2006年4月 7日 (金)

ルカ8:40-56「恐れないで、ただ信じなさい」

去って行くのが惜しまれる人、「いなくなってせいせいした!」と言われる人がいます。ここに登場するふたりの「娘」はまさにそんな対極にいたように思えますが、ここに誰も思いつかないような展開が見られます。それはイエスが、邪魔者扱いされる人の内に隠された心の真実(信仰)を見てくださったからです。

1. 「この女は、イエスのうしろに近寄って・・着物のふさにさわった」

「イエスが帰られると」(40節)とありますが、主はガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地からカペナウムに戻ってきました。それを「群集は・・待ちわびて」いましたが、そこで、「ヤイロという・・会堂管理者」が、「イエスの足もとにひれ伏し」ます(8:41)。彼は、会堂での礼拝全体を管理し、説教者を決める権限のある人で(使徒13:15)、誰もが一目を置く町の有力者ですから、まさに前代未聞の情景です。それは、彼の「一人娘・・十二歳ぐらい」が「死にかけていた」からでした(42節)。ここでは、イエスが神の「ひとり子」であると言われるのと同じことばが用いられています。しかも、当時で言えば大人の一歩手前の年齢です。これは、町の人全体の同情を買うに値する一大事で、誰もがこの子の癒しを願ったことでしょう。そして、イエスがヤイロの家に向うとき、「群集がみもとに押し迫ってきた」というほどの集団移動が起こります。

そこに、「十二年の間長血をわずらった女がいた」(8:43)と、ヤイロの娘の年齢と同じ年月苦しみ続けた女が登場します。これは、肉体的な痛みばかりか精神的な孤独感に圧倒される病です。当時の律法では、女性は、月経の七日間は、「誰でも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる」と、引き篭もりが命じられましたが、「長い日数にわたって血の漏出がある場合・・彼女は月のさわりの間と同じく汚れる・・・その女のすわるすべてのものは・・・汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる」と言われていました(レビ15:19-27)。つまり、彼女は十二年間、汚れた女として、人々の冷たい視線を浴び続けなければいけなかったのです。マルコの並行箇所によると、彼女は、「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」(5:25)ほどでしたから、まさに「生けるしかばね」と見られたことでしょう。このふたりの十二年には、まさに光と影の対照が見られました。しかし、今、ふたりとも絶望的です。

そんな中で、この女は、「イエスのうしろに近寄り」(8:44)ます。ヤイロはイエスの前にひれ伏すことができましたが、この女は自分の身を隠さなければ近寄れなかったのです!しかも、誰からも目を背けられる存在だからこそ、人々の心がヤイロの娘のことで一杯になっている今が、イエスに近づく千載一遇のチャンスでした。それにしても、その距離は何と長く思えたことでしょう。人々を押し分け、手を必死に伸ばしながら、ようやく、イエスの着物の「ふさ」までたどりつきました。これはタリスと呼ばれる祈りの装束の四隅についている「ふさ」で(民数記15:38,39)、イエスと父なる神との祈りの交わりの象徴的なものでした。彼女は、盲目的にイエスに近づいたのではなく、神からのいやしの力を受ける象徴を見ていたのです。

「すると、たちどころに出血が止まった」44節)と簡潔に記されていますが、それは、とうてい言葉では言い尽くせない大きなできごとでした。彼女の十二年間の念願が、今成就し、世界が変わったのです。それは、彼女が、どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、神への望みを決して捨てなかったからです。

2. 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」

このときイエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」(45節)と問われます。人々は、自分が責められているかのように勝手に誤解し、ペテロも、その質問自体が愚かしいかのように、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言います。誰もイエスのみこころを理解できてはいません。

それで、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」(46節)と言われます。当時は、汚れた人に触れられると、汚れが乗り移ると考えられていましたが、イエスは反対に、ご自身のうちに宿っているきよめの力が引き出されたことを感じました。イエスに触れる人は、その汚れがイエスのきよさに呑み込まれるからです。これをルターは、「喜ばしき交換」と呼びました。それは丁度、結婚において夫のすべてのものが妻によって共有されることと同じです。この女は、信仰によってイエスと結びつき、イエスのきよさを自分のものとでき、その汚れから自由になれたのです。

それにしても、イエスは、背後から近づく人の思いまで感じ取られたのです。これは「注目の奇跡」と呼ばれます。私たちが目の前の人の痛みすら分からないのとは対照的です。それで、「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出」ます(47節)。イエスが単なる宗教家であれば、彼女に触れる人は、「夕方まで汚れる」(レビ15:19)はずですから、イエスは働きができなくなります。つまり、この女は、ヤイロの家に急ぐイエスを立ち止まらせたばかりか、その癒しのみわざさえできなくさせる可能性があったのです。身勝手な女と非難されても仕方がありません。だからこそ、この女は、怯えていたのではないでしょうか。しかし、彼女は、実際は、イエスご自身に触れることを避け、着物の「ふさ」に触れただけなのです。

しかし、このとき初めて、彼女はイエスの「御前に」「進み出て」ひれ伏すことができ、「すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに癒された次第とを話し」ます。何と、いつも身を隠しながら生きてきた人が、皆の前で、憧れの方と顔と顔とを合わせて語り合っているのです!このときイエスは、「娘よ。」と語りかけます。人々は、ヤイロの「ひとり娘」のことで心が一杯ですが、「あなたもかけがえのない神の娘だ」と言っているかのようです。そればかりかイエスは、「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」(48節)と言いました。当時の常識では、多くの人は、この長い苦しみを、不信仰のゆえに神ののろいを受けたためと解釈したことでしょう。しかしイエスは、正反対に、彼女の信仰が癒しを起こしたと断言しました。イエスの弟子の中に、これほどの賛辞を受けられた人はいません。それは彼女が、信仰の父アブラハム同様に、「死者を生かし、無い(無価値な)ものをある者のようにお呼びになる方」を信じ、また、「望みえないときに望みを抱いて信じた」からです(ローマ4:17,18)。この結果、彼女は、日陰で生きる者から社会の真ん中に生きる者へと変えられました。それこそイエスの癒しの目的です。

3. 「恐れないで、ただ信じなさい」

ところでこの間、ヤイロはさぞあせって、「私の娘は今にも死にそうなのです。この女の癒しとカウンセリングは後回しにしても良いのでは・・・」と思ったことでしょう。そんなとき、会堂管理者の家から、「あなたのお嬢さんはなくなりました」(49節)という知らせが届きます。人々も、「この女が、イエスを足止めしている間に・・・」と非難の目を注いだことでしょう。それにしても、この使いが、「もう、先生を煩わすことはありません」と言ったのは、余りに実務的です。イエスは、それに対し、ヤイロに向って、「恐れないで、ただ信じなさい(50節)と言います。これは、長血の女の信仰に習い、どんな暗やみの中にも神にあって希望を見続けるようにとの勧めです。「そうすれば娘は直ります」と言われるのは、イエスをお招きするのに遅すぎることはないからです。私たちも、愛する人が死んだ後で、なお信じ続けることができます。それは、キリストにつながるすべての人は、終わりの日によみがえり、新しい身体を受けることができるからです。それこそが、究極の癒しです。私たちはこの希望の故に、お葬式で心から主を賛美することができます。

   イエスは三人の弟子だけを伴ってヤイロの家に入ります。人々が泣き悲しんでいる中で、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」(52節)と大胆に言います。しかし、「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」(53節)のでした。しかし、イエスは、神の目からこの娘の死を見ていたのです。私たちの肉体の死も、「イエスにあって眠った(Ⅰテサロニケ4:14)状態に過ぎません。

   イエスは、「子どもよ。起きなさい」と言われます。マルコによると、イエスはこの少女の手を取りながら、アラム語で「クーームィ」と言いつつ起き上がらせたのだと思われます(5:41)。同じように、神は終わりの日に、私たちひとりひとりの手を取って、死者の中からよみがえらせてくださるのではないでしょうか

   「すると、娘の霊が戻って」(55節)とは、神がアダムを土地のちりから創造されたとき、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)ことを思い起こさせます。私たちは、神の御許しがなければ一瞬たりとも生きていることができない存在です。「両親がひどく驚いていると、イエスはこのできごとを誰にも話さないように・・」と命じます。それは、死んだはずの人が生き返ることはあくまでも例外であり、この少女もやがて地上の命を終えることがあるからです。私たちは、自分の希望を、この地上のいのちを越えた、終わりの日の復活に結びつける必要があります。それこそが、神のみこころです。人の心が奇跡ばかりに向かい、この地上の自然の営みを受け入れることができなくなるのは神の御心ではありません。

  マタイもマルコもヤイロの娘と長血の女の癒しをセットに記します。もし、ヤイロの娘が生き返らなかったら、長血の女の癒しは人々から祝福を受けることはできなかったに違いありません。一方、人々がヤイロの娘のことに心が向っていなければこの女はイエスの背後に近づくことはできませんでした。イエスは、この対照的な十二年を過ごしたふたりを、同じように「神の娘」として愛されたのです。そこに神の眼差しを思うことができます。それは、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるために、じっと見つめておられました」(詩篇10:14)とある通りです。この出来事の後、この女とこの娘の間に、どんな交わりが生まれただろうかなどと思いめぐらすと楽しくなれます。同じように、過去や現在の状況があなたにどんなに暗く見えても、イエスは今も、「恐れないで、ただ信じなさい」と語っておられます。 

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2006年4月 5日 (水)

詩篇77篇 「慰めがないときの慰め」

詩篇77篇

                   指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌

私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ。                        (1)

 私は神に向かって声をあげる。すると、神は聴いてくださる。

苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばしながら、    (2)

 私のたましいは慰めを拒んだ。

私は 神を思い起こし(remember)、そして、嘆く。                       (3)

 思いを巡らし(meditate)、私の霊は衰え果てる。                セラ

あなたは、私のまぶたを閉じさせない。                           (4)

 私の心は乱れて、もの言うこともできない。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した(consider)。                 (5)

  夜には、私の歌を思い起こす(remember)                              (6)

私は 心のうちで思いを巡らし(meditate)

私の霊は、(答えを)探り求める。

   

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。                           (7)

 もう決して、目をかけてくださらないのだろうか。

主の恵み(ヘセッド、unfailing love)は、永久に絶たれたのだろうか。            (8)

  約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。                            (9)

  もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」 セラ

                                                 

そして、私は言った。「私が苦しんでいるのはこれだ。(My sorrow is this:         (10) 

  いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ。」 the changing of the right hand of the Most High!)

私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう(remember)。                     (11)

 まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう(remember)

私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ(reflect)、               (12)

 あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう(meditate)

神よ。あなたの道は聖です。                                 (13)

 神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。

あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、                      (14)

 国々の民の中に御力を現される方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。                  (15)

 ヤコブとヨセフの子らを                         セラ

             

水は見ました。神よ。水はあなたを見て、わななきました。               (16)

   大いなる水(創世記1:2原文「テホーム」)さえもまた、震え上がりました。

雲は水を注ぎ出し、雷雲(らいうん)は声を上げ、                        (17)

 あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。

あなたの雷(いかずち)の声は、いくさ車のように鳴り、                   (18)

 いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。

あなたの道は海の中に、その小道は大水の中にありました。              (19)

  それで、あなたの足跡(footprints)を見た者はありません。

あなたは、ご自分の民を、羊の群れのように導かれました。               (20)

  モーセとアロンの手によって。

                          (2006年高橋改訳 へブル語原文から、英語はあくまでも参考) 

人はしばしば、苦しみに合うと、「どうしてこんなことに・・・」と原因を探りながら、過去のことを後悔して自分を責め、ますます落ち込んでゆくという空回りに陥ります。そして、将来への不安から呼吸さえも浅くなることがあります。本来、そんなときこそ、神に必死に祈るべきなのでしょうが、こころの内側には神への不信が沸き起こっており、祈る気力すら湧かないということになります。どうしたら良いのでしょう?

1.「私のたましいは慰めを拒んだ・・・ 主の恵みは・・絶たれたのだろうか・・・」

  私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ・・・。すると、神は聴いてくださる」(1)とは、信仰の基本です。キリストですら、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いとをささげられた」(ヘブル5:7)からです。ただ、そのように、「苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばす」ようにして必死に主の助けを求めながら、「私のたましいは慰めを拒む(2)ということがあり得ます。たとえば、「主は、あわれみ深く、情け深い」(出エジプト34:6)と言われるのを聞きながら、「それでは、なぜこんな不条理がまかり通るのですか・・」と訴えたいと思うことがあります。しかも、落ち込んでいるとき、問題の解決以前に、ただ悲しみをそのまま受け止めて欲しいと願うのは、人としての当然の感情です。イエスですら、十字架にかけられる直前の日に、ナルドの香油をご自分の頭に注いでもらうことで深い慰めを受けられたのですから。「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つこととして描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。人は、落ち込むとき、「自分は何でこうも弱いのか・・」と自分を責めて、悪循環に陥ってしまいがちですが、そんなときに、その人の自己嫌悪に拍車をかけるようなことをしてはなりません。

この著者は、「神を思い起こすことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し(3)、また、静まって思いを巡らすことが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。実際、私たちも、主の御前に静まることで葛藤が増し加わることがあります。しかし、そこに希望があります。それは、その人の「嘆き」、出口のない空回りではなく、主に向っているからです。多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向って呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向っての「呼吸」なのですから・・。

人は、悩みが深くなると、眠ることができなくなります。そんなときに、自分の弱さを責める代わりに、神に向かって、「あなたは、私のまぶたを閉じさせない・・」(4)と訴えるとは、何とも不思議です。しかも、「昔の日々」(5)の恵みや自分の心を震わせた「歌を思い起こす(6)ことで、感謝ではなく、神への不満が引き出されるとは何とも皮肉です。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。ただ、この作者は、「心のうちで思いを巡らし」たことを、自分で飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します(7-9節)。「もう決して、目をかけてくださらないのだろうか」とは、神の選びへの疑問であり、「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか・・」とは、神の真実な約束への「疑い」を真っ向から表現するものです。「もしや、怒って・・」とは、自分に原因があると思う中で、絶望して行く様子です。しかし、神に対する疑いを、神に向かってぶつけることこそ、信頼の証しかも知れません。

2.  「私が苦しんでいるのは・・・いと高き方の右の手が変わるから」

そのような中で、著者は突然、「私が苦しんでいるのはこれだ。いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ」(10)と言います。これは神への不満の表現のようでありながら、同時に、自分が理解できない神のみこころの神秘への信頼でもあります。まさに信仰と不信仰が交差するこの詩篇の転換点です。

たとえば、ヨブがあまりも不条理な苦しみにあったのは、神がサタンにそれを許された結果でした。まるでヨブが、「いと高き方の右の手」の中で、もてあそばれているかのようです。しかも、彼にはその理由を知ることは許されていません。それでも、彼は、神の語りかけを聞くという体験を通して、自分の苦しみが、神のさばきではなく、あわれみに満ちた選びから始まっていることが分かり、「あなたには、すべてができること。どんな計画も成し遂げられることを知りました」(42:2)という告白へと導かれます。また哀歌の著者も、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)と告白しますが、それが神への信頼の表現であるのは、みことばをとおして神の救いのご計画が理解できた結果でした。

私たちは多くの場合、わざわいの原因も分からなければ、わざわいを避けることもできませんが、それがすべて、神の御手の中で起こっていることだと受け止められるなら、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と告白して安心することができます。

しかも、それは最終的には、私たちの地上の生涯の枠を越えた時間の中で起こることでもあります。人生は、「露と落ち、露と消え行く」ほどに、はかないものですが、この地上のいのちを、神の救いのご計画の全体像から見直すときに、私たちは究極の慰めを受けることができます。日本の歴史だって1500年前ぐらいの記録しかないというのに、三千数百年前に記された聖書の中には、人間がどのように誕生し、どのように堕落し、今、どこに向かっているのかという全体像を見ることができるからです。しかも、その確かさは、星の数ほどの多くの人々の人生を導き、生かしてきたという実績で証明されています。

3.「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。」

著者は、ここで、自分の記憶にある「遠い昔の年々」(5)よりもはるか昔の、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたときにまでさかのぼって、「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう」(11、12節)と告白します。それは、神がご自身の民の叫びに耳を傾けられ、何と、天を押し曲げて降りてこられ(詩篇18:9)て、エジプトの大軍と戦い、神の民を救ってくださったという、歴史に現された具体的な生きた救いのみわざです。

そして、「神よ。あなたの道は聖です・・」とのことばで、私たちの目は、自分ではなく神に向けられ、神の視点から歴史を見るようにと導かれます。「神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。ヤコブとヨセフの子らを」(13-15節)とは、神のみわざが、私たちの正しい行いに対する報いである以前に、不思議な神の選びとあわれみから生まれているという告白です。私たちの救いは、自分の信仰以前に、神の愛の眼差しから始まっています。そこに究極の慰めがあります。

「水は見ました・・」(16)とは、出エジプトの際、紅海の水が真っ二つに分けられたことを指します。しかも、「大いなる水」とは、創世記1章2節での全地を覆っていた水ですが、それさえも、神の御前で「震え上がる」というのです。そして、この著者は、かつて、「神に向かって声を上げ・・叫んで」いましたが、神は、はるかにまさる大きな「雷雲の(17)「雷の(18)を出しながら、救いの御手を、ご自身の民のために差し伸べてくださったというのです。そして、神にとって、その海にできた道は、「小道」(19)にしか過ぎないもの、神の小指のわざに過ぎません。そして、神の「足跡」(19)は、海の中に消えていますが、それは救われた民を通して確かに証しされています。それは、まさに多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩に表わされているように、神が私たちを背負って歩んでくださった記憶でもあります。

しかも、これらのみわざの目的は、神がご自身の民を贖い・・ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20)ことにあったのです。イエスも私たちに向って、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません(ヨハネ10:27,28)と約束してくださいました。そして、その神の御手は、同時に、イエスの御手であり、それらの御手の現われとして、「モーセとアロンのがあり、また、私たちの回りの目に見える人々の手があるのです。神が数々の不思議なみわざをしめしてくださったのは、私たちを奇跡の奴隷にするためではなく、この世界の毎日のすべての現実が、神の御手の中にあることを教えるためなのです。 

ドン・モーエンは、義理の妹夫婦が交通事故で9歳の息子を失い、三人の子供も重症を負ったという知らせを聞き、何の慰めも言えないという無力感に襲われます。そのとき、以下の歌が生まれました。この曲は、今、重度の鬱病になった人をはじめとして世界中の困難を抱えた方々の慰めになっています。

「神は、道を造ってくださる。道が何もないと見えるようなところにも。/神は、私たちが見えない方法で働かれ、私のために道を造ってくださる。/神は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、愛と力を日々新しく与えてくださり、神は道を造ってくださる。神は、道を造ってくださる。/神が荒野の道に私を導かれることがあっても、私は砂漠の中に川を見ることさえできる。/やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。/神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

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詩篇55篇「あなたの重荷を主(ヤーウェ)にゆだねよ」

「神に委ねることなどできません!」と、末期ガンに苦しむご婦人が言いました。残されるふたりの少年のことを思いながら「神よ。どうして!」とうめいていました。しかし、詩篇の中にその同じ気持ちが記されていること発見したとき、彼女は不思議な平安に包まれました。

最も神を必要とする時に、神が見えなくなったとしても、そこから新しい祈りが始まります。

 

1.  「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」

  著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいます。1-5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったのです。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」(2節私訳)という感情を味わうかもしれません。

私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。その時、ゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37)と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。そして、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださいます。

心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして、混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉ですが、それで周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。この人は、自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしています。それは感情に振り回されないためのステップです。彼は、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、私はひどくおびえています」(45節私訳)という四つの並行文で、自分の恐怖心を認め、その中に入りこみます。あの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いています。彼はその気持ちを静かに味わい尽くそうとしています。

自分の感情を、あるがままに味わってみましょう!それは、心の奥底で神との交わりを体験する機会です。ナウエンは、その繊細さのゆえに生き難さを抱えましたが、同時に、多くの人々への慰めを語ることができました。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちをも受けとめることができません。そして、神との交わりも浅いものにとどまってしまいます。

目の前の問題を解決しようと必死になる前に、自分の気持ちを優しく受けとめ、それをそのまま神に差し出すことができます。そして、それこそ御霊に導かれた祈りです。

2. 「鳩のように翼があったなら・・・」

  しかも、この人は「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を励ます代わりに、「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら飛び去って、休むものを・・」(6)と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。その上で、逃げ場のない現実を描いて行きます。彼の住む町の中には、「暴虐と争い」、「罪悪と害毒」、「虐待と詐欺」が満ちています(9-11)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。

そればかりか、最も近しい人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。しかも、そんな敵にかぎって、「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけます(21)。その結果、「やはり、私が悪いんだ・・」などと思わざるを得なくなります。それは、あなたの逃げ場を塞ぐ、巧妙な攻撃です。

ところで、著者は、何と、「荒野」「私ののがれ場」と描いています。それは誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所です。しかし、だからこそ「神だけが頼り」となるのです。つまり、彼は「鳩のように翼があったなら・・」という白昼夢の世界に逃げているようでありながら、「あらしと突風」(7節)のただ中で、神との対話に安らぎを見出そうとしているのです。  

一昨年のビュルキ先生のセミナーでのことです。私があることへの感想を述べた時、それが自分の気持ちを隠した評論家的なものであったことを先生から突っ込まれました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる・・」と言われました。徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』“S’EXCUSE S’ACCUSE”(フランスの諺)」と語ってくださいました。私は、しばしば、人に慰めを求めるか、自分で自分をカウンセリングばかりしてきたように思えます。本当の意味で、問題を抱えたまま神の御前に静まり、神の解決を待ち望むことができませんでした。

しかし、ダビデは恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのです。

3. 「(ヤーウエ)は私を救ってくださる

  「私が、神に呼ばわると、主(ヤーウェ)は私を救ってくださる」(16)とありますが、私が天に向かって叫ぶと、神は「わたしは『わたしはある。』という者である(出エジ3:14)というご自身の名を示しつつ、親しく、私に答えてくださいます。そして、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(17)と証しされます。私たちの目の前には、神が「私の切なる願いから、身を隠しておられる」(1)と思える現実が起こり得ます。しかし、ダビデは、苦しみのただ中での祈りの体験を通して、自分の声が確かに神に届いていたことを確信できたのです。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

  この詩篇には、「敵を愛する」代わりに「のろっている」ように思える表現があります。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、神の公正な裁きを訴えたものです。彼の側から敵に復讐しようという姿勢は一切ありません。彼が戦わなくても、神ご自身が「平和のうちに、贖い出してくださる」(18)のですから。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を自分の側から赦すことができないのではないでしょうか。

  このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「あなたの・・」という勧めが入ってきます。これは、ダビデが他の人に神への信頼を訴えたものです。そこには体験に裏打ちされた説得力があります。「重荷を、主(ヤーウェ)にゆだねよ」(22)で、「ゆだねる」とは「放り投げる」という意味です。それは、自分の思い煩いや恐怖感を、そのままヤーウェの御前に差し出すことです。「あなたの御心のままに・・」と祈る前に、自分の感情を注ぎ出す必要があるのです。

  「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることです。主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「ゆるがされるようにはなさらず」試練の中で立たせ続けてくださいます。私たちもこのダビデの祈りの世界に招き入れられている者として、いろんなことが起こる中で、「けれども、私は、あなたに、より頼みます」と告白しましょう。

  

キリスト者の交わりは、共依存的な関係ではありません。「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである」(ボンヘッファー)という原則を忘れてはなりません。あなたの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって、神のもとに憩うことができます。それこそ、人との交わりの力の源泉です。

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