能力が男性以上に与えられています。それは、一人に仕え続けるという能力です。男性はしばしば、社会的な影響力で自分の能力を測りますが、彼を育てたのは母の献身的な愛です。ただ、母の愛情は、かなり本能的な部分から生まれますが、妻の夫に対する愛情は、夫婦の相互関係から生まれます。

多くの男性は、自分の責任を果たさずに、妻に、母親代わりを期待しますが、それは本末転倒です。妻が夫を養い育てる前に、夫がキリストに倣って、妻を養い育てるのです

 

多くの男性は、仕事を引退した後、自分が妻を愛してこなかったことのつけを支払わされます。社会的な立場を一切失った男性は、なんとも言えない惨めさを味わいます。そのとき心の支えになるのは、妻しかいません。

そして、妻は母ではありませんから、あなたを無条件に愛することなどできないのです。妻を愛するものは自分を愛し、妻を憎むものは自分を憎むという真理をそのときに悟っても遅すぎます。

 

キリストがご自身のからである教会を通してご自身の栄光を現わすように、夫は妻を愛することによって自身の真の誇りと生きがいを体験することができます。夫婦の一体感こそ最高の力の源だからです。

  

その上で、「私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(5:30-32)と記されます。

この「奥義」とは、最初に述べた、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」(1:10)というキリストにある再創造のみわざの一環として認められるべきものです。つまり、夫婦関係にこそキリストの圧倒的な救いのみわざが現わされるのです。

その際、極めて人間的な夫婦関係を、キリストと教会との神秘的な関係から見直す必要があります。実際、イエスは、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります(ヨハネ13:35)と言われました。

つまり、クリスチャンホームが愛の交わりとして形成されていることこそ何よりも最も効果的にキリストの愛を証ししているのです。世に福音を語る以前に、福音の力を夫婦関係で味わうべきでしょう。

 

   最後に、「それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい」(5:33)と記されます。ここで、「妻もまた、自分の夫を敬いなさい」「敬う」とは「恐れる」ということばと同じです。

これは次の子供のことにもつながりますが、妻が夫を軽く見ていると、子供も父親を軽く見るようになります。しかし、父親は神が家庭に立てた最高の権威です。妻が、夫を恐れ敬うこともなく軽く扱っていると、子供もこの世の権威を軽く見るようになり、また神の権威をも軽く見るようになります。

現代の日本は、権威喪失の時代です。福音が届かない原因に、その問題があるのかもしれません。

 

アダムとエバが神に背いた結果は、互いに自分を被害者に仕立てて、相手を非難するという生き方の始まりになりました。それは、神の最高傑作でありながら、自分を神の競争者にしたいと思ったことから始まっています。それに対して、パウロは、キリストの生き方を美しく描いています。

それはピリピ2章3節以降の勧めとキリスト賛歌において、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と描かれています。これは決して、相手の能力が自分よりも優れていると思い込むことではなく、目の前の人を自分が仕えるべき主人のように無条件に尊敬することの勧めです。様々な技能は主人ではなく奴隷にこそ必要だからです。

そして、その上で、「それはキリスト・イエスに見られるものです。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり・・自分を低くして・・十字架の死にまで従われました」というキリストの模範が示されます。

 

御霊に満たされるとは、この生き方に習うことにほかなりません。互いの正義や権利を主張しあって争う人間関係ではなく、キリストにある平和を求めるのです。

ただし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。なぜなら、御霊に満たされる」ための大前提こそが、自分の心の貧しさ、無力さ、意思の弱さに嘆くことにあるからです。

自分で自分を変えられないと認める人の中にこそ、創造主である御霊のみわざが現されるからです。互いに正義を主張し合う関係から、キリストの愛に包まれ、その愛に動かされて互いに仕え合う関係へと成長しましょう。

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