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2018年9月30日 (日)

ヘブル人への手紙1章 「王なる支配者としての御子」

 2018年9月30日

あなたは、イエスの十字架をどのように描くでしょう?普通に考えるなら、イエスほど哀れな犠牲者はいません。何の罪を犯さなかった愛に満ちた人が、無実の罪で、当時もっとも忌まわしい十字架刑に処せられたというのですから・・・イエスはまさに悲劇の主人公です。

クリスチャンは確かに、イエスは私たちの罪を負って十字架にかかられたと告白しますが、それでも、イエスを人間の罪の犠牲者として見るということでは同じかもしれません。イエスを悲劇の主人公かのように描くことは聖書的なことなのでしょうか? 

 

不思議にもこの1章では、イエスは栄光に満ちた王であるばかりか、神と等しい方として描かれているのです。

そして、ご自身のいのちをかけて愛してくださったイエスが、全世界を支配する「栄光の王」であるという告白は、様々な試練の中にある人々にとって、最大の慰めであるとともに生きる力となります。

 

ヘブル人への手紙は紀元70年のエルサレム神殿の崩壊の前に、離散し迫害されているユダヤ人クリスチャンに向けて記されたと思われます。それは13章3,23,24節から推測されます。ただ、著者が誰であるかは、永遠の謎であると言われています。

この手紙を通して、イエスの十字架の意味が旧約の様々なささげものの血の犠牲との対比で描かれています。ユダヤ人たちにとって、神殿において動物を犠牲のいけにえとすることによって、神との生きた交わりを回復するということは極めて大切なことだったからです。

 

1.「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」

この書では最初に、神の啓示に関して、「多くの部分に分け、多くの方法で、昔、神は、先祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」と記されます(私訳)

ここで、「神は・・語られました(言われた)」での、「神は」という主語は、原文の1章ではここにしか記されません。

聖書の最初はモーセによって記され、トーラーと呼ばれ、すべての土台となります。その後、神はダビデの詩篇を通して、その後、多くの預言者たちによってイスラエルの民に語られました。

しかし、「この終わりの時」と呼ばれる現在は、神はご自身の御子であるキリストを通して私たちに語ってくださっているというのです。御子は、「多くの部分に分け、多くの方法で語られた」旧約のすべての記述と矛盾することなく、すべての預言を成就する方として現れたということを私たちは忘れてはなりません。

 

この「御子」という方に関して続けて、「神は彼を万物の相続者と定め、また彼によって世界を造られたのです。彼は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」と描かれます(一部私訳)

ここで「万物の相続者」であるとは、キリストは全世界の支配者であるという意味で、その最後に改めて、「万物を保っておられます」と述べられます。

しかも、この世界のすべてのものは、神が「御子によって(通して)」創造されたと、御子御父との協同の創造主として紹介されます。これは当時のユダヤ人にとって奇想天外なことに聞こえたことでしょう。

それで改めて、御子は「神の栄光の輝き」として同じ栄光を共有し、「神の本質(ヒュポスタシス)の完全な現れ」であると描かれます。ここに後の三位一体論の核心が描かれているとも言えましょう。

4世紀の終わりに正統信仰の基準としてまとめられたニケア・コンスタンチノープル信条においては、次のように告白されています。

 

私たちは、唯一の主、神のひとり子、イエス・キリストを信じます。 主は、世々に先立って父より生まれた方、 光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られずして生まれ、父と本質(ウーシア)において同じです。 すべてのものは、この方によって造られました。

 

さらにここでは続けて、御子のみわざが、「この方は、罪のきよめを成し遂げられ、大いなる方の右の座に着座されました、いと高き所に。この方は、御使いよりもさらに優れた方となられ、さらにすばらしい名を受け継がれたのです」と描かれています(34節私訳)

ここには「罪のきよめ」というみわざと、神の「右の座(総理大臣の座)に着座」され、この世界の支配者となっておられることが描かれますが、同時に、ここでは御子がそれによって、「御使いよりも」さらに「すぐれた方」としての「さらにすばらしい名を受け継がれた」ということが強調されます。

そのように記されたのは、旧約預言には、「救い主(メシア)が現れたとき、「救い」と同時に「神の敵」に対する「さばき」が同時に実現すると描かれているのに、そのようにはならなかったからです。それで、先の信条では、「救い主」の到来が二回に分けられた告白されています。

 

主は、私たち人間のため、私たちの救いのために、天から下り、 聖霊と処女マリアによって肉体を受けて、人となり、 私たちの身代わりとしてポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、 三日目に、聖書に従って よみがえり、 天にのぼり、父の右に座り、生きている者と死んでいる者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。 主の御国は終わることがありません。」

 

当時のユダヤ人たちにとって、救い主が来られるとき、「神の国」が完成するということは理解できましたが、その方が二回に分けて来られるということは理解しがたいことだったと思われます。

イエスが処女マリアを通して人となられたのは「罪のきよめ」のためでありますが、それはキリストの初臨と呼ばれ「再臨」とは区別されます。再臨とは、主が三日目に復活し、天に昇り、再び来られて、神に敵対する勢力を完全に従えるという時です。

旧約聖書では、初臨と再臨がまとめて預言されていました。多くの人々は、罪の赦しのための十字架を知っていても、キリストがすでに「神の右の座に着座され」、この世界を治め始めておられ、その支配は再臨によって完成されるという意味を、十分には理解していないのかもしれません。

 

2.「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ」

そのキリストの支配のすばらしさが、以下に御使いとの比較で描かれます。なぜなら、ダニエル書10章などでは、大天使ミカエルが「ペルシャの君」や「ギリシャの君」と戦い(20)、終わりの日の救いに関しては、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる(12:1)と記されているからです。

ダニエル書に親しんでいたユダヤ人にとって、ミカエルこそが救い主のように思えたことでしょう。

 

その誤解を正すため、ヘブル書の著者はいくつかの旧約聖書の箇所から「救い主」について記されている部分を引用しながら、御子であるキリストと御使い偉大さは全く異なるということを示しました。

 

その第一は、詩篇27節に記された、「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」ということばですが、これは詩篇2篇の文脈では、この世の支配者たちが結束して主(ヤハウェ)油注がれた者(メシア)に逆らっている中で、主ご自身が、「わたしは わたしの王を聖なる山シオンに立てた」という布告を述べるという中で、このことばが記されます。

そこではさらに主はメシアに「国々をあなたに受け継がせ 地の果てまで あなたのものとする あなたは鉄の杖で彼らを打ち 焼き物のように粉々にする それゆえ今 王たちよ 悟れ‥御子に口づけせよ 怒りを招き その道で 滅びないために」と続きます。

 

つまり、引用されたみことばは、キリストの王としての即位を意味することばなのです。そして使徒の働き1333節では、「神はイエスをよみがえらせ…約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです」と記されています。

そこでは、「わたしが・・あなたを生んだ」とは、神がイエスを復活させ、王とされたことを意味しました。

 

またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」というみことばは、サムエル記第二714節からの引用です。それは、ダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ(7:16)と約束されたことが、ダビデの子ソロモンによってではなく、ダビデ王家から生まれたキリストによって成就されるという文脈で引用されたことばです。

イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がしましたが(ルカ3:22)、それがこの預言の成就のしるしでした。

 

そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。『神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ』」1:6)との引用は、詩篇977節のギリシャ語七十人訳では「彼のすべての御使いたちよ。あなたがたは彼にひれ伏せ」と記されているのとほぼ同じです。そのヘブル語は「すべての神々(エロヒーム)よ 主にひれ伏せ」と記されています。

そこでは「(ヤハウェ)は王である‥諸国の民はその栄光を見る」という文脈の中でそのように記されているので、キリストこそが(ヤハウェ)であり王であるという宣言になります。

 

またはこの箇所は申命記3243節のギリシャ語七十人訳からの引用であるとも考えられ、そこでは「天よ。彼とともに喜び歌え。すべての神の子たちは彼にひれ伏せ。異邦人たちよ、彼の民とともに喜び歌え。すべての神の御使いたちは彼を力づけよ。彼がご自分の子たちの血に報復し、その敵に復讐を遂げ、ご自分を憎む者たちに報いを与え、主はご自分の民の地をきよめるのだから」と記されています。

 

どちらにしてもその中心的な思想は、イスラエルの民が自業自得で、神のさばきを受け、他国の攻撃を受けて国を失った後に、今度は主ご自身が民の「血に報復し」、イスラエルを滅ぼした国に「復讐を遂げ」ることによって「地をきよめ」るということです。

それは「彼」と呼ばれる方が、神の「長子」としての「御子」であられ、その方が自滅したイスラエルを再創造するということです。「御使い」が神の「長子」の前に「ひれ伏す」のは、父なる神に帰せられるべき再創造の働きを「主」である「御子」が実行するからなのです。

 

7節の、「また、御使いについては、『神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる』と言われましたが」という表現ですが、これは詩篇1044節からの引用で、そのヘブル語は「ご自分の使いを風とし ご自分の召使いを燃える火とされる」と訳すこともできます。

先の6節での引用は、主が御使いに呼びかけていることとして解釈できますが、この箇所は、御使いを「」や「燃える炎」と同じ被造物のレベルに扱ったものです。それは、その詩篇1042節で、「あなたは光を衣のようにまとい 天を幕のように張られます」と記されていることの流れで引用されたものです。

つまり、御使いは「」や「」と同じように、創造主にとっての対話の相手というよりも、神にとっての最高の被造物に過ぎない、神の命令をただ忠実に執行する神の代理機関のようなもので、「御子」と同じレベルで語ることはできないというのです。

 

8節の始まりは、「御子に対しては、こう言われました」と訳すことができ、その流れの中で、御父は御子を「神よ」と呼びかけながら、「あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして」と語りかけています(8,9節)

このみことばは詩篇45篇6、7節からのそのままの引用です。

 

もともと詩篇45篇は、「王妃はあなたの右に立つ(9節)との記述から、「王の結婚式の歌」とも呼ばれ、その6節の「神よ」という呼びかけは「」に向けてのものと解釈できます。

なぜなら、7節では、「神よ、あなたの神は喜びの油を・・あなたに注がれた」と、王が「神」と呼ばれ、父なる神が、王に油を注いだと記されているからです。

イエスご自身も、聖書が「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ」と言っておられます(ヨハネ10:35)。なお「神」も「神々」もヘブル語にするとエロヒームという全く同じ単語になります。

 

ここでの「あなたの王座は世々限りなく」と歌われるのは、先のサムエル記の引用の箇所にあったように、ダビデ王家が永遠に続くことを語ったものです。また、ダビデの王座の支配が「公平の杖」と呼ばれるのも先に引用された詩篇29節で、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き」とあるように王の力ある支配を意味します。

そのことがさらに「あなたは義を愛し、悪を憎む」と記されます。そして「救い主」はこのような理想的な王として登場されたというのです。つまり、御子は「ダビデの子」として、「」と呼ばれながら、父なる神との対話の中で、神のご支配をこの地に実現する「王たちの王」として描かれているのです。

 

3.「あなたははじめに、主よ、地の基を据えられました」

続く10節は原文の語順で、「そして、あなたははじめに、主よ」と記され、「神は言われた」という連続の中で、御子を「あなた」と呼び、その方を詩篇102篇の主語である「(ヤハウェ)」の名で呼び、その25-27節を引用しているのです。当時のユダヤ人にとって、ヤハウェである父が、御子をヤハウェと呼ぶというのは奇想天外なことです。

そして続けて、「地の基を据えられました。 天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。 しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、 あなたの年は尽きることがありません」と記されます。

このヘブル書の引用はもともとの詩篇から若干の違いがありますが、意味は基本的に何も変わりません。

 

何よりの不思議は、父なる神が、御子を「」と呼び、御子が天地万物の創造主であり、御子の思いのままに世界を変えることができる一方で、御子は永遠に変わることがないと言われていることです。

 

なお詩篇102篇の標題には「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主(ヤハウェ)の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。この詩篇の引用を見たヘブル書の読者もそれが分かったことでしょう。

そしてその2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)と祈られたことに通じます。

つまり、この詩篇の文脈では、御子はこの詩篇作者と同じ絶望感を味わってくださった方なのです。その3-7節は次のように訳すこともできます。

 

私の日々は煙のように失せ、骨々は炉のように熱い/

心は青菜のように打たれてしおれ、パンを食べることさえ忘れるほど/

嘆きの声のため、私の骨々は皮にくっついてしまった/

まさに荒野のみみずくにも似て、廃墟のふくろうのようになっている/

私は眠ることもできず、屋根の上のはぐれ鳥のようになった」

 

   ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主(ヤハウェ)」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。

そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。

しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身に、神のみこころの変化の時が知らされたかのように歌われます。

 

そして14-22節の全体を通して、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、同時に、そこに神ある希望を見ているのです。

そのような文脈で、25-27節の主のご支配の永遠性が語られ、それが御子の永遠のご支配に結び付けられているのです。

 

ヘブル書ではこの後、大祭司としてのイエスの姿が、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに合われたのです・・・

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入られました。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとっての永遠の救いの源となり(4:15,5:7-9)と描かれています。

このヘブル書の最初に引用された詩篇102篇こそ、キリストが味わってくださった苦難を預言しているものであり、同時に、キリストが神の御子として永遠の創造主、この世界の永遠の支配者であることの両方が記されているものと言えましょう。

 

1314節では引き続き、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう」と記されながら、詩篇110篇1節が、 「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは」と引用され、御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるため遣わされているのではありませんか」と記されています。

これは、「御子」が神の右の座に着いておられる支配者、私たちにとっての「主」である一方で、御使いは私たち「救いを受け継ぐ」者たちに「仕えるために」神から「遣わされている」「奉仕する霊」に過ぎないと言っていることを示します。

 

ます。なお、主イエスはパリサイ人たちに向かって、キリストがダビデの子と呼ばれるなら、「どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた・・・』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問いかけました(マタイ22:41-45

これには当時、誰も答えられませんでした。それは、キリストが「ダビデの子」としての人間であるとともに、キリストが神の御子として「ダビデの主」であるという不思議を現わします。

 

そしてここには、御子が神の右の座についてこの世界を治めるのは、父なる神がすべての御子の敵を、御子の「足台とするまで」という不思議な表現になっています。

このことに関して、パウロは「すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治める」と記しています(Ⅰコリント15:25)。つまり、御子が王として支配することの背後に、父なる神が御子のすべての敵を御子の支配に服させるという働きがあるのです。ここに、御父の支配と御子の支配が同時並行して進んでいる様子が描かれています。

 

ときに、神の御子キリストが、父なる神と同じ本質を持つ「神」であり「ヤハウェ」であるという三位一体論は4世紀のキリスト教会で定められた教理であるなどと解説されることがあります。しかし、このヘブル書の著者が、詩篇などの引用を通して当時のユダヤ人たちに解き明かしたことの中に、すでに基本が記されています。

私たちの罪を担うために人となってくださったイエスは、御父と同じ創造主であり、永遠に変わることのない全世界の王、真の支配者であられるのです。私たちのすべての痛みや悩みに徹底的に寄り添ってくださる方が、同時に、この世界の不条理を正してくださる「王の王」であられます。

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2018年9月23日 (日)

Ⅱ列王記6:24-10:36 「これは、主(ヤハウェ)が語られたことばのとおりだ」

                                      2018923

   旧約で不思議なのは、神がこの世の権力闘争を裏から操り、権力者をさばくために別の権力者を立てるかのように説明されていることです。それら一つひとつに、「(ヤハウェ)が語られたことばのとおり」とまとめることができます。

しかし、より有能な者が無能な王を打ち倒して王になるという「力の原理」は世の常であり、彼らが神の操り人形になっているわけではありません。どんな王家も必ず滅びますが、それは神のさばきという以前に、自滅しているとも言えます。そして、「奢るもの久しからず」とあるように、権力者の滅亡は、自分の力に酔ってしまうことに始まります。これは極めて現代的な課題です。それはときに、教会とお金の問題にもつながることです。

力も富も人を傲慢にし、神との関係では、不幸の原因ともなり得るのです。ただその最も基本には、人の心の不安がそのように駆り立てるとも言えます。しかし、主のご計画は必ず成就するということがわかるなら、私たちは誠実を第一にすることができるようになります。  

 

1.アラムによるサマリヤの包囲と神の救い

 エリシャの働きによってアラム(現在のシリヤ)の「略奪隊」が「侵入する」ことはなくなったのですが(6:23)、それからかなり時間が経った後になって、アラムの王ベン・ハダドは略奪隊の代わりに、「全軍を召集し」イスラエルの首都であるサマリアを包囲することになりました。サマリアでは激しい飢饉に襲われ、母親二人が交互に自分たちの子供を食べ合おうとする悲惨まで起こりました。

これは主がかつてモーセを通して、主を軽蔑した者への「のろい」が申命記28章に生々しく預言されていたことの成就で、その極みが、敵に包囲される窮乏のため、上品な女が、自分の子供にまで物惜しみするばかりか、自分が生んだ子供さえ食料にしてしまうと描かれていました(56,57)

すべての母親が自分の子のために命を捨てることができると思うのは幻想です。国全体がのろいを選び取ってしまうようなとき、狂気が国を支配します。これから300年も経たないうちにエルサレムでも同じことが起こります。預言者エレミヤは、女たちが、自分の胎の実を、養い育てた幼子を食べてよいでしょうかと嘆いています(哀歌2:20)。また、イエスを拒絶したエルサレムの町でも同じ悲劇が起こったことを、ユダヤ人歴史家のヨセフスが記録しています。

 

   女は、「わが主、王よ。お救いください」と訴え、それに対し、王は、「主(ヤハウェ)があなたを救われないなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」と言いますが(6:2728)、ここには主に必死にすがろうとする姿勢は見られません

それどころか王は、この女の訴えの理由が、それぞれの子供を、煮て食べようと相談し、自分は子供を差し出したのに、相手の女が自分の子供を隠してしまったということにあると聞いたとき、人々の怒りの矛先を預言者エリシャに向けさせようとします。

主はかつて、エリシャの祈りに答えて、アラムの軍隊を盲目にされました。彼らはサマリアの真ん中におびき寄せられました。王はそのときエリシャを「わが父よ」と呼びながら、「私が打ち殺しましょうか」と二度も尋ねましたが、エリシャがそれを差し止め、彼らに飲み食いさせ、国に帰しました。その軍隊が今、攻めてきているのです。

 

王はエリシャに向けて使者を刺客として遣わしますが、彼はエリシャに「見よ、これは(ヤハウェ)からのわざわいだ。これ以上、私は何を主(ヤハウェ)に期待しなければならないのか」と言います。

しかし、わざわいの原因が主にあるなら、主にすがりついてみこころを変えていただけるように求めるべきでしょう。

 

それに対しエリシャは、「主(ヤハウェ)のことば」として、「明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる・・・」と言いました(7:1)。これは小麦粉7.6ℓが、銀11.4gでということで、現在の銀価格1=58円で計算すると一セア(7.6ℓ)が661円という破格の安値になります。これは直前まで、普通だったら売り物にならない「ろばの頭一つ」80シェケル(53,000)であったことと比較するとただ同然とも言えます(6:26)

ここで使者が、「侍従で、王が頼みとしていた者」と初めて紹介され、彼が「たとえ主(ヤハウェ)が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言ったと記されます。それに対しエリシャは、「確かにあなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と答えます(7:2)

侍従がエリシャのことばを信じられなかったのは当然でしょうが、「神の人」に向かって、全能の主の御名を持ち出して否定したのは、主の御名をみだりにとなえるという罪と、神の人への暴言となってしまいました。

 

その後の不思議が、「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので」(7:6)、彼らはおびただしい食料を残しながら、「いのちからがら逃げ去った(7:7)と描かれます。これは、1180年の富士川の合戦で平家の軍隊が水鳥の発つ音で背走したことに似ています。

このときそれを最初に気づくのは、サマリアの城外で飢え死にしそうだった四人のツァラアトに冒された人でした。反面、人間的な力を持っていたこの侍従は、食料のもとに殺到した群集によって踏みつけられます。そしてこの結論は、「神の人が告げたことばのとおりであった」(7:17)と記されます。

そして、71819節では、12節での会話が敢えてそのまま再現され、「そのとおりのことが彼に実現した」という侍従へのさばきが記されます(7:20)。私たちが神こそが、すべての力の背後におられる全能の主なのです。

  

2. シュネムの女を守り、同時に、イスラエルを懲らしめる王を立てられる神

 シュネムの女の記事の続編が81節から6節に続きます。彼女は、エリシャから、この国が七年間の飢饉に襲われるということを聞いてペリシテの地に逃れ、七年たって国に戻ってきました。しかし、留守中に自分の土地は王の家に没収されていたのだと思われます。それで、彼女は王に返還を訴え出てきました。

それはちょうど、エリシャのしもべのゲハジが王に、シュネムの女の子供が生き返った話をしている最中でした。何とも不思議な偶然のように思われますが、この地のすべてのできごとは偶然ではなく、神の御手の中で、神の御許しの中で起こっていることです。なお、これがいつのことかはわかりません。これはゲハジがアラムの将軍ナアマンの皮膚病を代わりに受ける前だと思われます。

とにかくイスラエルの王は、このとき神のみわざに心を開くようになっており、この女の訴えを聞き届けて相続地ばかりか、その間の収穫まで返すと約束しました。神はたった一人の女にさえ目を留めておられます。この記事は、先の子供を食べてしまった女の記事と何と対照的でしょうか。主がさばかれるということは、同時に、主が救われるということを意味します。どんなときにもあきらめず、主に訴えることが大切です。

 

   それに続いて、エリシャがアラムの首都ダマスコに行ったときのことが記されます(8:7)。アラムの王ベン・ハダドは重い病気にかかっていましたが、「神の人がここまで来ている」という知らせを聞くと、自分の家来のハザエルに、「神の人を迎え、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主(ヤハウェ)のみこころを求めてくれ」と命じます(8:8)

かつてアハブの息子のアハズヤは自分の病が治るかどうかを「エクロンの神、バアル・ゼブブに(1:2)尋ねさせて、エリヤから神のさばきの宣告を受け、死んでしまいました。ここでは異教徒の王が、エリシャを「神の人」と呼んで、イスラエルの神「(ヤハウェ)のみこころ」を求めてきたというのです。それはアラムの将軍ナアマンの功績かもしれませんが、エリシャの名声は国境を越えて響き渡っていたのです。本来なら、ここでベン・ハダドへの神のあわれみが示されるべきと思われます。

 

ところが、エリシャはハザエルに、王の病は「必ず直る」と告げながらも「彼が必ず死ぬ」とも付け加えます(8:10)。同時に、「神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出した」(8:11)というのです。それはハザエルがアラムの王となり、「幼子たちを八つ裂きに」するほどにイスラエルを徹底的に攻撃することを知ったからです(8:12)

ハザエルは「しもべは犬にすぎないのに、どうしてそんな大それたことができるでしょう」と答えますが、エリシャは彼に、「主(ヤハウェ)は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ」(8:13)と言います。これを聞いたハザエルは、翌日、王を殺して自分が王になります。

 

エリシャのことばが彼をクーデターに駆り立てました。しかし、これはかつて主が燃え尽き後のエリヤ「さあ、ダマスコの荒野に帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムと王とせよ」(Ⅰ列19:15)と命じられたことが、エリヤの後継者を通して成就したということだったのです。

エリヤは孤独な預言者として、偶像を拝むイスラエルの王からいのちを狙われながら、「火の戦車」とともに天に引き上げられましたが、すばらしい後継者を残し、その人を通して、神のご計画を成就することができました。

しかも、「エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ(同19:16と命じられたのは、主ご自身でした。しかも、それは、ハザエルを王とせよと命じられたこととセットでした。後にパウロは、預言者エリヤが、イスラエルが「預言者たちを殺し・・ただ私だけが残りました」と嘆いていたとき、主が「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している」と答えられたことを引用し、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」と記しました(ローマ113,4,36)

ただ同時に、そこで「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」と記しています(同33節)。まさに、この神のみこころの神秘は、主がエリシャの前にへりくだったアラムの王ベン・ハダドを廃し、ハザエルをアラムの王に立て、イスラエルをさばくことに現れています。

 

ただし、ハザエルが神に愛されていたというわけではありません。彼は欲に駆られて動いているだけであり、主の民イスラエルを激しく苦しめた神の敵です。これは神が、神の敵さえも支配しておられるという意味です。

日本の総理大臣就任が話題になりますが、聖書は、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている(ローマ13:1)と言います。総理を立てるのは神ご自身ですが、それは、その人の方が神のみこころにかなった人であるという意味では決してありません。それは神がイスラエルを懲らしめるためにアラムの王ハザエルを立てたのと同じです。

ただ、「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」(ルカ12:48)とあるとおり、神は権力者の心の思いを見て、より厳しい基準でさばかれるのですから、私たちが先走ってさばく必要はないのです。

そして、このことを通して、主はイスラエルばかりかアラムをも支配しておられるということがわかります。つまり、イスラエルにわざわいをもたらすのは、アラムである前に、主ご自身であられるのです。

 

3.エフーによるアハブ王家の滅亡、アハブ家のユダへの影響、

   当時のイスラエルの王はアハブの第二子のヨラムでした。彼が王位にあった第五年目に、南王国ユダではヨシャファテの息子が王となり、その名はイスラエルの王と同じでした(8:16,17)。皮肉にもその意味は、「ヤハウェは高められる」でしたが、彼はヤハウェをさげすみました。

彼の父ヨシャファテは神を恐れる立派な王でしたが、北王国イスラエルの王アハブと同盟関係を結んでしまい、「アハブの娘」がユダ王国の皇后になり(8:16-18)、国が堕落します。それに対し、主はユダの南の国、エサウの子孫のエドムを用いてヨラムを苦しめました。

そして、彼の息子アハズヤが王となりましたが、彼の治世はたった一年であったと描かれ、彼の母の名、つまりヨラムの妻の名がここで「アタルヤ」であったと記されます(8:26)。彼女は、悪女イゼベルの娘であり、その後のユダ王国を転落に導いた張本人でした。

そしてアラムの王となったハザエルが北王国の王ヨラムとユダの王アハズヤとの連合軍を苦しめたことが記されます(8:28,29)

 

   そこで預言者エリシャが、仲間の一人をイスラエルの王の家来エフーーーーーに遣わし、彼を王として立て、任職の油を注ぎます。その際、エフーに主のことばとして、「あなたは主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうして、わたしは、わたしのしもべである預言者のたちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする・・・犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない」と告げられます(9:7-10)

これもかつて主がエリヤ、「ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ(Ⅰ列王記19:16命じておられたことが、後継者エリシャによって実行に移されたということでした。同時に、これはナボデのぶどう畑を強奪したイゼベルに対して、主が預言者エリヤを通して語られたことでした(同21:23。それが、今、エフーによって成就するというのです。

 

エフーにはその気があったのかは分かりませんが、彼とともにいた将校たちも、預言者のことばを伝え聞いて初めて、自分の上着を脱いで彼の足元に敷き、角笛を吹き鳴らして「エフーは王である」(9:13)と言います。つまり、ここでもクーデターの首謀者は俺様であられたのです。

アメリカの独立宣言には、神によって立てられたはずの地上の権威を、神の御許しの中で打ち破って新しい政治権力を建てる権利が主張されていますが、その根拠はこのような記事にあるのかもしれません。将校たちがすぐにエフーを新しい王として建てたのは、アハブの子ヨラムに対する不満が鬱積していたからでしょう。

 

一方、アハブの子ヨラムはそれに気づかず、エフーの手にかかって死んでしまいます(9:22-24)。そればかりかエフーはたまたま訪問中のユダの王アハズヤまでも殺しますが(9:27)、これは神の命じられたことではありませんでした。これは、どのような革命でも、常に行き過ぎの残虐を生むことの実例と言えましょう。

そしてエフーはその後、神の復讐の最大のターゲットであったイゼベルを攻撃します(9:30)。彼女は威厳を保っているように見せかけ、彼をバシャの王家を滅びして七日間しか権力を保てなかったジムリにたとえて軽蔑します(9:31)。しかし、イゼベルは彼女自身の家臣たちによって突き落とされます(9:33)

そしてエフーが勝利を祝い、彼女へのあわれみの心を持ったとき、すでに彼女のからだは、犬の餌

(ドックフード)なっていました。それを聞いたエフーは、「マジ?これは、(ヤハウェ)そのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだヤバイーウケルwwと述べます(9:36)

それはまた、エリシャから遣わされエフーに油を注いだ預言者のことばのとおりでした(9:7)。ここに神の一つひとつのことばが成就したことが強調されます。

 

 エフーはその後、アハブ家に属するすべてのものを皆殺しにしたばかりか、見舞いに来たユダの王アハズヤの身内のもの42人を殺しました。

その上で何と、エフーはバアルの預言者や信者たちを騙し討ちにしようと、「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。だから今、バアルの預言者や、その信者、およびその祭司たちをみな、私のもとに呼び寄せよ。一人も欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルに献げるつもりである(10:18,19)と嘘を言って、彼らを強制的に一同に集め、皆殺しにします。

神はこのような卑怯な手段と残虐を喜んでいるとは思われません。

 

それでも、「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした(10:28)という、主に対する彼の熱心さには満足しておられます。それで、主ご自身も、エフーに対して、「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く」といわれます(10:30)

ところがそこで、「しかしエフーは・・・ヤロブアムの罪から離れなかった」と記されます(10:31)。それは、エルサレム神殿を否定して、べテルとダンにある金の子牛を民に拝ませ続けたという意味です。それは、人々の心を自分につなぐための政治的配慮を優先したためでした。

彼はアハブ王家を滅ぼすときには主のみこころに従うと言っているのですが、自分の王権を保つためには平気で主のみこころに反します。人を攻撃するときには熱くなって「主のみこころ」ということばを持ち出しながら、自分の事に関してはあらゆる言い訳と正当化ができるというのが人間です。

そのような中で、「主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた」(10:32)と記されます。それは神によって立てられたハザエルがアラムの王としてイスラエルを打ち破っていたからでした。神はエフーを王として立てましたが、同時にハザエルを立て、エフーの家を苦しめました。

 

   神によって立てられたエフーもアラムの王ハザエルも、自分の力に酔うようにインスタを始めまます。そして、彼らは自分に力を与えた主を恐れないことによって国を滅ぼす道を開いてゆきます。

詩篇62編では、「暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。強さが結果を生んでも(新改訳「富が増えても」)それに心を留めるな・・力は神のもの」(10,11節私訳)と告白されます。

そしてその前に、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。あなたがたの心を御前に注ぎだせ。神は私たちの避けどころ」(8)と歌われます。

 

   ここでは、「じばにゃのことば」の一つひとつが成就して行く様子が描かれます。特に感動的なのは、預言者エリヤがバアルの預言者450人との戦いの後、燃え尽きてしまい、「(ヤハウェ)よ、もう十分です。私のいのちをとってください(Ⅰ列19:4)と泣き言を述べながら、神の山ホレブに導かれ、そこで、主が明確なことばでエリヤに命じられたことが、後継者エリシャによって成就して行く場面です。

私たちは自分の無力さを嘆くことがありますが、主はご自分の計画を必ず成し遂げられます。預言を与え、預言を成就するのは、主ご自身の働きです。

私たちに求められているのは、「ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」と記されているとおりに生きることに他なりません(ミカ6:8)

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2018年9月16日 (日)

Ⅱ列王記4:1-6:23 「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」

                                   2018916

   「有難い」ということばには、「この世に有ることが難しい」「得難いものを賜っている」という深い感謝の意味が込められています。

様々な信仰者の歩みを見ると、一度限りの神のめぐみを繰り返し思い起こし、そこで出会った人へ感謝の心を忘れないような人は、その後も幸せな歩みをしているように思えます。ただ、ときに感謝されていると思っても、一つの問題を契機に関係が冷えてしまう場合もあります。

 

イスラエルの民は、神への感謝を忘れる天才でした。今日のエリシャの物語は、奇跡物語の羅列のように思えますが、この約百年後に北王国イスラエルは永遠に歴史から消え去り、そのさらに150年後、残されたユダ族の都エルサレムはバビロンの攻撃によって廃墟とされます。

ここに描かれた神のみわざは、後のイエスの時代まで起きることはありませんでした。エリシャの時代は、まさにイスラエルの歴史上、もっとも有難い時代でした。それを理解する者は、一見期待外れの日々の生活に、様々な神の恵みの有難さを味わうことができます。

そして私たちの心の奥底にある渇きは、来るべき世界でしか満たされないということを悟る者は、現実の孤独と空虚さに耐えながら、一日一日を生きることができることでしょう。

 

1.油壺の奇跡 預言者の未亡人の息子が奴隷に売られないように守る (4:1-7)

   エリヤは孤独な預言者でしたが、エリシャは「預言者集団」を従えていました。あるときその一人が借金を残して死に、二人の息子が借金のかたに奴隷にされると未亡人が訴えて来ました。同胞を奴隷とすることは律法で禁じられていましたが、それは守られていませんでした。

エリシャは彼女に近所から油を入れる器を多数集めさせます。彼女が残されたたった一つの財産である油壺から、それぞれの器に油を注ぎましたが、いくら注いでも器の数だけ油が出てきました。最後の財産をエリシャの命じるとおりに使うとそれが何十倍にも増えたのです。

彼女はそれを売って負債を弁済し、子供を守ることができました(4:1-7)。エリシャは、貸主の権利を侵害することなく、同胞の奴隷売買を止めさせることができたのです。

 

経済が成長しない社会では、誰かの得は必ず誰かの損につながりますが、エリシャは、誰も損をさせることなく、貧しい預言者の家族を守ることができました。

イエスはその宣教の初めに高熱で苦しむペテロのしゅうとめを癒されました(ルカ4:38)。それは三つの福音書に共通して記されていますが、それはイエスがご自分に従おうとした多くの弟子たちの家族にまで気を配っておられたことのしるしでした。

 

2.エリシャがシュネムの裕福な女を助ける (4:8-37)

 シュネムカルメル山から東に約30kmあまりに位置する町です。この町のある「裕福な女」はエリシャが町に立ち寄るたびに、「神の聖なる方」として心からもてなし、屋上に特別な部屋まで用意しました。

あるときエリシャはこの女を呼び、「あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨折ってくれたが、あなたのために何をしたら良いか」(4:13)と尋ねます。

彼女は、「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」と何の要望も出しませんでしたが、彼は彼女が表現しなかった心の願いを悟って、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう」(4:16)と言います。

彼女は今まで不妊で、夫も既に高齢になっているため、彼女はそれを信じることはできませんでしたが、彼女は約束されたとおり「男の子」を産みます。

 

イエスも、「預言者を預言者だということで受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます・・・

わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」(マタイ10:41,42)と言われました。

神はあなたの善意に報いてくださいます

 

しかし、その子が大きくなったある日、突然の頭痛で息を引き取ります。彼女はその子をエリシャのために用意した寝台に寝かせ、戸を閉めると、夫に息子の死を知らせる間をも惜しむように、「急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ます」とのみ説明し、カルメル山にいるエリシャのところに急ぎます(4:21-25)

エリシャのしもべゲハジが安否を尋ねても、まともに答えようとせずエリシャの「足にすがり」つきます。ゲハジは彼女を追い払おうとしますが、エリシャは、「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主(ヤハウェ)はそれを私に隠し・・」と言います(4:27)

彼は、何が起こったのかという情報よりも、彼女の心の悩みをじかに感じ取ろうとしています。それに対し彼女は、失礼にも、「私がご主人様に子供を求めたでしょうか・・」と感情的に訴えますが(4:28)、エリシャは彼女の見当違いな怒りを優しく受け止めます。

その上で、しもべゲハジに自分の杖を持たせて、その子のもとへと急がせます。

 

それに対し、母親は、「主(ヤハウェ)は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません」(4:30)と答えます。これはかつてエリシャがエリヤに対して言ったことばに似ていますが(2:2,4,6)、この際は、「離しません」という必死さが強調されています。

自分がかつて言ったことばを聞いて、深く心を動かされたことでしょう。それでエリシャ自身が、彼女の後について子供を訪ねます。

 

先に着いたゲハジがエリシャの杖を子供の上に置いても何も起きませんでしたが、エリシャは子供の死を見てもあきらめることなく、他の人々を外に出して、「主(ヤハウェ)に祈った」(4:33)のでした。このシュネムの女もエリシャも、「主(ヤハウェ)は生きておられます」と語っていますが、それは口先の告白ではなく、不可能を可能にしてくださる全能の主への信頼が伴っています。

そしてエリシャは、「その子の上に身を伏せ、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上に重ねて、子供の上に身をかがめます」(4:34)。彼は既に死んで冷たくなっている子供に徹底的に寄り添ったのです。

すると、「その子のからだが暖かくなってきた」と描かれます。これは、最初のアダムが、土地のちりで造られた後、神の「いのちの息」を受けて、「生きものとなった」と記されていることを思い起こさせます(創世記2:7)。彼女は彼の「足もとにひれ伏し、地にひれ伏し」(4:37)ます。何という感動の瞬間でしょう。

 

これはイエスがナインという町やもめの一人息子を生き返らせたことに似ています。そのとき人々は、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って「神をあがめ」ましたが(ルカ7:16)、彼らはイエスをエリシャの再来と見たのでしょう。

エリシャの名は「神は救い」、イエス(ヨシュア)は「ヤハウェは救い」という意味があります。私たちのまわりには、ときに余りにも簡単に人生を諦めてしまったような人がいるかもしれません。

私たちはそんな一人ひとりに寄り添いつつ、「主(ヤハウェ)は生きておられる」という福音を、私たちの呼吸を通して伝えてゆくことができるのではないでしょうか。

 

3.エリシャが釜の中の毒を消し、少ないパンで百人の預言者を養った奇跡 (4:38-44)

  エリシャがヨルダン川沿いのギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こります。彼は大きな釜を火にかけさせ、煮物を用意させますが、預言者の一人が摘んできた草は毒草でした。

彼らはそれに気づきますが、エリシャは麦粉でこの釜の毒を消し、彼らが食べることができるようになりました(4:38-41)

 

また、ある人がエリシャのもとに「パン二十個と、新穀一袋を」持ってきましたが、彼はそれを百人の預言者の仲間に振舞うように命じます。

召使は「これだけで、どうして百人もの人に・・」と言いますが、エリシャは、「主はこう言われる。彼らは食べて残すだろう』と述べ(4:43)、実際、そのようになりました。

 

飢饉のなかでも主は預言者たちを養ってくださいました。それはまさに、「主(ヤハウェ)を恐れる者には乏しいことがない」とあるとおりでした(詩篇34:9)

そして、イエスに従った男だけで五千人にのぼる群集が、人里離れた場所で飢えて動けなくなりそうなときにも、主は奇跡的に増やしたパンで養われました。

 

4.アラムの将軍ナアマンのいやしと信仰 5章)

   イスラエルの北の国アラム(現在のシリヤ)の将軍ナアマンはツァラアトに冒されていました。これは当時、隔離の対象となる皮膚病でしたが、彼は尊敬されていました。「それは、(ヤハウェ)が以前に彼によってアラムに勝利を得させられたからである」(5:1)と記されます。彼は敵となり得る将軍でありながらイスラエルの神、主の選びの器でした。

そして、彼の妻にイスラエルの娘が仕えていましたが、この娘も彼を心配し、「サマリヤにいる預言者」にいやしを求めるように進言します。

ナアマンはアラムの王の紹介状を受けて大量の贈り物をもってイスラエルの王を訪ねます。しかし、王は自分が言いがかりをつけられたと思い、自分の衣を引き裂き、「私は殺したり、生かしたりすることができる神であろうか」(5:7)と言います。

 

そのことを聞いたエリシャは、ナアマンを自分のところに送るように願います。ナアマンは馬と戦車でやってきてエリシャの家の入り口に立ちますが、彼は直接会う代わりに使者を遣わし、「ヨルダン川に行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば・・・きよくなります」(5:10)と言います。エリシャはナアマンの目を、自分ではなくイスラエルの神に向けさせようとしました。

ナアマンはこの非礼に怒りを発しますが、部下はエリシャのことばに従うように、必死に進言します。ここに彼と部下の間の信頼関係が垣間見られます。そして、「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは・・・幼子のからだのようになり、きよくなった」(5:14)と記されます。

私たちも同じように、心が付いて行かなくても行動において主に従うなら、その従順に主は報いてくださいます。

 

その後、ナアマンはすぐに引き返してエリシャに贈り物を受け取るように懇願します。エリシャはこのときは自らナアマンに対面し、「私が仕えている主(ヤハウェ)は生きておられます。私は決して受け取りません」(5:16)と言います。エリシャにとって、これは自分の働きではなく主ご自身のみわざであったからです。

するとナアマンはイスラエルの土を運んで自分の家に祭壇を築き、「これからはもう、主(ヤハウェ)以外のほかの神々に・・いけにえをささげません」(5:17)と約束します。敵になり得る隣国の将軍が、イスラエルの土を大切に運び、その地を守る神のみを礼拝するというのは、当時としてはあり得ない不思議でした。

 

ただそこにひとつ例外として、「私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みとします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します・・・どうか、主(ヤハウェ)がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」(5:18)と願います。これは王の偶像礼拝を補助しながら、自分もそれに加わるということを意味します。

これは基本的に、聖書全体では神の民には許されていないことですが、エリシャは、「安心して行きなさい」(5:19)とのみ答えます。アラムの将軍ナアマンを回心させたのは主のみわざでしたから、エリシャがナアマンの指導者になることは避けたとも解釈できます。

しかも、ナアマンがアラムの王に忠実に仕えることを支持することによってアラムとの平和が果たされることになります。

 

このことは私たちが仕事の上で偶像礼拝の援助をせざるを得ないときの慰めとしてよく用いられます。たとえば建設会社に勤めながら、地鎮祭を手伝わざるをえないような場合です。教会としては一つひとつの事例を細かく検証することはせずに、一人ひとりの良心に任せます

もちろん、私たちは偶像礼拝とまぎらわしい行為から決別することを約束して洗礼を受けましたから、ナアマンのことを全面的に肯定することもできないとも思われます。

エリシャはナアマンの行為を全面的に許したというよりは、彼がそのことに葛藤を覚えていること自体を、(ヤハウェ)への信仰の表現として評価したものとも言えましょう。

 

 ところで、エリシャのしもべゲハジは、主人が贈り物を拒否したことに憤慨し、「主(ヤハウェ)は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて、絶対に何かをもらって来よう」(5:20)と言います。彼は、エリシャと同じことば(5:16)を使いながら、私腹を肥やすことしか考えていない偽善者です。

彼はナアマンから贈り物を受け取ることによってその病をも受け取ることになりました。エリシャは彼に、「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか」(5:26)と言ったのは印象的です。それは私たちにとって、私たちが罪を犯すとき、イエスのこころも痛んでいることを意味します。

 

   ナアマンのいやしの記事は、イエスが十人のツァラアトに冒された人を癒した記事に通じます。そのとき癒されたユダヤ人たちは立ち去り、一人のサマリヤ人だけが主の「足もとにひれふして感謝しました」

イエスは彼に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(ルカ17:11-19)。イエスが喜ばれた信仰は、ユダヤ人が軽蔑する背教者サマリヤ人の中にあったのです。

 

またイエスは、それ以前に、自分の郷里ナザレの不信仰を責めて、「預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが・・・シリア人ナアマンだけがきよめられました」(ルカ4:27)と言っておられます。

ナアマンは妻の女奴隷のことばにしたがってエリシャのもとにやってきました。ナアマンの信仰はまだまだ未熟でしょうが、神ご自身が彼を選び、信仰を導いてくだっていたのです。

 

5.水の中から斧の頭を浮かばせる奇跡  預言者の信用を守るため (6:1-7)

   預言者集団は住む場所が狭くなるほどに成長し、ヨルダン川で木を切り倒して家を建てようとします。そのとき一人が借り物の斧の頭を水の中に落としてしまいます。エリシャは一本の枝を切って投げ込み、斧の頭を浮かばせます。

これはイエスが神殿税を納めるためのステタル銀貨をペテロに命じて湖の魚から取り出させた奇跡に通じます。主はそのとき、「あの人たちをつまずかせないために」(マタイ17:27)と言われました。同じようにエリシャは預言者の仲間が他の人へのつまずきとならないように守ったのです。

 

6.火の馬と戦車がエリシャを取り囲んで守る (6:8-23)

   68節で「アラムの王がイスラエルと戦っていたとき」と記されますが、これは少なくともナアマンが癒された直後ではないことでしょうが、時代がわかりません。とにかく、このときアラムが陣を敷こうとする先々にイスラエルの備えができていました。

それでアラムの王は、内通者が自分の部下にいるのではないかと疑いました。すると、家来の一人が「預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げている」(6:12)という不思議な現実を知らせます。

それでアラムの王は、エリシャのいるドタンに大軍を遣わし、町を包囲します。この町はサマリヤの北14kmぐらいにありました。エリシャの召使は慌てふためきますが、エリシャは、恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言います。

そして彼が主に願うと、若者の目に、「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のが見えました(6:16,17)。それは、詩篇34:7に、「主(ヤハウェ)の使いが陣を張り 主を恐れる者を囲んで助け出してくださる」(私訳)と約束されているとおりでした。

そして彼らが襲ってくると、彼らの目は盲目にされ、北王国の首都サマリヤの真ん中に導かれます。イスラエルの王がエリシャに対応を伺うと、彼はアラムの大軍を傷つけず、盛大なもてなしをすることによって、彼らの戦意をくじくように言います。その結果、「アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なくなりました(6:23)

 

   イエスもご自分が十字架に向って歩み出されるとき、三人の弟子たちを連れて山に登られました。そのときイエスの「御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」(ルカ9:29)と記されています。

そこにモーセとエリヤまでもが現れたと描かれます。ペテロは三つの幕屋を建てたいと願いましたが、そう言っている間に、「雲が沸き起こって彼らをおおった」、雲の中から、「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け」という声が聞こえました(ルカ9:35)

この体験のことをペテロは後に、「私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです」と強調しています(Ⅱペテロ1:16)ペテロは復活のイエスに出会った後、このことを振り返り、目に見える悲惨の背後に神のご支配の現実を見られるようになったのでしょう。

つまり、私たちもこの地上での苦しみに立ち向かう際に、私たち自身が主の御使いによって守られ、また目に見ることのできないにとらえられていることを知る必要があります。目に見える現実に失望せずに、信仰によって歩むとは、今、ここで私が主に守られ、とらえられているという現実に、霊の目が開かれることです。

 

  本日の箇所にはイスラエルの王の名前が登場せず、一つひとつの話の関連も明確ではありません。何か意味のない奇跡物語の羅列のようにも見えますが、イエスの記事と結びつけると目が開かれます。

イエスは名もない貧しい人から有力な人まで、一人ひとりの必要に答えるとともに、ローマ帝国への武力衝突を避けさせるような発言を繰り返しました。主ご自身が人々の目をエルサレム神殿から生ける父なる神へと向けさせていました。

預言者エリシャはその働きにおいて、最もイエスに結びつく預言者です。

 

預言者エリシャの時代、北王国イスラエルには神殿がなく、人々は目に見える偶像に心が奪われていました。しかし、エリシャは人々の心をイスラエルの神に向けさせました

ここに見られる奇跡の数々は、イスラエルの滅びを惜しみ、最後に彼らに立ち返りの機会を与えようとする神の、「懇願する」かのような、あわれみのみわざです。

イエスの様々な奇跡も同じ意味がありました。しかし、ユダヤ人たちはそれを見ながら、イエスを退けました。そしてやがてイスラエルはローマ帝国によって滅ぼされました。

 

同じようにエリシャを通して示された神のあわれみにイスラエルが応答しなかったことによって、この国はアッシリヤ帝国によって、またエルサレムもバビロン帝国によって滅ぼされます。

パウロは、「神が私たちを通して懇願しておられるかのようです・・・神の和解を受け入れなさい・・神の恵みを無駄に受けないようにしてください・・・確かに、今は恵みのとき、救いのときです」(Ⅱコリント5:20-6:2第三版)と記しています。

そこには神の和解を拒絶する者へのさばきの宣告も含まれています。ナアマンシュネムの女も神のあわれみのみわざを無駄にしませんでした。その姿勢に倣うことが、一人ひとりに求められています。

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2018年9月 9日 (日)

詩篇100篇「全地の民よ 主の大庭へ」

                                       201899

       感謝の賛歌

(ヤハウェ)に喜び叫べ  全地よ。   (1)

(ヤハウェ)に仕えよ 喜びをもって。            (2)

御前に来たれ  喜び歌いながら。

知れ 主(ヤハウェ)こそ 神であられることを。    (3)

この方が私たちを造られた。私たちは主のもの

私たちは主の民、主の牧場の羊である。

  来たれ 主の門に  感謝をしながら、  (4)

    主の大庭へと 賛美しながら。

     主に感謝し 御名をほめたたえよ。

  それは (ヤハウェ)が いつくしみ深く   (5)

    主の恵み(慈愛:ヘセド)は とこしえで

     主の真実は 代々に至るから。

 

 

  詩篇100篇は、主日礼拝の招詞として最も頻繁に用いられる詩篇の一つです。上記の交読文は、日本語として意味が通じる範囲で、原文のリズムを生かした訳です。これは四組の三行詩に分けて読むことができます。まず全体を味わってみると、どのようなことに気づくことができるでしょう?

一組目と三組目はみな、主のご臨在への招きという方向が強調されています。またそこでは、「喜び」「賛美」「感謝」ということばが繰り返されますが、それぞれ異なったヘブル語が用いられていますが、基本的な意味はほとんど同じです。

そこに、主日礼拝において私たちに求められる姿勢が描かれています。私たちはみな、一つの礼拝の場所に喜びながら集い、主に仕え、主に感謝の賛美をささげることが求められているのです。

 

二組目では、地の民族ごとに神々と言われる存在は多くありますが、「(ヤハウェ)こそが神」であられ、その方との関係で私たちのアイデンティティーが決まると告白されます。

そして四組目では、主のご性質が翻訳困難な三つの代表的なヘブル語で描かれ、それをもとに主への永遠の賛美がささげられます。

 

私たちはモーセ五書から列王記まで旧約を読んできています。そこに描かれた主の救いのみわざとイスラエルの忘恩の姿勢、主の幕屋からエルサレム神殿の建設へのプロセスとその意味、北王国での主のみこころに反した礼拝儀式の問題を見て初めて、この詩篇の画期的な意味が理解できることでしょう。

 

ここには同時に、旧約から新約を貫く、礼拝の中心的な意味が描かれています。先のエリヤの記事ではバアルの預言者450人に対し、一人のエリヤが、「主(ヤハウェ)こそが神であり、バアルは神ではない」ということをイスラエルの民すべてに明らかにしたと描かれていました(Ⅰ列王18:21,37-39)

私たちの歴史は、「全地」のすべての住民が、「(ヤハウェ)こそが神である」と賛美する礼拝の完成へと向かっています。

 

1.「来たれ 主の門に 主の大庭へと」

 詩篇93篇以降では、主(ヤハウェ)の王としてのご支配の現実が歌われていました。たとえば詩篇96篇では「ささげ物を携え、主の大庭に入れ。主(ヤハウェ)にひれ伏せ、御前でおののけ、地のすべてのものよ。国々の中で語れ、『主(ヤハウェ)は王である』」と歌われていました910節私訳)。

93篇から99篇まで、「主(ヤハウェ)が全地の王である」と繰り返されます。この100篇はそれを締めくくるような、主の民への呼びかけの歌です。標題には「感謝の賛歌」と記されますが、これは「感謝のために交わりのいけにえ」また「ささげ物」との関係を示すと思われます(レビ7:11-15)

イスラエルの民は自分たちの収穫物を、主の幕屋または神殿の「大庭」に携えてきて、家族や奴隷とともに「(ヤハウェ)の前で食事をし、あなたの神、主(ヤハウェ)が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(申命記12:7)と命じられていました。

 

イスラエルの民が荒野の旅をしていたとき、主の幕屋の「大庭」は十二部族の真ん中にありましたが、主が彼らに約束の地を与えてくださった後は、幕屋は何度か移動しながら、最終的にはエルサレム神殿となりました。

彼らはこの祭りを自分たちの住んでいる町ではなく、たとえ遠隔地にあっても、エルサレムに神殿ができてからは、「主の門」をくぐって入った「主の大庭」にまで来ることが命じられていました。

 

  ダビデ、ソロモンの後にヤロブアムが北王国を分離独立させたときに、北王国の民が南王国の首都エルサレムに礼拝に行くことで国の正当性が疑われると脅威を覚えました。それで彼は、金の子牛をベテルとダンに据え、「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ、ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる」(Ⅰ列王記12:28)と呼びかけました。それが「主の怒り」を買って、北王国は滅亡に向かって行きました。

そのような中で、詩篇96篇でも100篇でもエルサレム神殿の門をくぐって、「大庭」に入り、そこで「感謝のための交わりのいけにえ」をささげることが命じられていたのです。

 

イスラエルの民は、特にバビロン捕囚からの帰還後は、自分たちの町々の会堂(シナゴーグ)で礼拝をしながら、年の三度の大きな祭りの際にはエルサレム神殿の大庭にまで巡礼してきて、そこで家族とともに主の御前で食事をし、主のみわざを喜び歌いました。

イエスの父ヨセフが過越の祭りに少年イエスを伴って毎年、北のガリラヤ地方から一週間近くもかけてエルサレム神殿に上ってきたのはそのためでした(ルカ2:41,42)。そして、主を恐れる者は、それを最も大切な家族の在り方、生き方として受け止めていました。

 

私たちの感覚からしたら、家族で主を喜び歌うなら、自分の身近な会堂で十分と思いますが、イエスを育てたヨセフは貧しい生活をしながらも年に最低一度はエルサレム神殿の「大庭」に来ることを最高の喜びとしていたのです。

イエスの十字架と復活で、エルサレム神殿は不要となりましたから、来たれ 主の門に 主の大庭へとという訴えは意味が変わって来ました。しかし、お金と時間をかけて、家族そろって礼拝の場に集い、そこでともに主のみわざを喜び歌い、ともに食事をするというのは、主の民にとっての最高の喜びであるべきという基本は同じです。

北王国は自分たちの都合に合わせた礼拝の形を造り出して滅亡に向かいました。現代のクリスチャンも自分の生活の都合に合わせた礼拝を考え、主を礼拝することを生活の基本に置かないなら、主の民としての独自性を失うことになりかねません。

ときに「ユダヤ人が安息日を守ったというよりは、安息日がユダヤ人を守ってくれたのである」と言われますが、同じように、「クリスチャンが主日礼拝を守ったというよりは、主日礼拝がクリスチャンを守ってくれる」とも言えましょう。家族がともに「主の大庭」に集って、主を礼拝することから、家族が守られるということを覚えたいものです。

 

2.いけにえを廃止した仏陀ではなく、いけにえをご自身で完成されたイエス

  私たちは無意識のうちに仏教やギリシャ哲学の影響を受けて、信仰を自分の欲望から自由になるための修行のように考えがちかもしれません。そうすると、わざわざ遠い教会にまで通って礼拝をささげることの意味が分からなくなります。

仏教は、紀元前5世紀のインドにおいて、バラモン教に対する改革運動として始まったと言われています。バラモン教では神聖な火を崇拝し、火の中に牛や山羊、羊をいけにえとしてささげることが礼拝の中心行為でした。それに対し、仏陀はそれらをこの世の生存を貪る行為として戒め、自分自身の心の情欲から自由になるための修行の道を説いたと言われます。

そのように聞くと、仏陀から約500年後のイエスも、旧約聖書にある動物をいけにえ廃し、隣人愛を説いた改革者としてとして見られるかもしれません。しかし、決定的な違いは、仏陀は約80年の地上の生涯を究極の安らぎの境地(ニルヴァーナ)のうちに終えたのに対し、イエスは極悪人のシンボルの十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)と叫びながら、死んでしまったということです。

この世の知恵ある人にとっては、仏教の方がはるかに合理的に見えるのも無理がありません。

 

しかし、イエスは、旧約聖書のいけにえを否定したのではなく、「ただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現わして」くださったのです(ヘブル9:26。しかも、イエスの十字架上の叫びは、私たちのすべての罪を負われた罪人の代表者となられた王としての祈りだったのです。

しかも、「わが神、わが神・・」という祈りは、詩篇22篇の冒頭に登場するダビデの祈りとまったく同じでした。そしてその意味を、イエスは説明するために、私たち一人ひとりを、この詩篇100篇の「主の牧場の羊」として認めながら、「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」、また、「その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです」と言われました(ヨハネ10:15,16

 

基本的に原始仏教は自力救済の修行の道でした。そこにイエスから数百年後のキリスト教の教えが混じって、大乗仏教が生まれ、その経典が6世紀の日本に伝わってきました。また、ヨーロッパではローマ帝国の知識人の間に広まっていたギリシャのストア哲学の教え、自分の心の平安を精神修養で生み出す教えが、キリスト教を変容させたとも言われます。

私たちの福音理解のうちには、日本人の血肉となった仏教の無常観、欧米の個人主義的な精神修養の道徳観が混じっています。しかし、聖書に描かれた信仰生活は個人的な精神修養ではなく、主を礼拝するために、家族にとって貴重な時間とお金を費やす、具体的な行動を伴った生き方でした。

私たちは近代合理主義的に信仰を見直しているようでも、実は、二千数百年前からある仏教やギリシャ哲学の感覚から抜け入れていないだけとも言えましょう。

 

世界の歴史を見て明らかなことは、仏教もストア哲学も、この世界の経済活動や政治制度に積極的な貢献をすることに失敗しています。あまりにも浮世的な教えになっているからです。

しかし、聖書にはお金の積極的な生かし方や、階級社会や女性蔑視への具体的な警告が満ちています。それは聖書が描く礼拝が、具体的なお金と時間の使い方に関わるものだからです。

江戸時代末期に疲弊した農村改革に指導力を発揮した二宮尊徳の教えを、後代の人が、「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」とまとめたとのことです。それこそ、出家を勧める原始仏教とお金の話に満ちた聖書信仰の違いを明らかにしているとも言えましょう。聖書の教えは、精神修養をはるかに超えた現実的なものです。

 

3.「主(ヤハウェ)に喜び叫べ 全地よ・・・この方が私たちを造られた」

冒頭の「(ヤハウェ)に喜び叫べ 全地よ」という呼びかけは、原文では984節と全く同じ表現です。その直前には、「主は イスラエルの家への 恵みと真実を覚えておられる。地の果てのすべての者が 私たちの神の救いを見ている(詩篇98:3と記されています。

それは、主がイスラエルに対してご自身の契約を変わることなく守ってくださるという「恵み(ヘセド)と、ご自身の約束に対する「真実」を、「地の果てのすべての者が」、イスラエルに対する「神の救い」のみわざとして認め、イスラエルの神を礼拝しに来るということを現わしています。

なおこの詩篇100篇の終わりでは、「主の恵み(慈愛:ヘセド)は とこしえで 主の真実は 代々に至るから」と繰り返されます。「恵み(慈愛、変わらない愛:ヘセド)と「真実(エメット:アーメンと同じ語源)」こそ神のご性質を現わす最高のことばです。

なおその直前には「主(ヤハウェ)が いつくしみ深く」と記されますが、「いつくしみ深い」とは、ヘブル語で最も一般的な善を現わすトーブで、「良い」とも訳されます。神がご自身の六日間の創造のわざをご覧になって「良かった」と認められたということに通じます。

 

不思議にもイザヤ書の最後は、「すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する(66:23)と、全世界の人々が「聖なる山エルサレム」の「(ヤハウェ)の宮」に、主への贈り物を携えてくる様子が描かれています(66:20,21)

一方、この礼拝への招きを拒絶する者たちへの永遠のさばきが、「わたしに背いた者たちの屍・・のうじ虫は死なず、その火も消えず、それはすべての肉なる者の嫌悪の的となる(66:24)と描かれています。

それは、この世の人々が思い浮かべる道徳的な行いの違いによる天国と地獄と区別ではなく、主を礼拝することへの招きに応じるか、それに「背く」かの違いとして描かれているのです。

 

イザヤ4522節には、地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ、ほかにはいない」と記されています。

そしてこの詩篇100篇でも、「(ヤハウェ)に喜び叫べ 全地よ。 主(ヤハウェ)に仕えよ 喜びをもって。 御前に来たれ  喜び歌いながら。 知れ 主(ヤハウェ)こそ 神であられることを。 この方が私たちを造られた。私たちは主のもの 私たちは主の民、主の牧場の羊である」と歌われています。

それは民族的イスラエルを超えた全世界の民への招きとして理解すべきです。

 

私たちは一人ひとりがすべて、主によって創造された「主のもの」であり、「高価で尊い」存在です。ただ同時に「主の民」として、共同体の一員として生かされています。また同時に、主に養われている「主の牧場の羊」と呼ばれます。

」は100匹では生きることができない極めて臆病で、見通しがきかない近視眼的な愚かな動物です。「羊飼い」がいなければ、悪い水を見分けることもできず、崖から落ちたり、凶暴な狼が近づいているのにも気づかずに、立川に向かってしまうような存在です。それが人類の歴史が戦争の繰り返しであることを見るだけで明らかになっていることでもあります。

しかし、私たちは「ok牧場」に属する「主の羊」です。すでに私たちは信頼できる羊飼いのもとで養われています。そして私たちの主イエスは先のヨハネの福音書でも、「わたしが来たのは、ぼくちんたちがいのちを得るため、それを豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(10:10,11)と言われました。

 

また私たちが日々、額に汗を流して働いて収入を得たとしても、それは自分の力で獲得したという以前に、すべては主の恵みの中で起きていることです。働くことができること自体が何よりの恵みです。

私たちの心も体も能力も、すべて主の賜物であり、私たちは同じように主によって創造された方々との交わりの中で働きを進めているに過ぎません。この世界のすべての環境が、主からの恵みの賜物です。私たちはそのすべてを主に感謝するのです。

使徒パウロは自分の知恵や力を誇っているコリントの信徒に向けて、「いったいだれが、あなたをほかのひとよりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」と戒めました(Ⅰコリント4:7)

親からもらった身体も能力も、もとを正せば、すべて神からの賜物です。

 

 

40000000.主への礼拝で私たちが表現すべきこと

 なお、4節に記される「主の大庭」への招きですが、旧約の時代には、収穫物の「十分の一」を神殿に携えてきて、また、家族とともに「牛や羊の初子を食べなさい」と命じられていました(申命記14:22,23)

しかも、ここに記された「十分の一」は、民数記1821節で命じられている「レビ人のためにささげる十分の一」とは別のものです。

また、その際にささげられるいけにえは、罪の贖いのためではなく、神と隣人との「交わり」を喜ぶためのもので、それは大きな家族の交わりの中で人を食べられるものでした。

 

新約においては、「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです」と命じられています(ヘブル13:15,16)

具体的には、主への心からの賛美と、食事を分かち合うことが、私たちが教会に集ってなすべきことです。ともに食事をすることは、古代教会の時代は礼拝の一部でした。それが現在は、聖餐式として象徴的に守られています。

 

なお、「賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実」というと「讃美歌を歌うこと」と考える人もいますが、たしかにそれはその一部ではありますが、礼拝説教や信者の生きた証しこそがその中心です。

ルターは主の御言葉を教える手段として多くの讃美歌を作りました。またアメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンはその日の説教に合わせた讃美歌を作ることに心血を注ぎました。アメイジング・グレイスは彼自身の回心の証しであるとともに、彼自身のみことばの解き明かしの要約として作られたものです。

 

また全体を通して、「」を表現することが訴えられていますが、1節の「喜び叫ぶ」とは勝利の雄叫びのようなものです。英語ではmake a joyful noiseと訳されるように、美しい歌というよりも「叫び」です。

2節の「喜びをもって」とは、日本語の「メンチカツ」にもっとも近い「歓喜」とも訳されることばです。

また「喜び歌う」とは、喜びを歌で表現するというニュアンスがあり英語ではringing cry と訳されることもあります。

4節の「感謝しつつつつつつ」とは先に述べたように「感謝のいけにえ」とも訳されることばで、感謝をささげもののような形に現わして主の宮に携えてくるという意味があります。

賛美しながら」と訳された言葉は、詩篇全体をまとめたような意味があり、これこそ私たちが「主を賛美する」ということの核心を表す言葉です。

また、「御名をほめたたえよ」と訳された言葉は、英語では一般的にBless his nameと訳され、主の名にふさわしい栄光を帰することを意味します。まさに、これこそ主を礼拝することの「こころ」を現わすことばです。

 

私たちは毎週、「主の大庭」である礼拝の場に集い、主の救いのみわざの全体像を思い起こし、主の勝利への雄叫びを上げ、喜びながら主に仕え、主のみわざを歌いながら主に御前に集います。

その際、私たちは、主の被造物であり、同時に、最高傑作でありながら、謙遜に自分を「主の牧場の羊」であり、主の恵みなしには一瞬たりとも生きられないことを認めます。そして私たちは、感謝のいけにえを目に見える形でささげるために、主の御前に来ます。

そして、礼拝の場で、主の救いのみわざの全体像を賛美します。そして主に感謝しつつ、主の聖なる御名をたたえます。そして、主の御名のご性質は、「(トーブ)」「恵み(ヘセド)」「真実(エメット)」として、それが「とこしえ」に続き、世代を超えて明らかにされると歌います。

そして、主のみわざの目的とは、この主への真心を伴った礼拝と賛美が、全世界に広げられることに他なりません。そして、全世界で主の御名があがめられるとき、そこには神の平和(シャローム)が満たされます。

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