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2018年8月26日 (日)

Ⅱ列王記1章~3章 「主(ヤハウェ)は生きておられる」

                                             2018826

   マザー・テレサは、36歳のとき過労で休暇を命じられ、その途上の1946910日の列車の中で、イエスが、「最も貧しい人々の中に、わたしを運びなさい。来て、わたしの光となりなさい」と語りかける声を聴きます。

彼女はその後も、イエスが「あなたが無能で、弱く、罪深いからこそ、あなたを私の栄光のために用いたいのだ」と語りかけるのを聞き、「神の愛の宣教会」の設立を教皇に願い、1950107日に修道会が始まります。

ところが、働きが軌道に乗り出すその頃から、イエスの語りかけが聞けなくなりました。

 

後に公開されたマザーの手紙によれば、彼女は神の沈黙に深く悩み、自分の思いを次のように霊的指導者に書いています。

「私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか・・私が求めても、あなたは答えてくださらない・・私の信仰は何処に行ったのでしょう・・ここにあるのは暗闇と空虚さだけ。神は私を愛しておられる・・と教えられた。それなのに、この暗闇と冷たさと空虚さの現実があまりにも大きくて、何も私のたましいを震わせることができない。私は、間違って、聖なるみこころに盲目に従おうとしたのだろうか?」 

 「私が主を求めれば求めるほど、主は私を求めてくださらない。」 

「私は何のために労苦しているのか・・神がおられないとしたら・・私は祈祷書のことばを深く味わおうとした・・・しかし、私はもはや祈っていない・・」

 

この手紙に無神論者たちは喜んだそうです。しかし、それはダビデの祈りであり、預言者エリヤが燃え尽きの中で体験したことでした。そんな彼を神は最後に火の戦車とともに天に引き上げてくださいました。

 

1.占いに頼って自滅した王アハズヤ

 アハブは、22年間イスラエルを治め、政治的にはアラムへの勝利や近隣諸国との友好関係を保って安定と繁栄をもたらしました。それにも関わらず、彼は聖書によると史上最悪の王と呼ばれます。

イスラエルの真の「王」は、(ヤハウェ)ご自身であられ(詩篇96:10)、王の使命は何よりも神に従うことだからです。

 

アハブは、神のさばきを受けて戦いの際の流れ矢を受けて死にましたが、彼が妻のイゼベルに従ってバアルを礼拝したことの悪影響は子供に如実に現れました。

彼の子のアハズヤは二年間しか王位に留まることができませんでしたが(22:51)、それは彼自身が親に習って偶像の神により頼んだからです。

 

「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた(1:1)とは王国の衰退を示します。そのような中で、「アハズヤは・・・屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った」のですが、驚いたことに、ペリシテの地のエクロンの神に、「病気が治るかどうか伺いを立て」(1:2)させようとします。

本来なら、国が危険にさらされ、自分が病気になったのですから、謙遜にイスラエルの神ヤハウェに立ち返るべきですが、彼は占いを求めました。それは、世の多くの人々も陥り易い過ちです。

聖書の神ヤハウェは、私たちの回心(心の方向転換)を求めておられ、ときに敢えて私たちの期待に反することを行われます。しかし、そこには神の熱い招きがあります。

 

マザー・テレサしばしば神の沈黙に耐えかねて、自分の疑いや心の闇の問題を、信頼する司祭に手紙で打ち明けていました。ところが、世の占いは、すぐに何らかの答えを出してくれるものです。しかし、それは人間を愚か者にします。

マザーの偉大さは、神が沈黙しておられるにも関わらず、自分が最初に受けたと信じる神のみこころにとどまり、疑いを感じたにも関わらず目の前の責任を果たし続けたことにあります。

考えて見るなら当然のことですが、不安と孤独の渇きに苦しむことがない人が、どうして人の痛みに共感できるでしょう。また彼女が神のお告げを頻繁に聞くなら、人は彼女の指示に従うだけにならざるを得ません。神の沈黙に耐えながら人格が成長し、交わりが築かれる様子は、詩篇の祈りの中に明らかです。

 

(ヤハウェ)はアハズヤの過ちを、エリヤを通して指摘します。彼はエクロンに向かう使者たちに会いに行き、主のことばを、「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主(ヤハウェ)はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ」と伝えます(1:3,4,616)

不思議にも、このほぼ同じことばが1章に三度も繰り返されます。

 

アハズヤは、アハブが主の預言者の声に聞き従ってアラムに二度も大勝し、最後は預言者ミカヤのことばどおりにアラムに負けて死んだことを聞いていたはずです。アハズヤは、主(ヤハウェ)の預言者に国の危機と自分の病に関して尋ねることをできたはずです。

ところが、彼は自分の病気が治るという占いを求めてエクロンに使者を遣わし、その途上で、自分の死を告げる預言者エリヤからの明確なことばを聞きます。つまり、アハズヤが知りたかった未来は明らかにされたのです。

ただ、彼はそれを聞いても、父アハブがナボテのぶどう畑のことでエリヤから断罪されて主に必死に赦しを求めたようには、へりくだりませんでした。

 

アハズヤはエリヤに対し、二回に渡って50人の兵隊を送りますが、二度とも天から火が下って彼らを焼き尽くすという結果になりました。この二度とも、遣わされた五十人隊の長は、同じようにエリヤを、「神の人」と呼びながら、神を恐れる前に王を恐れて、エリヤを殺そうとする王命に従っています。

ですから、エリヤは、「私が神の人であるなら・・・」(1:10,12)という表現で、王と神のどちらを恐れるべきかを示したのです。

 

三回目に王から遣わされた五十人隊の長は、王の命令を伝えることもなく、ただエリヤにすがって命乞いをします。彼にとってエリヤは真の意味で「神の人」と思われたからです。

すると主の使いがエリヤに現れ、王を恐れる必要がないとを告げ、彼は自分から王に会いに行き、改めて王に主のさばきを伝えます。

ここにアハズヤの反応は記されませんが、もし彼が徹底的にへりくだったなら、違った展開があったかもしれません。しかしここでは、単に、「王は・・主(ヤハウェ)のことばのとおりに死んだ」(1:17)とのみ記されます。

 

 アハズヤも初代イスラエルの王サウルの場合同様、自分の罪を認める代わりに未来のことを霊媒や占いに頼って知ろうとして神のさばきを受けました。人は先祖たちの失敗から学習ができないものです。

私たちも神の沈黙に耐えながら、今なすべき責任を果たし続けるべきでしょう。私たちは迷いや疑いを通して成長します。すぐに答えを出してくれる占いに頼ることは、神に背き、自分の身に破滅を招く行為です。

 

2.火の戦車とともに天に引き上げられたエリヤ

「主(ヤハウェ)がエリヤを竜巻に載せて天に上げようとされたときのこと」(2:1)という不思議な書き出しがあります。エリヤがエリシャを後継者に任じたのは、彼が燃え尽きて神の山ホレブ(シナイ山)にたどり着いた所で主の声を聞いたからでした。

そのとき、エリシャは十二くびきの牛を使って農作業をする裕福な育ちの人でしたが、エリヤの外套をかけられ、父と母に別れを告げて、すぐに従いました(Ⅰ列王19:16,2021)

 

   エリヤはまずヨルダン川西側の町ギルガルからエリシャを伴って出ますが、それから北王国の南端にある山の上の町ベテル、その後は再び戻って低地の町エリコへと行き、またヨルダン川を渡って向こうの地に行こうとしますが、そのたびごとに、エリシャに「ここにとどまっていなさい」と言います。

しかし、エリシャは、三度とも、(ヤハウェ)は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れませんと答えます(2:2,4,6)。それはエリシャが、主がエリヤを取り上げられることを知っていたからです。

 

最後にエリヤは自分の外套をとってヨルダン川を打ち、それを二つに分けて川の東側に渡ります(2:8)。これはエリヤがモーセを継ぐような偉大な預言者であるしるしです。

そこで、エリヤの促しによって、エリシャは「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」(2:9)と願います。それは長男が弟たちの二倍の相続を受けるのと同じように、彼がエリヤの後継者となることを意味します。

エリヤモーセに相当するのであれば、エリシャヨシュアに相当します。それに対してエリヤは「私が・・取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう」(2:10)と言います。

つまり、エリシャは、エリヤが天に引き上げられる際の目撃者となることができるかどうかが、後継者としての最終的な試験だというのです。そして、それまでのエリヤの表面的な拒絶も、彼を試験するためだったと思われます。

 

そしてそこで、「火の戦車と火の馬が現われ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った」(2:11)と描かれます。エリヤは火の戦車ではなく、竜巻に乗って天に上ったのです。

エリヤと似ているのが神秘の人エノクです。創世記では、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(5:24)と記され、その意味は、「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました・・移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」(ヘブル11:5)と記されます。

 

エリヤの場合はカルメル山でバアルの預言者450人と戦った後、うつ状態に陥り、「主(ヤハウェ)よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから」と願いました(Ⅰ列19:4

彼はやっとの思いでシナイ山にたどり着きましたが、天に引き上げられるときには、「火の戦車」の迎えがありました。しかし、「火の戦車と火の馬」は、目に見えない形でエリヤを守り通していたのだと思われます。

 

私たちもこの地上では、「主よ。もう十分です・・」と言いたくなることがあったとしても、主の御使いは私たちを守っていてくださいます。私たちもこの地上では、よちよち歩きしかできませんが、エリヤを天に引き上げた主は、「号令と、御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに・・天から下って来られ、そのとき「私たちは・・雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです」(Ⅰテサロニケ4:17)と記されています。

ただしそれは、「主イエスがご自分の聖徒とともに来られるとき(パルーシア:現われ)」(3:13)という枠の中で考えるべきことです。私たちはこの世界をキリストとともに治めるために、一度、空中に引き上げられ、主を先頭にして「新しい地」に降りてくるのです。

そのとき主は私たちをご自身の栄光の姿に造り変えてくださるとともに、「新しい地」をご自身の平和(シャローム)で満たしてくださいます。そこで私たちは結果が出なかった働きの実を見て、「自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを(Ⅰコリント15:58)を確認して喜ぶのです。

 

エリヤはかつて、バアルを礼拝する王アハブとイゼベルに立ち向かい、イスラエルの背教に対する神のさばきを伝える最も古い預言者となりました。そして、エリヤが、「火の戦車」とともに天に引き上げられたことは、エリヤを通して示された「神の怒り」がイスラエルに実現することのしるしともなりました。

そして、50人の兵士たちが二回に渡って火のさばきを受けたことは、これからイスラエルに訪れる厳しいさばきの予兆でした。

神は、預言者たちの預言者としてのエリヤを火の戦車で引き上げることによって、ご自身のさばきをも知らされたのです。この後のイスラエル王国はまさに坂道を転がり落ちるように破滅に向ってゆきます。

 

エリヤが天に引き上げられたことは、彼が再び現れることを示唆します。旧約最後のマラキ書では、主ご自身が、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マラキ4:5)と語っておられます。

エリヤの名は「ヤハウェは神」ですが、エリシャには「神は救い」という意味があり、これは「ヤハウェは救い」というヨシュア(ギリシャ名でイエス)と基本は同じです。その後を見ると、エリシャの働きにはエリヤにまさるものがあります。

エリヤは救い主の到来の前に人々を悔い改めに導くために再び現れるはずでしたが、それはバプテスマのヨハネにおいて成就しました。

そして、エリヤがエリシャに油注いだと同じように、バプテスマのヨハネはイエスに洗礼を授けました。またイエスは、ご自身の火によるさばきを遅らせて、一人でも多くの罪人を悔い改めに導き、神のみもとに引き上げようとしておられます。

 

シャガールはチューリッヒの教会のステンドグラスにおいて、エリヤがこの火の戦車とともに引き上げられる姿を真っ赤に描き、エルサレム崩壊に至るイスラエルの悲劇の幕開けとして表現しています。

しかし、その対面にはモーセが律法を受け取ってからイザヤの「新しい天と新しい地」の預言の平和の完成に至る全体像が青く描かれています。それは神のビジョンを表わす色です。

2001911日のニューヨーク貿易センタービルの悲劇の同じ月に、私はそのステンドクラスの下に座りました。その正面を見ると、赤い窓にこの青い窓が映っているのが見えました。それを通して、地上の悲劇を、聖書全体に記された神の救いのご計画の全体像の一コマとして見るという視点が迫ってきました。それこそ、悲劇を通ったユダヤ人シャガールの視点でした。

エリヤのテーマは、「主は生きておられる」です。私たちが直面する様々な赤い悲劇も、神の救いを表わす青いビジョンの中で見直すことができるのです。エリヤは自分しか見えないとき死を願いましたが、今、生きたまま天に引き上げられ、神の視点からイスラエルの歴史を見るように招かれました。

私たちも今、聖書を通して、天に引き上げられたエリヤの視点からこの地の歴史を見ることができます。

 

3.予想に反することが起こる時代の幕開け

エリシャはエリヤが天に上ってゆく様を見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けます(2:12)。後に同じことばがイスラエルの王ヨアシュから病床のエリシャに呼びかけられます(13:14)。ですから、これはエリヤが神の軍勢とともに、目の前から消えてしまうことを嘆いたことばと理解できます。

その後エリシャは自分の衣を二つに引き裂き、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げます。そこには悲嘆とともにエリヤの後継者となるとの使命感が見られます。

そればかりか、「彼は・・ヨルダン川の岸辺に立った・・エリヤの・・外套をとって水を打ち、『エリヤの神、主(ヤハウェ)はどこにおられるのですか』と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った」と描かれます(2:1314)。これはヨシュアがヨルダン川を渡って約束の地に入ったことを思い起こさせます。

エリコの預言者たちは、「(ヤハウェ)の霊がエリヤを運んでどこかの山か谷に投げたかもしれません(2:16)と言って、三日間も彼を捜しますが見つけられませんでした。ただこれによって、主がエリヤを天に引き上げ、エリシャを代わりに立てたことが明らかになりました。

 

その後、かつてヨシュアエリコを滅ぼしたこととの対比を示すように、エリシャがのろわれた町エリコの水を良くするという奇跡が描かれます。

そこで主のことばが、「わたしはこの水を癒した。ここからは、もう、死も流産も起こらない」と告げられます(2:21)エリコを滅ぼした主が、エリコに新しい時代を開いてくださいました。これは新しいヨシュアであるイエスによって異邦人への救いが開かれることを指し示します。

 

一方で、ヤコブが神から、「わたしはあなたとともにいる」という保証を受け、その場所をベテル(神の家)と呼んだ(創世記28:15,19)その町で、恐ろしい悲劇が起こりました。

エリシャをからかって、「上って来い、はげ頭」と言った子供たちを、彼が「にらみつけ、主(ヤハウェ)の名によって‥のろった」ところ、42人の子供が二頭の雌熊に襲われたというのです(2:23,24)

これは理不尽とも感じられますが、このベテルでは金の子牛が拝まれており、子供の声はこの町の代表としての声でもありました。それはやがて神の都エルサレムの滅亡のとき、子供が何よりも悲惨な目にあったことの前触れとも言えましょう。このポイントは本来の祝福の町の祝福のシンボルである子供たちに対するさばきを通して、神のさばきを予告することにあったのです。

 

   3章ではアハブの子のヨラムがイスラエルの王として就任し、12年間治めることが記されます。彼はアハブやイゼベルほどに悪い王ではありませんでしたが(3:2)、アハブと同盟を結んでいたユダの王ヨシャファテを誘ってモアブとの戦いに挑みます。

その際、ユダに従うエドムの王をも誘い込み、三王国連合でモアブを攻撃しようとします。ただ、死海の南を迂回する遠回りのルートのため、水の不足に悩まされます。

 

このときヨラムは二回もほぼ同じ表現で泣き言を、「主(ヤハウェ)がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」(3:10,12)と述べます。

それに対しヨシャファテは、「ここには主(ヤハウェ)のみこころを求める・・・預言者はいないのですか」と尋ねます(3:11)。ヨラムはわざわいの原因を主に求める一方で、ヨシャファテはすべての状況を転換できる生ける主を求めました

そのときエリシャが召されて、「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目を留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう」(3:14)とヨラムに告げます。

 

エリシャは竪琴に合わせて預言し、「この涸れた谷にはたくさんの水がたまる(3:16)と言います。これによって水の問題が解決したばかりか、モアブの王は、水に太陽が赤く反射するのを見て、これは三王国の同士打ちの血だと誤解し、イスラエルに攻めかかり敗北します。

そのような中で、モアブの王は自分の長男を全焼のささげ物としたというのです(3:27)。モアブの神はケモシュですから、「自分の子どもを・・火の中を通らせてモレクに渡す」(レビ18:21、Ⅱ列王16:3)というモレク礼拝とは異なるはずですが、「ケモシュの前で子供を全焼のささげ物とした」という碑文が存在するように、子供をいけにえとする風習はカナンに広がっていました。

このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった(3:27)とあるのは、主の怒りではなく、モアブ人の怒りだと思われます。それがモアブの兵士たちの士気を上げ、イスラエルの連合軍は撤退を余儀なくされたということです。三王国連合の勝利は主の奇跡でしたが、それに対しモアブの王は最も忌まわしい劇的な偶像礼拝で対抗しました。それはここに霊的な戦いの恐ろしさが描かれます。

 

神の敵は今、最後の悪あがきをしています。神の救いのみわざが明らかになるとき、同時にサタンもそれに対抗するように偶像礼拝者たちの怒りを引き起こします。神のみわざを喜ぶ直後に闇がこの世を覆うという現実が起こります。地上に様々な問題がはびこっているのはそのためです。

黙示録も世の終わりが近づくに従って敵の攻撃が激しくなる様子を描きます。しかしパウロは、「夜は深まり、昼が近づいてきました」(ローマ13:12)と言いつつ、暗闇が深くなることを、救いのときが近づいているしるしだと説明しました。

 

   マザー・テレサは「神の沈黙」に耐えながら、神を慕い求め続けました。彼女はやがて、神ご自身が自分の中にそのような渇きを起こしておられると分りました。そして彼女は、貧しい人々たちの笑顔に、感謝のことばに、神の応答を見るようになります。

神の沈黙は、彼女を貧しい人々に向わせる神の招きでした。

 

あなたの心に渇きを起こしておられるのは神ご自身です。そして、どんなに世が暗く見えたとしても、それは昼が近づいているしるしと見ることができます。暗闇は神の不在のしるしではなく、神の招きです。それは地上を離れて太陽に近づけば近づくほど、反射するものがなくて暗くなるのと同じです。

暗闇の中にある神のみわざを認めて、今ここで喜ぶことができます。エリヤでさえ主の救いを遠く感じて嘆きました。しかしその生涯の終わりには、「主(ヤハウェ)の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される(詩篇34:7)という約束が実現していたのが明らかになりました。

それはあなたにも起きている現実です。

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2018年8月19日 (日)

Ⅰ列王記20章~22章 「主(ヤハウェ)の怒りを引き起こす生き方」

                                   2018819

   聖書に記される悪王の代表はアハブですが、彼が今の日本にいたら尊敬を集めたかもしれません。明らかな罪に関しても、「奥さんのせいで・・・」と言われ同情を集めたことでしょう。彼は北王国七代目の王で、王家が頻繁に代わり混乱していた王国に安定と繁栄をもたらしました。

彼の生涯をまとめた2239節の「彼が建てた象牙の家、彼が建てたすべての町」という表現は他の王たちには記録の仕方です。

そればかりか、アッシリア王国の記録にも彼の名が登場し、紀元前853年には、アラムの北のハマテのさらに北にあるカルカルの戦いでのアッシリア帝国の南下を阻止する中心勢力として活躍しています。ただ、それは神が特別にアハブをあわれみ、北のアラムとの二度の戦いに勝利させてくださったおかげでした。

 

彼はシドンの王女イゼベルを娶って地中海沿いの都市国家と同盟関係を強め、また南のユダ王国の模範的な王ヨシャパテの家とも縁を結びました。彼は周辺の国々との宗教的融和をはかり、その場の状況に柔軟に対応し続けていました。

しかし、彼の記録の最初の1633節では、「こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますます、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の怒りを引き起こすようなことを行った」と描かれています。

実は、彼こそが南王国滅亡の道を開いた張本人とも言えます。アハブとイゼベルの娘アタルヤが南王国ユダの王家に嫁いでそこに偶像礼拝を持ち込むことになるからです。

 

1.「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから・・・」

   アハブは王都サマリアにバアルの宮と祭壇を築き、女神アシュラの像も造りました。それが「イスラエルの神、主(ヤハウェ)の怒りを引き起こ」します(16:31-33)。その結果、イスラエルの地に三年間の飢饉が訪れました。

その飢饉を終わらせたきっかけは、エリヤがカルメル山でバアルの預言者450人に劇的な勝利を修めたことにありましたが、エリヤのことばに従って彼らを集め、その舞台を設定したのはアハブ王自身でもありました。アハブはこのとき誰よりも、(ヤハウェ)の御力に圧倒されたことでしょう。

しかし、彼がバアルの敗北を妻イゼベルに伝え、彼女がエリヤの命を狙ったとき、アハブは黙って妻に従ったように思われます。

 

その頃、彼は北のアラムからの攻撃に悩んでいました(15:20)。アラムはその北のアッシリアの圧力に対抗するために、イスラエルを完全な属国にしようとしていました。そしてついに王ベン・ハダテはサマリアを包囲するまでに迫りました。

このときアハブは自分の劣勢を素直に認め、無益な戦いを避けようと、「この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです」(20:4)服従を誓います。何と柔軟なことでしょう。

しかしアラムの王は、家来を遣わして好き放題に略奪すると通告します(20:6)。これでは国が立ち行きません。アハブは切羽詰り、国の長老たちを集め、アラムとの戦いを決意します(20:78)。アラムの王はサマリアを跡形もなくすると警告します(20:10)

それに対しアハブは、「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」と、戦いは終わってみないと分らないという趣旨の賢い言葉で応じます(20:11)。アハブは愚かではありませんでした。一方、アラムの王は酒を飲みながら戦いの開始を告げるほど傲慢でした。

 

   そこに「一人の預言者」がアハブに遣わされます(20:13)。エリヤはかつて、「イスラエルの子らは・・預言者たちを剣で殺し・・ただ私だけが残りました」と大げさに主に訴えていましたが(19:10,14)、主は別の預言者を確かに残しておられました。

そして主は彼を通してアハブに、「あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ。わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主(ヤハウェ)であることを知ると言われ、彼が、「それはだれによってでしょうか」と尋ねると、「諸州の首長に属する若い者たちによって」という答えがありました(20:1314)

「若い者」とは「未熟な者」というニュアンスがあります。彼らの総数は232人で、その他の民の総数も七千人しかいませんでした。一方、アラムの軍は32人の王」による大軍勢でしたが、王は酔っ払いながら、イスラエル人をみな「生け捕りにせよ」という無理な要求を部下たちにするほど、彼らの戦力を侮っていました(20:16,18)

一方、イスラエルの若い者たちは「それぞれその相手に打ち勝った」とあるように勇敢に戦い、その結果、「アラム人は逃げ・・・ベン・ハダドは馬に乗り、騎兵たちと一緒に逃れた」という大勝利になりました(20:1920)。これはもちろん、主がもたらした勝利でしたが、アハブが素直に預言者のことばに従った結果とも言えましょう。彼の柔軟さは、何とも感心するほどです。

 

   その後、「あの預言者」がアハブに、「来年の今ごろ、アラムの王が・・攻めに上って来る」と告げます(20:22)。一方、「アラムの王の家来たち」は、サマリアの町が山の上にあったことから、「彼らの神々は山の神です」と言いつつ、平地で戦うなら勝利できると言います。そしてアラムの王は、王たちの代わりに総督を立てるという指導体制を敷いて、ガリラヤ湖の東側のアフェクにまで陣を進めてきました(20:22-26)

これに対抗してイスラエルも陣を敷きますが、そこに「一人の神の人が近づいてきて」、アハブに「アラム人が、主(ヤハウェ)は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主(ヤハウェ)であることを知る(20:28)と告げます。

この最後の文は13節とほぼ同じで、ここに主(ヤハウェ)が、アハブとイスラエルを助けることの目的が記されています。

 

両軍が向かい合って七日目になって、戦いが始まり、イスラエルは「一日のうちにアラムの歩兵十万人を打ち殺した」ばかりか、生き残った27,000人の上にアフェクの「城壁が崩れ落ち」ました(20:29,30)。これはかつてのエリコの戦いの再現のような大勝利でした。

そこで、アラムの王の家来たちは、「イスラエルの家の王たちは恵み深い王である、と聞いています」とベン・ハダドに告げ、自分たちの首に縄をかけるという姿で、アハブに命乞いをします(20:31)。このときアハブはこれが主(ヤハウェ)の戦い、主の勝利であったことを忘れ、相手の低姿勢に気をよくし、主のみこころを伺うことなく、勝手に和議を結びます(20:34)

それは奪われていた町々が帰ってくることと、ダマスコでイスラエルが市場を設けることができるという条件が魅力的に思えたからです。しかも、王を殺してしまってはアラムの国に混乱が起き、市場で利益を得るということの障害になります。アハブは戦いの本来の意味などよりは、目の前の経済的な利益を優先して考えました。

 

   そこに「預言者の仲間の一人が、主(ヤハウェ)のことばにしたがって」登場し、自分の仲間に「私を打ってくれ」と願いますが、彼がそれを拒絶すると「あなたは主(ヤハウェ)の御声に聞き従わなかったので・・すぐ獅子があなたを殺す」と警告し、その通りになります20:3536

その後、この預言者は別の仲間に、敢えて傷を負わせてもらい、目の上に包帯をし、通りかかった王に向って、戦争捕虜を逃がした罪がどのように裁かれるべきかを問います。アハブは問いの意味を理解しないまま、それが死刑に価すると断言します。

 

するとこの預言者は、主(ヤハウェ)のことばとして、「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる」と伝えます(20:42)

すると「王は不機嫌になり、激しく怒って、自分の宮殿に戻って行き」(20:43)と描かれます。彼の反応は極めて幼児的です。これだけ明確に過ちが指摘され、また彼自身もそれを認めざるを得ないはずなのに、主の御前に遜ろうとはしません。ダビデが預言者ナタンから罪を指摘されたときとは正反対です。

アハブは、かつてカルメル山で、恐るべき主からの火を見ても、またこれほど圧倒的な主の救いを見ても、イスラエルの真の王が主(ヤハウェ)であることを認めようとはしませんでした。

彼は自分の損得勘定ばかりを見ています。彼は身の危険が迫ると驚くほど柔軟に現実に対処します。しかし、主から与えられたものは、自分で獲得したと思ってしまいます。脅しには敏感に反応し、受けた恵みはすぐに忘れる。それこそがアハブでした。

 

2.「アハブのように、裏切って主(ヤハウェ)の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。」

 「これらのことがあった後のことである」(21:1)とは、アハブがアラムに対する二度の大勝利によって権力の絶頂期にあったときです。これらの戦いはそれぞれ紀元前855年、854年で、その翌年の853年に冒頭に記した、アッシリアの王をカルカルでアハブが12の王国の連合軍として迎え撃った、という戦いがあったと思われます。

そのときアハブは連合軍の戦車隊の半分の2,000の戦車を率いていたとアッシリアの記録に残されています。それが記録されないのは、聖書の物語が神と人との関係に焦点を合わせるからです。

 

ところでこのとき、アハブイズレエルにある冬の宮殿のそばにあるナボテぶどう畑が欲しくなり、取引を申し出ます。これは当時のカナンの王国の常識では聞き届けられるはずのことですが、ナボテは、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主(ヤハウェ)にかけてありえないことです」(21:3)と拒絶しました。イスラエルの真の土地の所有者は主(ヤハウェ)であり、管理を任されているに過ぎない土地を商品のように扱うことは律法に反したからです。

アハブは民衆の手前、何も言えなくなり、先と同じ幼児的な反応を示し、「不機嫌になり、激しく怒って、自分の宮殿に入った」ばかりか「寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった」ほどになります(21:4)

それを見た妻のイゼベルは、母親のように振る舞い、「今、あなたはイスラエルの王権を得ています・・・この私が・・・手に入れてあげましょう」(21:7)と即座に答えます。シドンの王女の感覚では、王が家臣の拒絶に黙って引き下がるなど、あってはならないことと思えたのでしょう。

 

それにしても彼女は、ナボテを死刑にするためには、イスラエルの律法を巧妙に利用します。アハブの名でその町の長老たちに手紙を書き、ナボテを民の前に引き出し、偽証者をふたり立てさせ、彼に向かって「おまえは神と王を呪った」と証言させ、彼を石打にして殺すように謀ります(21:8-14)

これが実行された後、「アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って・・ナボデのぶどう畑を取り上げようと下って行った」と記されます(21:16)。そこに彼の狡さが見られます。彼が最初、ナボデに反論しなかったのは、自分の評判を気にしたからです。イゼベルはその気持ちを忖度して、悪役を買って出たのでしょう。

この構造は、ダビデがウリヤを死に至らしめたときのことに似ています。彼はバテ・シェバが欲しくなり、彼女を自分のものにしました。しかし民衆の手前、律法に公然と違反するわけにいきません。それで偽装工作を謀りますが、失敗すると汚い計略を思い付き、それを将軍ヨアブ実行させ、その実だけは自分で受け取りました。

 

罪の構造はすべて似ています。「隣人のものを欲しがってはならない」という教えに逆らい、「盗んではならない」という教えを軽蔑し、策略を謀ります。しかし、十の教えの趣旨は、権力者が社会的弱者の権利を平気で侵すことを戒めるものでした

しかも彼らはイスラエルの長老たちをこの罪に招き込み、「偽りの証言をしてはならない」という教えを破らせてナボテを罪に定め、「殺してはならない」という教えを破りました。王が自分の権力を使って人に罪を犯させるなどというのは主(ヤハウェ)が最も忌み嫌われることです。

 

そのとき主のことばがエリヤにくだり、アハブに、「あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか・・犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる」(21:19)と告げるように命じられます。

このときアハブはエリヤに会うと、「おまえは私を見つけたのか。わが敵よ」(21:20)と言います。彼は自分を見つけ出される側に置いています。それはエリヤの力を恐れていたしるしです。アハブの心はいつも恐れにとらわれていましたが、最も恐れるべき方、主(ヤハウェ)を忘れていました。

エリヤはそれに対し、「私はあなたを見つけた。それはあなたが主(ヤハウェ)の目に悪を行なうことに身を任せた(自分を売った)から」(21:20私訳)と答えます。

2121節以降は、主ご自身がエリヤの口を通して語ったことです。そこにはアハブの家の滅亡と、妻イゼベルの肉がイズレエルで犬の餌となると預言されます(Ⅱ列9:36で成就)

 

   そして「アハブのようなものは誰もいなかった、主(ヤハウェ)の目に悪を行うことに自分を売ったものは。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである」(21:25私訳)と記されます。この夫婦はイスラエルでは悪人の代名詞のようになっていますが、罪の主導権は妻の方にあったというのが示唆に富んでいます。

しかも、2025節で、悪を行うことに自分の身を任せたことを、サタンに自分を売ったかのように描かれています。 

   

それに対し、「アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食した。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた」(21:27)というのです。彼は無節操な人間の典型でしょうが、目の前の危機を敏感に嗅ぎ分け、それに柔軟に反応する能力が際立っています。

しかし、自分が何のために生かされているかという使命感に関してはまったく無頓着です。日本人に極めて多いパターンかも知れません。

ところが、それを見た主はエリヤに、「彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない(21:29)と、アハブ家の滅亡を遅らせると告げます。それは「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22,23)とある通りです。

しかし、アハブはこの恵みを理解できたのでしょうか。ダビデの悔い改めとは対照的に、彼の基本的な態度はその後も変わりません。彼は驚くほど主の恵みをたくさん受けますが、いつもそれを無駄にします。

 

3.「彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります」

   イスラエルがアラムと契約を結んで三年間、両国の戦いはありませんでしたが、アラムは二度の敗北にも関わらずヨルダン川東側にある国境の町ラモテ・ギルアデを返還してはいませんでした。それでアハブはユダの王ヨシャファテの助けを受けてアラムに戦いを挑もうとします

なおヨシャファテは敬虔な王アサの息子で、父の「道に歩み・・(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」(22:43)と記される王でした。ただし、彼はアハブの第四年に王となり、同時代を生きながら、安全保障上の理由から北王国との友好関係を保つことに気を配りすぎ、アハブの娘を自分の息子のために娶るなどということをしてしまいます(Ⅱ歴代18:1)

 

オネエはイスラエルを訪問しアハブの提案を聞きますが、その際、「まず(ヤハウェ)のことばを伺ってください」(22:5)と頼みます。するとアハブは、約四百人の預言者を召し集めますが、これはカルメル山の戦いに出なかったアシェラの預言者である可能性もあります(18:19参照)

それに気づいたヨシャファテは「ここには・・(ヤハウェ)の預言者が、ほかにいないのですか」と尋ねます(22:7)。するとアハブは、「ほかにもう一人、主(ヤハウェ)に伺うことができる者がいます」と言いながら、「私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです」とも言います。

ヨシャファテがその言い方を窘めると、アハブはイムラの子ミカヤを召し出します(22:7-9)。まさにエリヤのような預言者が残っていたのです。

 

そのとき「ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って」、「主(ヤハウェ)はこう言われます」「これらの角で・・アラムを突いて、絶ち滅ぼさなければならない」と告げます(22:11)。そして他の預言者も同じように預言し、「(ヤハウェ)は王の手にこれを渡されます」と告げました(22:12)

しかも、ミカヤを呼びに行った使いの者でさえ、「あなたも・・良いことを述べてください」と依頼するほどでした(22:13)。彼らは預言のことば自体に将来を開く力があると思っているかのようです。

これは日本人にも馴染みのある「言霊(ことだま)思想」に似ているのかも知れません。語られたことばに力が宿って、その言葉通りのことが実現するという考え方です。

しかし、それは預言者の使命は未来を拓くことよりも、神のことばを伝えることにあります。預言は人間的な発想を正すためにこそ必要なのです。ところがアハブはそれを聞く耳がありませんでした。

 

  ミカヤは王の前に出るとまず、他の預言者を真似た調子で、「攻め上って勝利を得なさい。主(ヤハウェ)は王の手にこれを渡されます」と言います(22:14,15)。アハブはそこに彼の皮肉があるのをすぐに理解し、「私が何度おまえに誓わせたら・・主(ヤハウェ)の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」と言います。

それでミカヤが、「全イスラエルが・・羊飼いのいない羊の群れのよう・・」と言うと、アハブはヨシャファテに向って、「彼は私について・・悪いことばかりを預言する」と不満を分かちます(22:16-18)。まさに、「私は真実を聴きたい・・」などと迫る人に限って、真実を聞く耳を持っていないということの見本です。

 

  それにしてもミカヤは続けて、天の御座で起きたことを述べます。それは、主(ヤハウェ)ご自身が、「アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか」と問いかけ、それにしたがって、「ひとりの霊」が、「彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります」と答えたというのです(22:20-22)。つまり、ミカヤの先の行動は、偽りを言う預言者として振舞って見せたということだったのです。

これを聞いたゼデキヤはミカヤの頬を殴りつけます。彼が怒ったのも当然のことでしょう。神は偽りを敢えて言わせるというのでしょうか?

ただ、かつてサウルに関して、「主(ヤハウェ)の霊はサウルを離れ、(ヤハウェ)からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(Ⅰサムエル16:14)という不思議な記述がありました。それと同じことがここで起こっています。しかし、彼らは何よりも、自分の方から主の語りかけに耳を塞いだということを忘れてはなりません。

 

   その後、アハブはヨシャファテに、「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは、自分の王服を着ていてください」(22:30)という卑怯な提案をします。ヨシャファテはそれに従い、一度はイスラエルの王と間違われて攻撃を受けてしまいますが、主にあって逃げ切ることができました。

一方、アハブには何気なく放たれた矢が鎧の隙間を突き抜け、致命傷となります。しかも彼の血は戦車の中に流れ、それをサマリアの池で洗うことで、彼の血を犬がなめることになるというエリヤの預言が成就します(22:34,38)

アハブはミカヤの預言を偽物と断じながらも、それを恐れていたのではないでしょうか。それなら、主にきちんと向き合ってみこころを求めるべきなのに、中途半端な偽装工作で主のことばから逃げようとしただけでした。

 

   アハブはこの世的には成功者に見えましたが、いつもその場かぎりの危機対応に柔軟であったばかりで、長期的なヴィジョンを持ってはいませんでした。アハブの心は私たちの中にも生きています。

この世との融和ばかりを計って、「(ヤハウェ)の怒りを引き起こす」生き方では、「のろい」の源となってしまいます。

 

私たちの主イエスは、その公生涯の初めに四十日間の悪魔の誘惑を受けられました。それは創造主である神を忘れてパンを求めること、悪魔を拝むことと引き換えにこの世の権力と栄光を手にすること、また奇跡によって人々の称賛を得ようと、主人であるはずの神を、思い通りに動かそうとすることでした。

そして、アハブの行動の根本が「悪を行うことに自分を売った(身を任せた、自らを裏切った)(21:20,25)と描かれていますが、それは経済的繁栄、この世の権力、人々の称賛の三つのためにサタンに身を売った生き方でした。

 

一方、私たちの主イエスは、自らすべてを失う十字架の苦しみを忍びました。しかし、神はイエスを三日目に死人の中からよみがえらせ、すべての名にまさる名を与え、彼を「王の王」、「主の主」として立ててくださいました。

私たちの内側には、アハブの心とキリストの心との戦いがないでしょうか?私たちの真の敵は、この心の内側に住んでいますが、アハブの歩みを見ると、敵の実体が良く見えてきます。私たちの勝利は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」(ヘブル12:2)ことから生まれるのです。

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2018年8月12日 (日)

エペソ3章8節~6章24節「奥義の実現のための霊の戦い」

                                  2018812

私たちはみな、自分にとっての「常識」の枠で他人を「さばく」ものです。そして、「これはできて当然で、できないのはやる気がないから・・」などということがあります。

使徒パウロがユダヤ人から命を狙われたのは、「神の民」となるための基準を下げたからとも言えます。ところが後のキリスト教会は、ユダヤ人が自分たちの生活習慣に固執し、キリストにある自由を受け入れようとしないことを非難し、彼らを迫害しました。キリストの十字架を「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊す」ものとして理解できているかが問われます(2:14)

 

福音自由教会での会員受け入れの条件に「believers only but all believers(信者のみ、しかし、すべての信者)」という原則があります。ただ、「信者」の枠が人によって違います。

プロテスタント教会は洗礼や聖餐式、神の選びに関しての議論で分裂を繰り返してきました。最近は政治やLGBTも争いの種になり得ます。違いを許し合えなくさせるのはサタンの働きです。イエスを愛することにおいて一致できるなら幸いです。

 

1.神はただひとりで、すべてのものの父です」

   この書の鍵は1章9,10節の、「神は・・・みこころの奥義を知らせてくださいました・・・それは、一切のものが、キリストにあって(をかしらとして)、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」にあります

それは、「キリストにある再統合(recapitulation)とも言われます。

 

さらにパウロは3章8,9節で、「キリストの奥義」と自分の「務め」の関係を、キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、奥義の実現(計画の全体像、エコノミー)が何であるかをすべての人に明らかにするため」と記しますそれは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」とあるように、異邦人も含めたすべての人間の創造のときという原点に立ち返らせます。

神は私たちの父祖のアダムとエバをその罪のゆえにエデンの園から追い出しましたが、今、「キリストをかしらとして一つに集められる」のです。

 

そして彼は、「この方にあって、私たちは確信をもって大胆に神に近づくことができます。それはこの方の真実によるのです。ですから、落胆することのないようお願いします、私があなたがたのために苦難に会っていることに関して。それはあなたがたの光栄だからです」(3:12、13私訳)と述べます。

私たちは、自分の信仰によってではなく、「キリストの真実によって」、「大胆に神に近づく」ことができます。私たちの信仰は、「キリストの真実」の反映にすぎません。しかも彼は、自分の苦しみの背後に、異邦人に「光栄」に満ちた救いをもたらそうと願うキリストご自身の熱い思いがあることに気づくようにと諭しているのです。

 

3章14節からパウロの祈りが記されますが、その始まりは、このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめますと記されます。私たちは「御怒りを受けるべき子(2:3)と呼ばれた状態から、「神の子」とされました。

そして15節では、「その方によって、諸々の天と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。ここにはギリシャ語での言葉遊びが見られます。御父」はパテラ、「家族」はパトリアと呼ばれますから、「家族(パトリア)という呼び名は「御父(パテラ)」に由来すると記されているのです。

なお「家族」とは「民族」とも訳すことができますから、ユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが意図されています。

 

祈りの内容は、「どうか御父が・・その聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように(3:16)というもので、それが「キリストをあなたがたの心のうちに・・住まわせてくださいますように」と言い換えられ、それによって「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解して、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と描かれます。

つまり、「内なる人が強くされる」とは、キリストの愛の全体像を理解できるようになることなのです(3:17-19)。最初のアダムは神の競争者になろうとして世界を混乱させましたが、私たちはキリストの愛を心の底から知る結果として「神の満ち溢れる豊かさにまで」「満たされ」るというのです。

ただし、それは個々人の内的な霊的成熟というより共同体の中に現わされるので、「この方に栄光がありますように、教会のうちにあって」(3:21)との頌栄でまとめられます。

 

4章1-3節の中心的な命令は、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」です。これは、「一致を作りましょう!」という勧めではありません。日本ではそれが互いを委縮させ、各人の主体性を抑圧する雰囲気の原因となりますが、ここでの勧めの中心は、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」であることです。

しかも、「御霊の一致」とは、「御霊」のみわざとしての「一致」です。私たちは目の前の問題の解決に忙しくなり、「謙遜と柔和の限りを尽くし」という大原則を忘れがちです。これはキリストと聖霊のみわざを忘れることがないように、主の恵みを覚え続けることに「熱心」であるようにという「勧め」と理解すべきでしょう。

 

パウロは続けて「御霊による一致」を、七回の「ひとつ(ひとり)という表現で描きます(4:4-6)。「からだは一つ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会の存在を認めることですが、それは「一つの御霊」の働きです。

そこにはすべてのキリスト者の「望みが一つ」であるという希望の共有があります。たとえば、ユダヤ人と異邦人、韓国人と日本人との間には、悲しい過去がありますが、神の民として「召された」という点では、共通の「望みのうちに生かされています。

また私たちにとっての「主はひとり」のイエスのみであり、基本的な「信仰」告白も「一つ」として共有され、生涯「一つのバプテスマ」しか受けません。

そして、教会組織が違っても互いの存在や違いを尊重することができるのは、「神はただひとり」であり、その方は「すべてのものの父」であり、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ」るという原点があるからです。

私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。普遍的な教会を信じる原点は、まさに「すべてのものの父」から始まります。

 

2.「キリストのからだとしての成長」

411節では、普遍的な教会の専任の働き人のことが描かれますが、それは8節の「彼は・・人々に贈り物を与えられた」ということばを前提として、「使徒、預言者、伝道者、牧師または教師」がキリストご自身からの最高の「贈り物」として描かれます。

具体的には現代の「牧師」の責任は、一人ひとりが喜んで「キリストのからだを建て上げる」という目的のために「奉仕」に励むことができるように「整える」ことです。

 

ここではその目的が、「神の御子に対する信仰と知識において一つになることに達すること」と同時に、「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること」(4:13)と記されます。

先には、既に与えられている「御霊による一致を保つことが求められましたが、ここでは、「一致に達する」という目標が描かれます。残念ながら、今も昔も、様々な信仰のスタイルや聖書解釈があります。

そのような中で、牧師または教師に求められているのは、何かの目新しいことを教えるのではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた信仰と教えに聖徒たちの目を向けることです。

 

それは同時に、「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく4:14と描かれますが、誤った「教え」の背後には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略」があります。

それで15節では、「愛において真実となり、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」と記されますが、これは愛において」福音の真実を明らかにし、誤った教えを正すと理解できます。何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。

 

しかも、ここでの「成長」は16節では、「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされると言い換えられます。「成長を生み出すのはキリストご自身であり、それはキリストのからだとして「成長して、愛のうちに建てられることが目標です。

ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。

また、「あらゆる節々を支えとして」という表現は、以前は「備えられたあらゆる結び目によって」と訳されていたように、一人ひとりにすでに「結び目」が備えられており、愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、一人ひとりのユニークさが生かされる形で、それぞれの主体性をもとに喜びのうちに生み出されるという意味です。

そのことがさらに、「それぞれの部分」である各人の、「その分に応じた働き(エネルゲイヤ)がなされることよって、「成長して愛のうちに建てられる」と描かれます。

 

組織的には極めて未熟に見えながら、不思議に一人ひとりの目が群れの欠けた所に向かい、満たされるという共同体こそ、キリストのうちにある神秘体です。

その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!そこに聖霊のみわざがあります。

 

3.古い人を脱ぎ捨て・・神にかたどり造られた新しい人を着る」

   4章22-24節でパウロは、キリストのうちにある生活の変化を、「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」という、既に起こった立場の変化として描きます。それは古いアダムの生き方を捨て、キリストをその身に着ることで、バプテスマはそれを象徴する儀式でした。

その際、水から上がった直後に、新しい衣服を着させてもらうという習慣もあったようです。それは、奴隷の衣服を脱ぎ捨て、王家の衣服を身に着けるようなことです。

ただし、心の底では奴隷根性から自由になることがなかなかできません。その変化のきっかけは、「心(思い)霊において新しくされ続ける」(4:23)ということです。これは、先に、「むなしい心(思い)(4:17)と言われた状態から変えられたことによります。もともと人は、自分の肉の意思で、「新しい人」であるキリストを「着る」のではありません。創造主である御霊が、その変化を起こしてくださいました。

ところが私たちは、神が起こしてくださった変化を忘れ、古い生き方に逆戻りしそうになります。「(思い)」がその変化について行かないからです。そこで必要なのは、私たちが既にバプテスマを受け、キリストをその身に着け、死の中からよみがえって、新しい歩みに入っているという霊的な変化の事実を繰り返し思い起こすことです。

 

   私の心を長らく支配していた感情は、アルコール依存やギャンブル依存と同じような自己嫌悪と全能感の繰り返しでした。何かあるたびに、「馬鹿にされてたまるか・・・」という意地が自分を駆り立て、うまく行くと、「そら、見たことか!」と自分を誇ります。

私たちは自分の行動を動かす感情の力を謙虚に認める必要がありますが、それは困難なことです。実は、自分を弁護する必要を感じているということ自体が、その人の心が人の評価に左右されていることの最大のしるしです。そこで、大切なのは、自分のうちに沸きあがってくる昔ながらのアダムの感情を正直に認め、それが生まれることを神に告白しながら、神が私たちのうちに起こしてくださった変化に、感情がついて来るように待つことです。

それには時間がかかります。ただ、感情は、時と共に、意思と行動によって変えられてくるものです。心が神の救いのみわざに向けられ、神と隣人を愛するという具体的な行動に自分の意思を向けて行くときに、必然的に、神の平安がついてきます

 

4章26節は、「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません。あなたがたが憤っている状態の上に、日を沈ませてはならない」と訳すことができます。私たちには怒るべき時があります

ただそれが人間関係を破壊する激しい憤りに向かってはなりません。それで、ここでは「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と警告されます。人の怒りの感情の中に悪魔は巧妙に入り込み、他者の人格否定を生み出すからです。

 

4.「神に倣う者となりなさい。御霊に満たされなさい」

   5章1節では、「神に倣う者となりなさい」と、不可能と思えることが命じられます。それはキリストに倣う生き方でもあります。それと対極にある生き方が、淫らな行い、あらゆる汚れ貪りで、原文の語順ではそれが最初に来て、「あなたがたの間では、それらを口にすることさえしてはいけません。聖徒にふさわしく」と記されています(5:3)

そしてさらに、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」(5:8)と勧められます。そこでは、「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。

 

その上で、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)と命じられますが、これは一人ひとりが誰かに命じられて行動するのではなく、主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにという勧めです。

そして、「それで、こう言われています(5:14)と引用された詩は、初代教会で洗礼を授けるときに使われていた讃美歌ではないかと思われます。

そこで、「眠っている人よ。起きよ。死者の中から起き上がれ。

そうすれば、キリストがあなたを照らされる」と歌われています。

これは、自分が死に向かっているアダムの子孫であることに認め、目を覚まして、救いを求め始めるとき、神の救いのが自分を照らすという意味です。キリストがあなたを照らすとき、あなたはキリストにあって「光」となっています

 

   さらに5章18節では、「ぶどう酒に酔いしれてはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」と記されます。「酩酊」は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされる時にも、私たちはこの世の人の評価や、様々な無意味なしきたりから自由に生きることができます。

両方とも人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。ところで、「御霊に満たされる」ことの意味には様々な側面がありますが、ここでは四つの側面が記されています。

 

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合う」(5:19)こと、第二は「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」、第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(5:20)です。御霊に満たされるとは、賛美と感謝に現わされます。

 

そして最後の第四は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。

それが具体的には、続けて、夫婦関係、親子関係、奴隷と主人との関係として表されます。そして、その日々の生活の人と人との関係に、「キリストをかしらとして一つとされる」という「再統合」を産む御霊の働きが現わされます。

 

5.「主にあって、その大能の力によって強められなさい」

6章10節では「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と記されますが、これは1章19節にもあった「キリストを死者の中からよみがえらせた力」が私たちのうちに「働く」ことです。ここではその力の目的は、「悪魔の策略に対して堅く立つ」ためと描かれます。人の力では悪魔に勝てないからです。

不思議なのは、6章14節からの描写は、イザヤ59章15節後半から描かれている神ご自身の救いのみわざそのもので、その神のみわざを私たち信仰者がキリストの代理としてこの世で行うと描かれているのです。

 

イザヤ59章16、17節では、「主は・・ご自分の義を支えとされた。主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり」と描かれますが、これは「主の御腕」としての「救い主」の姿であると解釈できます。ところが、これをもとにエペソ6章14-17節では、私たちがイエスの代理としてサタンが活動する世に遣わされるときのあるべき姿が描かれています。

何と、神は、ご自身のみわざを「救い主」を通して行うというより、この欠けだらけの私たちを用いてキリストのからだ」である教会として行うようにと計画されたのです。

 

真理の帯を締め(6:14)とは、「ご自分の義を支えとされた」という神の「真実」を思い起こすことです。それが「神の正義の胸当て」をつけることにつながります。

足には「戦いの備え」の代わりに「平和の福音の備え」を履きます(6:15)。それは神の平和をこの世界に広げるためです。

信仰の盾」(6:16)とは、自分の信仰の力ではなく、神の真実を思い起こすことです。サタンは、様々な不安を掻き立て、私たちがすでに「キリストのうちに守られている」ということを忘れさせ、私たちをキリストの愛の御手から引き離そうとします。

 

救いのかぶとをかぶる」(6:17)とは、キリストの救いが既に始まっていることを思い起こし、そのみわざが完成することを待ち望むことです。

なお、イザヤでは「復讐の衣を身にまとい」と続きますが、これはもちろん私たちの責任ではありません。神が最終的にサタンの働きを完全に打ち砕くという希望の約束です。

 

  神は、キリストの愛のうちにこの世界のすべてを再統合しようとされています。そのために神は、キリストの弟子の共同体としての「教会」を用いてくださいます。私たちは全世界的な「キリストのからだ」である教会の一部としてこの世に神の愛を証しするのです。

なおその際、ここに描かれている武具はすべて、防衛のためのものです。「御霊の剣」としての「神のことば」が唯一の攻撃の道具ですが、これはこの世の人々の無知を指摘するためというよりは、イエスの荒野の誘惑で用いられたように、サタンに対する勝利の手段です。

大切なのは、神とキリストのみわざがこの世の歴史を動かし続けているという神の真実を証しし、その真実の中に人々を招き入れ、世界中の人々が神の国の民とされ、創造主を礼拝することなのです。

 

キリスト者はサタンの支配から解放されはしましたが、サタンは今もキリストの弟子のうちに影響力を発揮しています。残念ながら、ルターが最晩年にユダヤ人迫害を正当化するような文書を書いたことにも、サタンの働きが現わされています。彼はユダヤ人に歩み寄った善意が仇となって帰ってきたことに激しく怒り悪魔に機会を与え」ました(4:27)

サタンは人と人との間に「敵意」をまき散らしますが、十字架は「敵意を打ち壊す」ものでした(2:14)。私たちは繰り返し、このキリストのみわざの原点に立ち返る必要があります。

 

ローマ帝国の時代に、クリスチャンが迫害を受けるたびに、キリスト教信者は爆発的に増えたと言われます。サタンの働きが激しいそのただ中に、キリストのみわざが露わにされます。

サタンは教会を分裂させようと画策しますが、私たちは十字架の前に遜ることによって、愛の交わりを築き続けることができます。

 

使徒パウロが囚われの身となったのは、ユダヤ人とギリシャ人が、「キリストをかしらとして一つにされる」という「奥義」の実現のためでした。それは現代的には、キリストの教会に様々な異なった背景の人が集められ、神の家族として組わされ、キリストのからだとして成長することを意味します。

またそれは、家族の平和、職場の平和として現わされます。ただ、奥義の実現のためにはサタンとの戦いが避けられません。

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2018年8月 5日 (日)

エペソ1~3章「奥義―キリストにあって一つに集められる」

                                          20186月24

信仰者の歩みは「キリストのうちにある生活」と定義できます。あなたは今、聖霊によってイエスの弟、妹とされ、イエスの父に向かって「アバ、父」と呼びかけます(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。信仰は徹頭徹尾、神から始まっているのです。

 

N.T.ライトは、「もしルターが、宗教改革の基本教理をガラテヤ書やローマ書からではなくエペソ書から語っていたらその後の世界が変わっていたかもしれない・・」とまで述べます。当時の改革者は、カトリックの煉獄の教えを否定することに忙しすぎて、私たちの救いのゴールに関しての当時の人々の誤解を正すことまではできませんでした。

しかし、エペソ書は、個人の救いよりも、宇宙的な救いの物語を語っています。また、ルターがナチスドイツによるユダヤ人迫害の道を開いたとも言われますが、確かにそれは否定できない事実です。

残念なことに、ルターによる晩年の反ユダヤ文書を読むと、まさにヒトラーが言ったようなことが書いてあります。そこにはドイツの片田舎の農民出身者の偏見が満ち満ちています。当時の常識的な偏見でもありますが、金融業とそこから生まれる都市の文化や生活への誤解がありすぎます。私たちは都市も農村も、農業も金融業も、キリストにうちにある生活として、再統合できるのです。

 

1.「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる

 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです(1:4)というのは途方もない宣言です。あなたがあの地方のあの家のご両親のもとで育ったということも、すべてキリストのうちにある永遠の神の選びのご計画の中で実現したことだというのです。それを知ると、あなた自身の性格や体形や能力もすべて、神の賜物として受け入れることができます。

そして原文では続けて新改訳5節の終わりの「愛をもって」ということばが4節の終わりに記されます。つまり、「御前に聖なる、傷のない者とされる」という信仰の成長も、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」という神のご計画から始まっているのです。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。何と神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。

 

それを前提に、この方にあって私たちは、その血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」(1:7)と記されます。これは、イエスの血による「贖い」は、神と私たちの個人的な関係の回復をもたらすということです。

ただ同時に、それがこの「世界の救い」につながるということが続けて、「神は・・・みこころの奥義を知らせてくださいました。それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって(をかしらとして)、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」(1:9,10私訳)と記されます

ここでは今まで隠されていた「奥義mystery」が、今、私たちに知らされたというのですが、その核心は「キリストにある再統合(recapitulation)とも訳すことができる神学用語です。

 

申命記28章~30章にあるように、神はモーセを通してイスラエルの民に「祝福とのろい」の選択を迫りましたが、愚かにも彼らは「のろい」を選び取り、国を失ってしまいます。しかし、彼らが散らされた国々で神に立ち返るとき、神は彼らをあわれみ、彼らを再び「(ひとつに)集め」、約束の地での祝福を回復してくださると約束されていました(申命記30:1-6)

それがここでは、「キリストをかしらにしてひとつに集められる」というのです(10節新改訳脚注別訳)。それがこの新約の時代には、ユダヤ人ばかりか、異邦人を含むより大きな枠で実現するということで、神に逆らってエデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫であるすべての人間に適用できることでもあるというのです。

 

私たちも自業自得の罪で、放蕩息子のような苦しみを味わい、そこで神に立ち返ってきました。ただし、それは、この矛盾に満ちた世界から解放されて、魂が天国に憩うということではなく、この世界のすべての矛盾や問題が、「キリストにあって」解決されることを意味します。

それはイエスが主の祈りで教えられたように、「神の国(ご支配)がこの地に実現すること」です。それは神が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する(イザヤ65:17)と言われたように、神の平和(シャローム)がこの地に満ちることです。

同時にそれは、この地がサタンに惑わされた人々の自己中心的な権力機構によって歪められている状態が正されることです。当時のユダヤ人はローマ帝国の支配から独立したダビデ王国の実現を待ち望んでいましたが、そのような狭い「救い」ではなく、すべての権力が、「王たちの王、主たちの主」であるキリストに従う世界が実現することです(黙示録17:14、19:16)。それこそ旧約で隠されていた「奥義」なのです。

 

3-14節は原文では長い一つの文章になっており、そこには「キリスト(のうち)にあって」が3回(3,10,12節)、「この方にあって」ということばが6回、さらに6節での「愛する方にあって」という表現も加えると、同じような表現が10回も繰り返されます。

つまり、私たちの救い」とは、「キリストのうちにある者」とされたこととして描かれ、さらにこの全世界が、「キリストをかしらとしてひとつに集められる」こととして描かれているのです。

私たちは自分に与えられた「救い」を、民族的、文化的、社会的な束縛の枠を超えた、「キリストのうちにある生活」として再定義する必要がありましょう。

 

1章17節からはエペソの人々の信仰の成長のためのパウロの祈りが記されますが、特にあなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・知ることができますように」(1:18、19)と祈られます。 

その第一は、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」です。

第二にその「望み」の内容が、「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」が明らかにされると表現されます。それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。私たちは今、様々な芸術活動を通して、与えられた「望み」の豊かさを「心の目」に見せることができます。

 

そして第三は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」「知る」ことです(1:19)。その「働く力」の源泉が、「神の大能の力の働き(エネルゲイヤ)によって」と説明されます。私たちは自分のうちに「働く」神の力を体験的に知ることができます。 

それはマザー・テレサが、「本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです」と語っているとおりです。

 

しかも、原文では先の「大能の力」を受けて、「それを神は、キリストのうちに働かせ(エネルゲン)て、彼を死者の中からよみがえらせ」(1:20)と描かれます。つまり、神の大能の力の働きは、何よりもキリストの復活の中に現されており、その力が信じる者にも働いているというのです。 

そればかりか神は、復活のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(1:21)とも記されています。

私はあるとき、「何で、こんな嫌なことばかりが続くのか・・・」と嘆きつつ、ヘンデル作「メサイヤ」を聞きに行きました。そこでハレルヤ・コーラスを聴きながら、一見、この地に暗闇が支配しているようでも、すでに天においては、イエスを「王の王、主の主」と賛美する声が響いているという霊的な事実が迫ってきて、身体が感動で震えたことがあります。イエスはすでに全宇宙の支配者であられるのです。

 

2.「神は、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ・・・」

その上でパウロは、「神は、すべてのものをキリストの足の下に従わせ、この方をすべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はこの方のからだです(1:22、23私訳)と記します。つまり、キリストが治めるとは、キリストのからだである「教会(エクレシア)」世界を治めることを意味します。

続けて、「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」と記されますが(1:23)、これはキリストご自身がすべての支配者として「みからだ」に起こった問題や欠けを、その身体の一部を持って満たすということです。

 

私たちの集まりのただ中にキリストが満ち満ちておられます。それは私たちの小さな共同体の中でも体験できますが、歴史的な視点から見ることもできます。

たとえば昨年は宗教改革500周年でしたが、当時のプロテスタントはカトリックを全否定してしまったように思えても、ルターもカルヴァンも、カトリック教会で受けた幼児洗礼を神の恵みのみわざとして受け止めていたことを忘れてはなりません。しかもこの宗教改革は、カトリックに深い反省を促しました。今やカトリックとルター派の和解も進んでいます。

私たちは自分たちの教会の枠を超えた全世界的なキリストの教会が世界の歴史にどのような貢献をしてきたかも見るべきです。

一人ひとりが「神のかたち」としてかけがのない存在であり、生まれ育ちや男女の性別の違いによって人を差別しないこと、また、強い人が弱い人を虐げることを戒めること、またすべての人に医療や教育の機会を保証する必要があるなどという価値観はすべてクリスチャンから始まっています。

そのことを私たちは、キリストにある「新しい創造」と呼ぶことができます。それに「心の目が開かれる」必要があります。

 

教会」の原語は「エクレシア」で、「市民たちの会合」を意味しました。そこでは一人ひとりが平等な議決権を行使し、自由都市(ポリス)の方針が決められました。同じように聖書的な意味での「教会(エクレシア)では、すべての人が、神ご自身によって招かれ、かけがえのない、主体的な意思を持つ存在として集められています

私たちは自分のからだの不思議さや精巧さを、特に、病気になったときに何よりも体験できます。同じように、地上の教会も、様々な困難を通して、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の大能の力の働き(エネルゲイヤ)を体験できるのです。

 

 2章最初の文章の中心は、あなたがたは自分のそむきと罪との中に死んでいた者であり・・・(それらの中にあって)歩んでいました」にあり、これは、「生ける屍だった」という意味になります。

その際、「そむきと罪の中に(を通して)死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、「罪とは何だろう・・、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか・・・」と疑問に思いました。ただそこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。

またその類語の「そむき(罪過)」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。

つまり、「背きと罪の中に死んでいる」とは、見当違いの方向に熱くなりながら必死に生きている人々、また見当違いの確信に立っている人々を指しているのです。

 

   22節では、「この世の時代に合わせ(流れに従い)という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っていると記されます。「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味で、サタンは今、神と人との間に入り込んで、その関係を壊すために働き、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めています。

しかも「働いている(エネルゴン)ということばは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるという対比が強調されているのです。

しかも3節では「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と記されますが、サタンに従う歩みとは、自分の生きたいように自由に生きるということに他なりません。

それは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方に他なりません。そして、自分の創造主である神を忘れて、自分の狭い正義感に従って生きることが、「御怒りの子」と呼ばれます。つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、すべてのアダムの子孫を指します。

 

そのような人々への神の一方的なみわざの第一が、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」(2:4、5)と記されます。その核心は、死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。

それが「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。「救い」とは何かの苦しみから解放されるというより、「キリストとともに生きた者になる」こととして描かれているのです。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:6)と記されます。これは復活と昇天を指します。これは遠い天国で初めて実現するというより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していることと見られるのです。この目に見える現実を超えた視点から「救い」の不思議を見るべきでしょう。

 

   7節は、この時間の観念を理解する鍵で、「それは来たるべき時代においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。それこそ救いの本質です。

 

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは「モーセの十戒」とも言われることばで最も大切な前文です。

そしてこのエペソ書では、私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた」状態、「空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいた」状態から救い出されたこととして描かれます。日本のサラリーマンもときに、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似て、ときに会社の奴隷のような状態に置かれているかもしれません。しかし、私たちには想像を絶する輝かしい栄光が保証されています。

それにも関わらず、それを深く味わうことを忘れ、「この世の時代に合せる」ことで、安心を得ようとしていないでしょうか。自分の願望のままに、また目の前の不安に駆り立てられて生きることこそ不信仰です。

見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です。そうならないために、日々、主(ヤハウェ)の前に静まり、主が私たちに約束してくださった壮大な救いのご計画に思いを馳せることが何よりも大切です。

 

3.「私たちは神の作品であって・・・キリストにあって造られたのです」

あなたがたは信仰によって救われたのです」(2:8)と聞いて、最初は気が楽になりましたが、そのうち「こんな信仰で救われるのか・・」と不安になりました。しかし、「信仰」とは、神の恵みを受け止める受信機のようなものです。

ここでは「恵みのゆえに」という原因と、「信仰を通して(through)」という媒体の区別が明確にされています。そのことが、「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(2:9)と記されます。

すべてが神の恵みであることを心の底から味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

 

その上でパウロは、「実に、私たちは神の作品であって、良い行い(複数)をするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。それをも神はあらかじめ備えてくださいました。そのように私たちが歩むことができるために(2:10、後半私訳)と記します。

原文では「良い行い」ということばは一度しか登場しません。それは私たちの目を自分の働きではなく、神のみわざに向けさせるためです。

しかもこの中心は「私たちは神の作品です」という宣言です。「作品」のギリシャ語は「ポイエマ」で、英語の「ポエム(詩)」の起源とも解釈できます。それは神の栄光を「イメージさせることば(擬音語)」とも訳せます。

たとえば、「春の小川は さらさら行くよ」と歌う詩の「さらさら」が「擬音語」で小川の流れをイメージさせる詩的表現です。同じように、私たちの存在自体が、神を何らかのかたちでイメージさせるというのです。あなたは「がみがみ叱る神様」か、「さんさんと太陽の光が降り注ぐ」ように神の愛を現わすかが問われます。

 

パウロは先に、「死んでいた者としての歩み」、また「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」という「歩み」を描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行い(複数)のうちに歩む」者となることとして描いています。

その前提として、「私たちは神の作品(ポエム)であって」と記されますが、あなたは自分の個性や感性をそのように見ているでしょうか。そこでは「みんなと同じ」ではないこと自体が何よりの魅力となります。

しかも、ここでは「(様々な)良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・それをもあらかじめ備えてくださった」と記しますが、「良い行い」とは、人との比較からではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるというのです。

それは「キリストのうちにある創造」の原点に立ち返ることで、「一切のものが、キリストをかしらとして一つにされる(1:10)という目的にかなって、キリストにある共同体が築かれて行くという尺度から見直されるべきことと言えます。

 

たとえば私は、自分の神経症的な不安や生き難さの中から詩篇によって慰めを受け続けています。そこでの「良い行い」とは、自分の傷つきやすい心を正直に受け止め、それを神に祈るということであり、また、個人的な葛藤を正直に表現するということに他なりません。そして意外にも、極めて個人的なことは本当に多くの人々の心の内面に届くのです。

それを様々な形で表現してきましたが、それを通して、「祈ることができなかった自分が、祈ることができるようになった」と言ってくださった人がおられます。

私は自分の性格や感性が異常ではないかと悩んでいた時期がありましたが、私が神の「ポエム」であるなら、私が個人的に感じることは神が感じさせてくださっていることであり、表現することばは、神が表現させたいと願っていることとも言えましょう。

この世は、働きの結果を数字で表すことが大好きです。しかし大切なのは、人と人との心が共鳴し合うことともにイエスの救いを喜ぶことができることなのです。

しかも、「私たちは」、共同体として「神の作品(ポエム)」なのです。あなたが他の人と違っているからこそ、互いの欠けを補い、新たな気づきを与え合えるのです。世界的な「キリストのからだ」の一部として、どのようなポエムを奏でているでしょう。

 

2章14節の「キリストこそ私たちの平和です」とは、「心の平和」というより、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」たことを意味します(2:14、15下線部私訳)

当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁があり、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り中庭に入ることは許されませんでした。しかし、キリストの十字架がこの「隔ての壁」を「打ち壊し」てくださったのです。

それを実現する神秘が、「こうしてキリストは、この二つをご自身において一人の新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました。それは十字架を通してであり、ご自身にあって敵意を滅ぼされたのです(2:15、16私訳)と描かれています。

十字架は、何よりも敵意」を廃棄し、葬り去るためのものと記されます。ここで何よりも強調されるのは、キリストがユダヤ人と異邦人を、「ひとりの新しい人間として創造」してくださったということです。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(Ⅱコリント5:17)と記されてことに通じます。

 

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国の民(直訳では「同じ市民(fellow citizens)であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」(2:19、20)とは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。 

私はドイツの福音自由教会の入会申請書の最初にこのことばが記されているのを見て、自分が名実ともに神の家族の一員にしていただけるという感動を覚えました。ドイツ語には家族や友人の間では互いを Du で呼び合い、仕事の関係では Sie で呼び合います。これは仲間うちか、仕事上の付き合いかという区別です。ですから、神に向かっての祈りは必ず Du という呼びかけで始まります。これは家族とされたことのしるしです。

そして、クリスチャンであるとの自覚を持った人どうしの間では、初対面の人でも Du で呼び合います。しかし、職場では、親しい同僚は例外として、毎日顔を合わせている人どうしでも、直属の部下に対してでも Sie と丁寧に呼びかけます。残念ながら、日本ではこの関係は逆になりがちです。職場では、「俺、お前」で呼び合いながら、教会に来ると互いに遠慮しあって丁寧な言葉遣いになりがちです。しかし、私たちクリスチャンは神の家族の一員とされたのですから、もっと親しみを込めて呼び合い、教会でこそ「神の家族」を実感できるのが理想です。

 

  異なった言語、異なった慣習の人々が、ともに同じ主を礼拝できることが福音の力の最大の証しです。初代教会の成長の原動力は、民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。その鍵はキリストの十字架です。人が十字架を信じるのは、同じ御霊の働きが一人ひとりの中に現されているからです。

人と人との和解こそ、福音の実です。パウロは3章3節で、「実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです」と記していますが、「キリストの奥義」(3:4)とは、1章10節にあった「キリストにある再統合(recapitulation)」です。そして、目に見えるキリストの支配とは、弱く無知な者の集まりに見える「教会(エクレシア)を通して現わされるものです。

その不思議な力は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「一人の新しい人間として創造」されたことから生まれます(2:15)。それは核融合にも似た爆発的な力を生み出す原因となりました。

まさに「多様性を保った一致」こそ力の源泉でした。

 

パウロは異邦人が神の民とされるという恵みを強調しましたが、教会の後の歴史では、キリストを信じないユダヤ人を反キリストの霊に支配された異端者として排除する動きになります。

ルターは宗教改革の始めの時期、「イエスは生まれながらのユダヤ人であった」という文書を書き、ユダヤ人の回心に期待し、優しく接しました。しかしユダヤ人は、聖書に立ち返ったドイツの信仰者に安息日律法や割礼を教え、ユダヤ教に導こうとしました。 

ルターはそれに腹を立て、ユダヤ人の会堂も、家も破壊し、ラビに教えることを禁じ、ユダヤ教文章を没収し、ユダヤ人に金融業を営むことを禁じ、額に汗して働かせる法律を作るようにと勧めました。

ルターにとっての福音のテーマは、来るべき「神の怒り」からの「救い」でした。ですから、ユダヤ人を回心に導くためには、神の民として選ばれていたはずの彼らが、いかに神の怒りを引き起こしているかを明確にしてあげること、つまり、彼らに地獄の炎の苦しみを事前に体験させてあげるという「厳しいあわれみ」が必要だと記し、それが後のナチスドイツによるユダヤ人迫害の正当化に用いられました。

 

私たちの罪が、地獄の火の苦しみを招くという視点を強調し、その恐怖からの「救い」というテーマで福音を語ることは、残念ながら、人と人との分断を招きます。

パウロが強調した福音は、ユダヤ人とギリシャ人の「隔ての壁」が、キリストの十字架に壊され、二つのものが「一人の新しい人間」として再創造されることでした。ユダヤ人は、キリストにある「新しい創造」の圧倒的な魅力に引き寄せられるようにして、イエスを救い主と信じるはずだったのです。

当教会のヴィジョン「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」という観点から、改めてキリストの福音を理解しましょう。

私たちはこの都市の生活の中で、「富と権力」が幸せの鍵であるという幻想に惑わされています。そこで

「富や権力」を全否定するのではなく、キリストをかしらとして再統合することが私たちの責任です。

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