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2018年7月 8日 (日)

エペソ6章10-24節 「悪魔の策略に対して堅く立つ」

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戦争は悪ですが、人生に戦いはつきものです。日本のサッカーチームがイエローカードの少なさで決勝トーナメントに進むことができ、ベルギーとの戦いで放ったあの二本の美しいシュートには、日本人の誰もが歓喜したことでしょう。

「キリストのうちにある生活」をサタンとの戦いとして描く本日の箇所は、多くの人に違和感を覚えさせられるかもしれません。しかし、これこそ私たちが直面する信仰生活の現実です。

 

1.「私たちの格闘は血肉に対するものではなく・・・」

パウロは手紙の終わりに当たって、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」(6:10)と言いました。命令の中心は、「強くなりなさい」ではなく、「主にあって強められなさい」です。

しかもその「大能の力」とは、1章19-22節に記されていた「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座につかせて・・・すべてのものをキリストの足の下に従わせ」た「神のすぐれた力」のことです。

十字架にかけられたイエスを「王たちの王、主たちの主(黙示録19:16)とした神の力が、私たちのうちに働いているのです。それを「心の目」で見られるようになるということが、パウロが願った「知恵と啓示の御霊」の働きでした(1:17、18)。私たちはパウロが祈っているような信仰の成長を望んでいるでしょうか?

 

その上で、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように神のすべての武具をとりなさい」6:11-13)と記されます。

不思議なのは、2章1-5節では、私たちが「空中の権威を持つ支配者」のもとから「救われた」と記されながら、ここでは「暗闇の世界の支配者たち、天上にいるもろもろの悪霊」との戦いが続いていると記されていることです。

そこでしばしば説明として用いられるのが、第二次世界大戦におけるノルマンディ―上陸作戦と最終的なナチスドイツの降伏との関係です。米国の立場から言えば、ノルマンディー上陸作戦の成功で、ドイツの敗北は決定的になったと言えますが、実は、驚くべき多くの犠牲者が生まれたのはその後の戦いでした。それは日本でいえば、戦争の敗北が決定的となったあとに沖縄戦、主要都市の大空襲、原爆投下と続いたことに似ています。

サタンは、戦争の帰趨が決まったことを隠すことで、また神の支配に生きることの空しさを宣伝することで、人々に無駄な血を流させようとします。しかし、サタンに対するキリストの勝利は、十字架と復活で確定したというのが、新約の福音の核心にあります。「信仰」とはそれを「心の目」で見続けることです。

 

なお、私たちの「格闘」が「血肉」に対するものであれば、人間の能力によって対処できますが、私たちを攻撃する者は、どうあがいても抗しがたい「支配」であり、また目に見える様々な報酬や災いをもたらす「力」または「権威」です。それはまた「暗やみの世界の支配者たち」であり、「諸々の天にいる悪霊たちに対するもの」です。

つまり、私たちは、人間的には、決して対抗できない敵として戦っているのです。大塚野百合さんはルターの有名な讃美歌の日本語訳に関し、讃美歌267番では、「よみの長も など恐るべき」、聖歌では、「くらきのおさ、秘術を尽くし攻めきたるも など恐るべき」と訳していることに関し、「日本の教会は、ルターのように悪魔の恐ろしさを感じていなかったのではないでしょうか」と憂慮を示しながら、ヘンリ・ナウエンが、「神があなたを召しておられると感じれば感じるほど、あなたは自分の魂の中に、神とサタンとの宇宙的規模の戦いがなされていることに気付くのです」と記したことばを引用しています。

ちなみに、この部分を私は、「古き悪魔 知恵を尽くし 攻め来たれば 地のたれもが かなうこと得じ」と原文に忠実に訳しましたが、それではサタンの勝利を歌うように感じられると言われ、修正したという経緯があります。

 

またここでは「悪魔の策略」「邪悪な日に際して対抗できるように」とありますが、悪魔は人の心に幻影を見せたり、脅したりすることによって、私たちが主に従うことを諦めるようにと妨害します。悪魔は自分を隠しながら巧妙に私たちの心に信仰に関しての誤解を植え付けようとします。

世界最大級の宣教団体OMFの創始者ハドソン・テーラーは、ほとんど何の経済的保証もない中で、ただ主に信頼し、働き続けたような人でした。しかし、彼は記しています。「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と。

そんな絶望の時、友からの手紙が届き、そこに「信仰を強められるため、どうしたら良いのだろう。それは信仰を求めて努力するのではなく、忠実なお方によりかかることだ」と記されていました。

その時彼は、「私にはすべてが分かった。『私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である』(Ⅱテモテ2:13)。私は主を仰ぎ、『決して・・あなたを見捨てない』(ヘブル13:5)と言われる主を見た!」と感動を味わい、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という信仰の事実の中に憩うことができたのです。

信仰の始まりは、何よりもキリストの愛の語りかけに心を開き、やすらぎ憩うことです。

 

確かに主は、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です・・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と言われました(ヨハネ15:5)。ところが、残念ながら多くのクリスチャンも、自分の力で実を結ぼうと必死になってはいないでしょうか。

ぶどうの枝は、木から養分を受けようと必死になりはしません。ただ、枝を通して実をならせようとする木の力に、身を任せているだけなのです。

 

2.「堅く立ちなさい・・・どんなときにも御霊によって祈りなさい」

  6章11,13節では、神のすべての武具を身につけなさい・・・神のすべての武具を取りなさい」と繰り返されますが、その目的は、「堅く立つことができるように・・・対抗できるように・・・堅く立つことができるように」という点にあります。中心は、サタンの攻撃に屈して退却することのないように堅く立つために、神の武具を着けることです。

ダビデとゴリヤテとの戦いの際に、ダビデはサウル王からもらったよろいを脱ぎ捨てました。それは彼の体には重すぎたからです。人の成功談を聞きながら、お仕着せの武具などを身に着けようとしてはいけません。「あのようなクリスチャンになりたい・・・」などという憧れが、神を見えなくする場合もあるのです。

しかも、続く文脈での中心的な命令は、「そして、堅く立ちなさい」(6:14)です。それに四つの分詞形が続きます。これは、私たちが「しっかりと立つ」ことができなければサタンとの戦いに勝つことはできないのですが、そのために神の武具をどのように身に着けるかが次の四つの観点から記されています。

 

第一は、「腰には真理の帯を締め」ながら「立つ」です。重い物を持ったり、労働する時、しっかりと腰に帯を締める必要があります。「真理」とは「まこと」とも言われます。イエスは、「わたしが真理です」と言われました。私たちはイエスをその身に着ているのです。

第二は、「胸には正義の胸当てを着け」ながら「立つ」ことですが、胸当てはサタンの攻撃を防ぎます。「正義」とは自分自身の正義ではなく、「神の正義」です。それは神がご自身の子に対して尽くしてくださる正義です。サタンは私たちを失望させるようなことばを常にぶつけてきます。たとえば、「おまえはそれでもクリスチャンなのか?おまえは何も変わっていないではないか・・・。おまえの通っている教会には、つまらない人間ばかりがいるではないか・・・」などと、今までの信仰生活が無駄だったようなことを言って、私たちを神と神の教会から引き離そうとします。

第三は、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(6:15)とありますが、「平和の福音」とは、神がこの地に平和(シャローム)を完成してくださるという「希望の知らせ」です。それはイザヤ52章7節にあるように、争いと混乱に満ちた世界で、神の救いが近いことを告げ知らせ、神により頼むことの幸いを告げる足のことです。

第四は、「これらすべてのものの上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます」(6:16)とありますが、これは扉のようなものを自分の前に立てて、その後ろに身を隠すためのもので、その目的は、飛んできた「火矢を」、「盾」に刺さったままにして「消す」ことにあります。

「信仰」とは何よりも、神の約束に対する信頼です。それは、目の前の現実が期待通りにならない中での希望です。ここで記されている悪魔の「火矢」とは、根拠のない楽観的で安易な望みであり、現実の厳しさを忘れさせ夢に逃避させるような淡い期待です「大盾」の後ろに隠れ続けることは「忍耐」が必要です。自分で火矢を消すこともできません。それが燃え尽きるのを待つしかないのです。

同じように人生には、ただじっと身を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つしかないときがあります。それを可能にしてくれるのが神の真実に頼る信仰です。

 

6章17節は、厳密には、「救いのかぶとを受け取りなさい。また、御霊の剣である神のことばを」と記されています。そこでは、「受け取りなさい」という本動詞が記されており、ここから「祈り」に結びつく新しい展開が始まっているのだと思われます。

まず、「かぶと」は私たちの頭を守るものですが、それは「救い」が私たちのうちにすでに始まり、完成に向かっていることを確信されるものです。また「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(6:17)とありますが、みことばこそがサタンに対する唯一の攻撃の武器です。

しかも、それは御霊によって与えられるものです。マルティン・ルターの「神はわれらが堅き砦」の歌詞に、「悪魔世に満ちて よしおどすとも などて恐るべき 神ともにいます この世の君 ほえたけりて 迫り来とも 主のみことば これに打ち勝つ」(私訳)とありますが、この最後の原歌詞は「たったひとつのみことばが彼を押し倒すことができる」です。

あなたにも、ひとつのみことばによってサタンに勝利した記憶が無いでしょうか。

 

「御霊の剣」としてのたったひとつのみことばというのは、人によって違います。ルターにとっては、それは「神の義」でした。神がご自身の一方的な恵みで自分を義としてくださるということがわかったからこそ、彼は当時のカトリックの束縛と圧制から自由になり、その誤った教えと戦うことができました。

あなたの場合にも、創造主に立ち返ることができたみことばがあることでしょう。それを味わうことが大切です。

 

   ところで、18節の中心は、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」ですが、これは直接的には「救いのかぶとと御霊の剣を受け取りなさいという主動詞を修飾すると同時に、間接的には、14節の「堅く立ちなさい」を修飾する分詞です。

つまり、「祈り」こそ、サタンの力に対抗する生き方の核心なのです。最近、「私はお祈りをしなくなった・・・」ということがあったとしたら、まさにサタンの思う壺です。

 

しかも、「あらゆる祈りと願いによって」とありますが、これは様々な祈りのパターン、口頭の祈り、黙想の祈り、観想の祈り、忘我的な祈りを含むのかとしれません。口頭の祈りでも、嘆願もあれば、主の祈り、平和の祈りなどがあります。これらの祈りがすべて、御霊によってなされる必要があります。

そのためにはまず自分の内側に抑圧されている思いに霊の耳を開きながら、「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」(ローマ8:26)という御霊の導きの世界に心を開く必要があります。それは、時間のかかるプロセスです。

その上で、「そのために、目をさまして」という訴えがなされ、そこに「忍耐の限りを尽くし」という継続性「すべての聖徒のために」という広がりに目を向けるように勧められています。

 

ここにある四つの「すべて」に目を向ける必要があります。それは、「すべての(あらゆる)祈り」「すべての(どんな)ときにも」「すべての忍耐(の限りを尽くし)」「すべての聖徒のため」です。ここに私たちにとっての祈りの方法、時間、献身、対象の広がりが強調されています。

若い信仰者は自分のことしか祈れないかもしれません。しかし、いつまでたっても自分の身の回りのことしか祈れないとしたら、その人は、自分がキリストの愛に生きているかどうかを反省すべきでしょう。

私たちは自分の家族、友人、職場ばかりか、政府のため、また世界のためにも祈るように召されています。あなたの祈りは、あなたの世界の広がりを示します。

 

3.「鎖につながれた大使として、福音の奥義を大胆に知らせる」

 「どんなときにも御霊によって祈りなさい」(6:18)を修飾するように、パウロは「私のためにも」(6:19)と付け加えます。その内容は、「私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」というものです。

そればかりか、「私は鎖につながれながらも使節(大使)の務めを果たしています・・・語るべきことを大胆に語れるように」(6:20)と付け加えられています。パウロは「福音の奥義」「知らせる」ために「大使とされている」ことを告げていますが、それは「鎖につながれて」という不思議な状態に置かれたままでの使命です。

彼はやがて当時の世界の支配者であるローマ皇帝の前に立とうとしています。彼はそこで裁判を受けるのですが、彼は自分の無実が証明されるようにというのではなく、「語るべきことばが与えられ・・・語るべきことを大胆に語ることができるように」と祈ってほしいと願っています。

大使の役割は、自分自身の立場を守ることではなく、自分を遣わした方の意思を伝えることにあります。

 

 一般的な「大使」は、国を代表する威厳をもって、派遣された国の支配者に語ります。しかしパウロの場合は、鎖につながれることを通して、「キリストを死者の中からよみがえらせ」た「大能の力」が証しされたのです。

パウロのことばが多くの異邦人に届いたのも、彼が自分の身を捨てていたその勇気が感動を与えたからとも言えます。というより、彼は自分のいのちがすでにキリストのうちにあって決して失われることがないように守られているという安心感をもとにして、福音のためにいのちを賭けることができたのです。

 

それにしても、人間的には、パウロの働きがなければキリスト教はユダヤ教の一分派に過ぎない立場に留まっていたとも考えられます。まさに彼はキリストにあってサタンに勝利したのです。

その秘訣は、彼が「神のすべての武具を身に着け」ていたからですが、この描写は彼がイザヤ59章15節後半から21節までの預言がキリストによって成就し、自分がその大使として世界に遣わされたという自覚から生まれているものです。

イザヤ59章は冒頭から、「神の愛」をこの地に証しするために選ばれたイスラエル自身が、邪悪、不正、不義、暴虐にまみれ、まさに「空中の権威を持つ支配者」の霊に従っている絶望的な状況が描かれ、それに対して神が「ご自分の御腕で救いをもたらし」と描かれます。

そこでの描写が、主は「ご自分の義を支えとされた。主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた」というものでした(16,17節)

そして、パウロは主のさばきの部分を省いて、前半の部分の描写を膨らまし、それをキリスト者の生き方に当てはめます。これはまさに、キリスト者が神から遣わされた大使として、サタンとの戦いに最前線に立たせられるということを意味します。神の最終的な復讐は、神ご自身がなされるのですが、私たちは世界に神の真実を告げ知らせる責任があるのです。

 

続く59章21節では、「これは、彼らと結ぶわたしの契約である…あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの上に置いたわたしのことばは・・・今よりとこしえに離れない」と記されます。つまり、神はご自身の霊とご自身のことばを通して、ご自身の計画を進めてくださるのです。

そしてパウロはその自覚のもとに当時の世界の支配者であるローマ皇帝のちんこの前に立とうとしていました。私たちの使命は、自分の力でサタンの勢力と戦うことではありません。残念ながら私たちは、この地で様々な不条理な暴虐の下に置かれることがあります。その中でただ、主の「義のよろい」「救いのかぶと」「御霊の剣、すなわち神のことば」の確かさを証しするのです。

サタンの最終的に滅ぼすのは神の責任ですが、私たちの責任はこの地で、サタンの脅しに屈する必要がないこと、サタンの攻撃が「キリストのうちにある者」に対しては既に無力化されていることを証しするのです。サタンが放つ火矢は、信仰の盾に刺さって、ただ燃え尽きて行くだけです。そして、このようにサタンの誘惑と脅しが無力化されることで、パウロを通して神の福音は世界に広まったのです。

 

   パウロにとって、御霊の剣としての「神のことば」は、彼自身の能力や知恵によってではなく、人々の祈りによって用いられるものでした。そして、彼は自分とエペソの信徒のとの交わりを深めるためにティキコを遣わします。そして、その最大の目的は、自分のために祈ってもらうことと同時に、エペソの人々がパウロの様子を聞いて「心に励ましを受ける」ためでした。それは、彼らがパウロのうちになされている神の恵みのみわざを聞くことができるからです。

そして、パウロは最後に、エペソの人々への祝福として、「平和」と「信仰に伴う愛」が豊かに注がれるようにと祈っています。しかも、神の「恵み」が注がれる対象に関して、「私たちの主イエス・キリストを愛する者たち、朽ちることのない愛をもって」という制限がついています。

パウロは、コリント第一の手紙の末尾では、「主を愛さない者はみな、のろわれよ」とさえ祈っています(Ⅰコリント16:22)。ただし、キリストへの愛は自分の内側から自然に生まれるものではなく、愛のキャッチボールのような信仰生活の現実の結果です。

キリストの愛を確信すればするほど、キリストへの愛が生まれ、それがまた、神の恵みを招く力となります。私たちもそのような愛の交わりの広がりにいつも目を向けたいものです。

 

宗教改革者マルティン・ルターは改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態になりました。彼はその時、詩篇46篇に慰められ、讃美歌「神はわれらが堅き砦」を記しました。これは宗教改革の進軍歌とも呼ばれますが、実際は、祈りの歌です。

そこではサタン勢力の圧倒的強さと私たちの無力さの対比が描かれ、私たちに「代わって」(「共に」ではない!) 戦ってくださる万軍の主キリストへの信頼が歌われます。

この世の人に対し、肉の力によって戦う者は、人の奴隷になってしまいます。より強い人の助けに頼らざるを得なくなるからです。サタンは、人を自分の土俵に入れて戦わせ、自分の手下を増やそうと常に画策しています。しかし、私たちは祈ることによって、彼らを、神の前に立たせることができるのです。

私たちのうちに働いている「神の大能の力」また「神のすべての武具」と圧倒的な強さは、危機状態の中で明らかにされます。この世の権力者の背後にいるサタンの力が無力化されたことが明らかにされるからです。

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